(1999年11月13日、関西倫理学会の発表で読み上げた原稿です。 そのうち論文の形に仕上げるつもりです)
京都大学 児玉聡
Under a government of laws, what is the motto of a good citizen? To obey punctually; to censure freely. --A Fragment on Government
一般に功利主義の創始者として知られるジェレミー・ベンタム(1748-1832)は、 他方で、法実証主義者、すなわち自然権論の強力な批判者としても知られてい ます。彼は、処女作である『統治論断片』A Fragment of Government (1776年出版)からフランス革命期の『無政府主義的誤謬』 Anarchical Fallacies (1795年頃執筆)を経て、晩年の『悪政防 御論』Securities against Misrule (1822-3年頃執筆)に至るま で、規範理論としての自然権論を一貫して批判しつづけ、そしてそれに対抗す る規範理論として、「道徳と立法の原理」である功利原理を中心におく功利主 義を唱えました。ベンタムにおける法実証主義と功利主義との関係について考 察する前段階として、本発表では、功利主義者としてのベンタムの側面ではな く、法実証主義者としてのベンタム、換言するとベンタムの自然権論批判に焦 点を合わせ、彼の自然権論批判がもっとも凝縮した形で示されている『無政府 主義的誤謬』という著作を中心に、彼の議論を検討したいと思います。[法実 証主義と功利主義の関係については簡単に示唆するにとどめる]
はじめに本発表で使う重要な用語を説明し、ベンタムの思想と彼以前の思想と の違いを指摘します。次に『無政府主義的誤謬』というテキストに関する簡単 な紹介をしたあと、彼の自然権論批判の内容を検討します。
先に、ベンタムが自然権論を批判したと述べましたが、ここで言う自 然権論とは、《人はみな、政府の作る法によっては破棄されえない 自然権を持ち、政府の目的は、人民の持つ自然権を保障することである》とい う規範的理論を指します。通常、この自然権には、自然権を生みだすとされる 自然法、および政府による統治を正当化する社会契約という考え方が伴われま すが、このような概念装置によって政府を正当化し立法の指針を与えようとす る試みを否定するのが法実証主義の立場です。また、政府 の作る法や権利の存在しか認めないので、実定法一元論という風に呼ばれるこ ともあります。一方、功利主義も自然権論と同様に規範的 理論ですが、こちらは立法や道徳の指針として自然権や自然法ではなく功利原 理を用います。功利原理とは、共同体全体の幸福の増減を 正不正の唯一の基準とする考え方です。
功利主義的な思考はベンタム以前の思想家にも見られましたが、たとえばプリー ストリやベッカリーアなどの思想家には、自然権思想と功利主義思想が共存し ていました。ベンタムが新しかったのは、単に、規範的理論としての功利主義 を採用したという点にあるのではなく、規範的理論としての自然権論には大き な欠点があると批判したうえで、功利主義一本でうまくいく、と考えた点にあ ると思われます。以下で詳しく説明しますが、ベンタムの考えた自然権論の大 きな欠点とは次のように二点にまとめることができます。一つ目は、自然権は それを同定する有効な基準がないので、道徳的な議論に合理性が失われること です。もう一点は、自然権に照らして政府や法の正しさを評価するとき、自然 権論は法の言葉を用いて評価を行なうため法の正しさと法の効力との関係が曖 昧になり、その結果「自然権を侵害する政府や法は不正であるばかりか、法と して無効である。そのような政府や法には従わない権利がある。いな、抵抗す べき義務がある」という誤った考え方を生み出す原因になっている、というこ とです。それに対してベンタムの功利主義では、自然権論の持つこれらの欠点 が意識的に取り除かれています。自然権論の第一の欠点に対しては、功利原理 を用いて法の正不正を評価する際には、法が社会の成員の幸福に対して持つ帰 結という事実問題に訴えることで合理的な議論が可能であるとされます。第二 の欠点に対しては、功利原理によって法を評価する際には、権利などの法的な 言語を用いないことにより、法の正しさと法の効力の区別が明確にすることが でき、それによってベンタムが『統治論断片』の序文において善き市民のモッ トーとして述べている「法にきちんと従い、自由に批判せよ」ということが可 能になるとされます。
『無政府主義的誤謬』という文書は、フランス人権宣言に示されている自然権 論を批判したもので、バークの『フランス革命の省察』とともに、フランス革 命の背景にある思想をいち早く批判した書として知られています。もっとも、 このテキストは1795年ごろに書かれながらも、フランス語に翻訳されて出版さ れたのが1816年、英語ではさらに遅く、ベンタムの死後6年経った1838年、全 集に収録されたものがようやく出たので、バークの著作のような評判を得たわ けではありませんでした。副題に「フランス革命の間に発せられた諸々の権利 宣言の検討」とあるように、この著作では、1791年のフランス憲法の冒頭に置 かれた人と市民の権利宣言と、1795年の人と市民の権利と義務の宣言、および シェイェスの手になる権利宣言の草案の三つの権利宣言が批判の対象になって います。このうち、著作の大部分は1791年の人と市民の権利宣言の序文および 各条項の批判に当てられています。
[補足: まだ新ベンタム全集には収められていないが、Twiningによれば、ベン タムの草稿からの逸脱はそれほどないとされる。また、ベンタムの自然権論批 判は他の著作、『統治論断片』、Tax without burthen, PannomialFragments, Securities against Misruleなどにも含まれている。自然権論批判は一時的なものではなく、 ライフワーク的なもの]
ベンタムはフランス人権宣言のことを「無政府主義的」な「誤謬」と呼んで非 難しましたが、彼はその誤謬が人権宣言に含まれている自然権論であることを はっきりと述べています。ベンタムによると、「わたしが攻撃しているのは、 特定の国の臣民または市民ではない--特定の市民ではない--市民シェイェスで も他の市民でもない。そうではなく、すべての反-法的人権、そのような権利 の宣言すべてなのだ。わたしが攻撃しようとしているのは、特定の事例におい てそのような計画が実行されていることではなく、計画そのものなのだ」 (p. 522)。つまりベンタムは、フランス人権宣言を批判することを通して、そ の理論的枠組を与えている自然権論一般を批判しようとしているのです。
では、具体的には自然権論のどのような点が誤りなのでしょうか。第一に、ベ ンタムの考えでは、「人はかくかくしかじかする自然権を持つ」という主張は、 事実命題として考えた場合、意味を持ちません。というのは、「ある人がかく かくしかじかする法的権利を持つ」と言われた場合は、政府がその権利を保護 する措置を事実とっているかどうかを確かめることによって真偽を判断するこ とができますが、「自然権と称されるものの場合、そうした事実は存在しない-- また、そのような自然権が存在していないと仮定したときにも存在するであろ う事実しか存在していない」(III, p. 218)からです。そこで、進んで、ベン タムは、法的な権利に先立ち、政府による立法を拘束するとされる自然権は、 空想の産物でしかないと主張します。フランス人権宣言第二条にある「あらゆ る政治的団結の目的は、人の消滅することのない自然権を保全することである」 という主張に対して、ベンタムは次のようにはっきりと述べています。「自然 権などというものはない。政府の設立に先行する権利などというものはない。 法的権利と対立し、対比される自然権などというものはない」(p. 500)。
[補足: ベンタムの有名な文句nonsense upon stiltsもこの文脈で登場する。 Natural rights is simple nonsense: natural and imprescriptible rights, rhetorical nonsense, -- nonsense upon stilts.]
今述べたように、「人はかくかくしかじかする自然権を持つ」という主張は法 的権利の場合と同じように事実命題として考えるならば、無意味な命題になり ます。そして、このような性格を持つ自然権を根拠にした現行の法を批判した り立法の是非を論じたりすると、合理的な議論ができなくなるとベンタムは考 えました。というのは、H.L.A.ハートが「無基準性criterionlessness」とい う術語を造語することによってうまく説明しているように、われわれはそのよ うな自然権を同定する基準を持たないがゆえに、議論している二人の意見が食 い違う場合、いつまで経っても「〜する自然権はある」「〜する自然権はない」 という断定から先に進めないからです。「わたしはわたしには権利があると言 う。わたしはあなたには権利がないと言う。人々はその調子で議論し続け、お しまいには怒号と怒りで疲れ果ててしまう。そして、議論が終わったとき、以 前よりも相互理解と同意に近づいているかというと、ちっともそうではないの である」(viii, p. 557)。ベンタムは、自然権を持ち出すと議論が混乱し、結 局は声の大きい人、度胸のある人が勝つことになると指摘しています(ii, pp. 494-5)。自然権論者は通常、自然権を理性によって見い出される合理的な 評価基準だと主張しますが、ベンタムは実践において自然権を使用することは 合理的な議論を生み出さないという点を鋭く見抜いたと言えます。
自然権を同定する有効な基準がないというベンタムの考えに対して、ハートは、 ではなぜベンタムは功利原理をその基準に置かなかったのか、という重要な問 いを出しています。ハートによれば、ベンタムが自然権を功利原理によって基 礎づけるという折衷案をとらなかったのは、そのような戦略を取ると権利と義 務ないし責務の結びつきを破壊することになると考えたからです。すなわち、 功利原理は正不正を判断するための単なる評価基準、いわば物差しですので、 刑罰というサンクションを有する実定法や世論というサンクションを有する慣 習道徳(実定道徳)と違い、それ自体ではサンクションをもちません。ところが、 ベンタムによれば、法的義務にしろ慣習道徳による義務にしろ、義務のあるな しは、事実問題としてそれをするよう働きかけるなんらかのサンクションがあ るかどうかによって決まるので、権利の存在を確定するためにはそれに対応す る義務が存在するのかどうかを確定することが不可欠とされます。つまり、権 利が存在すると言えるためには、その権利の内容が刑罰や世論といったサンク ションの力で保護されていなくてはならないのです[→これはベンタムの恣意 的な定義か?]。しかし、もし功利原理のみから権利の有無が決定されてしまう と、サンクションの有無とは別の基準で権利の有無が決められることになって しまい、権利の意味が変質してしまうと考えられるのです。
(ハートからの引用。発表では省略)「ベンサムは非=法的な権利は矛盾にすぎ ないという見解をどこでも立証しようと試みていないのだから、「正邪の判定 の尺度は最大多数の幸福である」という、限定なしの功利主義の採用と調和す る何ものかとして非=法的な権利を捉える単純な功利主義的理論を受け入れる 準備があってもよさそうなはずなのに、なぜそうしなかったのか? ベンサムは 法的権利の説明の中で二つの主要なタイプを区別している。何らかの行為をす べきでない法的責務の不存在から生ずる、当の行為をする権利(ここでは自由 権と呼ばれる)と、権利保有者に影響を与える何らかの行為を行い、あるいは 避けるべき責務が他の者にあることから生ずる、積極的、あるいは消極的なサー ヴィスへの権利(ここではサーヴィスへの権利と呼ばれる)である。問題は、ベ ンサムが功利原理に基づき人がこれらの同じ二種類の非=法的な権利を持つと 言わなかったのはなぜか、ということである。如何なるときに人がそのような 権利を持つかというと、自由権ならば、一般的効用を最大化するものの計算に よると人が何らかの行為を差し控えるべき理由が何もない場合だし、サーヴィ スへの権利ならば、そのような計算によると権利保有者にそのようなサーヴィ スを与えるために他の者が何らかの行為を行い、あるいは差し控えるべき理由 があるときである。そのような見解に従うと、権利はベンサムが熱心に攻撃す る普遍的人権の定式化におけるように道徳的権利の理論の最も深いレヴェルで は現われることは確かにないだろうが、効用の最大化という基本的なゴールか ら導き出されはするだろう。だからそのような理論は権利に基礎をおくもので はない。しかしもし、ベンサムが非=法的な権利という観念の中に見い出した 混乱の主たる原因が、権利を法から分離すると権利は同定のしるしや基準を何 も持たずに宙に浮かんでしまう(単なる「口論の対象となる音」)、ということ にあるならば、なぜベンサムは自ら「正邪の基本的な公理にして尺度」と呼ん だものの中に適切な基準を見いださなかったのか?」68-9頁
ベンタムがなぜ功利原理をもって自然権の有無の基準にしなかったのか、とい う問いに対するハートの答えに含まれている「功利原理はサンクションを持た ない」という考えは、ベンタムの見解を正しく述べているように思われます。 さらに、ハートが上で提起している問いとその答えは、別の側面から見れば、 ベンタムの自然権論批判の核心を示しているようにも思われます。それはすな わち、「自然権論は、法を批判する基準にサンクションがあるという有害な誤 りを含んでいる」という批判です。この誤りは、ベンタムの考えでは、自然権 論者が法の言語によって道徳を語ることから生じています。ベンタムは『無政 府主義的誤謬』やその他のテキストの中で、自然権論者が「〜するのは正しい」 と言うべき場面において「〜する権利がある」と言い、「〜すべきでない ought not」と言うべき場面において「〜できないcannot」と言うことを繰り 返し批判しています。
自然権論者が「〜するのは正しい」と言うべき場面において「〜する権利があ る」と言う、ということに関して、ベンタムはたとえば次のように述べていま す。「人々が、全体の安全と矛盾しないかぎりにおいて、すべての点でお互い にできるだけ等しくあることは正しいright。この場合、rightは形容詞形であ り、望ましい、適切だ、ふさわしい、一般功利性に適っている、などと同義で ある。わたしはすべての点において自分が皆と等しいものとされる権利right がある。この場合、rightは名詞的な意味であり、他の語と結びついて次の文 と等しい文を作っている--わたしがすべての点において自分と等しいことを認 めない人がいたら、もしわたしがその気があれば、その人を殴り倒すことは正 しく、適切で、ふさわしい。そして、それでもまだだめであれば、頭を殴った りその他のことをするのも正しい。」(p. 523)
また、法において「〜できる」「〜できない」が使われるのは、ベンタムによ れば、たとえば「Such a magistrate cannot do so and so」ような場合で、 これは行政長官があることをする権限powerのないことを示します(p. 495)。 しかし、自然権論は道徳の言語である「〜べきである」「〜べきでない」を用 いるべき場面において法の言語である「〜できる」「〜できない」を使うこと によって、道徳的にあるべきでないことを、それがあたかもある物理的または 法的な力が働いているせいで実際に行なうことが不可能であるかのように主張 することになる、とベンタムは考えます。すなわち、「かくかくしかじかの法 は作るべきではない」と言うべき場面において「かくかくしかじかの法は自然 権を侵害するがゆえに作ることはできない」という言葉使いをすることは、ベ ンタムによれば、「道徳的な不可能性」と「法的な不可能性」と「物理的な不 可能性」を意識的無意識的に混同させることであり、道徳的にあるべきでない 事柄を、あたかも事実としてそうあることが不可能であるかのように語ること なのです。(pp. 494-5) [補足: この混同は特にフランス語において顕著]
このように、自然権論においては、法の言語が道徳の議論に持ち込まれること によって、法があるべきかどうか、という問題と、法が現に効力を有するのか という、いわゆる法の道徳性の問題と効力の問題が曖昧にされてしまいます [道徳的に可能なのか、法的に可能なのか、さらには物理的に可能なのかとい う問いの混同]。このような思考法が問題なのは、ベンタムの考えでは、とき にはベンタムが『統治論断片』において批判したブラックストーンのように 「現に効力のある法は、道徳的に正しい。ゆえに従うべきである」というあま りに保守主義的な態度を生み出し、またときにはフランス人権宣言に見られる ように、「道徳的に不正な法は、効力を持たない。ゆえに従うべきでない」と いう無政府主義的な態度を生み出すように思われたからです。加えて、法が正 しいかどうかということと法が現に効力を有するかどうかということを一緒く たにすると、法を批判することが法や政府の存在を否定することと同一視され、 法を批判する営みが妨げられることにつながります。それゆえ、「善き市民の モットーは、法にきちんと従い、自由に批判することである」と考えていたベ ンタムは、自然権論の考え方を強力に批判したのです。
法実証主義とは、通常、実定法一元論とか「あるべき法」と「現にある法」の 区別というような特徴づけがなされますが、以上で見てきたように、ベンタム における法実証主義の根底にあるのは、「権利」や「できる」などの法の言語 によって道徳の議論を表現することに対する批判であり、これによって政府や 法の道徳性を評価する合理的な議論が不可能になり、また、法を批判し改善し ていく試みも困難になります。ベンタムは自然権論に不可避的に伴うこれらの 困難を見抜き、こうした困難を逃れることができる規範的理論を求めて、功利 主義を構築することに向かうのです。すでに述べたように、ベンタムの功利主 義は次のような特徴を持つでしょう。自然権論の第一の欠点である政府や法の 道徳性を評価する合理的な議論が不可能であることに対しては、功利原理を用 いて法の正不正を評価する際には、法が社会の成員の幸福に対して持つ帰結と いう事実問題に訴えることで合理的な議論が可能となるように配慮されます。 第二の欠点である法を批判し改善していく試みが困難になること対しては、功 利原理によって法を評価する際には、権利などの法的な言語を用いないことに より、法の正しさと法の効力の区別が明確にすることができ、それによってベ ンタムが『統治論断片』の序文において善き市民のモットーとして述べている 「法にきちんと従い、自由に批判せよ」ということが可能になるよう配慮され ます。(以上)