リンリー教授:第4章(3)

児玉の卒論についてのコメント

3.功利の原理を説く者

――――疲労はひとっ跳びに、命がけの離れ業で、究極のものに到達しようとする


扉が閉まり、電車が再び動き出す。「えー、次はたかつきー、たかつきーです。たかつきーを出ますとー、次はいばらきーまでー停まりませんー」と間延びした車内放送が流れる。

「さ、そしたら本題に入ってや」

「あ、はい。もうすぐ高槻ですけど。まず、さっきも言ったように、ベンタムの倫理の定義は次のようなものでした」

「広義の倫理とは、利害関係が考慮される人々に関して・可能な限り最大量の幸福を生み出すように、人々の行動を指導する技術、と定義されるであろう。」

「おう、そやったなあ。そんで?」

「だからまず、この前半の部分を説明するわけです」

「利害関係が考慮される人々に関して・可能な限り最大量の幸福を生み出すように、ってところか。これはあれやな、功利原理とほとんど同じ文句やな」

「ええ。だからまず彼の倫理の定義の下敷きになっている功利原理を詳しく見ることになるわけです。ベンタムによると、すべての行動は次の功利原理によって評価されます」

「功利原理とは、利害関係のある人の幸福を増進させるように見えるか減少させるように見えるかの傾向に従って、あらゆるすべての行動を是認または否認する原理である。同じことを言い換えて言うと、問題の幸福を促進するか妨害するように見えるかの傾向に従って、ということである。」(IPML, I, 2)

「それであれやな。功利原理は個人の行動すべてだけでなく、政府の行なう立法や行政などの行動にも適用されるんやったな」

「ええそうです。あらゆる人間の行動に適用されます」

「ほんならちょっと聞いとくけど、ここで出てくる功利ってのは何や?普通の人にはわからんで」

「功利性utilityっていうのは、ベンタムによると次のように定義されます」

「功利性とは、あらゆるものにある性質であり、その性質によってそのものは、利害関係のある人に対し利益や便宜や快楽や善や幸福(これらすべてはこの場合同じことになるのであるが)を生み出す傾向を持つのであり、または、(再び、同じことになるのだが)利害関係のある人に対し損害や苦痛や悪や不幸が生じることを妨げる傾向を持つのである。もし利害関係のあるのが社会集団community全体であれば、社会集団の幸福であり、特定の個人であれば、その個人の幸福である。」(IPML, I, 3)

「なるほど、これは言葉変えたら有益性っていうところやな。功利原理なんて言わんと、有益性の原理っつーたらええのにな」

「あ、そうですね。その方がわかりやすいですね」

「まあええわ。とにかく功利原理っていうのは、わかりよう言うと、利害関係者とって有益な行動を正しいとする原理なんやな?」

「ええ、そうです。なんかそういってしまうと当たり前の話みたいな気がしますが」

「そしたらやな、この利害関係者っていうのを説明してみい」

「これがけっこう難しいんですが、まずベンタムは「利害が考慮される人(びと)」っていうときに、社会集団の利害と特定の個人の利害の二つに分けるんです」

「単数か複数かって分け方やな」

「ええ。いいかえれば個人か集団かです。ぼくはcommunityを社会って訳するとその区別が出ないと思うので、社会集団と訳すことにしています」

「何やけったいな訳語やな。明治初期の訳語じゃあるまいし」

「まあ、いいじゃないですか。それで、社会集団っていうのはそもそも個々人の集まりをそのように呼ぶわけで、実際は社会とか集団というものは実在しない架空のものなんです」

「狂産党は言葉の上でしか存在せず、存在するのはただ狂産党員だけやってことか」

「ええ、まあ、だから、狂産党の幸福とか利害とかいうとき、実際は、結局その成員である個々人の狂産党員の利害や幸福の合計に他ならないってことです」

「おお、そうか。すると集団の利害を考えるときは個々人の利害に還元して考えんとあかん、っつーことやな。ほしたらその個々人の利害っていうのは何やねん?」

「個々人の利害っていうのは、この定義がぼくにはちょっと良くわからないんですが、こう定義されています」

「あることが個人の利益を促進する、または個人の利益のためになる、と言われるのは、そのことがその人の快楽の合計を増加させる傾向を持つか、同じことであるが、その人の苦痛の合計を減少させる傾向を持つ場合である。」(IPML, I, 5)

「ノンノン。実はそれは定義じゃあないんや」

「え、そうなんですか?」

「利害みたいな言葉は「ソクラテスは人間である」みたいな普通の仕方では定義でけへん、とベンタムは注でいっとるやろ(IPML, I, 5c)」

「ええ、そう言えばそんなことを…」

「こういう言葉はやな、フィクチチャス・エンチチーfictitious entityっつーんじゃ」

「…フィクティシャス・エンティティーですか?」

「そうじゃそうじゃ。言葉上にだけしか存在せず、現実にはそれに対応する対象がないものがフィクチチャス・エンチチーっつーんじゃ。君の言う社会集団もそうやがな。対義語はもちろん、レアール・エンチチーreal entityじゃ(CW, D, p.74)」

「(リンリー教授こそ明治初期に育った人間なんじゃないか、と思いつつ)あ、確かにそんな分け方してますね。ディンウィディの本で読みました(John Dinwiddy, Bentham, Oxford, 1989, pp.42-46)」

「ま、長い話は省くが、簡単に言うと、義務とか権利とか利害とかいう言葉は、快楽と苦痛というようなレアール・エンチチーと結び付けて説明せんとあかんし、しかも「権利とはなんとかである」式の定義ではなく、「人が権利を持つのはかくかくしかじかのときである」式のパラフレーズしかでけへん、つーんやな(CW, D, p.79)」

「へーえ。それでそうするとインタレストはどういう風にパラフレーズされるんですか?」

「いや、さっきのでもええんやけどな。そやな、他の本ではやな、すべての人間は最大限の幸福を獲得することに利害関心を持ってる(CW, D, p.336)、とかいろいろ言っとるで。君デオントロギーDeontology借りたんやろ?それをきちんと読まんかいな」

「そうですねー。けどもう間に合わないんじゃないかと思うんですけど」

「あほかっ。あのぐらい、お、君今ちょうど持っとんのか、貸してみい、(ぼくの袋に手を突っ込んで本を取り出しぺらぺらめくりながら)これぐらいやな、3時間で読めるわ、3時間で」

「え、ほんとですか?もしかしてリンリー教授はこの本読んだんですか?」

「当たり前やがな。おれは何でも読んどる。がは。がはは」

「あ、そしたらもう高槻駅なんで…」

「おう、そうか。何やあんまり話がすすまんかったなあ。まあええわ。また今度聞いたるから、しっかり勉強しとけよ。それじゃな、がは。がははは」

高槻駅で乗り換えの普通に乗ってから動き出した急行の方を見やると、すでにリンリー教授は高いびきをかきながら、隣りの女子高生の肩にもたれて爆睡している。女子高生も寝ている振りをしているが、顔が引きつりまくっていて、今にも泣き出しそうである。気の毒な女子高生…と思いながらも、欲しがりません書くまではとかつぶやいてぼくはDeontologyを読み出した。


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Satoshi Kodama
kodama@socio.kyoto-u.ac.jp
Last modified on 12/06/96
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