緊急レポート

「ナホトカ号」重油流出災害に、防災ボランティアの新 しい形を見た

− 「重油災害ボランティアセンター」の48時間 −

 防衛庁防衛研究所 小村 隆史

(Tue, 28 Jan 1997、[WNN:8333])


 ナホトカ号重油流出災害に際し、 福井県三国町に出来た「ボランティアによるボランティアの受け皿」で ある「重油災害ボランティアセンター」の発足期の48時間を、現地レ ポートとしてまとめました。

 本稿は、2月10日発売の『近代消防』に掲載される予定です。WN N、EML、FDPのメンバーのみなさんには、一足お先にご披露し、批評などいただけ ればと思っています。心ある方にお見せするのは歓迎いたしますが、不 特定多数の方の目に触れるような形での転載等は、2月10日まではご 遠慮下さい。

小村


目 次

はじめに
1.災害の経緯とボランティアの活動のあらまし
2.「重油災害ボランティアセンター」の48時間
3.ボランティアの動きを整理する
4.なぜこれだけ早く、ボランティアの活動が組織化できたか
5.防災ボランティアの将来を考える:三国町での教訓から
おわりに

別表1、ボランティア本部開設用に筆者が持参したもの
別表2、「重油災害ボランティアセンター」設立までの主な経緯
別表3、ボランティア参加者の推移
別表4、重油災害関連のホームページのアドレス

写真集


はじめに

 1月10日金曜日の夜、筆者は、小松空港に向う最終便の機中にいた。 まさか、それから始まる48時間が、こんなにも印象的なものになろう とは、予測だにせずに。小雨降る小松空港に降り立った時の気分は、お 世辞にもよいとは言えなかった。それが、「この48時間は、日本の災 害対策史上、特筆すべき48時間ではないか」との思いを抱いて、帰路 に就くことができたのである。

 阪神・淡路大震災後に生まれた言葉の一つに「ボランティア元年」と いうものがある。震災後、100万人を越えるボランティアが全国から 集まり、様々な救援活動に携わった。そして、ボランティアの活用、官 民連携といった、今まで十分考慮されてこなかった領域が、災害対策に おける一つの大きなテーマとなったのである。筆者は、今回の「ナホト カ号」重油流出災害における防災ボランティアの活躍ぶりをつぶさに見 て、阪神・淡路大震災の教訓は確かに活かされており、震災当時に比べ ると格段に成熟した活動が行われている、そして特に今回の活動は、今 後の防災ボランティアの一つのモデルケースとなるのではないか、との 意を強くしたのであった。

 小論は、現在、福井県三国町において、ボランティアの組織化に大き な役割を果たしている「重油災害ボランティアセンター」の最初の48 時間のレポートである。筆者は、この組織の立ち上げに、一人のボラン ティア、それも中枢スタッフの一人として、立ち会うことが出来た。そ してその中で、この48時間の経験は、記録に残し、多くの者と共有し なければならないと強く感じた次第である。

 可能な限りの分析は行っているつもりであるが、理論的な検証や分析 よりも、筆者が見聞きし体験したことをそのまま記することに重きを置 いたものである。主に記憶に頼って記したものであり、思わぬ誤解や、 全体を把握していないがための的外れなコメントなどがあるかもしれな いが、その点への批判や修正は、後にこの組織を検証する方に任せるこ とにしたい。なお、小論における意見は、筆者の個人的な見解であり、 防衛研究所及び防衛庁・自衛隊の見解ではないことを、念のため申し添 えておく。


1.災害の経緯とボランティアの活動のあらまし

 まず、この災害の経緯と筆者が現地に入るまでのボランティアの活動 について、簡単に整理してみることにしたい。

 本年(97年)1月2日(木)早朝、「ナホトカ号」(ロシア船籍のタン カー、13,157トン、32人乗り)が、島根県壱岐島沖で、重油1万9千ト ンを積んだまま沈没し、3700klと推測される重油が流れ出た。海上保安 庁、海上自衛隊などの関係機関は、洋上にてこの流出重油に対処すべく 全力を傾けたが、この重油の一部が、同7日(火)午前9時半ころ、福 井県坂井郡三国町の安東岬付近に漂着、これを追うような形で同日午後 2時半ころ、重油2,800klを積んだ船首部分が、同町の雄島崎灯台の東北 東約1kmの岩場に座礁した。

 同日午後、福井県は災害対策本部(本部長:栗田幸雄知事)を設置し、 対応にあたったが、現地三国町における漂着した重油に対する対応は、 この段階では、住民による自発的な汲み取り作業が中心であったようで ある。(なお、翌々日の9日(木)午前10時半、栗田福井県知事は陸 上自衛隊第14普通科連隊(金沢)に災害派遣を要請し、同連隊は約1 50名を三国町に派遣し、重油の汲み取り作業に従事することになる。)

 重油の汲み取り作業は、ただでさえ相当の重労働であり、しかも名に しおう冬の日本海が舞台である。地形や天候によっては、大変な危険が 伴う作業であり、高齢化の進む地元住民のみでは、いずれ限界がくるこ とは明らかであった。全国からボランティアの申し入れが出始めていた が、受け皿を十分に用意出来ていない行政としては、この段階では、ボ ランティア希望者を登録し、「必要があったら依頼する」というスタン スであった。

 三国町に重油が漂着した1月7日(火)、「日本災害救援ボランティ アネットワーク(NVNAD)」の伊永理事長と「神戸元気村」の山田 代表は、電話で話し合い、早速山田は現地に入ることになった。翌8日 (水)早朝に現地に入った山田らは、地元住民に混じって重油の汲み取 り作業を手伝い、状況が現地の対応能力を越えていることを把握する。 そして同日午後、NVNAD事務局に、「この災害対策には人海戦術し かないが、地元のマンパワーには限界がある。広くボランティアを募る しかない」との報告が寄せられた。この報告が、「重油災害ボランティ アセンター」へと続く、一連の動きの直接のトリガーとなったのである。

 1月9日(木)10時、現地に入った伊永は山田らと合流し、山田ら はNVNADのメンバーとして動くことになった。伊永らは勢力的に関 係者をまわり、(ボランティアによる)ボランティアの受け皿作りについ て、関係者の理解と協力を求めた。同日13時、伊永は三国町災害対策 本部と協議し、「ボランティアは行政に要求せず、自律的に活動を行う」 との了解のもとに、ボランティア本部の開設が決定され、13時20分、 三国町安島のこども広場の「三国町現地対策本部」テント内に、ボラン ティアの受け付けが作られ、全国からのボランティアの登録と作業の割 りふりを開始したのである。

 1月10日(金)、(ボランティアによる)ボランティアの受け皿作り は、さらに進展した。伊永は、かつて自分が講演したことのある日本青 年会議所(日本JC)に連絡をとり、JCの福井県ブロック協議会と接触 した。たまたまこの日、新年の集いを行っていた福井ブロックJCは、 大変異例なことであるが、翌日から、三国町でのボランティア活動の支 援することを即決したのである。また、山田からの要請を受けた日本財 団の支援により、現地ボランティア本部にプレハブが立ち、電話線がつ いたのもこの日であった。

 多少時間が前後するが、筆者が三国町に入ることを最終的に決めたの は、9日夜のことである。当初は、ボランティアとしてではなく、研究 者として現地を訪れ、旧知の間柄である伊永の活躍ぶりと、現地の状況、 特に自衛隊と関係機関との連携の実状を見るつもりであった。

 しかし、多数のボランティアが訪れることが予想される週末を前に、 伊永は現地を離れざるをえず、山田らは行政との連携については慣れて いなかった。NVNADの他のスタッフも、阪神・淡路大震災2周年を ひかえ手の離せない状況であり、現地の人手不足は明らかであった。9 日夜の段階では、(ボランティアによる)ボランティアの受け入れ体制は、 レールこそ敷かれたものの、十分な体制が整っているとは言い難かった。 そこで、多少なりとも事情に明るい筆者に、「ボランティアとして」、 ボランティアの受け入れ体制の強化を手伝ってくれないか、との話があ ったのである。筆者は、現地に残る山田の補佐役として、敷かれたレー ルを補強し、(ボランティアによる)ボランティアの受け皿体制を強化す るよう求められたのである。

 そのような経緯を経て、1月10日(金)の勤務後、筆者は空路現地に 入ったのである。


2.「重油災害ボランティアセンター」の48時間

 10日夜に現地に入った後、筆者は、NVNADが福井ブロックJC との連携に成功したとの報告を受けた。被災地域外から入る援助組織に とっての大きな課題の一つは、引き際の問題である。救援活動に一定の メドがつくか、引き継ぎ相手が見つかるまでは、現地に留まるべきであ るが、それとていつまでもいるわけにはいかない。JCという地元に根 ざしたカウンターパートが見つかったことで、NVNADは後方支援に 廻ることが可能となった。残る課題は、行政などと連携したボランティ アの受け皿をうまく作れるか、そしてその間JCなど現地の新人スタッ フに対して、阪神・淡路大震災の教訓を踏まえてのボランティア運営の ノウハウをうまく伝授出来るかである。

 11日(土)は、早朝から多くのボランティアがかけつけた。前日の うちに備え付けの終わったプレハブ建てのボランティア本部に、机やい すなどを運び入れ、地図や組織図、電話番号一覧や予定表といった本部 機能のために必要な掲示などを行い、本部の立ち上げを行った。平行し て、ボランティアの受付と登録、必要な指示が行われた。このようにし て、福井ブロックJCの東角会長の命名による「重油災害ボランティア センター(センター長:東角福井ブロックJC会長、正式な就任は同日 夕)」(以下ボランティアセンター)が、本格的に活動を開始したので ある。

 この日、ボランティアセンターで受け付けたボランティアの数は1千 2百人を越え、直接現場に入ったボランティアも含めれば、恐らく15 00人程度のボランティアが活動していたように思われる。なお、ボラ ンティアの活動がある程度軌道にのった段階で、筆者は東角を陸上自衛 隊三国派遣隊長のM2佐に引き合わせ、お互いに可能な限り歩み寄り、 相互に助け合っていこうではないか、という話し合いがなされた。

 トラブルもあった。三国町社会福祉協議会(町社協)が、ボランティ アセンターに対して、別のところで受付を行うよう申し入れてきたので ある。というのも、この日の午前、安島のこども広場には、2つのボラ ンティア受付があった。ボランティアセンターのそれと、町社協のそれ とである。結論として、町社協側がテントを動かし、ボランティアセン ターの横にテントをおくことにより、その不自然な状態は回避された。

 18時過ぎから開かれたスタッフミーティングにおいて、ボランティ アセンターの初代センター長であった(NVNADの)山田は、わずか1 日でJCは必要なノウハウを身につけたと述べ、センター長の座を東角 に譲り、名実共にボランティア組織の現地化がなされたのである。

 この日の夜、ボランティアセンター側と町社協との話し合いが持たれ た。その結果、ボランティアセンターと三国町社会福祉協議会は一体化 し、「現地ボランティア本部」が構成されることになった。本部長に町 社協会長、副本部長に同事務局長が任命され、東角率いる「重油災害ボ ランティアセンター」は、「現地ボランティア本部」の実働部隊として、 受付、情報収集・分析・発信、ボランティアの割り振りなどを行い、町 社協はボランティア保険の受付、行政に働きかけての物資調達、医療・ 衛生面の手配、宿泊の手配などを行うという形での役割分担がなされた のである。

 翌12日(日)には、前日を上回るボランティアの参加があった。ま たこの日からは、ボランティアによるボランティアなどへの炊き出しも 行われ始めた。社協を介して行政との連携もうまくいくようになってき た。M2佐らがボランティア本部を訪れ、本部スタッフとの意見交換も 行われた。お昼には筆者自身が発起人となって、近くの松林の中で、自 衛隊とボランティアセンターのスタッフ、町社協職員らとの合同昼食会 を企画し、車座になり、ボランティアと自衛隊員が一緒に食事を取った のである。ボランティア側の食事が遅れるというトラブルもあったが、 災害現場で、同じ救援活動に携わる者、志を共有する者として、共に語 り合う機会が出来たことを、筆者は嬉しく思っている。

 同日夕刻、三国町社会福祉センターのホールにおいて、「ボランティ ア本部」の発足記者会見が行われた。ボランティア側(「重油災害ボラ ンティアセンター」)から3人、社協側から3人(町社協から2名、県 社協から1名)が出席し、こうして、三国町に出来た「ボランティア本 部」=「重油災害ボランティアセンター(コアメンバーはJC)+町社 協」は、公に認められた存在となった。以後、社協がボランティアを代 表して、町の災害対策本部の会議に出席するようになる。

 このような一連の動きが、わずか2日間の間になされるとは、筆者に は驚異であった。ここまでレールが出来れば、あとは比較的スムーズに 事態は進展していくであろう。このことを確信して、12日夜、筆者は 現地を後にしたのであった。


3.ボランティアの動きを整理する

 さて、ここにいたるボランティアと関係機関の動きは、以下のように 整理されよう。

 第1段階:広域防災ボランティア組織が被災地域に入り、現地の状況 を把握、広くボランティアを募る必要があるかどうかを判断し、本部に その旨を伝えるまで。(1月7日〜8日午後、NVNADに報告が寄せ られるまでの段階)

 第2段階:(ボランティアによる)ボランティアの受け皿作りのため、 広域防災ボランティア組織から現地本部要員が被災地域に入り、ボラン ティアの組織化に着手するまで。この段階では、現地本部のスタッフは、 ほとんどが被災地域外の者である。(1月9日朝〜10日夕まで)

 第3段階:広域防災ボランティア組織が、被災地域内の一般ボランテ ィア組織あるいは「既に地域内にネットワークを持っている組織」と連 携し、ボランティアの現地化に着手し、ノウハウの移転が図られる段階。 この段階では、現地本部のスタッフは、地元住民と集まったボランティ アを中心としたものにシフトしていき、広域防災ボランティア組織は、 現地の作業から後方での作業にシフトしていく。(10日夜〜11日夕 まで)

 第4段階:ボランティア組織が現地化する。広域防災ボランティア組 織は後方支援に徹する段階。(1月11日夕〜)

 第5段階:ボランティア組織が行政と連携する段階。(1月11日夜〜)

 第1段階は、広域防災ボランティアという、全国規模で災害対策に従 事する常設のボランティア組織が、被災地に入り、自分の目で現地の状 況を確かめ、「ボランティアに来て欲しい!」と声をかけるか否かを判 断する段階である。

 さきにも述べたように、今回の重油災害に対する(三国町における) ボランティアの活動は、1月8日午後、NVNADに「広くボランティ アを募るしかない」との連絡が入ったことが、事実上のスタートである。 歴史に「イフ」は禁物であると言うが、山田らが8日早朝に入っていな かったら、8日午後の連絡が遅かったら、果たして漂着後最初の週末で ある11、12日の両日に3千人近いボランティアを受け入れる体制を 作ることが出来たか、疑問のあるところである。

 第2段階の主眼は、被災地域内の関係機関、特に行政に働きかけるこ とにより、ボランティアがボランティアの受け皿作りをはじめることに ある。9日午前に現地入りして以降の伊永の精力的な活動が、この段階 をスムーズに進めることに大きな役割を果たした。実は、ある事情から 伊永は半日所在不明となり、その分現地入りが半日遅れたのではあるが。 11日早朝に現地を去った後も、伊永は、電話連絡などを通じて、関係 機関に対して働きかけを続け、受け皿作りを盤石なものにすることに尽 力した。重大な時にミスがあったが、伊永の働きかけは大いに評価され るべきであろう。

 第3段階は、こうして出来た受け皿を、地元に引き継ぐと共に、ノウ ハウの移転がなされる段階である。今回の場合、JCという、地元にネ ットワークを持ち、かつ実働能力を持つ組織と連携が出来たということ は、大変に大きな意味を持っている。ボランティアの運営にも、特にそ の立ち上がりの段階では、マネージメントのセンスが必要である。JC メンバーの持つマネージメント能力が、今回大いに発揮されたことは、 特筆されるべきであろう。そして第4段階において、受け皿は現地化さ れ、地元に根を持つ者が全国から集まるボランティアをコーディネート する、という図式が出来た。第3、第4の段階をわずか1日で通過する ことが出来たことも、今回の災害対策において、特筆されるべきことで あろう。

 第5段階は、こうして出来た組織と行政との連携である。災害対策に おいては、行政とボランティアはパートナーであり、適当な緊張関係こ そ必要であるが、お互いに違う方向を向く必要性は何もない。「いわれ なくてもするが、いわれてもできる」という言葉は、NVNADの母体 であるNVN(西宮ボランティアネットワーク)のモットーであるが、 このスタンスは、今後の行政と防災ボランティアの関係の、一つの原則 となっていくように思われる。

 ただ、現実には、ボランティアがボランティアのみで、行政は行政の みで完結してしまうことはままある話である。限られた時間とマンパワ ーの中で、多くの行政機関とボランティアが「パートナー」関係を結ぶ ことは容易なことではない。実際に幾つかのトラブルも発生したわけで あるが、ともあれ、11日夜の「重油災害ボランティアセンター」と三 国町社会福祉協議会との会談が持たれたこと、そしてこの会談により、 ボランティアセンターvs社協という対立の図式ではなく、それらが一体 となった「ボランティア本部」が出来たことも、今回の災害対策におけ る特筆すべき事柄である。重油の漂着から5日目には、地元主体の官民 合同のボランティア本部が出来、記者会見まで行うことが出来たという こと一つをとってみても、阪神・淡路大震災における、ボランティアの 活用、官民連携といった教訓は、着実に活かされている。


4.なぜこれだけ早く、ボランティアの活動が組織化できたか

 先にも述べたように、今回の「重油災害ボランティアセンター」の発 足経緯は、今後の防災ボランティアの活用についての一つのモデルケー スとなり得るように思われる。というのも、後から振り返ってみればの 話であるが、防災ボランティアが機能するため不可欠と思われる幾つか の要素が、期せずして、そこにあったからである。順次検討してみよう。

 (1) 広域防災ボランティア組織の存在

 まず最初に、広域防災ボランティア組織としての「日本災害救援ボラ ンティアネットワーク(NVNAD)」と伊永の存在がある。NVNA Dと伊永の尽力がなければ、ここまで迅速で密度の濃い活動は出来なか ったと言っても過言ではあるまい。

 「西宮方式」と呼ばれる防災ボランティアと行政の関係はご存じの方 も多いと思う。NVNADは、この「西宮方式」を産み出した、「西宮 ボランティアネットワーク(NVN)」の後身である。今回の重油流出 災害において、NVNADと伊永は、1)被災地に乗り込み、ボランティ アのニーズを把握し、2)被災地内にボランティアの受け皿を作り(まさ に「ボランティアの組織化のためのボランティア」である)、3)全国か らのボランティアの送り込みの支援と、送り込まれたボランティアに対 する後方支援を行う、という目覚ましい活動を行ったのである。

 だが、ここで忘れてはいけないことは、ここで言うNVNADと伊永 とは、単に伊永個人やNVNAD自体を意味するのみでなく、伊永を支 え育てた、あるいは伊永が作り育てた、ネットワークを代表する言葉で あるという点である。したがって、より正確に言うならば、広域防災ボ ランティアとしてのNVNADと伊永が機能したというより、いわば 「伊永」という名の防災ボランティアネットワークが、今回見事に機能 することを示した、ということであろう。

 (2) 専門性を持ったボランティアの存在

 筆者はボランティアとして、「重油災害ボランティアセンター」の立 ち上げに関与したわけであるが、ボランティアといっても、専門性を持 たない一般のボランティア(un-skilled volunteersと呼ばれる)ではな く、自衛隊流の本部組織の運営ノウハウを持つ、専門性を持ったボラン ティア(skilled volunteerと呼ばれる)としての関与であった。

 筆者が提供したものは、本部のレイアウト、地図の使い方、状況の表 示の仕方、模造紙と透明のシートを利用したホワイトボードの作り方と いった、いずれもちょっとしたノウハウであるが、このようなノウハウ を持つものがいるかいないかでは、本部組織の立ち上がりは大きく影響 されるものである。無論、他にも様々な専門性が要求される分野もある。

 多少本論からはずれるが、別表は、今回筆者が三国町に入るにあたり、 ボランティア本部の立ち上げに必要なものとして東京から持参したもの のリストである。これらを用いて、現地で筆者自身が、自衛隊流の地図 の使い方や状況表示の仕方、本部組織の作り方などのOJTにあたった わけであるが、このようなノウハウは、ボランティアのみならず、広く 自治体などの災害対策本部要員にとっても、参考になるものが多いよう に思われる。筆者はかねてより、災害対策において自衛隊が果たすべき 役割として、自衛隊の持つ本部組織運営のノウハウの伝授のことを主張 しているが、改めてその思いを強くしたものであった。

 (3) 潜在的な防災ボランティアとしてのJCとの連携

 第3の要素は、青年会議所(JC)との連携に成功したことである。 青年会議所や商工会議所のように、常日頃から人や物を動かし、とっさ の判断に慣れている人物の集合体は、それだけで潜在的な防災ボランテ ィアである。より正確に言うならば、ボランティア組織といっても、本 部機構の運営にはマネージメントのセンスは不可欠であり、JCには、 いわばボランティア・マネージメントのセンスを持っている者が数多く いた、ということである。

 実はさらにもう2点、JCならではの持ち味がある。一つには、先に も述べた地元に根を張っている組織だという点であるが、もう一つ忘れ てはならないのが、JCの若さである。防災ボランティアには行動力が 不可欠であり、それを支える大きな要素は若さである。今回三国町にお いては、このような資質を持った数十人のJCのメンバーが本部スタッ フとして活躍した。彼らの存在なくしても、これだけの活動は不可能で あったように思われる。

 このようなJCの面々と一緒に活動が出来て、筆者としては、大変心 強かった。今回の重油災害は、後になって振り返って見れば、防災ボラ ンティアとしてのJCの「旗上げ興業」と位置づけられるかもしれない。 「JCもやるときはやるんです(福井JCのある会員)」という言葉に は、重みがあった。JC恐るべし、である。

 (4) 行政の理解:町社協との連携の確立

 ボランティアセンター発足当日(11日)こそ、多少のトラブルはあ ったものの、その夜の話し合い以降、ボランティアセンターと三国町社 協とは、良好な関係が続いている。第4の要素として忘れてはならない のが、三国町社協(行政と密接な関係を持つ)が、ボランティアセンタ ーの活動を正当に評価し、ボランティアセンターと一体化してボランテ ィアの受け皿たらんとしたこと、すなわち行政側の理解と協力である。

 一口にボランティアと言っても、福祉系のボランティアと防災系のボ ランティアとでは、大きく性格を異にするものである。社協がこの点を 認識し、自らはボランティアの実働部分には関与せず、行政と密接な関 係を持つというその特徴を活かして、現地におけるボランティアのバッ クヤード機能を果たしたということは、今後の防災ボランティアのモデ ルケースとなろう。東角の弁を引用するならば、社協は、行政と防災ボ ランティアを一つにまとめる「(団子の)串」である。


5.防災ボランティアの将来を考える:三国町での教訓から

 未だメドもついていない災害について、教訓じみたことを言うのはは ばかられる部分もあるが、今後、重油が漂着し、ボランティアに頼らざ るを得ないような自治体や関係機関にとっては、何かの参考になるので はないかと思い、以下、三国町での経験から教訓となるべき事柄を、幾 つか指摘しておきたい。

 (1) 専門性を持ったボランティアの必要性

 ボランティアにも専門性が要求されるようになってきている。ボラン ティアは、行政の下働きをする安価な労働力では決してない。だが、ア マチュアだから何をやっても許される、というわけでもない。行政との 間には、相互補完の関係と共に、ある種の緊張関係が求められ、時には 行政を上回る専門性が要求される場面も出てくる。今回の災害において、 伊永や筆者などは、ボランティアとして関与したわけではあるが、それ はun-skilledボランティアとしての関与ではなく、専門性を持ったボラ ンティアとしてのそれであった。このような役割を果たす人間が必要と されているのである。

 確かに、ゼロから試行錯誤を積み重ねる中で、立派なボランティア活 動の組織化がなされることもあろう。だが、特にその立ち上がりの段階 においては、ちょっとしたノウハウの有無が、その作業効率や立ち上が りの迅速さに大きく影響するものである。ボランティアの組織化のため のボランティア、またボランティアのリーダーやボランティア・コーデ ィネーターには、ある種の専門性が必要である。このようなノウハウや 人的ネットワークを持つ者を育てることが、今後の大きな課題の一つで ある。

 (2) 福祉ボランティアと防災ボランティアの差の認識

 ボランティアと一口に言っても、様々な違いがある。今回筆者が目の 当たりにしたのは、福祉ボランティアと防災ボランティアの差であった。 社協には、ボランティアの本家本元という意識があろう。確かに社協が 福祉系ボランティアの総元締めであることは、衆目の一致するところで ある。しかし、防災ボランティアまで社協が関与すべきかと問われれば、 筆者は疑問を呈したい。11日午前の混乱状況の中で筆者が見たものは、 町社協のボランティア受付と、「重油災害ボランティアセンター」の受 付との、極端なまでの差であった。

 誤解のないようにしたいが、筆者は、社協が災害ボランティアに不向 きであると言うのではない。ただ、ボランティアは、どのようなもので あれ社協が一元管理します、という考え方に若干疑問を呈したいのであ る。どのような組織にも得手不得手があるという点をふまえ、そして社 協にしか出来ないことを追求すべきであろう。

 社協の持ち味は、常日頃から持っている弱者との関係、福祉センター など建物の所有、行政との密接な関係、ボランティア保険、そして何よ り全国に広がるネットワークを持っていること、などがあろう。社協が このような点をもっと積極的に打ち出し、防災ボランティアと相互補完 の関係を作れるならば、今後の防災ボランティアは、より充実したもの となっていくであろう。

 (3) 防災ボランティアのとらえかたの問題

 昨今、防災ボランティアがはやりである。自治体系の防災ボランティ ア、消防系の防災ボランティア、建築系の防災ボランティア……。これ ら防災ボランティアの乱立状況を見ると、防災ボランティアとは、何か 特殊な技能を持った者であるかのようである。

 しかし、防災ボランティアといっても、様々なものがある。今まで述 べてきたように、今回、重油の汲み取りに参加してくれた多くの自発的 なボランティア(spontaneous volunteers、ほとんどはun-skilled volunteers)を取りまとめたのは、立ち上がりにこそ若干名の専門性を持 ったボランティア(skilled volunteers)が立ち会ったが、主要な本部ス タッフはJCのメンバー、つまりは特に防災ボランティアとして訓練を 受けてきた者ではなかった。常日頃、人を動かす仕事をやり、その場で の判断に慣れているもの、マネージメントのセンスを持つ者であれば、 この役は十分に務まったのであり、逆に言うならば、そのようなセンス を持つ者抜きに、ボランティアの本部組織の運営は成り立たなかったか もしれないのである。

 今回三国町においてはJCが活躍したが、別の場所では商工会議所か もしれないし、他の類似の組織かもしれない。いずれにしても、潜在的 な防災ボランティアとしての適性を持っている者は、登録された防災ボ ランティアよりも、遥かに多く、またそれらの網の目にかかってこない 所に、より多くいるように思われるのである。このような、地元に根ざ した、人や物を動かしとっさの判断に慣れている人の集合体に、おのお のの持ち味と関連づけた形で災害対策のセンスを身につけてもらうこと、 このことが、今後の防災ボランティア活用の鍵であるように思われてな らない。

 (4) インターネットなど、電子メディアの活用

 忘れてはならないのは、ホームページ、メーリングリストといった、 電子メディアが、本格的に活用された点である。刻一刻と変化する現地 の情報は逐次発信され、ボランティアの格好や持ち物、諸注意といった、 受付電話をパンクさせてしまうようなよくある質問も、ホームページを 見れば、イラストや写真入りで一目瞭然である。現地の地図や交通手段、 宿泊案内の類も、ホームページで見ることが出来る。また、専門知識が 要求されるような事柄も、メーリングリスト上に問いかけがなされれば、 何らかの形で返答がある。

 阪神・淡路大震災でその有用性が注目され出した電子メディアである が、その教訓は活かされ、確実により発展した形で展開されている。

 (5) 残された課題

 今回のボランティアの活動には、将来的にはさらに2つの段階がある。 それは、

第6段階:三国町での経験や教訓の広域化

第7段階:三国町や周辺各地で行われた活動の普遍化

である。

 第6段階として考えるべきは、三国町の経験や教訓を、重油災害の他 の被災地にも広めることである。三国町における、「広域防災ボランテ ィア+地元の一般ボランティアand/or地元に根を張っている組織+社協」 という図式は、ごく短期間の間にボランティアの活動基盤の確立に成功 した例として、他の場所においても応用可能なことであろう。そして、 三国町においてこの活動を経験したJCメンバーら「三国veterans」は、 他の場所における同様の活動のコアメンバーとして活動することが可能 であろう。

 これは火急の課題でもある。小論執筆時点において、重油は能登半島 をこえ、さらに拡大している。となれば、ボランティアによる人海戦術 でしか対応出来ない事態が、別のどこかで発生することも、十分考えら れるのである。現地からの報告によれば、既に幾つかの自治体などから、 ボランティア受け入れについてのノウハウを伝授してほしいとの要望が 寄せられているとのことである。「三国veterans」の活躍に期待すると ころ、大である。

 さらにその次の段階として、三国町や「三国veterans」の経験や教訓 を普遍化することが求められている。個人の記憶から、組織や社会全体 の記憶への発展である。渦中において、その記録をとることは、確かに 容易なことではない。しかし、この災害と災害対策の教訓を次の災害に 残すためにも、活動記録は不可欠であり、災害の「語り部」も必要なの である。

 ここで忘れてはならないことは、災害の「語り部」は、個人の経験を 語るだけでは足らないということである。個人対個人の関係ならいざ知 らず、ある災害の教訓を制度に反映させるためには、個人やその集団の 経験を普遍化し、一般化するという余計な1ステップが必要なようであ る。そのプロセスを踏むことによって、その災害の教訓は、初めて制度 の中に活かされるように思われてならない。三国町での「重油災害ボラ ンティアセンター」の活動が、その段階まで発展していくことを願って やまない。


おわりに

 今回の重油流出災害は、阪神・淡路大震災以降、にわかに注目を集め た防災ボランティアのあり方が、最初に問われた災害であった。三国町 の「重油災害ボランティアセンター」は、極めて短い間に、全国からの 善意を組織化することに成功したという意味で、筆者は、防災ボランテ ィアの一つのモデルケースたり得ると考えている。そしてこの活動に当 事者として携わることが出来たことを、誇りにも思っている。

 だが、言うまでもなく、現地に飛び込み、活動することだけがボラン ティアではない。むしろ、ボランティアが入ることによって、地元住民 に負担をかける側面があることを、忘れてはならない。「何かしたい」 という気持ちは大切にしたいが、時にその心情が空回りし、地元住民の 姿が見えなくなってしまうことは、実はままあることなのである。

 災害対策の最終的な目的が、被災した個人や家族、街やコミュニティ ーの復興にある以上、漁業資源や観光への影響を考えると、この災害は まだまだ続く。とすれば、荒天で知られる冬の日本海で、命を危険にさ らしながら活動する手を少し休め、一歩、いや半歩引いて、重油と向き 合うことを考えてもよいと思う。否、むしろそうすべきではないだろう か。

 小論ではほとんど触れられなかったが、人を組織化するボランティア と共に、智恵を組織化するボランティアの活動も、今回の災害の中で生 まれつつある。環境、漁業、観光、行政、医療、そして地元住民、行政。 これらの者がインターネット上で意見交換することも、防災ボランティ アの一つのあり方ではないだろうか。

 防災ボランティアの議論は、まだまだはじまったばかりである。

 小論への意見、コメント等は、komura@nids.go.jp までお寄せ下さい。

 また、本文中に触れた、ホームページとしては、「重油災害ボランテ ィアセンターホームページ」 (http://www1.meshnet.or.jp/~response/oil.htm)」など、多数あります。


別表1、ボランティア本部開設用に筆者が持参したもの

1.国土地理院発行の地図:現場周辺の2万5千図、5万図、20万図:

 2万5千図、5万図は、本部における作戦地図として活用することを 考えてのもの、20万図は今回の重油流出災害の全体像の把握のため、 壁に掲示することを考えてのものである。現地では、会議用テーブルを 3つ並べて地図台とし、後述の透明のシートをかぶせて、書き込みが可 能なようにした。ただ、筆者が現地を去る時点で、20万図は活用され てはいなかった。

2.家庭用品売場で売っている、透明のシート(テーブルクロス?):

 幅1m20cmのものを20m分用意した。これを、地図の上にかぶ せれば、いろいろ書き込みができる。また模造紙の上にかぶせれば、即 席のホワイトボードとなる。

3.油性マジック(各色)とベンジン

 これが鉛筆と消しゴムである。ベンジンをぬり、ティッシュペーパー でふき取ることで、何回も上書きすることが出来る。

4.模造紙30枚

 言うまでもなくホワイトボードの代わりである。もちろん直接書き込 みも出来る。

5.カラーピン(各色)と、直径7mmほどの丸いカラーシール(各色)

 地図の上にプロットすることを考えてのことである。

6.ワープロ及び感熱紙300枚

7.一眼レフカメラ&レンズ2本(標準ズーム&望遠ズーム28〜210 mmまでカバー)と36枚撮りフィルム×10本

8.カセットレコーダー&テープ(120分テープ×12本)

9.ノート×5冊

10.電池多数。


別表2、「重油災害ボランティアセンター」設立までの主な経緯

(NVNAD資料他から作成)
1月2日:

 早朝 「ナホトカ号」が島根県壱岐島沖で重油1万9千トンを 積んだまま沈没。船体は2つに割れる。

1月7日:

  9:30頃 流れ出た重油の先端が、福井県坂井郡三国町の安島岬付 近に漂着

 14:30 「ナホトカ号」の船首部分が、三国町の雄島崎灯台の東 北東約1kmの岩場に座礁

 15:00 神戸元気村の山田代表との電話連絡により、元気村より 山田他1名が現地に入るとの連絡がNVNADに入る。

1月8日:

 早朝 安島地区に入った2名は、地元の漁民・海女・町民らと ともに重油の除去作業に従事しながら、被害の状況把握を行う。

 午後 山田よりNVNADに連絡、ボランティアによる支援体 制をとる準備にはいる。

1月9日:

  9:50 JR芦原温泉駅にNVNADの伊永理事長到着。

 10:10 伊永ら、自治省消防庁・警察庁に、NVNADが三国町 の現場に来ていることを報告し、福井県と三国町への紹介を依頼。

 10:20 伊永ら、三国町役場災害対策本部を訪問。県外からのボ ランティア動員についての申し入れを行う。「現在はボランティアの登録 だけを行い、時期を見て必要なら要請を出す」との回答。

 11:00 伊永ら、三国警察署を訪問。生活安全課に対して、ボラ ンティア活動開始を報告。

 12:30 伊永ら、安島地区にてマスコミ各社との会見。

 13:00 伊永ら、三国町重油災害現地対策本部にて、町総務課長 と協議の結果、現地災害対策本部の横において、ボランティアの受付を行 うことを了解される。

 13:50 伊永ら、県警現地対策本部にて、県警生活安全企画課長 と協議。ボランティア活動への協力についての申し入れあり。

 15:00 福井県社協を通じて、三国町社協のボランティア保険活 用の了解を受ける。

 15:20 山田、日本財団に対してボランティア活動の支援を要請 する。

 16:00 伊永、現地でのボランティア活動開始の条件が整ったた め、NVNAD本部に対し、全国連携団体に対してのボランティアの募集 とマスコミへのプレスリリース発信を指示する。

 16:30 サポート21より、ゴム手袋200枚の提供申し入れが ある。

 18:00 テレビ各局がNVNADの活動紹介を一斉に始める。

 20:00 日本財団より、全面的に支援するとの連絡が入る。内容 は、ボランティア本部用プレハブと設備器材、搬送用車両、電話・FAX など

1月10日:

 07:30 町現地災害対策本部と打ち合わせを行い、本部敷地内に ボランティア受付を設置することを了解され、町からテントを借りる。町 社協から、ボランティア保険の申請用紙を預かる。

 08:00 ボランティアの受付開始。午前中の受付17人。この時 点でも、福井県・三国町に申し出るボランティアに対する対応は、登録し て待機させるという状態であり、マスコミを見た県内の人々が次々と受付 に現れる。16時の受付終了時点での人数は114人。

 10:00 三国町町長、ボランティア受付に来られて「よろしくお 願いします」との挨拶を受ける。

 11:00 日本財団からK氏が現地に入る。ボランティアへの支援 を増強するとのことで、ポンチョ3000枚の提供が決定。

 13:00 海上保安庁の船での専門家の被害状況調査に同行が決定、 山田参加。

 14:00 N社が日本財団の指示でプレハブを建設。

 15:00 電話敷設工事。3回線と公衆電話3回線が敷設される。

 16:00 ボランティア本部立ち上げをNVNAD本部に連絡し、 プレスリリースとホームページでの情報発信を決定。

 18:00 青年会議所福井県ブロックの新年会に招待される。伊永 の代理として山田が参加、JCのメンバーがボランティア本部に常駐する ことになる。これにより、NVNADは後方支援に廻ることが決定される。

 19:00 電話が開通すると共に、全国から続々と問い合わせの電 話が入る。西宮の本部には、この日だけで200本以上の電話が入る。

 22:00 筆者、現地に入る。

 22:00 今後の対応として、山田はオブザーバーとして1ヶ月滞 在、NVNADからは交代で要員を出すにとどめ、あくまで現地スタッフ で運営することとする。

1月11日:

 07:30 ボランティア本部の正式名称が「重油災害ボランティア センター」と決定される(命名者:東角JC福井ブロック会長)。受付業 務を開始。JCスタッフが活動を開始する。


別表3、ボランティア参加者の推移

1月 7日(火) (資料なし)

   8日(水) (資料なし)

   9日(木) (資料なし):なお、この日12:00より、 ホームページのリリース開始

  10日(金)  114名

  11日(土) 1006名:他に三国町で400名、高野連約 350名。

  12日(日) 1637名:その他約1300名

  13日(月)  503名

  14日(火)  478名:天候不順のため午後の作業は中止

  15日(祝) 1804名:天候不順のため作業中止

  16日(木) 1273名

  17日(金) 1039名

  18日(土) 1386名:天候不順のため作業中止

  19日(日) 1580名:天候不順のため作業中止

  20日(月)  632名

  21日(火)  424名:この日より26日まで、天候不順 により、本部を一時撤収し、作業全面中止

(「重油災害ボランティアセンター」ホームページ他より小村作成)

 注1:いずれも、「重油災害ボランティアセンター」で受け付けた人 数のみ。受付を通らないで直接現場に入っている人もいるので、実数は これよりも多い。

 注2:これらの人数に加え、10日以降は、本部要員として、毎日 100〜120名が参加している。


別表4、重油災害関連のホームページのアドレス

*NVNADのホームページ
http://apollo.m.ehime-u.ac.jp/~nvnad

*「重油災害ボランティアセンター」のホームページ:
http://www1.meshnet.or.jp/~response/oil/htm

*「三国、芦原、金津青年会議所」重油災害ボランティアセンターのホ ームページ
http://www.mitene.or.jp/~makjc/jyuyu.html

*NHKボランティアネットのホームページ
http://www.nhk.or.jp/nhkvnet/spot/oil/index.html

* その他多数


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