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コカ(coca) →参考1/2
  • コカノキ科コカ属に属する熱帯性の常緑の植物
  • コカイン=コカの葉に含まれるアルカロイド
  • 原産地はアンデス地方
  • 高さは1〜3mでよく分岐し、葉は互生で短柄、4〜9cmの黄緑色の倒卵型
  • 花は白で、両性あるいはまれに雌雄異株のものもある
  • cocaとは、先住インディアン(アイマラ族)の言葉で、「旅行者の食料」という意味。
  • 学名:Erythroxylon coca(またはErythroxylum coca)(フランスのラマルクによって命名)
      属名=「erythros(紅色)」+「xylon(木材)」 種名=「coca(*中南米におけるこの植物の土俗語)」

BC
1200年
1867年に、アメリカのジャーナリストで外交官兼アマチュア考古学者であったEphraim George Squier(1821/7/17~1888/4/17)が古代ペルー人の墓地を発掘して頭蓋骨を発見した。紀元前1200年ごろより今世紀前半まで,プレインカからペルーの時代にかけて、頭蓋穿孔術が行われていた。プレインカのケラップで発見されたシャレコウベには、頭蓋穿孔の痕が発見された。頭蓋骨は、戦闘の砦があった所から出土している。発掘遣体の頭蓋骨には穿孔が7つもあるものが発見されている。キニーネコカ↓1の葉などの薬草で麻酔をして、頭を縄で縛って出血を抑え、ツミや黒耀石などの尖頭器具を用いて、穴を開けたと考えらている。ツミとは、三日月型の刃物で、分析したところ、先端に人間の血液が付着していた。ツミを入れた袋には、綿や麻の包帯が入っていた。フリオ・テーヨ博士(人類学者)が、1916年に発見した不思議な土器には、ツミを持った人物が患者らしき人の背中にまたがり、頭部にツミをあてている様子が描かれていた。当時の戦闘ではこん棒を使って頭を打つため、急性硬膜外血腫になることが多いが、頭蓋穿孔術はその治療のために行ったのか、儀礼の目的でなのかは明らかではない。
 インカ帝国時代には多くの病気は神を怒らせるような人間の行為に対する罰としておこるものと信じられていたので、その治療法として,聖職者に対する罪の告白などが行われていた。アンピ=カマヨ(医療の専門家)が薬草を処方し、コカの葉や、解熱剤としてキニーネをとして用いたり,多種の植物により治療を行っていた。コカの葉を噛むと気分が高揚し、一時的に疲れや痛みを忘れる。コカ葉は、麻酔に用いるほか、インカ帝国では疲労や空腹の特効薬として奴隷に与えられた。しかし、コカは神聖な供物とされていて、インカ時代には特別な日以外にコカを噛む事を禁じられていましたとも言われているようだ。
 紀元前500年の墓から、パラカス(インカの民が来る前の紀元前10〜 8世紀に栄えた、中央アンデスの文明)の織物とともにトウモロコシとコカ葉が発見された。これは当時の習慣で、死者が天国にたどり着くまでの食料を生者が用意する義務があった事を反映したものとなっている。
1544年局所麻酔薬として、コカが使用された最初の記述は、Jesuit Bernabe Cobo(1582〜1657, スペイン)によるもので、歯の痛みを和らげるために、コカを噛んだ経験である。
1499年Thomas Ortiz(牧師)がコカの木を新大陸からヨーロッパに持ち帰り、コカの葉と石灰と混ぜて噛むと、空腹感、疲労感、のどの渇きが柔らがき、新鮮な活力を生じると記述した。
1852年 Charles Gabriel Pravazによる注射器の発明
1853年 Alexander WoodがPravaz注射器を臨床使用 ←→注射器の歴史
1855年Friedrich Gaedcke(1828〜1890, ドイツの化学者)が、コカの葉からコカインを精製し、「erythroxyline エリスロキシン」と名づけていたが、純度は良くなかった。
1856年Albert NiemannP 1834〜1861, ドイツゲッチンゲンの化学者、尿素の合成で有名な Friederich Wohler1/2の研究室)が、乾燥したコカの葉からアルカロイドの結晶を抽出し、「kokaine」と命名し、PhDを取得した。ウォーラーは、コカインを舌に乗せるとはじめは苦みを感じるが、やがて舌がしびれて味がなくなることを見出した。コカの葉は、ウォーラーがオーストリア帝国のフリーゲート艦ノヴァラ号 (Novara, Austrian frigate sent by Emperor Franz Joseph to circle the globe)の世界一周の旅に同乗したKarl von Scherzer(シェルツァー 1821〜1902, 科学者)にWohlerが持ち帰るように頼んだもの。欧米でのコカインに対する興味は、当初全身投与による中枢作用に向けられていた。
1862年Karl Damian Ritter von Schroff(Carl Damian Ritter von Schroff)(1844/1/12〜1892/3/30、薬理学者)コカインの舌粘膜に対する麻酔作用を報告した。
1863年Angelo Mariani(コルシカ島かららの起業家、フランスの化学者、1838〜1914)がボルドー・ワインにコカの葉を加えて「Vin Mariani」を売り出した。強壮剤としてヨーロッパ中でもてはやされ、エジソンやローマ法王までもが愛飲した。マリアーニは法王から感謝のメダルを受け、巨万の富を得た。Vin Marianiには1オンス当たり6 mgのコカインが含まれていたが、アメリカでの模倣品に対抗するために、輸入品には7.2 mg含まれていた。
1872年Alexander Hughes Bennettが、Edinburgh大学に提出した学位論文に、コカインに局所麻酔作用があることを報告した。
1878年本邦で初めてコカインが輸入された。
1879年Vassily von AnrepP 1852〜1925, 忘れてはならないregional anesthesiaのパイオニア、ロシア人薬理学者)が、コカインの局所麻酔作用について報告した(Pflugers Archiv der gesamten Phusiologie)。動物実験を行った後、自分の腕の皮下にコカインを注入して、針を刺した痛みがなくなることを発見したが、あまり注目されなかった。Kollerよりも前のコカインによる局所麻酔の報告である。
1883年Theodor Aschenbrandt(ドイツの軍医)が「コカインの生理作用とその意義」という論文を書いた。Merckが精製したコカインを、バイエルンの兵士に処方すると、彼らは機動作戦に疲労を訴えることなく戦うことができた。
Anton Wölfler* (1850〜1917, Billroth Pの最初の助手)は、コカインの皮下注射を試みて鎮痛を起こさないことから、コカインは粘膜にのみ作用することを確信した。
1884年
6月
Sigmund FreudP 1856〜1944, オーストリアの精神分析の大家)がJean Martin CharcotP 1825〜1893)の弟子入りする以前、ウィーン総合病院で生理学・薬理学の研究をしていた頃、コカインの中枢興奮作用の研究もしていた。コカインが精神的、肉体的能率の増大に役立つとする研究論文「コカインについてÜber Coca」を発表した。うつ状態や神経症への効能を主張して、自分でも常用し、妻のMartha Bernaysにコカインを処方して実験し、コカインに鎮痛作用があると確信した。腫瘍による手の切断後の耐え難い神経痛に苦しみ、モルヒネとヘロインの依存症となっていた友人Ernst von Fleischl-Marxow *(1846〜1891 生理学者)に、Freudはコカインを勧めた。Fleischl-Marxowのモルヒネ依存症は治ったが、コカイン中毒になってしまい、ついに命を落としました。 (Freud が歯ぐきの炎症の痛みをコカインで抑える効果を示したとき、鎮痛の研究には興味がなかった。)
1884年最初に手術で使われた局所麻酔薬はコカインであった。Carl KollerP 1857〜1944, ウィーンの眼科医)は、ウィーン大学卒業後、ウィーン総合病院で学位論文をまとめるために、Freudの元での研究していた。白内障、緑内障の治療は患者に激痛を与えるが、全身麻酔では、術後の嘔吐や身体の同様などにより使用することができない。全身麻酔薬として効果が発見された抱水クロラール、臭化物、モルヒネなどを点眼して、鎮痛効果調べたがいずれも無効であった。コカインを舌の上にのせたと、しびれを感じ、舌が無感覚になることに気づいた。カエルとモルモットの眼にコカイン溶液を点眼した後に、ピンで角膜に刺激を加えて表面麻酔作用を確認した。1884年9月11日立会人なしに、2%コカイン溶液を点眼し、その部分だけ麻酔することで、無痛で白内障の手術に成功した。コカインの局所麻酔効果は、9月15日に開催されたハイデルベルグのドイツ眼科学会で発表された。当時Kollerには、会議に出席する旅費がなかった。眼科学会に行く途中にハイデルベルグに立ち寄ったJosef Brettauer博士(1835〜1905, イタリアのトリエステTriesteの眼科医)が代読した。講演会場にハイデルベルグ病院の患者を招き、聴衆の見ている前で患者の目にコカイン滴下し、その麻酔効果を証明された。Kollerには、会議に出席できなかったが、同年にLancetで発表した。この発見はFreundが留守の間になされたもので、Kollerとの間で発見の優先権が問題となった。Freundの父親が緑内障の手術を受けるとき、Kollerが麻酔を担当することで和解し、米国でエーテル麻酔でのMortonPJacksonP のような争いはなく、穏やかな解決となった。FreundはがKollerらにコカインの麻酔薬としての使用のパテントを譲った。
1884年William Stewart Halsted (P 1852〜1922, ボルチモアの外科医)はコカインが神経幹での伝導を止めることを実証し、外科学における伝達麻酔法の土台を作った。腕神経叢ブロックも行っている。1885年の終わり頃、共同研究者のRichard J. Hall(1856〜1897)が激しい歯痛におそわれたとき、Halsted ははじめて、コカインを下歯槽神経に注射した。顎のその部分は約25分間無感覚になった。その間に歯は痛みもなく抜くことができた。しかし、これらの発見のために、Halstedは、自分自身にコカインを注射していたので、コカイン中毒に苦しんだ。
 Halstedは、胆嚢、甲状腺、乳腺の手術法について多大な業績をあげた人でもある。また、外科用手袋もHalstedが考案した。消毒薬で手が荒れた看護婦カロリンに、Halstedがプレゼントしたもので、その後Halstedとカロリンは、結婚した。 →参考*
1884年
1886年
John Stith Pemberton(1831〜1888, 南北戦争で南軍に参戦し、敗北し負傷した薬剤師)は、Vin Marianiを模倣して、「French Wine Cola(フレンチ・ワイン・アンド・コカ)」を作り、「an ideal nerve and tonic stimulant」として販売した。French Wine Colaは、Vin Marianiよりも評判が良く、週間で1000本近くも売れる大ヒット商品になった。さらにアトランタでアルコール販売が禁止されたのをきっかけに、1886年にノンアルコールのコカ・トニックを開発し、Jacob's Pharmacy(ジョージア州アトランタ)から頭痛のためのPharmacy Drinkとして、1杯5セントで売り出した。ワインの変わりに、コラナッツ kola nutsの抽出物(Cola:西アフリカ原産のアオギリ科の常緑木、薬用成分:コラニン、テオブロミンカフェイン)等を配合したので、Pembertonの友人のFrank Robinson(当時は駆け出しの簿記担当、後に共同経営者)がCoca Colaと命名した。5月29日の『アトランタ・ジャーナル』には最初のコカ・コーラの新聞広告("Coca-Cola Delicious! Refreshing! Exhilarating! Invigorating!"(コカ・コーラおいしく! さわやかに! 軽やかに! 元気はつらつ!)が掲載された。11月15日までは水で希釈されていたが、薬局に入ってきたJohn G. Wilkesが頭痛薬を注文したところ、ある店員が水ではなく炭酸水で割って出したのが美味と評判になった。その後、コカコーラの権利は企業家Asa Griggs Candlerに売却された。
1885年James Leonard CorningP 1855〜1923, ニューヨークの脳外科医)が、脊髄腔にコカインを注入して、下半身を麻酔(脊椎麻酔)した。この方法によって、虫垂炎や婦人科疾患の無痛手術が可能となった。Corningは脊椎麻酔について記載したが、脳脊髄液の流出について書かれていないので、硬膜外麻酔を行ったと考えられる。その後「局所麻酔法」を出版した。(6年後に、Quinckeによって報告され、現在も「Quincke needle」の名が残っている。)
 Corningは四肢にターニケット tourniquetを巻くと、浸潤による鎮痛効果が延長することも見出し、コカインが血液によって効果部位から除去されるのをターニッケットが防ぐと考えた。
1885年伊野春毅(いのはるき、熊本出身の歯科医)が、抜歯にコカインを使った。
1886年1886年頃からコカインの中毒作用の症例が各国から報告されて、Freudは評判を落とし、激しく攻撃された。
1886年Robert Louis Stevenson(1850〜1895, イギリスの作家)はコカインを服用して、「ジキル博士とハイド氏 Dr Jekyll and Mr Hyd」を3日3晩で書き上げた。
1889年Maximilian Oberst of HalleP 1849〜1925, ドイツ)が指に低濃度のコカインを投与し、伝達麻酔法を一般に広く応用した。(Oberst麻酔 Oberst's method)
1889年Paul Reclus(1847〜11914, パリの外科医)はコカインによる死亡患者の名簿を丹念に調べ研究し、常に新鮮なコカイン溶液を用いる方が副作用が少ないこと、および低用量(2%から0.5%に減量)にすると、急性中毒の危険性が少ないことを見出した。
1890年Eduard RitsertP 1859/11/11〜 ドイツEberbachの化学メーカーRitsertの設立者)がbenzocaineを合成した。
1890年Arthur Conan Doyle(1859/5/22〜1930/7/7, イギリスの内科医、作家)の「Sherlock Holmesシューロック・ホームズ」シリーズ第2作目の「The Sign of Four 4つのサイン」では、ホームズがコカインに手を染めている場面から始まる。コカインの7%溶液を毎日注射する。1日に3回もコカインだけでなく、モルヒネを打つ。当時コカインは有害とされていなかったので、ホームズに影響されて、コカインを常用した人も少なくないかもしれない。ホームズのモデルは、医学部時代の恩師である外科医のJoseph Bell(1837/12/2〜1911/10/4*) とされている。
1892年Carl Ludwig Schleich (P 1859〜1922, ベルリンの外科医)が、神経幹への直接注射法の代替えとして局所浸潤麻酔を導入した。濃度の低いコカイン(0.01〜0.2%)を直接皮下組織に注射・浸潤させて、手術を行った。同年ベルリンで開催されたドイツ外科学会で浸潤麻酔について発表した。
1894年Richard Martin Willstätter(1872/8/13〜1942/8/3, ドイツの化学者、1915年にノーベル化学賞受賞者)はコカインの構造の研究により、ミュンヘン大学から博士号を得た。
1897年Heinrich BraunP 1862〜1934, ドイツの外科医)がコカイン溶液にアドレナリンを加えると吸収を遅延し、麻酔時間を延長することを発表した(化学的ターニケット chemical tourniquet )。 →1905年に教科書
1898年Karl Gustav August BierP 1861〜1949, キール大学の外科医)は、彼自身を被検者として、コカインによる、腰椎麻酔の臨床実験を行った。はじめての「脊椎麻酔」の臨床応用である。腰椎を穿刺し、コカイン溶液を注入して、麻酔をした。CorningP 1855〜1923)の時とは違い、違い、CSFが噴き出すことが確認されている。注射器は使わず、標準化された針と Luer locksを使用した。Bierは、脊椎麻酔後の頭痛(硬膜穿刺後頭痛)に悩まされ、CSFの減少のために起因すると考え、細いゲージの針を使うことを推奨した。
1902年ジョージア州議会の「あらゆる形態のコカイン販売全面禁止」によってコカ・コーラからコカインが取り除かれた。
1905年Alfred EinhornP 1856〜1917, ドイツHoechstの化学者)が、Procaine (Novocaine)を合成した。ドイツHoechst社から、Novocaine(商品名)=Novus(=newのラテン語)+Caine("cocaine"から)として発売された。プロカインは、強い局所麻酔作用を持つが、コカインのような中枢作用がないので、毒性がきわめて弱く、慢性中毒性の危険が少ない。プロカインは、常習性のあるコカインに代わるものとなった。Heinrich Braunが臨床応用した。
1908年Karl Gustav August BierP 1861〜1949, キール大学の外科医)が、プロカインによる静脈内局所麻酔 intravenous regional anesthesia (IVRA) について記載した。
1928年
Eislerテトラカインを合成し、1932年に臨床使用された。(Otto Eisleb(ドイツHoechst-Am-Mainの化学者)が発見したと書かれているものもある???)
1929年Herbert Spencer GasserP 1888〜1963, アメリカの生理学者)とJoseph ErlangerP 1874〜1965)が、加圧とコカイン麻酔による神経線維の伝導ブロックを報告した。これらの実験によって、末梢神経軸索の各々に対する特異的適合刺激を決めることができた。 →ノーベル賞受賞者(1944年)
1932年Donalee TabernP 1900 〜1974, Abbott社の化学者)とErnest H. VolwilerP 1893/8/22〜1992/10/3, Abbott社の化学者→CEO)が、thiopental (Pentothal=ラボナール) とthiamylal (Surital)を合成した。Abbottでは、バルビツレート核の酸素原子を硫黄原子に置換した硫化バルビツレートを数種類作成し、共同研究していたArthur Lawrie Tatum(Wisconsin大学の薬理学教授、長男はノーベル賞受賞者のEdward Lawrie Tatum)に送付したところ、Tatumはthiopental が有効であると判断したので、AbbottはPentothalとして売り出した。
1934年Ralph M. WatersP 1883〜1979, Wisconsin大学の麻酔科教授)とJohn Silas LundyP 1894〜1973, Mayo Clinicの内科医)が静脈内麻酔として、pentothal sodiumを臨床応用した。(Watersは3月8日から使用し始めていたが、報告は翌年。Abbottの依頼により、Lundyの方が成果を先に(6月)報告した。高名であるが謙虚な Watersは、Lundyの功績を認めた。)
1911年Karl Meischer(Carl Meischer、Cibaの化学者)がジブカインを合成した。
1942年Nils LöfgrenP 1913〜1967, スウェーデンUniversity of Stockholmの化学者、Holger Erdtmanの学生)とBengt Lundqvist(1922〜1953, スウェーデンの化学者)はプロカインよりも作用時間の長い化合物の合成に成功し、2人の名前の頭文字をとり、LL30(=lidocaine=Xylocaine® -最初のアミド型局所麻酔薬-)と名づけた。これは、ErdtmanとLöfgrenが調製した化合物のベンゼン環の6位にメチル基が付加されたものであった。(ort効果に沿った新しい考え方でLL30やLL31を合成した。ベンゼン核のオルトの位置に2つのメチル基(Ch3)配置すると、分子は電荷分布に沿って屈曲(Bent)構造となる。)LöfgrenとLundqvistはフェンシング部の友人(医学生)が貸してくれた本を参考にして、今日伝達麻酔)として知られる方法でLL30の麻酔効果を調べた。指の神経に注射して麻酔持続時間を測定し、血圧、脈拍などの変化を記載し、さらに腕、下肢の他、身体の各部にも注射した。特に脊椎に注射したときの効果についても記載した。(当時、この麻酔は麻酔拮抗薬の蘇生器具のある病院で専門家だけが行っていた方法である。)
1947年Torsten GordhP 1906〜2010/6/25, スエーデン Karolinska Hospitalの麻酔科医)が、lidocaineを臨床に応用し、1948 年に Astraから販売された。
1950年
代初頭
Jens Christian Skou(1918/10/8〜, 化学者)は局所麻酔の作用を研究し、麻酔物質は当時タンパク質だと推定されていたナトリウムチャネルを開くことを発見した。彼はこの作用がナトリウムイオンの移動に影響を与え、神経細胞を沈静化し、麻酔作用が現れると主張した。1997年にNa+/K+-ATPアーゼ(ナトリウム-カリウムポンプ)の発見の功績によって、Paul Delos Boyer、John Ernest Walkeとともにノーベル化学賞を受賞した。
1951年田辺製薬が、pentothal sodiumの国産化に成功し、ラボナールの名前で販売した。
1956年EkenstamEgner(スエーデンBofors 社)によってメピバカインが合成され、1957年にDhunerによって臨床使用された。
1957年af Ekenstam(スエーデンBofors 社)がブピバカインを開発し、1963年にWildmanTelivuoによって臨床使用された。
1957年af Ekenstam(スエーデンBofors 社)がロピバカインを開発し、1997年に臨床使用された。
1959年Nils Löfgrenプリロカインを開発した。
 現在でも南米諸国ではコカ葉を噛む風習が残っている。


参考1


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