市立札幌病院医科研修問題 【最終弁論】(1)


はじめに


 弁護人の無罪意見を述べるにあたって,裁判所の注意を特に喚起して頂きたい点を冒頭に述べさせていただく。


 1.まず,第1に今日国民が歯科医師にいかなる能力を求めているかという点である。

 近年の歯科医学の発展はめざましく,歯科技術が益々進歩し専門化している。

 また,高齢化にともない,歯科医療の現場における予期せぬ緊急事態の発生の可能性が強く危惧されているところである。

 これからの歯科医療は,単なる歯の治療を行うにとどまらず,患者と十分なコミュニケーションをとり,総合的な口腔の諸機能維持・回復を行うことが求められている。

 健全な口腔の機能は,患者の精神活動を含めた全身的な健康を支えており,歯科と医科の総合的な連携が今後ますます強まることが必要とされている。

 瀬戸ユ一証人および,戸塚靖則証人が強く指摘されたように,到来しつつある高齢化社会に対応すべく,歯科医師とりわけ口腔外科医が,治療中の偶発的な事態に適切に対処できるためには,救急救命処置能力を確実に修得させる教育が不可欠である。

 歯科医師法16条の2の第1項も,歯科医師が卒後臨床研修を行うことを努力しなければならないと規定していることからすれば,本件で問題とされた研修も,法律で求められている卒後臨床研修の一環として行われた行為であり,その意味では,歯科医師に対する教育のあり方が問われている事案であるといえる。


 2.第2に,社団法人日本口腔外科学会研修カリキュラムガイドラインは,その序文で,我が国において,国民から信頼される良質の口腔外科医療が,常に,かつ発展的に提供されることが必要であり,そもそも口腔外科は,医学と歯科医学が重複する診療分野であるため,高度の医学的知識が要求され,口腔外科を専門とする者は,医学と歯科医学の両方にまたがって充実したトレーニングを受けなければならず,そのためには,卒業後の臨床トレーニングに重点を置く必要性が高いことを指摘している。

 歯学部出身者が口腔外科専門医になるためには,卒後研修において,患者の全身的評価,手術・麻酔時におけるリスク管理能力を修得する必要があり,救急救命処置の能力を身につけることは卒後研修の根幹をなしている。

 国際的にも,歯科口腔外科医が治療中の偶発的な緊急事態に適切に対処できるようになるために, 救命救急処置の技術と知識を修得することは,口腔外科医の共通の課題となっている。

 北海道大学歯学部(以下「北大歯学部」という)においても,平成6,7年ころから,歯科医師に,卒後臨床研修の一環として,救急研修の機会を与える必要性が強く認識されていた。

 戸塚靖則教授(以下「戸塚教授」という)は,平成7年4月に藤原敏勝助教授(以下「藤原部長」という)が市立札幌病院(以下「市立病院」という)に歯科副部長として赴任する際,市立病院の手戸病院長に対して,歯科医師に救急の研修をさせてほしい旨2度にわたって申し入れている(第12回公判の戸塚靖則の尋問調書8頁)。

 戸塚靖則教授が,歯科医師の研修,とりわけ救急研修を強く求めたのは,市立札幌病院における救命救急センタ−(以下センターという)の評価が極めて高く,教育効果を期待できるためであった。


 3.第3に,北大歯学部の戸塚靖則教授のみならず,救急研修を受けた4人の歯科医師レジデント及び被告人は,救急研修の必要性,正当性,有効性について強い確信をいだいており,歯科口腔外科医が歯科診療の場面で遭遇しうる患者の緊急状態に適切に対処する能力を修得する必要がある,との認識で一致していた。

 歯科医師レジデントのセンターでの救急研修が,レジデント委員会の承認を得ていたことは,後に述べるとおりであるが,本件研修につき捜査が開始されるまでの間,厚生労働省は捜査機関からの問い合わせには応じつつも,センターでの研修内容の報告を受けても,これに対して,注意を喚起したことは全くなかった。

 市立札幌病院の中西院長を含め,病院関係者はセンターにおいて,歯科医師レジデントの救急研修が行われていることを認識しており,院内において違法であると指摘されたことは全くなかった。

 被告人が起訴休職の処分に付されていないことは,本件救急研修が市立病院における適正な手続に基づいて適法に行われていたことの何よりの証左であるといえる。


 4.第4に,およそ研修である以上,研修で行われた医行為の実行行為者は指導医であり,研修行為の責任は指導医が負うことになる。

 そのために,指導医は,レジデントに対して指導監督を徹底し,レジデントは指導医の指導監督に絶対的に服従する義務がある。

 すなわち,研修の場においては,レジデントの単独行動は許容される余地はない。

 つまり,レジデントは指導医の指導監督の範囲内で行動し,指導監督の範囲を逸脱することはできない。

 もちろん,歯科医師の研修目的は,歯科医師が日常的に患者に対して行っている手技を,緊急状態においても患者の全身状態を評価しつつ,迅速かつ適切に行使することができる能力を修得することにある。

 歯科医師レジデントが行った各手技は,歯科口腔外科で日常的に行われる手技であるから,手技そのものに対する安全性は基本的に担保されていた。

 いうまでもなく歯科医師レジデントの救急研修の目的は,口腔外科医が単独で救急救命処置を行うことができる能力を身につけることにあるから,・・・証人が証言したとおり(公判期日外の・・・の尋問調書35頁), 研修を受ける側の技量・能力との相関関係で指導医師の指導監督の内容が異なってくることは当然である。

 すなわち,レジデントの能力が高まるにつれて研修内容が動的に変化するのでなければ,研修の目的を達成することはできない。

 研修の目的が歯科医師の能力向上にある以上,研修の基準が固定的になればなるほど,研修目的の達成は困難になる。

 研修が歯科医師の救命救急の能力を高めるためものである以上,研修を受ける側の能力向上に従って,指導医の指導監督の方法・内容も,発展的に変化する必要があることは当然である。

 とりわけ,本件歯科医師レジデントのように歯科医師の資格を有し,麻酔科研修を終了している場合には,救急研修の獲得目標は単独で救急事態に対処できる能力を修得することにある。

 この点,中島正治証人は,指導医師の指導監督の程度について,「すぐ何かあれば,来れるという状況」で足りる場合もあると証言し(第6回公判中島正治の尋問調書65頁),レジデントの行為が場所的にある程度離れていても,指導監督の範囲内の行為であることを認めている。

 すなわち,レジデントが,指導医の指導監督の範囲内で行為することが担保されている限り,必ずしも研修医と指導医とが場所的に密着していることは必要でないことを認めているのである。

 従って,指導監督が必ずしも可視的状況下で行われる必要はない。

 本件公訴事実となっている医行為は,多数の医師が常時出入りするセンター内のフロアーで行われていた。

 ドクターカーは,場所的時間的に離れているが,本件では,そこで対象患者が心肺停止患者であったので,そこで本件で行われた手技は定型的かつ限定的手技であり,判断・裁量の余地がないばかりか,その時間も,ドクターカーに患者を乗車させてからセンターに到着するまで,22分ないし38分という短時間であることからすれば,指導医の指導監督の範囲内の行為と優に認めることができる。

 この点を詳しく述べるならば,ドクターカー内での行為は,1)挿管とアンビューバッグを使用した気道確保,2)静脈ルートの確保及び 3)投薬行為に限定されている。このうち,アンビューバッグと静脈ルート確保は救急救命士にも許されている行為である。挿管については既に熟達しており,その手技を誤る危険性は全くないばかりか,平成16年4月からは救急救命士に気管挿管を認めることが決定されている。投薬行為は,心肺停止患者の場合,エピネフリン(ボスミン)を投薬して心臓の動きを再開させ,続いてアトロピンを投薬して心拍数を上昇させるという定型的な手順であるため,その投薬の順序について判断が加わる余地はない。

 さらに,指導医はドクターカー内に設置してある心電図電送モニターによって患者の状態を常に把握でき,他方,PHSと無線によって,レジデントはいつでもセンターの指導医と連絡を取り,指示を仰ぐことが可能であった。


 5.検察官は,富士見産婦人科における事務長の検査行為を違法と判断した判例の基準を引用して,歯科医師レジデントの行為が医師法17条に違反すると主張するが,全くの無資格者の行為についての上記判断基準を,本件のごとき豊富な臨床経験を有している歯科医師レジデントが行った行為に対して適用するのは明らかに誤りである。


第1章 本件事件の背景


 第1 歯科医師の救急研修は,国民の健康と安全にとって不可欠なものであること

 1.急速な高齢化社会を迎えている日本では,当然のことながら医療現場でも患者の高齢化が進んでいる。いうまでもなく,高齢者は高血圧その他全身疾患を持つ率が高く,このような患者を対象とする以上,外科のみならず内科医,眼科医,耳鼻咽喉科医,小児科医等あらゆる科の医師に,患者の急変という事態に遭遇する可能性がある。救急事態に遭遇した場合,本来医師は,生命の維持等対症療法的な処置から逆に診断と,患者の重症度に応じ臨機応変に対処しなければならない。しかし,医療の専門化そして細分化の結果,医師といえども,救急専門医以外は救急患者に対するプライマリーケアにおいて重要な全身管理の知識・技術が不十分なため,救急処置が必ずしもできず,国民に安全な医療を提供できないのが実情である。

 このような問題意識から,昨今,救急患者に対するプライマリーケアを修得することは,医師はもちろん医学生にとっても,必須の要件と考えられている。全身管理・救急処置を身に付けるため,全国の医学生や意欲ある医師が,麻酔科や救急部で研修を受けているのはこのような理由による。

 2.他方,当然のことながら歯科医療現場でも患者の高齢化は進んでいる。さらに,近時の医学の進歩により,これまでなら普通の日常生活を営むことが困難であった全身疾患を持つ患者が,快適に食事をし,会話を楽しむことができるようになることを求めて歯科外来を受診する件数が増加している。そしてこの傾向は,今後益々増加することが確実といわれている。歯科治療において,患者が高血圧,心臓,肝臓,腎臓,肺等の重要臓器に疾患を有している場合に,歯科医師がそれら疾患の内容や重症度に応じた麻酔法や薬剤の使用方法,対処法を知らないまま治療をするならば,重篤な偶発症が引き起こされ,重大な結果を招く場合が少なくない。

 3.過去には,緊急事態を予防するための知識・技術や緊急事態が起きてしまった場合の対処法を身に付けた歯科医師が少なかったがために,偶発症の発生を恐れて,様々な障害を背負った障害者や重症の全身疾患を持ったいわゆる有病者に対して十分な歯科医療を行うことなく,ほとんど応急処置程度で終わっていた。今後,全身管理や救急対応技術を身に付けた歯科医師が増えれば,これらの患者にもより質の高い安全な歯科治療を提供できるようになる(第10回公判の小林一三の尋問調書5〜6頁)。

 4.加えて,一般歯科で行う治療は,ほとんど患者の生命の維持に直接関わるようなものではない。それは,普通に食事をしたり,会話を楽しんだりする機能,言い換えれば患者の生活の質(クオリティ・オブ・ライフ)を維持・向上するために行うものである。このため歯科医師は,常に,歯科医療に伴うリスクと治療によって得られるメリットを天秤にかけ,その結果得られるメリットがリスクを相当程度上回ると判断できた場合にのみ治療を行うべきであると考えられている。医科における癌治療等と異なり,生命に危険を伴うおそれのあるような場合には歯科治療を行うべきではなく,患者が有している疾患とその重症度によっては,応急的な歯科治療を除いて治療を取り止めなければならないのである。この意味においても,歯科医師には,高齢化を主因とする疾病構造の変化等に適切に対応し,安全で快適な治療を施すことが期待されている。

 5.先般,埼玉県で歯科治療が原因で女児が死亡した事例は記憶に新しいところである。このように,一般歯科において麻酔や薬剤によるアナフィラキシーショックによる患者の急変を経験することは少なくない。しかも,近時,歯科口腔外科では,高度で大規模かつ多様な外科的治療が行われ,頻繁に全身麻酔が使われており,この結果緊急事態に遭遇する確率はより高くなっている。このように,歯科においても,医科と同様に,緊急事態を予防するための知識・技術(すなわち,全身管理の知識・技術),さらには緊急事態が起きてしまった場合の対処法(すなわち,救急対応の知識・技術)を身に付けることなしに治療に当たることはできなくなっており(第10回公判の小林一三の尋問調書),安全で快適な歯科治療を提供するという国民のニーズに応えるため,歯科医師にとってもこれら全身管理並びに救急対応の知識と技術を身に付けることが急務となっている。そして,そこで必要とされる知識と技術は,救急患者に対するプライマリーケアすなわち初期診察・治療であり,救急専門医以外の医師に必要とされる範囲と全く同じである。

 6.さらに,このような考え方が,既に社会に認知されていることは,第1に,厚生省健康政策局歯科衛生課編歯科医師臨床研修に関する関係資料に掲載されている卒直後の歯科医師を対象とした「医療関係者審議会歯科医師臨床研修部会意見書(平成8年10月14日。証人戸塚靖則の尋問調書添付)」において,「国民から望まれる歯科医師像を実現するという観点から」臨床研修の一般目標として「自ら行った処置の予後についての予測ができること」,「歯科診療上の偶発的な事態に適切に対処できること」が掲げられ,これを受けて習熟すべき具体的目標として,「全身の視診・触診・聴診・打診」,「ショックの救急処置」が,さらに習得が望まれる目標として「全身麻酔法」,「入院患者の管理」,「患者の継続管理」が挙げられていること,第2に,平成6年度の歯科口腔外科学会カリキュラム委員会報告(証人戸塚靖則の尋問調書添付)において,歯学部出身者が口腔外科専門医になるための卒後研修カリキュラムとして,患者の全身的評価及び手術,麻酔におけるリスク評価の能力を得るため,手術及び麻酔を通して,(1)心及び循環器系,呼吸器系,肝,腎,内分泌系の生理学,病理学を主体とした種々の器官についての総合的知識の取得,(2)心電図,全身の画像診断,臨床検査における診断能力,(3)問診,全身の診査技術に関する経験の蓄積を含めた患者の評価,(4)臨床薬理一般,(5)外科,耳鼻咽喉科,形成外科,麻酔科,ICU,救急部,放射線科等関連する診療科の基礎的手技に関する研修,(6)救急処置及び緊急手術に関しトレーニングを重点的に受けることが望ましいとされていること等からも明らかである。

 7.そのため,歯科医師の医科における救急研修は,日本全国の医療機関において永年に亘り営々と続けられてきた。

 平成14年6月6日付朝日新聞朝刊によれば,平成14年に日本口腔外科学会が全国214病院の歯科口腔外科を対象にアンケートを実施したところ,回答のあった186病院の,実に95パーセントを越える177病院が救急研修は必要であると回答し,さらに,その40パーセントを越える病院が実際に医科に救急研修を依頼していると回答していることからも明らかである。今回の起訴を受けても,なお,60病院はこれまでのやり方を変えることなく,研修を続けると回答している。

 このことは,いかに歯科医師の救急研修が必要であるかということを示している。


 第2 本件歯科医師レジデントの問題意識

 1.本件公判において,証人として証言した北大歯学部の小林一三歯科医師は,「一番多く経験するのは,手術後,病棟に入院している時期の患者さんの,ということになるんですけれども,口腔外科ですから,口腔内からの突然の大量出血ですとか,あるいは炎症を起こしていると,口腔内がはれ上がって気道が閉塞してしまうというようなことがありますし,それから,薬剤の副作用なんかで呼吸が止まってしまうとか,そんなこともあります。それから,いろんな原因のショックですとか,いろんな原因で意識障害を起こしているとか,あるいは,胃潰瘍とか十二指腸潰瘍を持っている人なんかで,治療のストレスでそれが悪化して穿孔してしまった」等の事例を経験していると証言している(第10回公判の小林一三の尋問調書19項)。

 2.同じく市立病院歯科口腔外科の部長である藤原部長も,「慢性腎不全で,透析を受けている患者さんで,歯が原因で,もう,頬から顎から首の方まで腫れている患者さんを緊急入院させたわけです。翌日の朝3時ごろか3時半ころに急に心肺停止という体験をしました」と証言している(第7回公判の藤原敏勝の尋問調書8頁)。

 3.上記小林歯科医師,藤原部長を含め,本件事件の証人として証言した戸塚教授ほか歯科医師全員が,歯科医療に際し何らかの救急事態に遭遇し,対処を迫られた経験を有しているというのであり,他の歯科医師も同様の状況に置かれているであろうことは容易に推測されるところである。

 4.同様に,センターにおいて研修を受けた本件各歯科医師レジデントも,口腔外科の臨床現場で同様の緊急事態を体験している。・・・・歯科医師レジデントは,北大歯学部を卒業後1〜2年の間に,痛み止めの局所麻酔を打つ前後に患者の意識が遠のいた,患者の血液型を調べるためメスで耳に切開を加え血液を採取していた際,患者が意識を失って椅子から転落し頭を床に強打し口から泡を吹いて全身が痙攣し始めた,あるいは当直の際に,口腔癌が転移した患者の脳や顔面に血液を送る総頚動脈が破れ天井まで血が噴き出し,その際患者は血を吹き出しながら「俺はいったいどうなるんだ」と泣き叫んでいた,等の緊急事態を体験し,これらの経験が本件研修を受ける動機となったと証言している(第9回公判の・・・・の尋問調書4〜6頁)。・・・・歯科医師レジデントも,「不整脈を起こした患者や,てんかん発作を起こした患者,口腔内から大出血があった患者」を経験したと証言している(第9回公判の・・・・の尋問調書18頁)。・・・・歯科医師レジデントも,北大歯学部附属病院で口腔外科医として勤務していた際に,患者がてんかん発作を起こし全身的な痙攣のため治療に苦労したことや,手術後に突然の大出血を起こして緊急対応を迫られたこと,舌癌が肺に転移した患者の呼吸管理に苦労したこと等を経験し,これらの経験が本件研修を受ける動機となったと証言している(第8回公判の・・・・の尋問調書12頁)。

 5.すなわち,本件各歯科医師は,それぞれの経験に基づき,全身管理並びに救急対応の知識と技術を身に付けることが歯科治療にとって必要不可欠であるとの認識をもってセンターにおける参加型研修を希望したのである。


 第3 研修が実際に医行為を行う参加型でなければならないこと

 1.歯科医師は,本件研修を受けることによって,医科領域の患者に対する治療を学ぼうとしているのでも,医師になろうとしているのでもない。専門領域である歯科医療現場において必要とされ,歯科医師が身に付けなければならない知識と技術を修得して,歯科領域の患者に対し適切な歯科医療を提供しようとしているのである。従って,研修終了後,歯科医療現場において実際に役立つ知識や技術を身に付けるのでなければ研修を受ける意味はない。

 2.医療現場において役立つ知識や技術は,単に専門書を読んだり,医療現場を見学しただけでは決して身に付かない。医学生や医師の研修が実際に医行為を行わせる参加型とされているように,歯科医師の救急研修もまた参加型でなければならないのである。


 第4 全身管理と救急処置に必要な知識と技術の修得のための研修は歯科では難しく,医科で行う以外に方法がないこと

 1.医学生並びに医師は,前述のような必要性から,全身管理並びに救急処置のための知識・技術を身に付けるため麻酔科あるいは救急部において研修を受けている。

 2.一般に麻酔は,治療に伴うストレスに対する患者の反応を予測し,患者の痛みあるいは不安・恐怖感を取り除き,苦痛を感じさせることなく安全に治療を行えるように全身管理をすることを目的としている。麻酔で使用する麻酔薬等の薬剤はそれ自体が毒物である。さらに,麻酔そのものが薬を使うことによって神経活動を抑制するものであることから,結果として血圧や脈拍が低下し,血流量が少なくなり,臓器の働きが落ちる等,人体の機能を低下させる。このような状態でさらに手術を行うため,患者の体には相当の負担がかかる。これら機能の低下が正常な範囲から逸脱すると,麻酔・手術事故を引き起こすことになる。そこで,麻酔に際しては,そのような事態とならないために,患者の全身状態を正確に評価したうえで,適切な麻酔方法や麻酔薬を選択し,手術中の呼吸・循環・代謝系の異常に適確に対処していくことが不可欠となる。さらに,麻酔を安全に行うために必要な基本的な技術として,呼吸管理技術(気管挿管等の気道確保の方法,人工呼吸法),心臓・血管等の循環系の働きを正常に維持する技術(循環系や自律神経系に作用する薬剤の使い方,麻酔の深さの調整法等),代謝系管理技術等がある。このようなことが日々繰り返されている麻酔科で研修することによって,全身管理の知識と技術が修得できるのである(第10回公判小林一三の尋問調書9〜13頁)。

 3.他方,救急部においては,日々搬入されてくる救急患者の生命の危険と戦いながら,できるだけ早く治療へと進めることを目的として全身管理,救急処置が行われている。前述の麻酔を安全に行うために必要な基本的な技術は,いずれも救急蘇生の基本的技術でもある。しかし,麻酔科では,既に診断がついていて安定した状態にある患者に対し,事前に全身状態を正確に評価し,適切な麻酔方法や対処法を選択したうえでこれら技術を駆使するのに対して,救急部では,一方で患者の生命を維持しながら,他方で短時間のうちにどこにどのような障害が生じているのか,その重症度・緊急度を判断して治療方針を決定することが要求される。すなわち,麻酔科では,危険を回避するための安全管理の知識・技術を学ぶことができるのに対し,救急部では,既に起きてしまった危機的状態に対応する緊急対応の知識・技術を学ぶことができる。このように,麻酔科研修と救急部の研修とでは,実際の医療の場において想定されている場面が異なっており,その意味において研修によって獲得し得る内容が異なる(第10回公判小林一三の尋問調書13〜16頁)。

 4.歯科医療にとって必要とされる全身管理並びに救急対応の知識と技術知識が,救急患者に対するプライマリーケアすなわち初期診察・治療であり,救急専門医以外の医師に必要とされる範囲と全く同じであること,これら知識・技術の修得は医科の麻酔科や救急部において研修することによって可能であり,現に医師らはこれらの研修を行っていることは前述のとおりである。

 5.ところで,これらの知識・技術を,歯科麻酔科や歯科口腔外科等歯科の医療現場において十分研修し修得することは事実上不可能である。麻酔に関しては歯科では研修に必要な全身麻酔の症例が絶対的に不足しているし,救急事態に至っては歯科ではその数は極めて少ない。必然的に,歯科医師も,医科の麻酔科及び救急部において研修する以外に全身管理並びに救急対応の知識・技術を身に付ける方法がないこととなる。

 6.現に,平成14年に日本口腔外科学会が全国214病院の歯科口腔外科を対象に行ったアンケート結果(回答数186病院)によれば,回答数の95パーセントを越える177病院が救急研修は必要であると回答し,回答数の40パーセントを越える76病院が実際に医科に救急研修を依頼している(前述(第1の7)の平成14年6月6日付朝日新聞朝刊)。

 7.検察官の考え方は,このような時代背景と,国民の要請に基づいて行われた本件研修を,そのような時代背景も国民の要請もなかった昭和23年に制定された医師法17条の形式解釈を唯一の根拠として,これに反する違法な行為と決め付け,処罰しようというものである。


 第5 小括

 このような研修の意義と必要性に鑑みて,本件各行為を犯罪として処罰することは,断じて許されない。以下,その点につき,法的検討を加えることとする。


第2章 歯科医師レジデントの行為は医師法第17条の構成要件に該当しない


 1.検察官は,歯科医師レジデントの行った各行為の主体は,各歯科医師レジデント自身であると主張し,その判断基準として,東京高等裁判所平成元年2月23日判決を引用する。

 しかし,同判例は,「医療に関する法定の有資格者以外の診療補助者」という全くの無資格者に関する要件であって,本件に同判例の基準を適用することは誤りである。


 2.そもそも医師法第17条が「医師でなければ,医業をしてはならない」と規定した趣旨は,医師に医業を独占させることによって国民(患者)の保健衛生上の危害を未然に防止することにある。

 一般に歯科医師は,医師免許こそを有してはいないものの,後述するように,歯学部教育の中で高度な医学的知識と,経験を身につけている。とりわけ,本件歯科医師レジデントらは,いずれも,既に麻酔科での研修を修了しており多数の臨床経験を有している。

 さらに,本件で問題とされている各行為はいずれも,歯科口腔外科の現場における日常的手技であって行為自体の安全性は確保されており,しかも研修という限られた期間と場所において限定的に行われていた行為である。

 医業をすることを医師のみに限った医師法第17条の上記趣旨からすれば,本件について上記高裁判例の基準をそのまま当てはめるのではなく,歯科医師レジデントの医学的知識・技量の高度性に鑑み,実態にあった合理的な基準を定立すべきである。


 3.医業を医師のみに限ることによって,保健衛生上の安全性を確保しようとする医師法第17条の上記趣旨からすれば,定型的,類型的に危険性が排除され,安全性が担保されている場合で,背後で指揮をとっている指導医が実質的に見て「医療行為」の実行行為者であると認められる場合には,歯科医師は正犯者ではないと理解することができる。


 4.当該医行為が指導医の行為と言えるための要件は,歯科医師レジデントが指導医の思いどおりに動いており,指導医の指導監督の範囲を逸脱することができない環境下に置かれていること(事実レベルでのレジデントの道具性)及びレジデントの行為の責任は全て背後の指導医が負うべきであると言える管理体制がある(規範レベルでのレジデントに対する指導医の優位性)ことで十分である。

 すなわち,本件各行為が,1)指導医の監督の範囲内の行為であること(指導医の監督から逸脱できない行為であること),2)口腔外科の現場における基本的手技の範囲内の行為であること,3)指導医に直ちに連絡がとれ,指示を仰ぐことができる場所的範囲内であること,4)救急研修が正規の手続きを経て決定され,運用されていること,以上の各要件を満たせば,歯科医師レジデントらの各行為は,指導医の行為そのものと評価することができるから,歯科医師レジデントの各行為は,医師法第17条に該当しないというべきである。

 5.これを本件についてみれば,1)レジデントは,指導医の指導監督の範囲を逸脱した行為は許されない指導医絶対優位の環境下におかれており,現にレジデントは指導監督の範囲内の行為しか行っていなかった。2)レジデントの行為は,すべて歯科口腔外科における手技に限定されていた。3)レジデントの研修は,ほとんどが指導医および複数の上級医の可視的範囲内にあるセンターフロアー内で行われていた。

 ドクターカー内で行われた行為については,センターから場所的に離れており,指導医の可視的範囲内で行われたものではないが,ドクターカー内で行われた手技は,気道確保,静脈ルート確保,投薬の各行為に限定されており,レジデントの判断・裁量の余地は全くない手技であった。

 さらに,ドクターカーに患者を乗車させてからセンターに到達するまでの時間は,22分ないし38分と短く,指導医はドクターカー内に設置してある心電図電送モニターによって患者の状態を把握でき,他方,PHSと無線によって,指導医とレジデントはいつでも連絡をとることが可能であった。

 以上の事実からすれば,レジデントの行為は指導医の指導監督下に完全に包摂されており,研修におけるレジデントの行為の責任は,指導医あるいは病院が負うという管理体制下で行われていたことが明白であるから,レジデントの行為の主体は指導医そのものであったと評価しうる。

 よって,本件各行為はそもそも構成要件に該当しない。


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