ベンタムの自然権論批判

--法実証主義者としてのベンタム--

京都大学 児玉聡

(関西倫理学会の発表要旨--応募しただけでまだ通るかどうかはわかりません)

(追記: 通りました 09/20/99)


ジェレミー・ベンタム(1748-1832)は、 功利主義と法実証主義という二つの伝統的思想の創始者として知られている。 功利主義とは、ベンタムによれば、 功利原理--これは、立法や政策決定を含めたあらゆる行為を、 それが利害関係者全員の幸福を増大させるか減少させるかする傾向によって 評価する正・不正の基準である--を基礎におく倫理学説のことであり、 他方、法実証主義とは、ときに実定法一元論と呼ばれるように、 自然法の存在を否定し、 政府の目的は自然権を保護するためにあるという見方を否定する立場である。 実際、ベンタムは、 功利主義を展開するにあたり、 ブラックストンに代表される当時の自然法思想と、 アメリカ独立宣言やフランス人権宣言に見られる 自然権思想に対する辛辣な批判を行なった。

今日の日本の倫理学研究においては、 ベンタムの功利主義者としての側面だけが注目され、 法実証主義者としての側面の研究は法哲学者の手に委ねられ、 倫理学の研究テーマとしては顧みられない傾向があるように思われる。 だが、 それではベンタムの思想の一面的な理解しかできないのでは ないだろうか。 ベンタムの功利主義と法実証主義は不可分の関係にあり、 その思想は現代的な形態の「権利を基礎におく倫理学説」 に対する批判として、きわめて今日的な意味をもっている。

ベンタムの法実証主義の核心にあるのは、 自然法あるいは自然権は、 実定法や実定道徳の批判的基準としては不適格である、 という信念である。 彼の考えによれば、 自然法や自然権は--少なくとも法や法的権利と同じ意味では--存在せず、 それらは結局のところ、 当時の慣習道徳あるいはそれらについて語る当人の直観的な道徳を もっともらしく述べるために考案された装置にすぎない。 しかし、批判的基準とは、 まさにこれらの慣習道徳や直観的な道徳を 評価するものでなくてはならないのであるから、 自然法や自然権を用いて実定道徳を批判することは当然できない。 また、 そのような形ばかりの批判的基準を立法の基礎にすることは、 役に立たないばかりか、社会にとって有害にさえなりうると考えられる。 そこでベンタムは、 根拠が不確かな自然法や自然権に変わり、 実定法と実定道徳を評価するためのより優れた批判的基準として、 功利原理を主張したのである。 ベンタムの独創性は、まさにこの点にある。 すなわち、 多かれ少なかれ自然権思想を受けいれていた プリーストリやベッカリーアなどの従来の功利主義的思想家とは異なり、 ベンタムは、 《自然法・自然権思想に取って代わる思考の枠組みとしての功利主義》 という視点を生み出したのである。 このことは、 彼が今日に至る功利主義と権利論との対立の図式を初めて明るみに出し、 同時に権利論に対する強力な批判を展開したという重大な意義をもっている。

そこで本発表では、 上に述べたようなベンタムにおける功利主義と法実証主義との結びつきを見るために、 フランス人権宣言を批判した論考として知られる 彼の「無政府主義的誤謬論」('Anarchical Fallacies')を主に検討する。 この論文は、 数あるベンタムの著作のなかでも彼の倫理学的な立場を端的に示すものとして重要であり、 さらに、 功利主義の視点から自然権思想を もっとも詳細に批判した文書としても注目に値するものである。 この検討を通じて、 彼が今日権利論と呼ばれる思考法に強く反発しながら 自らの倫理学説を打ち立てていったことが示されるであろう。

[付記] 本発表は、日本学術振興会特別研究員として、 文部省科学研究費補助金をうけておこなった研究成果の一部である。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Sun Nov 14 22:29:43 JST 1999