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選ぶこと

選ぶこと

                                  (室月 淳 2015年1月22日)

出生前診断においてわたしたちの目の前には、みずから選ぶ、あるいは選ばざるをえない状況がつぎつぎとめぐってきます。人生にかかわるようなきびしい選択をせまられることになります。そしてそれは「自己責任」の名のもとに、みずからその結果をひきうけなければなりません。

ほとんどのひとにとってはこれまで経験したことない選択でしょう。自分の人生や家族の将来をみすえながら、いまもっともいいと考えられる選択をしなければなりません。だれもどうしろと教えてくれません。むしろ他人のアドバイスは有害でしかなかったりします。

自分のあたまで考えなければならない。もしここに真理があるとすると、「正解なんてない」ということだと思います。まちがいや後悔をおそれすぎてしまうと、なにも選択することができなくなります。しかし選択しないという選択が最悪の場合が実はおおいのです。

もし選択をさきおくりにしたら、それは単にあとから選択するというのではなく、選択しないという重大な選択をしたともいえます。たとえば戦場を例にとると、必要な決断がおくれればおくれるほど、自分が生きのびる確率はおそらく低下します。

もちろん誤った選択が命とりになることはあるでしょうが、しかしすこしでも生きのびる確率を高めようとするならば、選択を先送りしない、覚悟をきめて選択するということが必要となってきます。職業上の経験からいっても、自衛隊や警察関係のかたは医療の場においても決断が早い。

医療関係者、とくに外科系の医師もおなじような傾向がありそうです。手術や救急の現場においても、時期を逸したおそい選択はほとんどが最悪の選択です。はやい選択ならばいずれにしても患者の救命が可能となることがおおい。ここでも絶対的な正解などありません。

生きること自体が選択の連続です。わたしたちは日々まよいながら生きています。選びながらまよい、まよいなら選びつつ生きていく。どんなに情報をえても、経験をつもうとも、確信をもって選択できるわけではありません。まよいにまよったあげく最終的には目をつぶって選ぶ。

情報をあつめ、考えに考えぬいて選ぶのはたいじなことです。しかし熟慮のすえの選択が正しかったかどうかはわからないのです。未来をうかがいしることは人知のおよぶところではありません。そうなるとわれわれはどこかの地点であとは目をつぶって飛びこえなければなりません。

そのときわたしたちは、自分で選んだというよりは、目にみえないなにものかによって選ばされたという感覚におそわれることがあります。それは運命とでもめぐりあわせとでも偶然とでもいえるものです。自分が選んだのではなく、真実は自分のほうが選ばれたのかもしれません。

出生前診断での選択もそれとおなじです。自分がこどもを選んだつもりでいて、実はそのこどもによって自分が選ばれていたのでしょうか。「選択的中絶」ならぬ「選択的分娩」です。そういった感覚から「選ばないことを選ぶ」という選択にいたるまではもう一歩のところでしょう。

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カウンタ 1627 (2015年1月22日より)