2月12日、院試の一次試験が終わった。ぼくは疲れて家に帰る途中、昼下 がりの電車で久しぶりにリンリー教授と出会った。神様はこういう(ロクでも ない)ことまですべて決定されているのだろうか。
「お、こだま君やないか。おうおう、どないしたんや、青い顔して。ま、 ここ座りや」
「お久しぶりです。いや、ほら、今日は院試だったんですよ」
「ああ、そうやったなあ。がんばってドイツ語勉強しとったみたいやんか。それでどないやってん」
「えーと、今日はドイツ語じゃなくって、英語と、倫理の専門科目だったんですけどね。問題見てみますか?」
「どれどれ、見してみい。おれが解答したるがな。がはは」
「えーと、これが語学なんですけどね」
「ほお、2問とも全訳か。2問目はちょっと長いな」
「ええ、大変だったんですよ。時間がなくって。2問目の最後の8行が訳せなくって」
「えっ!ここ、こだま君、それはちょっとやばいんとちゃうかっ」
「脅かさないでくださいよ、教授」
「がはは。あせったやろ。大丈夫や、大丈夫。そのぐらい。六割とれればいいんやから。他のところは大体出来たんやろ?」
「そうですね、問一は時間かけたんでほぼ完璧だと思います。ただ、lexicographerが辞典かコト典(事典) の編纂者かどっちかわかんなくて、コト典の方にしたら見事に間違ってしまいましたが」
「ええっ!ここっ、こだま君、それはかなりやばいんとちゃうかっ」
「やめてくださいってば」
「がはは。そうかそうか。それで問2はいくらか残ったわけやな。時間配分が甘いな」
「ぼくこういうの少し遅いんで。他の人は大体全部書いてたみたいなんで、焦っちゃいましたよ」
「ま、問題作成者もあんまり量を気にせんと作ってくるからな。そいつらもきっと一時間半じゃまともには出来へんやろ」
「もうちょっと少な目にして欲しいですよね。早けりゃいいってもんじゃないと思うんですけど。だって、みんなも時間にもっと余裕があった方がきっといい訳が作れるでしょう?」
「まあ、しゃあないしゃあない。大学に入ったら生協で飯を食えっていうことやがな」
「え?なんですかそれ」
「試験作成者が無茶言っても、非力な受験生はそれに合わせるしかない、ちゅーことや」
「ええ、まあそれはそうですけど。だけどやっぱり、スピードまで計る試験っていうのは、いかにも現代社会の、なんていうのかな、悪い側面を象徴しているようで、納得できませんね。なんだか非常に言い訳がましいですけど」
「一度京大に入ってまうと、時が止まったような生活してるやつ多いのにな。ま、ええがな。語学は何とかなるやろ。それで、専門の方はどんな問題やってん」
「あ、はい。えーっと、これです」
「えー、なになに、『自由と平等』について、倫理学的観点から論述しなさい?」
「そうです、問一の論述はそれだったんですよ。ぼく前日に問題を予想してたんですけど、まあ、完全に当てずっぽうですけど、『自由について自由に論じなさい』っていうのが出ると思ってたんですよ」
「がははははっ。それはくだらんくておもろいわ。君んとこの教授と助教授やったらやりそうやな」
「そうでしょお?なんかかなりの確率で当たると思ってたんですけどね」
「それでどんなこと書いてん?」
「ぼく、自由意志の勉強しかしてなかったんで、その場ででっち上げました。『それ自由とはなんぞや?』とか書いたりして」
「ま、これはあれやろ、たとえみんなおんなじスタート地点からよーいどん、って走り出しても、自由に競争やらせると不平等な結果がでてしまう、っていう自由競争主義のジレンマを書けば問題ないやろ。あと、累進課税による所得の再配分の問題とか、アファーマティヴ・アクションの問題とか」
「ええ、そこら辺は大体書けました。あと、マイクロソフト社のソフトウェア独占状態についても触れておきました」
「上出来やがな」
「ええ、専門は時間があったんで、いろいろ考えて書けました」
「そしたら問2はどないや。えー、次の6項目を説明しなさい、か」
「少ないでしょ。しかも全部説明しないと駄目で。ぼくは教授と助教授がそれぞれ7個ずつ、計14個作ってくる、と予想してたんですけど、完全に外れちゃいました。問題の予想もことごとく外れたし」
「そうかそうか。問題作った方はそれ聞いたらニヤリとするやろな。ま、君ももうちょっとよく考えて一問くらいは当てんとあかんで」
「友達の奥田君は一問予想が当たったって言ってました」
「ん、それで(1)はなんや」
「『maieutike』、産婆術です。」(注.問題はギリシア語で書いてあります)
「えっ?…あー、そうか、サンバ術か。えーっ、えーっ、あの、黒人が集団で踊り狂う怪しげなあれやな」
「(本気で言ってるのかどうか分からない)…いえ、ヴードゥーとかそんなんじゃなくって、ソクラテスの、あの、子供を産むのを手伝う産婆さんから来た言葉ですよ」
「じょ、冗談やがな、君、冗談。あーそうやった、あの無知の知のソクラテスやな、あー、そうそう。がは。がははっ。それで、君は産婆術の説明できたんかい」
「いや、それが、マイエウティケーって言葉の意味が全然思い出せなくて、駄目だったんですよ。いきなりわかんないんで青くなりましたよ」
「あほやなあ、君は。産婆術ぐらい哲学のイロハやろが。ほれ、ソクラテスの皮肉や、想起説と結び付けて説明せんと」
「いやあ、そうなんですけど、めったに原語で見ないような言葉だったんで…。で、仕方ないからギリシア文字の説明をやったんですよ。最初が『m』で、次が『a』だって」
「え、ほんまかっ。がははははっ」
「項目を説明しなさいだから、これも一種の説明の仕方には違いないって」
「そ、そんなこと書いたら先生怒るで、君。がはははっ」
「いや、素晴らしい先生方なんで、このぐらいのしゃれは認めてくれると思いますけど…」
「まあええ。それで、次は何や。『ordo amoris』?ああ、愛の秩序やな」
「ええ、これは誰の言葉か分かんなかったんで、とりあえず神学用語って書いてから、一切の被造物は神への愛によって運動している、みたいなことを書きました」
「アウグスティヌスやら、パスカルやら、シェーラーが使った言葉やな。これは君のとこの助教授が出したんやろ」
「それっぽいですね」
「ま、これもめんどくさいから説明はなしや。その次は?」
「次は『divertissement』です。これは運良く勉強してたところで、ちゃんとパスカルの気晴らしまたは気散じって書けました」
「お、やるやないか。しっかし、君んとこの先生は厳しい問題作りよるなあ。まあ、この語なんかは、実存主義なんかでも取り扱われることもあるけど」
「あ、そうなんですか。ま、この問題は何点かはくれたんじゃないでしょうか。それで次はまたもや意外な『schoene Seele』なんですよ」
「美しい魂、やな。シラーとか、ゲーテの『ウィルヘルム・マイスター』をあげんとな。カントのリゴリスムに対する、ロマン主義からの批判や」
「ええ、大体はそんな筋で書けました。ちょうど試験の前の日の夜に、美しい徳とか尊厳なる徳とか、美しい魂とかの説明を倫理学史の本で読んでたんで、これはラッキーな問題でした」
「ほな問題無いな。そしたら、その次はどうや。えーっ、『intrinsic value』。…内在的価値、か。これはいけたやろ」
「ええ、まあなんとなくは分かったんですけど、誰の言葉かっていうのがよくわかんなかったんで、アリストテレスの神概念とか、カントの道徳法則とかが、内在的価値を持つものの例だって書いたんですけど…」
「そーか。内在的価値って言ったらムーアあげるんが普通やけどな。ま、でも、何点かはくれるやろ。それで最後は?えー、『paternalism』か。これは君得意の分野やろ。これ書けへんかったら、どうしよーもないで」
「とりあえず書いたことは書いたんですけど、あとで考えたら麻薬の取締とか売春の例を挙げるのを忘れたな、って。なんか生命倫理とか職業倫理っぽいことを考えてたんですよね」
「それ抜かすのはちょっと痛いな。君んとこの教授がよく使う例もそれやろが。あと、未成年者の妊娠中絶とか」
「一応自己決定権と対比させて書いてみたんですけどね」
「そーかそーか。まあ、ざっと見て60点ぐらいはもらえるやろ」
「そうだといいんですけどねえ。まあ、思ったよりは出来たかな、という 感じはしましたけど。なにしろこれまで真面目に哲学史とか倫理学史っていう ものを勉強したことがなかったんで。奥田君と5日漬けで必死にがんばったん ですよ。それで勉強して思ったんですけど、いろいろおもしろい問題があるん ですね、倫理学には。自由意志とか、決定論とか…。卒論書く前にきちんと勉 強しておくべきでした」
「そやそや。ベンタムやら功利主義だけやっとったら、ろくな研究者にな れへんで。ちゃんと倫理学全体を俯瞰できる視点を身に付けんとな、おれみた いに。がはっ、がはははは……」
――と、今回はわりと無難に終わるのであった。リンリー教授はあまり解 説してくれなかったが。
ああ、疲れた。帰って寝よっと。
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