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リンリー教授
きのうおれは、倫理学専攻修士課程の女の
子えりこちゃん(美人)といっしょに、生協の食堂まで出かけて行った。昼食を
とるためだったが、もうひとつには、えりこちゃん(美人)との仲を深めようと
いう気持ちもあった。
学生の行列にハイごめんよごめんなさいよと割って入りツナ冷麺を注文し、 レジでさっさと支払いを済ませ、さてどこに座ろうかと周りを見回すと、向こ うの方に大声で議論をしている男女二人がいる。よく見るとうちの研究室の人 間である。あ、あのばかものどもがっ。
向こうもおれとえりこちゃん(美人)に気づいたらしく、手招きをして呼ん でいるので知らんぷりするわけにも行かず、お茶を入れてからそちらへ向かう。 くそっ、二人きりで話せるせっかくの機会をぶち壊しやがって。
席に着くや否や、女の子の方が大声で言った。
「おおリンリー教授よ、よくおこし下さいました。わたしたちはあなたの 到来を非常に歓迎します。わたしたちは倫理学的にとても重要な議論をしてい る最中なのでぃす」
わけのわからない日本語を話すこの女の子は、オーストラリアから来た留 学生のリタちゃんだ。おれの名前はオーストラリアの倫理学の世界でもピーター・ シンガーと並んでよく知られているため、この国からの留学生の希望が絶えな いが、おれにあこがれて倫理学を希望する大勢の日本人学生の相手をするだけ でも大変なので、大概は断ることにしている。
そんなわけでリタちゃんは現在わが研究室における唯一のオーストラリア 人であり、かつ唯一の外国人であり、さらに唯一の金髪の美女でもある。しか し、選抜の際に顔で選んだのがいけなかった。この子は議論が大好きで頭も悪 くないのだが、自分では全く本を読もうとしないのだ。完全に耳学問専門で、 対話をすることが哲学の本質だと確信している。その確信は間違っているとは 言えないが、日本で哲学書を読まない哲学者なぞ、ホームランを打たない巨人 の4番打者といっしょで、とても物になるはずがない。おれはそのことをリタ ちゃんにいつもいつもいつもいつも繰り返し言って聞かせるのだが、その度に 必ず長丁場の議論になって、時間切れで結論が出ないという結果になる。この 子は当分卒業する気がないらしく、また本を読まない限り当分卒業できそうも ない。
「んで、どんなことを話してたの。時間がないから手短に言ってね」
「それがですね、リタちゃんは功利主義と利己主義は同じことだって言う んですよ」
とおれの質問に答えたのは、これまた倫理学専攻4回生の野郎(男子)の甲利 君だ。彼はなかなかの秀才でイギリス経験論哲学を幅広く押えている。卒論は どうやらロックの『市民政府二論』を素材にして書くようだ。しかもおれにあ こがれて大学院に上がるつもりらしい。こいつは本も読めば議論も好きだ、と 来ているから、おれの言うことをちゃんと聞いていれば立派な学者になるかも 知れない。もっとも、おれの言うことを聞かないやつは学者生命どころか生命 も保障してやらんが。
「ふ〜ん、功利主義と利己主義が同じねえ。おれは違うと思うけどね、名 前からして」
リタちゃんだから許すが、野郎がおれにそんなことを言ったらもう完全に 死刑である。
「ですよねですよね。ぼくも違うと思うんですけどね、リタちゃんは 絶対同じだって言いはるんですよ」
「ふんふんずるずる、そしたらずるずるずるずるリタちゃんずるるるるの 言い分をずる聞いたげずるるましょずるずる」
とおれは冷麺を食べながら言った。