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こだまの世界

2000年11月中旬号

Those were the days of our lives
The bad things in life were so few
Those days are all gone now but one thing is true -
When I look and I find I still love you.

Queen, `These Are The Days Of Our Lives'


11/Nov/2000 (Saturday/samedi/Sonnabend)

訳詩集

自分でどの詩を訳したのか思い出せないことがままあるので、 これまでに訳した歌詞をまとめておいた。 たぶん全部あると思うが、抜け落ちているものもあるかもしれない。 未公開のものもあり。

いろいろ誤訳、解釈の違いがあると思うので、指摘してくれるとうれしい。

法哲学の勉強

ドゥオーキンとハートの論争、ケルゼンの純粋法学のところ。

ドゥオーキンは 「法的強制を正当化するためには法体系はどのようにあるべきか」 という姿勢で法を捉えるのに対し、 ハートは「世界中の法体系について当てはまる記述はどのようなものか」 という態度で法に臨んでいる。 つまり、一方は評価的で他方は記述的だということ。 そこで二人は基本的にすれちがっていると述べられるが、 ここらへんはそう簡単には言い切れないと考える学者もいるようだ。

ケルゼンの法思想は、単純には、 (1)法は市民ではなく役人に向けられた命令である、 (2)ある法の妥当性は高次の法によって保証される、 (3)最高次の法(grundnorm)の妥当性は どの程度市民と役人によって受けいれられているかで決まる、 というもの。 (1)は微妙にオースティンと違う。 (2)と(3)はハートの理論に似ているが、 ハートはケルゼンとの違いを『法の概念』の注で述べている。 が、ここは要勉強 :-)

ドゥオーキンの理論はけっきょく、「(a)法的強制を正当化するためには、 (1)裁判においてかならず正答がなくてはならず、 しかも(2)その答は社会の福利ではなく個人の権利を考慮したものでなければならない」 という形に煎じつめられると思うが(あれ、integrityという要素が抜けてしまった)、 なぜ(a)のために(2)が要求されるのかをよく考えてみる必要がある。 この点を勉強してレポートを書くべきか。

今日はお昼を抜いて勉強したが、ぜんぜんはかどらない。 もっと集中して勉強しないと。


12/Nov/2000 (Sunday/dimanche/Sonntag)

日記の整理

Sense and Sensibility

ジェイン・オースティンの『分別と感受性』を一ヶ月半ほどかけて読了。 分別ないし理性を備えた姉のエリナーと、 感受性あるいは情熱を代弁する妹のマリアンヌは、 二人とも大波乱の恋愛を経験するが、最後には円満な結婚を迎える、 というお話。

19世紀初頭の英国文化や英語を知るのに適しているし、 まあ最後まで読んでみようかと思うぐらいにはおもしろかったが、 どこらへんが世界的な名著なのか理解できず。 人情の機微などに感心を持つようになるともっと共感して読めるように なるのだろうか。C+。

マクドナルドの破門

忙しくてしばらく新聞を読んでいなかったのだが、 金曜日の新聞を読むとマクドナルド(ハンバーガー) がカソリックの学者や司教からひどく批判されているようだ。 なんでもマクドナルドが体現するファストフードの概念は、 食べものの神聖さを忘れており、 また共同体の精神を奪いさるので、 無神論者の食べものか、 よくって個人主義のルター派の食べものなんだそうな。

アメリカの象徴、グローバライゼイションの象徴、 資本主義の象徴として、 ことあるごとに矢面に立たされて攻撃される マクドナルドにはちょっと同情するなあ。

米国大統領選挙の(いいかげんな)法哲学的考察

問題は、今のところ全国の得票数だとゴアが勝ち、 選挙人団の数だとブッシュが勝つということだ。 『オブザーバ』の社説では、 民主主義の精神からして現在のシステムは不公平だから、 得票数で上回るゴアを大統領に選ぶべきだと述べられている。

しかし一方では、 双方ともルールを承知の上で選挙を始めたんだから、 ルール通りにブッシュを大統領に選ぶべきだという意見もある。 (もちろん再集計の結果、ルールからしてもゴアが勝つ可能性もあるが)

この二つの意見は、前者が、概して自然法思想的、 あるいはドゥオーキンの法的原理によるルール解釈的、 悪く言えば遡及法的思考であり、 後者が、法実証主義的、 悪く言えば「ルールはルールだ」的思考のように思う。

ドゥオーキン教授ならどう判断するかぜひ聞いてみたいところだが、 今回の場合は、ルール通りブッシュを勝たせても、 ルールを変更してゴアを勝たせても一騒動起きるのは必至なので、 投票の不正工作の噂もあることだし、 再投票するのが大岡裁きではないか。 決選投票にしてラルフ・ネーダーを除外すればゴアが勝つだろう。 (まあ、それでも騒動は起きるだろうが)

気になるのは、仮にゴアとブッシュの立場が逆で、 ブッシュが総得票数で上回り、ゴアが選挙人団の数で上回っていた場合でも、 やはり『オブザーバ』(や『ガーディアン』) の社説は民主主義の精神にのっとりブッシュを大統領に選ぶべきだ と主張したかどうかである。 英国ではブッシュは狂牛病のように毛嫌いされているから、 たぶんそうは主張しなかったんじゃないかと思う。


13/Nov/2000 (Monday/lundi/Montag)

100Vと220V

昨日、 たまにはバックアップを取ろうかと思ってCD-Rのアダプタを ソケットに差しこんだところ、 うっかり変圧器をかますのを忘れてしまい (タコ足配線にしていたので気づかなかった)、 コンピュータが凍るので変だなあと5分ぐらい首をかしげていたら、 コンセントのあたりからいやな臭いがするので、 ようやく自分の誤ちに気づいた。 しかし、ときすでに遅く、高熱に苦しみ悪臭を放つアダプタはすでに死んでいた。 火事にならないだけよかった。 [現場写真: 焼死したアダプタ]

しかたないので今朝、トテナムコート通りの電気街に行き、 代わりのアダプタを探す。 何軒かまわったあと、 ようやく代用できそうなアダプタが見つかる。 FujiFilmの5V1.5Aのアダプタ。元のやつは1.7Aだったが、 その場で試したところ問題なく使えることがわかった。 値段は約30ポンド。 一瞬で5000円札を焼いてしまったのかと思うと涙が出そうになった。 しかも今度のは220Vのイギリスのコンセント用なので、 日本に帰ったらまた買わないといけない。

ただ、寮に戻って気付いたのだが、このアダプタはおれの使っている デジカメにも使えることがわかった (というか、もともとデジカメ用のアダプタだった)。 不幸中の幸いと言うべきか。 以下は試しに部屋で撮ってみた写真。 電池を使っているときはあまりこういう無駄な遊びをする気になれない。 [写真: コンピュータの中のコンピュータ、習作]

政治哲学入門

暗黙の同意論のつづき。ヒュームが、 暗黙の同意論に反対して提出した議論、すなわち 「市民が国家にしたがうことに暗黙に同意したというのは、 ある人が眠りから覚めたら船に乗っていて、 しかもすでに大洋に出ている状態で、 船長に『いやしくも船に乗ってるんだから、 船の上での義務を果たすことに暗黙に同意したとみなされて当然だ。 文句があるんだったら海に飛びこむんだな』というのと」 という反論がどのていど有効かという話。

すこし形を変えて、 「わたしがヨットに乗っていると、 沈没した船の乗客の一人がわたしの船に乗ってきた。 わたしは彼をこころよく迎えいれたが、 彼からの明白な同意がなくても船の手伝いをすることに暗に同意したと考える」 だとどうだろうか、もしこの場合に暗黙の同意論が成り立つとしたら、 国家に対する義務はヒュームの例とこの例のいずれと類比的かという話になった。

が、こういう場合、 もしその乗客が船上の仕事をしなかったら、なんて非難するだろうか。 「おまえ、手伝うって暗に同意しただろっ」って怒るだろうか。 いや、たぶん「船に乗ってるくせに協力しないなんて、フェアじゃない」 って非難するんじゃないだろうか。 いや、「ここっ、この恩知らずめっ」だろうか。 とにかくこの場合、「暗に同意しただろう」という非難だと、 「そんな同意してないよーだ」と水かけ論になるのは目に見えているので、 とても役立ちそうにないと思うのだが。

というわけで(というわけでもないが)来週は、 親に対する義務の議論と、感謝の議論およびフェアネスの議論。 (同じような話を以前にも書いたが、 それはたぶん現代政治理論の授業の内容だと思う。 同じシモンズの本を使っているので二度同じようなことを聞いている)

以前にも書いたが、この授業の講師は「反省的均衡」(自称)の方法論を用いており、 一時間の授業中`Let me give you an example.'を10回ぐらい繰り返して、 例をふんだんに挙げる。 具体例を挙げること自体はおもしろくていいのだが、 ゆるいアナロジーで話を進めるので、 学生の中には「それはぜんぜん違うんじゃないの」 と考える不満分子も少なからずいるようだ。

[追記: 暗黙の同意論のところでおもしろい例が挙げられていたので 忘れないように書いておこう。 成人間の性行為は同意がなければ暴行とみなされるが、 かといって合法的性行為がすべて明白な同意のうえでなされるわけではない。 たとえば、二人で書類にサインしたあとになされたり、 「さあっ、これから性行為しましょうっ」「ええ、そうしましょっ」 と口で同意してからなされるわけでは(必ずしも)ない。 したがって、こういった場合は明らかに暗黙の同意が 有効なものとみなされている。 とすると、有効な暗黙の同意もあれば無効な暗黙の同意もあるということになり、 両者を区別する基準が問題になる]

法哲学の自習

今日はジョン・フィニスの自然法思想の勉強。 フィニスによれば、 われわれが「開花した人生」を送るためには、 次の七つの「善きもの」が必要である。 知識の追求(好奇心)、健康、遊び、美的経験、 友情、実践的理性、宗教。 開花した人生を送るためにこれらが必要であることは自明(当然)であり、 疑問を持ってはいけない。 ほかの善きものはすべてこの七つのいずれかの組み合わせである。 (あれ、「恋愛」は友情に含まれるのかな?)

こうした善を促進するために、九つの「実践理性の要求」が提示されるが、 これが自然法であり道徳原則である。この要求には、 「合理的な人生計画を持つべし」とか、「恣意的に他人を差別してはいけない」 などが含まれる。

というわけで、フィニスに質問すると次のような答が返ってくるようだ。

「どうして知識の追求や遊びが人間にとって善いものだって言えるんですか」

「あたりまえなことを訊くのはやめなさい」

「ではなぜ善いものは七つあるんですか。宗教的な数と関係あるんですか」

「宗教は関係ない。あくまで理性だ」

「では、どうして実践理性の要求にしたがって行為しないといけないんですか」

「善を促進するために合理的だからだ」

「どうして善を促進しないといけないんですか」

「うっ」

というかどうかはわからないが、 この質問に対してはデウスエクスマキナな答を用意しているようだ (神様が登場して問題解決する)。


14/Nov/2000 (Tuesday/mardi/Dienstag)

法哲学の授業: 方法論的考察

judicial discretionをめぐる、ラズとドゥオーキンの対立の方法論的考察。

まず、そもそも方法論methodologyとは何なのか。 われらが広辞苑によると、「学問研究の方法に関する論理的反省」とある。 プラトンのディアレクティケーや、フッサールの現象学が方法論の例にあたるそうだ。 (しかしなぜ方法ではなく方法「論」というのか) デカルトの方法論的懐疑も合わせて考えると、

  1. ある問題に取り組むさいに用いられる方法、手段または基準を吟味する学問 という意味と、
  2. ある問題に取り組むさいに用いられる特定の方法、手段または基準という意味
があるように思われる。 つまり、(1)は方法を研究する学問という意味で、 (2)は研究対象になる方法そのもの、という意味だ。

たとえば、「ラズとドゥオーキンの対立の方法論的考察」 は(1)の意味で、 「デカルトは方法論的懐疑を用いて自我の明証性を示した」 とか、「プラトンはディアレクティケー(対話術)の方法論を用いて イデアに到達せんとした」 とか言うときは(2)の意味にあたるんじゃないかと思う。 しかし、(2)の意味の場合は方法論とは言わずに、 方法とか手段とかいう言葉を使った方がわかりやすいだろう。 (「関係性」における「性」と同様、「論」が付いていた方が偉そうだが、 少なくともそういう理由しかないのであれば付けるべきではない)

話がそれたが、今日の方法論的考察とは、 ラズやドゥオーキンがどういう方法を用いて議論を組み立てているかという話。

たとえば、ドゥオーキンが、 「法実証主義者の裁判過程の理論は、 裁判官たちが考えていることとは異なる(がゆえに正しくない)」 と主張するとき、ドゥオーキンは法理論の妥当性を決める一つの方法として 「裁判官が実際にどう考えているか」という基準を用いている。 そこで、方法論的観点からは、 「しかし、 裁判官の考えていることが法理論の妥当性を決めるさいにどれほど重要なのか」 という問いがなされる。

その他にも、「ハートとドゥオーキンの理論のいずれが正しいかを決める ための基準は何か(あるいは何であるべきか)」という問いや、 「困難な事例には必ず正しい答が一つだけあるというドゥオーキンの主張の正しさは、 どのようにして確かめられるのか」 という問いなども方法論的な問いであるようだ。

だんだん「方法論」の指示対象が曖昧になってきた気がするが、 ま、とりあえず、 「どういう方法(基準)を用いてるんですか」とか 「どういう方法を用いて決めるべきでしょうか」 とかいう問いが方法論的な問いであるようだ。

そう考えると、「おまえの父ちゃんが死ねいうたら死ぬんか」 というのも、 「父ちゃんが言ったことにはかならず従う」 という基準の妥当性に目を向けた方法論的な批判と言える。

[追記。Concise Oxford Dictionaryによると、
1. the science of method.
2. a body of methods used in a particular branch of activity.
とある。なるほど、一式の方法を「方法論」と呼ぶわけか。 じゃあふとん一式はfutonologyか? いや、屁理屈はやめておこう]

Global Warming

今日のガーディアンの第一面は、地球温暖化の記事。 オランダのハーグで近く地球温暖化会議があるようだ。 この記事に関する小さな風刺画が気が利いている。

会議に出席している米国代表らしき人物が、地球温暖化について一言:
「プラス面としましては、 フロリダが海に沈んでくれるかもしれないということです」


15/Nov/2000 (Wednesday/mercredi/Mittwoch)

ゲリラとゴリラ

この二つの単語は発音が同じであることに今日気がついた。 両方ともゴリラのように聞こえる。アクセントはまんなか。

ベンタムの授業

今日は講演の日。 阪大の某先生によるベンタムとミルのpublic finance論について。

このクラスはReading Week中にも授業があったと聞き、 激しく後悔する。せっかく予習したのに。

ご質問に対する回答

「倫理学者はみな品行方正な紳士(淑女)か」という質問について。

答: 本音を書くと学界から追放されるかもしれないので、 ここでは回答をさしひかえさせてもらいます。

「こだまはホームシックにならないのか」という質問について。

答: もちろんなります。こないだ調子が悪いので病院に行ったら 慢性のホームシックだと診断されました。

「こだまは発表のさいに緊張しないのか」という質問について。

答: もちろんします。 いつも発表中は失禁してないかどうかそればかり気にしています。

(人生相談歓迎します)

セミナー: 客観的帰結主義

なかなかおもしろかったが、書くのがめんどうなので省略。 それにしても「客観的」「主観的」 という名称はわかりにくいのでやめた方がいいと思う。

ジョージ・ハリソンの叫び

ぜんぜん知らなかったが、今日のガーディアンによると、 ジョージ・ハリソンは去年の12月30日に殺されかけたらしい。

なんでも、彼が夜中に自分の豪邸の二階で奥さんと寝ていると、 窓が壊れる音がしたそうだ。 不審に思ったハリソンが部屋から出て、 階段から一階を見下ろすと、 見知らぬ男がナイフを持って立っている。 少し会話をかわしたところ、どうも頭がいかれているらしい。

以前にも同じような危険にあったことがあるハリソンは、 ちょっとちょっとやばいよこれはと思い、 侵入者を追い払うためにこう叫んだそうだ。

「ハーリ・クリシュナ! ハーリ・クリシュナ!」

あはははは。はは。と、これを読んで思わず笑ってしまったが、 実際の事態は深刻で、ハリソンは胸を5回刺され、 片方の肺がしぼむという大変な目にあったらしい。 ハリソンも奥さんも「もうダメだ」と思ったらしいが、 さいわい警察が来るのが早かったようで、 死なずに済んだ。

現在裁判中だが、 (ジョン・レノンの場合と似ていて)この犯罪者も 「ビートルズのメンバーを殺せという神の命令が下った」 という理由で犯罪を行なったようなので、 どうなるかわからないようである。

詳しくはガーディアンの記事を参照。

[追記: 裁判は無罪判決が出たらしい。 詳しくはBBCのニュースを参照]


17/Nov/2000 (Friday/vendredi/Freitag)

昨日の政治哲学の授業は休講。

現代政治理論

昨日の現代政治理論の授業は「エッセイ(レポート)の書き方特別講座」だった。 参考のために、 法政治思想のクラスにおいて望まれているエッセイの書き方とはどのようなものか、 簡単にまとめておこう。

(注記: もちろん大学や学部や先生によってエッセイに何を求めているかは異なるので、 「ここに書いてあることに従ってエッセイを書いたら単位を落とした。 卒業できなかったらどうしてくれる」 というようなメイルを送ってくるのはやめてください)

  1. 言葉遣い: 「簡潔明快に書けないなら、簡潔明快に理解してないということ」
  2. エッセイの目的: 「これとこれを読みました」ではなく、 「これとこれを読んだうえで、こういう論証をしました」
  3. エッセイの方法論: 法廷議論の比喩と実験室の比喩
  4. 自己評価の基準: 内容を一言で説明できるか
  5. 採点の基準: 単位を落とす方法、 落とさない方法

1. 言葉遣い: 「簡潔明快に書けないなら、簡潔明快に理解してないということ」

これは見出しを読めばわかるはず。 言いかえれば、 「頭ではわかってるんですけど、うまく書けないんです」 というのは認められないということ。

2. エッセイの目的: 「これとこれを読みました」ではなく、 「これとこれを読んだうえで、こういう論証をしました」

もちろん基本文献を押さえている必要はあるんだけど、 それを記述するだけでは不十分。 基本文献を理解したうえで、 自分で作った(あるいは先生が用意した)問いに答えを与え、 その答えを支持する論拠を提示しないといけない。

3. エッセイの方法論: 法廷議論の比喩と実験室の比喩

エッセイを書くときの心構えを説明するにあたって 上の二つの比喩を用いるということは、 他の分野で用いられている方法論を(大枠において)適用することに他ならない。

法廷議論の比喩は、 エッセイの書き手は、 陪審員たちに自分の主張を納得させようとしている 弁護人のようなものだ、ということ。 このとき、陪審員たちは次のような特徴を持っていると考えるとよい。

実験室の比喩は、 エッセイの書き手は実験室で自分の仮説を検証している科学者のようなものだ、 ということ。この比喩はどのていど有効なのかわからないが、 要するに自分の主張に対して客観的に臨め、ということが言いたかったらしい。

自分や他人の主張を吟味するさいにどういうテストを用いるか (validity, soundness, plausibility, coherence, consistency, relevance, etc.)、ということも考える必要がある。この点は要検討。

また、実験中はメモを取るだけで、エッセイを書くのは実験をすべて終えてから、 つまり「考えながら書いてはいけない」という教訓も引出せる気がするがどうか。

4. 自己評価の基準: 内容を一言で説明できるか

エッセイの内容を一文あるいは一段落で書き表わすことができるというのも 良いエッセイに必要な条件。 もちろん「一文」「一段落」の長さが問題になるが、 それはまあ良識にまかせることしよう。

内容というのは「何についてどういう論証をしたか」ということ。 「ベンタムの自然法批判について書きました」では、 論証の部分がないので不合格。

5. 採点の基準: 単位を落とす方法、 落とさない方法

先生たちがエッセイを採点するときの基準を教えてもらった。 あまり具体的に書くとまずいのでなるべく一般的に書く。 (まあもともとあまり具体的なガイドラインではないが)

不合格(F)のエッセイが満たしている基準

合格(C)が満たしている基準

合格(B)が満たしている基準

優等(A)が満たしている基準

exceptionalとかoutstandingというのはなんだかおもしろいな。

もうそろそろエッセイのテーマを決めて書きはじめないといけないので、 上の条件を頭に入れて取り組むことにしよう。


18/Nov/2000 (Saturday/samedi/Sonnabend)

ビートルズ

[The Beatles at Virgin Megastore]

昨夜、ビートルズの新譜(とは言わないかもしれないが)を買うために オクスフォードストリートにあるヴァージンメガストアに行ったら、 ビートルズがライブをしていたのでびっくりした。

いや、もちろんニセモノですが。 (オーケストラも含めて)全体の演奏は今いちだったが、 ポール役がそっくりで、歌もうまかったので楽しめた。

[05/Dec/2000 追記: そういえば、一緒にライブを見ていた中国人の友人が、 あとで「どうしてビートルズがUSSRについて歌ってるんだ?」と訊いてきたので、 笑ってしまった]


19/Nov/2000 (Sunday/dimanche/Sonntag)

けだるい日曜日。つい半日寝てしまう。雨。

古本屋で買った本

某氏のために本を探しているのだが、なかなか見つからない。 どうもオンラインで探した方が早そうだ。

国立映画劇場

今夜は勉強する予定だったが、 某友人から映画を見に行こうという誘いが来たので、 「神さま、明日からまた真剣に勉強します」 と誓いを立ててから、一緒に見に行ってきた。

場所はウォータールー駅のそばの国立映画劇場。 世界中の名画(といっても大方は西洋の映画だが)を上映しているところ。 そこで『エロティコン』という1929年に撮影されたスウェーデン映画を観る。 もちろんサイレント映画。 場内に入るとピアノが置いてあるので何かと思ったら、 おどろいたことに生のピアノ伴奏つきだった。 そうか、昔の人々はこうやって映画を見ていたのか、と納得する。

名前はいやらしそうな映画だが:-)、 内容はラブコメでもちろん裸は出てこない。 少しだけ笑わせてもらった。C。

[St. Paul Cathedral]

上の写真は、映画が始まるまで時間があったので、 テムズ川のほとりを散歩したときに撮ったもの。 ちっちゃくてなんだかよくわからないが。


20/Nov/2000 (Monday/lundi/Montag)

政治哲学入門講義

今日はフェアネスの話。

フェアネスによる政治的義務の正当化は、 次のように行なわれる。 「『どうして法に従わないといけないんですか』ですって? ちょっとあなた、国民年金を見てごらんなさい。 国民健康保健を見てごらんなさい。 教育システムを見てごらんなさい。 警察機構を見てごらんなさい。 みんなわたしたちがきちんと税金を払っているから機能しているんです。 このように世の中はみんなの協力によってなりたってるんだから、 あなただけ協力しないで恩恵だけ受けとるというのは不公平でしょう? そうです。そうに決まってます。きい」


何か一言

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KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Fri Jul 28 07:37:42 2000