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「妊娠と放射線被曝」カウンセリングの課題

「3.11」の後で人々の柔軟で現実的な判断をどう引き出していくか  − 「妊娠と放射線被曝」カウンセリングの課題

                                 室月 淳 (2012年3月24日記)

福島原発の事故を契機に,妊娠している女性や授乳中の母親から放射線被曝の影響を心配する相談が多く寄せられるようになりましたが,放射線被曝のリスクの評価にはもともと問題が存在するうえ,医学的データの不足自体も事態をさらに難しくしています.仮に既存のデータを正しく解釈し,適切な情報を提供できるようになったとしても,「放射能」についてのもともとの考え方の根本的な立場の相違や対立がある限り,問題の根本的解決は難しいかも知れません.しかし無用の人工妊娠中絶などといった悲劇をこれ以上繰り返さないために,適切な情報提供やカウンセリングを実現することによって,人々の柔軟で現実的な判断を引き出してゆく道筋を何とか探っていこうと思います.

3月の宮城県立こども病院

 1. 遺伝学上のいわゆる「ナンセンスコール」

これまでの正統的な人類遺伝学における遺伝カウンセリングの定義は,「クライエントの生殖行動の調整を介して遺伝病の発生するリスクを回避することを目的とした行為」というものでした.すでに妊娠してしまったあとに初めて生じてくる「出生前診断」の問題,あるいは「妊娠と薬」,「妊娠とウイルス感染」,「妊娠と放射線」といった問題は,遺伝そのものとは直接関係しないために,上記の定義からいえば遺伝カウンセリングの範疇からははみ出ることになります.こういった相談をかつては「ナンセンスコール」と呼ぶことがありました.

しかし遺伝カウンセリングの現場ではこういった相談にしばしば遭遇します.元お茶の水女子大教授で遺伝専門医の千代豪昭先生が,「遺伝学的には「ナンセンス」であっても,クライエントにとってナンセンスなテーマはない」(「遺伝カウンセリング−面接の理論と技術」(文献1))といみじくも指摘されたように,こういった相談には非常に重要な問題が含まれており,安易な人工妊娠中絶などに結びつかせないためにも責任ある対応が望まれます.最近の傾向として遺伝から派生した問題はすべて遺伝カウンセリングが対応するという考え方が主流となり,出生前診断を始めとした妊娠してからの相談を遺伝カウンセラーが対応することもめずらしくありません.

それではいわゆる「ナンセンスコール」とされてきた遺伝カウンセリングはどのような方法論に基づいてなされているでしょうか.もっとも代表的な「出生前診断」については,羊水染色体検査が臨床応用されるようになった1970年代から遺伝カウンセリングの対象として積極的に取り組まれてきており,それなりのノウハウと臨床データの蓄積があります.

「妊娠(や出産・産褥)と薬」に関するカウンセリングについては長い間手探りの時代が続いていました.歴史的には虎ノ門病院で先駆的な取り組みがなされ,「実践 妊娠と薬−1,173例の相談事業とその情報」(文献2)という本がこういったときの唯一のバイブルとなってきました.しかしトロント小児病院で始まった”Motherisk program”(文献3)は,これまで発表された世界中の妊娠と薬に関する文献をデータベース化し,既存のデータの正しい解釈に基づく妊娠・授乳中の患者とその家族への薬剤安全性情報提供体制を北米につくりあげました.このシステムとデータベースは日本にも導入され,国立成育医療研究センター内に設置された「妊娠と薬情報センター」において,「妊娠と薬」カウンセリングと全国の相談施設へのデータ提供がなされています.

風疹や水痘など,妊娠初期に感染すると胎児に奇形を起こす可能性のあるウイルスが知られています.「妊娠とウイルス感染」に関する相談にもしばしば遭遇します.予防接種制度変更による風疹ワクチン未接種の谷間世代がちょうど妊娠年齢に達した2003〜2004年くらいに風疹の小流行が発生し,その結果2004年には先天性風疹症候群の報告例が10例をこえたことがありました.全出生数からみれば驚くほどの数とはいえませんが,本来はワクチンで根絶し得る疾患なので社会問題にもなりました.厚労省の音頭で緊急の研究班が立ちあがり,「風疹流行および先天性風疹症候群の発生抑制に関する緊急提言」(平成16年)がなされました.http://idsc.nih.go.jp/disease/rubella/rec200408rev3.pdf

このとき全国各地に二次相談施設がおかれ,妊娠中に風疹に罹患した場合の相談と必要な場合の確定診断に対応するという形で全国でのカウンセリング体制が整えられました.その後大きな風疹流行はみられず,先天性風疹症候群の発生も減少いたしました.このときの風疹流行対策の成功を受けて,今後は水痘や麻疹といった他のウイルス感染に対する対応にも手を広げていこうという話が研究班の中で出ています.

 2. 妊娠・産褥と放射線被曝カウンセリング

昨年の福島第一原発の事故を受けて,現在,妊娠や産褥(授乳)と放射線被曝に関する相談が増えています.福島県とその近隣諸県のみならず,東北,関東を初めとした東日本に住む妊産褥婦が疑問や不安をもつのは当然のことです.そして実際に1985年のチェルノブイリでの原発事故では,医学的根拠のない誤った対応からギリシャで人工妊娠中絶の極端な増加による出生率の30%もの低下が起きました(文献4)(図1).妊産婦に対する原発事故の心理的影響の深刻さを語っています.論文では「事故の真の犠牲者は中絶された胎児である」と結論づけられています.

図1. 胎児安全性への懸念.過剰反応の例(文献4)

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ギリシャだけではなく欧州の多くの国々で中絶が増加したことが知られています.たとえばノルウェーでは事故3か月後に妊娠数が著明に減少,デンマークでは法律上の流産(人工妊娠中絶)が増加,イタリアでは事故5か月後に人工流産が増加,スウェーデンでは合法的な中絶が増加し妊娠率が減少,といった報告があります.このときWHOは広島原爆被爆者の疫学調査を根拠に,100mSv未満の胎児被曝で中絶は容認されないとの緊急声明を発表しております.Jaworowskiは(5)はこういった事態を評して,「人々の健康に対する最もひどい被害は,放射線自体によって引き起こされたものではない.それは身体にではなく,精神に対して引き起こされたものである」と書いています.

東日本大震災前にたまたま上記の論文を読んでいたわたしは,福島第一原発の事故の直後から日本でも同様の現象が起きてくるのではないかと非常に心配していました.今回の原発事故の影響はチェルノブイリ原発事故をこえる勢いです.ひのえうまの年には極端に出生数の低下する日本ですから,おそらく今後しばらくの間は人工妊娠中絶が,それも医学的にはナンセンスな理由による中絶が急増するのではと危惧いたしました.

「放射線恐怖症 radiophobia」ということばあります.これはX線や放射能の被害に対する病的な不安や恐怖を指します.放射線を怖がったり忌避感を抱くこと自体は異常ではないのですが,知識不足や理解不足あるいはトラウマによって,異常な忌避行動をしたり,不安につきまとわれる病的な心理状態となりえます.医学的には睡眠障害や情緒不安定,記憶障害といった神経学的症状,筋肉痛や関節痛といった身体所見を示すこともあるとされます.また放射線への病的な忌避感から必要な医学的検査や治療を拒んだり,不要な妊娠中絶を行ったりなどの健康被害を生じる可能性があります.心理的な問題により自殺の増加,飲酒や喫煙量が増えたことによる肝硬変,肺がんなどの増加が指摘されています.だからこそ特に心理面におけるカウンセリングなどの適切な医学的対応が求められるのです.

被災地の一産科医として妊産褥婦さんたちを初めとした住民の疑問や不安になるべく答える努力をしていくつもりでした.しかしいざ独学で勉強を始めると,妊娠中の胎児への直接被曝や母乳による内部被曝は臨床上の大きな問題にもかかわらず,リスク評価の解釈が難しい上に,この分野での情報不足が決定的な足かせになっていることに気がつきました.さらには「妊娠・産褥と放射線被曝カウンセリング」は,カウンセリングとしての方法論,ノウハウといったものもまだできていない分野であることがわかり,わたし個人としては途方に暮れてしまいました.遺伝医学,周産期学,放射線学,放射線生物学,分子生物学などの専門家がそれぞれの立場から述べた文献は多いのですが,それらの知見を総合した上で被曝リスクを推定,説明し,医学的対応をとる「放射線被曝カウンセリング」となると,国内だけでなく諸外国にもそのノウハウもデータベースもあまり見当たらないのです.

 3. 震災後の国内での実際の取り組み

医学関係の複数の学会からは原発事故直後から正式なコメントや声明が出され,原発事故による放射能の妊娠への影響は限定的であり,過剰な不安をもたないように呼びかけられました.しかし被曝リスクの説明に重要なのは科学的根拠に基づいたデータの提示だけではなく,クライエントに実際に対面してその不安や心配を傾聴した上で,個々の状況や価値観に合わせた相談や支援を行うことです.妊産褥婦に対する「カウンセリングマインド」のない説明は単なる冷酷な宣告になりがちですし,結果的に人工妊娠中絶を増やすだけの結果になるかも知れません.ですからいくら公式に声明を出そうと,親切で丁寧なパンフレットをたくさん配ろうと,そういった人たちの問題解決にはなかなかつながらないでしょう.

必要なのはこういった妊娠と被曝に関する科学的知識と,個別のケースでの被曝状況を総合判断して,それぞれに適切なカウンセリングを行うことだろうと思うのですが,やはりそれはそういったトレーニングを受けた臨床遺伝専門医でなければできない仕事だと思いますし,今,ぜひとも取り組まなければならない課題であると思います.もし遺伝カウンセラーが今後の震災復興に何らかの社会的貢献を望むであれば,過去にも起きた中絶の増加,出生数の低下という予想される事態に対して,自らのプロフェッションに基づいて責任あるアクションを起こすことが求められていました.

大震災後の間もない混乱していた時期に,周産期や臨床遺伝関係のいくつかの学会事務局より「学会として被災地支援としてできることはないか?」という問い合わせが,被災地に住む学会員のところに来ましたので,わたしは以下のような要望を出しました.

「○○学会として,今回の原発事故による妊娠中の被曝の問題に関して,個別にカウンセリングできるようなシステムをつくるのはいかがでしょうか? 「妊娠と放射線」に関するエビデンスをまとめ,地域ごとのおおまかな被曝量のデータベースを作成し,妊産褥婦本人や医療者などからの問い合わせに対し,正しい情報を提示し適切なカウンセリングできる体制を整備することは,大きな社会貢献となると思います」

この要望に実際に前向きの反応があったのは日本遺伝カウンセリング学会でした.すでに千代豪昭先生が中心となって「放射線被曝への不安を軽減するために」という小冊子を作成中であるとの返答をいただきました.また小冊子ができ上がった後の被災地の医療施設への配布をお手伝いさせていただきました.

図2.千代豪昭先生執筆の「放射線被曝への不安を軽減するために」.現在は改訂版が以下のサイトからダウンロード可能になっています.  http://www.npo-gc.jpn.org/data/20110704_RadiationExposure_1_Ver3.pdf

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千代豪昭先生は,個人としても被災地での「被曝カウンセリング」に積極的にかかわり,しばしば福島の住民の相談に関わっておられました.

「被曝カウンセリング…住民に個別対応、不安を軽減」(2011年10月20日読売新聞)http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=48975

子供の健康や遺伝的な影響など放射線被曝(ひばく)への不安を軽減しようと、遺伝医学の専門家が9月、福島県南相馬市で住民の個別の悩みに応える「被曝カウンセリング」を行った。原発事故から約7か月。「総論」ではなく、個々の状況によって異なる「各論」に対する丁寧な対応が、住民の安心につながると考えるためだ。この医師は、遺伝カウンセリング学会理事で、元お茶の水女子大教授の千代豪昭さん(67)。

図3.千代豪昭先生

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結局のところ,残念ながら「妊娠と放射線被曝カウンセリング」に対する組織的な取り組みはこれまでなされることはありませんでしたが,個人的な取り組みとして上記の千代豪昭先生のほかにわたしが存じ上げているのは,元愛育病院院長で産婦人科医の堀口貞夫先生の活動です.震災後のまもない3月24日から,「妊婦さんと子どものための放射能緊急相談室」という外来を毎週火曜日午後に主婦会館プラザエフのクリニックに開設し,主に関東圏の妊産褥婦さんたちの相談に積極的に対応していました(文献6).

図4.堀口先生の「緊急相談室」の案内ポスター

図5.真中が堀口貞夫先生,右が奥様の雅子先生.左は青木正美先生,築地でペインクリニックを開業されていて,かつ地震・災害学者だそうです.

 4. 妊娠と放射線被曝カウンセリングの基本

放射線被曝カウンセリングの基本については,薬剤やウイルス感染など妊娠中の催奇形性のおそれがある場合のカウンセリングと共通している部分が多い.それではこういった「ナンセンスコール」に対するカウンセリングの基本として,エビデンスに基づいた正確な科学的データのわかりやすい説明と,クライエントの不安や罪悪感への適切な対応のふたつが重要と考えられます.

エビデンスに基づいた科学的情報に関しては,過去の疫学的,実験的データに基づいた妊娠の時期と放射線被曝量による胎児,新生児,乳幼児への影響と,今回の原発事故に関する地域別の経時的被曝量の具体的なデータベースが必要となってきます.前者に関してはいまださまざまな議論がありますが,ICRPからのいくつかの勧告でも示されているように100ミリシーベルト以下の被曝は人工妊娠中絶を考慮する必要がないことはコンセンサスが得られています.しかし後者の具体的な被曝量のデータについては,現時点で国が公表している情報,たとえばモニタリングポイントでの計測値だけでは不十分と考えられます.放射性物質の汚染地図といった詳細なデータなどが必要とされています.

また内部被曝を推定するため,あるいは今後の内部被曝をできるだけ防ぐためには,種々の食物の放射能測定値を知る必要があります.しかし測定結果が恣意的に発表されるだけで,どのようなサンプリング法で行われているか,どのような計画に基づいて計測されているかがまったくわかりません.計測値が規制値以下であれば「直ぐには問題になることはない程度のもの」と発表していますが,これでは計算しようがなく個別のカウンセリングに利用できないのです.

クライエントの不安や罪悪感への適切な対応はカウンセリングの基本そのものといっても過言ではありません.クライエントが状況をきちんと理解して自律的に判断する状態に導くのがカウンセラーの役割です.逆にカウンセラーが強い不安や心配を抱いていると,冷静に判断して自らの行動を決定することが難しくなります.不安への対応はカウンセラーの共感的態度が必要となってきます.さらに医学的な事実をきちんと理解させられれば,それだけでもクライエントの不安を減らしてあげることができるでしょう.

 5. 妊娠前あるいは妊娠中の被曝リスクについて

広島での被爆者に関する膨大な疫学調査の結果,いわゆる「原爆小頭症」といった胎児被爆は残念ながらありましたが,受精前の卵子や精子が放射線を受けることの妊娠への影響は確認されていません.放射線による遺伝子損傷は遺伝しないというのは,受精前の精原細胞,卵細胞は仮に放射線で損傷を受けたときは受精能力自体を喪失するからです.このことは福島県の特に若い女性にとっては切実な問題でしょうから,偏見をなくすためにも強調して強調し過ぎることはないと考えられます.

妊娠中に胎児が被曝した場合には胎児への影響が起こりえますが,影響を起こす線量には閾値が存在するがわかっています.ICRPはこの胎児被曝量の閾値を100ミリグレイとし,それ以下では妊娠中絶の理由にならないと勧告しています(図7).また胎児被曝の影響は被曝量のみならず妊娠週数に大きく関係しています.受精後10日まで被曝は奇形の発生とは関係ありません.発生学では“all or noneの法則”として知られており,大量の放射線は受精卵を死亡させ流産を起こす可能性がありますが,流産せずに生き残った胎芽は完全に修復されて形態異常を残しません.妊娠4週から妊娠10 週までは「臨界期」と呼ばれ,放射線感受性が最も高く,被曝は胎児奇形の原因になる可能性があります.ただし2003 年のICRP 報告では,奇形を誘発する吸収線量は100ミリグレイ前後にあると判断され,100ミリグレイを下回る胎児被曝では奇形発生リスクはないとしています.

妊娠10週以降になると,胎児はすでに主要臓器が形成された後であり影響はだいぶ少なくなります.ただし妊娠10〜17 週の胎児中枢神経系は細胞分裂が盛んで放射線被曝の影響を受けやすく,精神発育遅滞の頻度を増加させる可能性があります.重症精神発育遅滞は500ミリグレイ以上の被曝で起こるとされ,その程度は線量依存性であり,1グレイで40%,1.5グレイで60%に重症精神発育遅滞が発生します.100ミリグレイ以上の被曝で小頭症が増加したとの報告がありますが,100ミリグレイ未満の被曝では中枢神経系に影響しないと考えられています.また妊娠18週を過ぎると中枢神経系の放射線への感受性は低下していくため,妊娠10 週未満および妊娠28 週以降の被曝は中枢神経系に悪影響を与えないとされます.

 6. 「個人的」感想

カウンセラーは一般的に中立的,非指示的な対応に努める必要があります.すなわち説明の際に,放射能に対するマイナスのイメージだけを強調したり,クライエントの不安を一方的に高めるようなことは避けなければなりません.しかし逆にクライエントを安心させるためとはいえ,安易な保証を与えるような態度も控えるべきとされています.中途半端な同情的態度はクライエントを感情的な方向に走らせ,訴訟やトラブルを引き起こす契機となる可能性もあります.また放射線被曝のリスクについてもなかなか確定的なことがいえないために,カウンセラーは「個人的」な感想や意見を控え,中立的で非指示的な態度を保つのが原則です.

そういった観点からこれまでわたしは自らの考えを表明することを控えてきました.しかし,カウンセラーの立場を離れて率直な意見を聞かれれば,今回の被曝の問題についてはおそらくそれほど心配する必要はないだろうというのが正直なところです.わたしたちは震災前から日常的に自然放射線を受けていますが,宇宙と地表からの外部被曝が1ミリシーベルト弱,体内のカリウム40や呼吸によるからの内部被曝が0.8ミリシーベルト,合わせて年間2ミリシーベルト近い被曝を受けています.数ミリシーベルト程度の被曝が増えたところで大差はなさそうです.

それでは原発の是非そのものについてはどう考えるべきでしょうか? 原発依存からの将来的な脱却のためには原発の新規の増設や老巧機の亢進は認めることはできませんが,日本経済の破綻を避けるためには現状で一部の原発の稼働はあってもよいとわたしは考えています.全原発の稼働停止は,石油や天然ガスといった化石エネルギーの莫大な輸入費用や原発資産の一括償却,廃炉費用といった負担が一気にかかり,国家の財政自体が維持できないでしょう.ですからこれまでわたしは,原発の稼働を即時に全面停止すべきという考え方や,放射性物質に関して極端なまでに厳しい基準を導入して限りなくゼロリスクを求めるという考え方には距離を置いてきました.しかしこの問題を考え続ける中で,いわゆる反対派の人々の信念とも言える姿勢を単純に否定はできないようにも思い始めています.

今回の福島原発事故を受けて,多くの人たちが放射線に対して根強い不安感を抱いていています.何らかの合理的な理由があって不安感をいだいているというよりは,おそらくそれは心のもう少し奥底から来る忌避感情なのだろうと思います.それは自然と人間の関わり合いといった古くて新しい問題といっていいものかも知れません.今回の震災と原発事故を契機として日本人に生まれた,「人間が自然を完全にコントロールするのは原理的に不可能であり,いずれ必ずしっぺ返しを受ける」とでもいった本能的な直感なのかも知れません.

 7.個人の信念の相違をいかにのりこえていくか

被曝の問題に関してはさまざまな言説が飛びかっています.過去の疫学調査の詳細なデータに基づいて,100ミリシーベルト以下の被曝では人体への影響は確認されていないとする専門家がいます.また一方で,国際放射線防護委員会(ICRP)の最近の考え方「放射線の人体影響に関する確率的影響については,閾値なし直線モデルを放射線防護の考え方の基礎に置く」を引用して,たとえどんな低い線量であっても放射線は無害なものではなく,被曝の度合いに応じて生体への影響が生じると主張する人たちもいます.

社会一般でも,放射能について楽観的に考えて暮らしいる人たちもいれば,1ミリシーベルトの被曝に対しても過敏に反応し,ゼロリスクを求めて東北地方から西日本へ,九州沖縄へ,果てには国外での生活を目指す人たちもいます.もちろんほとんどの人々はその中間のどこかに位置しているのでしょう.個人の信念による価値観の違いといってしまえばそれまでですが,「妊娠(授乳)と放射線被曝カウンセリング」の視点から考えれば,クライエントの信念,クライエントの価値観というのは重要な意味をもってきます.

放射線被曝に関する相談は医療カウンセリングの一分野ですから,第一に医学的なエビデンスに基づいた情報提供が根本に来なければなりません.非常に過敏に反応して神経質になっている人たちに対しては,もちろん個々の具体的な問題ではいくらでも非合理性を指摘できるのでます.自然放射線との比較とか人体そのものに放射性同位元素を抱えていること,放射線による遺伝子損傷は遺伝しないという問題など,理屈はいくらでもいえます.しかし多くの人々が今回の事故を受けて放射線を激しく忌避しているというのは,おそらくエビデンスや医学的事実といった問題ではないのでしょう.クライエントの心情を無視して客観的な真理のみを述べ立て説得しようとしても決して納得させることはできないでしょう.

個人の信念の相違をいかにのりこえていくかは,宗教やイデオロギーといった絶対的真理が無効となった現代においてはことさら難しい問題です.いくらエビデンスに基づいたデータがあったとしても,本能的な不安感,本能的な警戒心をいただいた人たちを説得して合意を生み出すことは現状では不可能です.妊娠をしている,あるいはこれから妊娠を考えている女性,乳幼児に授乳している母親といった人たちの心情の根底にある生存本能というもの,その本能的な警戒心というものを認め,受け止め,その上で冷静な議論へと入ってゆく,そうした姿勢をもつ覚悟がなければいつまでもこの問題は解決しないだろうと思います.

また医学が拠って立つ思考の枠組み,すなわち統計学によって裏打ちされた科学的データといったものも相対化する必要があるかも知れません.その状況におけるより妥当な解決策を前向きに議論し,柔軟で現実的な判断によって信念の相違をのりこえていく道筋です.当たり前の結論になってしまいましたが,「カウンセリング」には上記のことを可能とする方法論がもともと備わっていると思います.

もともとわが国には,自然と人間が柔軟な知恵をもって共存するという欧米とは異なる伝統がありました.「3.11」に象徴されるできごとというのは,明らかにこの均衡を壊して過去のものにしてしまったということです.その後遺症をどのようにして癒すのか,人々の柔軟で現実的な判断をどう引き出してゆくのか,それがこれからのわれわれの最大の課題であろうと思います.

 参考文献

  • (1)千代豪昭:遺伝カウンセリング−面接の理論と技術.医学書院,東京,2000
  • (2)林昌洋,佐藤孝道,白土道雄,加藤弘道:実践 妊娠と薬−1,173例の相談事業とその情報.薬業時報社,東京,1992
  • (3)伊藤真也:Motherisk Program:トロント小児病院・トロント大学の胎児安全情報提供・研究システム.臨床薬理 2006;37:343-345
  • (4)Trichopoulos D, et al: The victims of chernobyl in Greece: induced abortions after the accident. Br Med J 1987;295:1100
  • (5)Jaworowski Z: Observations on the Chernobyl disaster and LNT. Dose Response 2010;28:148-171.
  • (6)堀口貞夫:妊産婦の放射線相談への対応-クリニックに「緊急相談室」を解説した経験から.助産雑誌 2011;65:1082-1089
  • (7)ICRP Publication84 妊娠と医療放射線.日本アイソトープ協会,東京,2002

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本年3月12日に仙台市青葉区保健福祉センターで行われた遺伝講習会での講義内容をまとめ
文章化したものです.ご感想ご意見などがありましたらぜひメールでお聞かせください.
アドレスはmurotsukiにyahoo.co.jpをつけたものです

未定稿,未発表稿です.掲載可能な雑誌,学会誌などがあればご教示いただければ幸いです.

放射線の遺伝的影響はない(2012年4月3日)

MTPro記事「現在の被ばくレベルで中絶する必要ない」を読んでの個人的雑感(2011年5月17日)

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カウンタ 4526 (2012年3月24日より)