夜遅くに家に帰る電車に乗ってうとうとしていると、いつのまにか横にリンリー教授が座っている。
「見たで。ホームページ。なんやまたやっかいな論争しとるな」
「ええ、大変なんですよ。時間も食うし」
「自分のホームページやからって、いいかげんなこと書くからや。一応君のホームページは倫理学研究室のとこに入ってるんやからいいかげんなこと書いたらあかんし、それに反論が来たら倫理学研究室のメンツのためにもはずかしくないぎろんせんとあかへんで」
「ええ、ええ、わかってます。けどいいかげんな議論したつもりはないんですが...」
「だいたいやな、ああいう比喩を使ったら、ぜったい文句くるんや。最近のやつらは、比喩を理解せえへんからのう。あいつら抽象化能力が足りへんのや。二つの例から共通のものを抜き出されへんねや」
「そですよね、ほんとにそう思います」
「それですぐに、やれ次元が違うの、シチュエーションが違うの、レベルが違うの、しまいにはそれは全く別問題だの言いだすんや。あきれんでほんま」
「次元が違うっていったいなんなんでしょうかね」
「加藤尚武の『応用倫理学のすすめ』の死刑廃止論のとこにも比喩があるやろ、死刑における誤判を自動車事故に例えるやつ。(注.誤判があるからすべての死刑はやめるべきだという議論は、交通事故があるからすべての自動車交通は禁止すべきだ、というのに等しい、という議論。)あれなんかおれ、ようできてると思うんやけど、おれの同僚とか友達とかはわかりおれへんのや。
「そんな例えは不謹慎だ、とかいうんですよね」
「そやそや。ほんまにもう比喩ってのは使えへんくなってきとるで。最近本のタイトルに「猿でもわかる」って書いたら動物愛護協会の連中から文句来たし、しゃあないから「バカでもわかる」って書いたらバカ愛護協会の連中が包丁持って追いかけてきよった。ユーモアもくそもない社会やわ」
「なんかあのギターの話でヒントか何かないですか」
「そやな、まあ、君の議論もわかるんやけどな、ただな、ギターを使う場合は持ち主の同意を予想して使うわけやろ、たいていの場合は。けど、ちかんとかセクハラとかは当人の意思を無視して無理やりやってしまうってのが普通やろ」
「だけど、セクハラして言い訳する人はあいつは同意してたって言うんじゃないですか」
「ま、そういうやつもおるやろな。けどおそらく基本的に、ギターの場合はそういうとこにおいとくってことは、使ってもいいでっせ、という黙約(tacit consent)をしたとみなされるんやな。けど、家の鍵開けといても、勝手に入っていいでっせ、という黙約がなされてるとは言えへんやろ。セクハラもちかんもそうや。ミニスカートはいて電車乗ってきたかて、全然しらん中年のおっさんにちかんしてもいいで、という黙約をしたことにはならへんやろ」
「ま、そうですねぇ。けどそれは程度の問題やと思うんですけど...」
「お、今乗ってきたねえちゃん93点っ」
「や、やめてくださいよ大声でそんなこと言うのっ。(小声で)ほら、にらんでますよあの人...」
「冗談やがな冗談。おれのヒントはそのぐらいや。後は自分で考えや。あと君の議論は所有権に関わってるから、ちょっと待ってや、(黒の大きなリュックサックをがさごそ)、ほら、これなんかおもろいで、川島武宣の『日本人の法意識』。特に3章の「所有権についての意識」ってところ」
「あ、ちょっと待ってください。メモとります。え、と、岩波新書A43ですね」
「奥田君なんかにもすすめとき」
「わかりました。あ、もう高槻ですね。じゃここで失礼します」
「おお、それじゃな。あんまり遊んでへんと、卒論書かんといかんで。しっかりしたん書かんと院行かれへんぞ」
「いやあ、それがほんとに心配なんですよ。あ、それじゃ行きます。さよなら」
「お、ほんじゃな。また」
電車を降りて振り返るとリンリー教授は本を読んでいた。目を凝らしてよく見ると筒井康隆の『宇宙衛生博覧会』。ほんとにあの人は大学教授なんだろうか、いや、別に大学教授でも筒井康隆は読むか、などと考えながらぼくはがらがらの普通電車に乗り換えた。あー、早くかえって寝よっと。