修論の草稿その5+:
修士二回生 児玉 聡
第二演習10/13/98発表予定
ベンタムの功利原理に関するH・L・A・ハート(1907-1992)の二つの主張。
忠告「君の問題意識をもっとはっきりさせること」
忠告「ベンタムの功利原理を理解するさいに、 この2点を明確にすることが不可欠であることを主張すること」
忠告「重要語句の説明をもっとはっきりすること。 このままではまだまだわからない」
忠告「構成は、(1)研究者の意見→(2)ベンタムのテキスト→ (3)児玉の意見、という風に進むこと。 (1)は2割ぐらいにとどめるのが望ましい」
ではまず、ローゼンの議論から検討していこう。ローゼンによれば、ハー ト以前の功利主義研究者たち、たとえばレズリー・スティーヴンやジョン・プ ラムナッツらは、ヒュームとベンタムの功利原理をほとんど同一のものとして 語っているのに対し、ハートは、多くのヒューム研究者と同様、ヒュームとベ ンタムの類似点よりもむしろ相違点を強調している。ハートの考える相違点と は、 「ベンタムは、ヒュームとは対照的に、功利性の最大化を強調し、さらに、功 利原理を行為や法や制度の功罪meritsを判断するための批判的基準として用い た」 ことである(Rosen 1996, p. lii)。そしてローゼンは、ハートの議論が彼以前 の研究に比べて大きく前進しているとしながらも、今度は逆に両者の違いを強 調しすぎる結果になっていると述べる。そこで彼は、「ベンタムの功利原理は 批判的基準である」というハートの主張を批判し、ベンタムは功利原理を法律 や行為の正・不正を判断するための批判的基準としては用いておらず、むしろ ベンタムの諸々の議論は、「功利原理はそれ自体では、なされるべきことへの 明確な指針を与えない」ことを前提している、と論じている(pp. lii, lix)。
ローゼンの議論を見る前に、ローゼンが問題にしているハートの言明を検 討しておこう。ハートによれば、ベンタムが『道徳と立法の諸原理序説』(以 下『序説』)において功利原理という哲学的原理にあまり注意しなかった理由 の一つには、ベンタムがプリーストリ、ベッカリーア、エルヴェシウス、ヒュー ムなどの先人に対して恩義を認めるあまり、この原理に関する自分の独創性を 過小評価し、功利原理に関する先人たちの考え方と、彼自身の考え方との違い に十分注目していなかった、ということがある。そして、ハートはこう指摘し たあと、その例としてヒュームとベンタムの功利性に関する見解の相違を述べ ている。
つまり、ハートの主張は、ヒュームが功利原理ないし功利性を、すでに確立さ れた習慣や慣習が生じ、維持されている理由を説明するものとして用いていた のに対し、ベンタムは社会的改革を推進するための指針として功利原理を用い ていた、ということであるnote1。ここで、今後の議論 を明確にするために、ヒュームの用い方における功利原理(あるいは功利性)を、 ハートの言う批判的基準ないし原理と対比させて、説明的基準ないし 原理explanatory standard or principleと呼ぶことにしよう。この 語を用いるならば、以下でローゼンが主張しているのは、おおざっぱに図式化 して言うと、「ベンタムの用いていた功利原理は、批判的基準としてのそれで はなく、(ヒュームと同じ)説明的基準としてのそれである」という風に言い替 えることができる。ヒュームが功利性に言及したのは、それを最大化することや批判 的基準としてではなく、次のことを示すためであった。すなわち、 人間の行為に制約を課すような、確立された習慣や慣習conventionsが生じ、 維持されているのは、それらに従っている人々は意識してないかも知れないが、 それらが人間の目的に役立ち、それゆえ合理性を持つからである、ということ である。他方、…ベンタムは、功利原理を改革ヘの全般的動向を支持するため の批判的原理として用いており、ヒュームの功利性の議論 が非常に大きく関わっていた慣習や世襲的な制度の持つ安定を生み出す力--そ の功利性によってそれらは一般的に受け入れられた--にはほとんど注意しなかっ た。(Hart 1996, pp. lxxxvii-lxxxviii, ただし強調はこだま)
忠告「批判的基準と説明的基準の区別がどこにあるのかを、 もう少しはっきりせよ」
忠告「ヒュームに関しては、ここで述べられているのとは異なる見解もあるので、 『通説的なヒュームでは』ぐらいにしておく方が望ましい」
ローゼンの議論に入る前に、 ベンタム自身による功利性、および功利原理の定義を確認しておこう。
ところで、上の説明において、ベンタムは功利性を特定の個人に対するものと 社会一般に対するものとに区別しているが、功利原理が適用される際に問題に なるのは、次の一節に示されているように、社会一般に対する功利性 の方である。以下の議論では、特に断らない限り、功利性は社会一 般に対するものを指すnote2。功利性utilityとは、あらゆるものにある性質であり、その性質によってそ のものは、利害関係のある当事者に対し、利得、便宜、快楽、善、幸福(これ らすべてはこの場合同じことになるのであるが)を生み出す傾向を持つのであ り、または、(再び、同じことになるのだが)利害関係のある人に対し、損害、 苦痛、悪、不幸が生じることを妨げる傾向を持つのである。もしその当事者と いうのが社会一般であれば、社会の幸福であり、特定の個人であれば、その個 人の幸福である。(IPML 12)
功利原理the principle of utilityとは、利害関係のある人の幸福を増進 させるように見えるか減少させるように見えるかの傾向に従って、ありとあら ゆる行動を是認または否認する原理である。同じことを言い換えて言うと、問 題の幸福を促進するか妨害するように見えるかの傾向に従って、ということだ。 わたしは、あらゆるすべての行動について、と言った。ゆえに私的個人のすべ ての行動だけでなく、政府のすべての政策についてもそうなのである。 (IPML 11-12)
そこである行為が、功利原理または簡略に功利性(社会一般に関する功利性) に一致すると言われるのは、その行為の持つ、社会の幸福を増進する傾向が、 社会の幸福を減少させる傾向よりも大きいときである。 (IPML 12)
忠告「『社会一般に対する功利性』と言ったとき、 ベンタムが考えているのは個人の擬制的な集合体としての社会なので、 その点は言及しておくべき」
さて、ハートの主張を批判するにあたり、ローゼンはまず、ベンタムが 「原理principle」をどのような意味で用いたか、ということを問題にする。 ベンタムは『序説』の第一章の注において、「原理」一般を、「あらゆる一連 の作用の基礎ないし始まり」としての役目を果たすように用いられうるもので あると述べた後、「功利原理」という語において用いられている「原理」を次 のように定義している。
ローゼンは、ベンタムがこの引用において、原理とは(単なる合理的に確立さ れた規則ではなく)感情ないし情感であり、そしてそれは功利性との関係にお いて、行為の功利性を是認する役目を果たす、と述べていることに注目する (p. lii)note3。ここで問題となっている原理は、精神の一作用actとして考えられうる。す なわち、一つの感情、是認の感情としてである。その感情は、ある行為に適用 された場合、その行為の功利性を、当の行為の性質--その行為になされる是認 または否認の尺度を決定すべき性質--として、是認する。
The principle here in question may be taken for an act of the mind; a sentiment; a sentiment of approbation; a sentiment which, when applied to an action, approves of its utility, as that quality of it by which the measure of approbation or disapprobation bestowed upon it ought to be governed. (Rosen 1996, p. liii, IPML 12)
このように、ローゼンによれば、ベンタムの「原理」は一連の作用の基礎 ないし始まりであると同時に、行為の功利性を是認する「感情」である。この 点の指摘に続き、ローゼンは、ヒュームの次の引用における「功利性」の説明 とベンタムの「原理」の類似性を強調する。
ローゼンによれば、ヒュームのこの説明における「功利性」は、ベンタムが原 理と呼んだものが持つ(1)是認の感情と(2)基礎的な要素の両方を含意している (p. liii)。あらゆる主題において功利性という事情が賞賛と是認と の源泉であること、行為の功罪に関するあらゆる道徳的決定においてそれが常 に問われること、それは正義、忠実、名誉、忠誠および貞節に対して払われる 高い尊敬の唯一の源泉であること、それは人間性、寛大、 仁慈、温和、慈悲、憐み、および節制等のあらゆる他の社会的美徳と不可分で あること、そして一言で言えば、それは人類と我々の同胞に関連を有する道徳 の主要部分の基礎であることは、事実の問題(a matter of fact)であるように 思われる。(Hume 1927, sec. v, Pt. II, p. 23note%)
忠告「『事実の問題』は適切ではないかもしれない。よく考えること。 原文も載せておいた方が良いかも知れない」
それでは、一連の作用の基礎であり、そしてまた功利性に基づいた「是認 の感情」でもあるようなこの功利原理は、実践においてどのように用いられる のだろうか。ローゼンは、功利原理が適用される仕方をみるために、ベンタム の著『統治論断片』(以下『断片』)における悪政または悪法に対する抵抗の問 題と、『序説』における自殺などの「自己に関する犯罪」の問題を例に挙げて 検討している(pp. lvi-lix)。しかし、前者の検討の方がローゼンの論点をよ り明確に示しているように思われるので、ここでは前者のみをとりあげる。
『断片』において、ベンタムはブラックストーンの政府論における二つの 両立しない、危険な教義--それらは組合わさると市民闘争を生み出すことにな りうる--と彼が考えたものを顕わにした。一方で、ブラックストーンは、すべ ての国家には絶対的な主権、すなわち、彼の言い方では、「最高の、抵抗しえ ない、絶対的な、抑制されない権力」がなければならない、と信じていた。他 方、彼は、臣民は自然法ないし神の法に矛盾する法律に不服従する権利だけで なく、そうする義務もまた持っていると主張した。ベンタムによれば、功利原 理のみが、主権の権利と自然法の違反に抵抗する義務から生じる不可避的な衝 突を解決しうるのである。(Rosen 1996, pp. lvi-lvii)
→批判「君によれば、『功利原理は批判的基準にならない』と言ったとさ
れるローゼンは、ここで、『ベンタムによれば、功利原理のみが、主権の権利
と自然法の違反に抵抗する義務から生じる不可避的な衝突を解決しうるのであ
る』と発言している。これはローゼンに内的な不整合があるのか、あるいは君
のローゼン解釈がまちがっているのかどちらかではないのか」
しかし、功利原理が批判的基準として作用しないかもしれないというさき ほどの示唆を考えに入れると、ベンタムはこの原理をどのように作用させるつ もりだったのであろうか。各人は、彼によれば、「(社会集団一般に関する) 抵抗によって生じそうな害悪の方が、従属によって生じそうな害悪よ りも当人には少なく思える」のはいつかについて、計算しなくては ならない。この計算は、従属あるいは抵抗から自分が利益を得るかどうかに関 わるだけでなく、人が必然的にその一部を形成している社会に対する利益ある いは損失にも関わっている。しかしながら、計算のこの後者の部分は、他の人々 についての計算を含んでいる。ある人は抵抗は正当化されると感じるが、その 感情を他人の感情および評価と調整する方法をまったく持たないかもしれない。 ベンタムは、抵抗あるいは従属の合図となるような「共通のしるし」は存在し ないと主張した。「そうした目的のための共通のしるしは、 わたしは、わたしに関するかぎり、一つも知らない: われわれにそういったし るしを一つ見せられる人は、思うに、予言者以上の人間に違いない」とベンタ ムは書いた。唯一存在しうるのは、各人の「功利性の釣合 に関する自分の内的な確信」のみである。(Rosen 1996, p. lvii)
忠告「ここで『存在しない…唯一存在しうるのは…』というのが矛盾して いるように思え、わかりにくい」
しかし、ベンタムはこのつかまえどころのない「共通のしるし」を見つけ る希望を完全に放棄したわけではなかった。彼は、ブラックストーンがすべて の国家に帰属させた絶対的主権を、多くの国において制限する役目を果たして いる取り決めconventionsの分析の最高点において、この主題に戻った。…。 権力を制限し分割するために政府によって用いられている取り決めにおいて、 ベンタムは彼が探し求めていた「共通のしるし」を見出した。政府が制限的取 り決めに違反する法律を成立させた場合、すでにこれらの状況下では抵抗が正 当化されうると計算しておいた人民は、取り決めの違反を抵抗の合図として考 えることができるだろう。そこで、ヒュームと同様、ベンタムは、人は取り決 めという実定的な基準に訴えることはできるが、抽象的で批判的な基準に訴え ることはできないと論じたように思われる。(Rosen 1996, pp. lvii-lviii)
彼がもっとも直接的に幸福の最大化を主張していた後期の著作においてさ え、功利原理ないし最大幸福原理に関する以上の見解は変わらなかった。たし かに、『憲法典』のために「考慮されるべきもっとも包括的な目標ないし目的」 は、「最大多数の最大幸福」であり、「根本的原理」は、「最大幸福原理」で あり、「全包括的で全指揮的規則」は「幸福を最大化すること」であった。し かし、この目的、原理、規則の言明は、法典を基礎づけている原理についての 言明であり、それを判断するための批判的原理の言明ではなかった。ベンタム がはっきりと論じたように、最終的な裁判官は、公共の利益を代表する世論裁 判所であった。…。…ある提起された改革に関して考慮されることは、改革が 意図するところである人民が、その改革を採用することが公共の利益となると 考えることであった。それは彼らにより大きな快、またはより小さな苦という 意味で、より大きな幸福をもたらすであろう。もし彼らがその改革を自分たち の利益にならないと考えたなら、ベンタムは提起された改革を、原因を待って いる結果であるという意味で「ユートピア的」であると呼ぶことに満足してい た。原因は世論であった。(Rosen 1996, pp. lvii-lviii)
→批判「ベンタムは世論についてどのように考えているのですか」
→こだま「勉強の必要あり」
→批判「ベンタムにおける憲法の制定手続きはどのようになっているのですか」
→こだま「無関係な気がするが、勉強の必要あり」
→批判「ローゼンは、ベンタムが、世論による判断(批判)が功利原理によ
る判断と実質的に一致すると考えていたと考えていたのではないか」
→こだま「世論について勉強の必要あり。ただし、そうすると、ローゼンは功利原理
を批判的基準として考えていたことになり、それはローゼンの主張と矛盾する
ように思われる。」
→批判「もう少しローゼンを好意的に解釈してみたら?」
→こだま「ごもっとも。論文ではそうするつもり」
ここまで、ローゼンの議論を概観してきた。次に、彼の議論を検討してい くことにする。 まず、議論(1)において、ローゼンは、ヒュームとベンタムの類似性を強調す るあまり、かえってその相違点を見逃すという逆の誤ちに陥っているように思 われる。ローゼンは、ベンタムの「原理」の定義と、ヒュームの「功利性」の 説明を引用し、その二つの類似性を強調しているが、しかし、引用された箇所 に関する限りでも、両者の考え方には大きな相違があると思われる。
まず、ベンタムの引用をよく調べてみよう。もう一度引用しておく。
この引用中にある、「すべきought」という表現に注意してもらいたい。ここ で言われているのは、人々が現実にある行為を是認するとき、すなわちその行 為に対して是認の感情を抱くとき、彼らが常にその行為の功利性を判断基準と して用いて是認している、ということではない。そうではなく、ベンタムの功 利原理とは、ある行為の持つ功利性を、その行為を是認または否認するさいの 尺度ないし判断基準として用いられるべきものとみなし、 そしてそれを是認する、ということなのである。要するに、ここでは、人々が 事実そのように功利性に基づいて道徳判断を行なっている、ということは述べ られていない。ここで問題となっている原理は、精神の一作用actとして考えられうる。す なわち、一つの感情、是認の感情としてである。その感情は、ある行為に適用 された場合、その行為の功利性を、その行為になされる是認または否認の尺度 を決定すべき当の行為の性質として、是認する(IPML 12)。
→批判「この引用からそこまで論じることができるか」
→児玉「できるはず。
注5におけるベンタム自身の言明もこの読みを裏付けている」
→批判「君はローゼンの論点をとらえ損ねている。 ローゼンの主張は、功利原理は感情であり、 みなが同じ感情を共有するかどうかわからないので、 批判的基準にはなりえない、というのが彼の主張なのではないのか」
ところが、ローゼンが示したヒュームの「功利性」の説明においては、逆 に、人々が現実に行なっている道徳判断においては、その対象が持つと考えら れる功利性が是認または否認の基準となっている、と述べられているように思 われる。これももう一度引用しておこう。
ここでヒュームは、「あらゆる主題において、功利性という事情が賞賛と是認 の源泉であること」は、「事実の問題」だと述べている(こ こでは、a matter of factを「事実の問題」と訳されているが、むしろ「事実 の事柄」と訳した方が適切だと思われる)。功利性は、「行為の功罪に関する あらゆる道徳的決定」において、事実、「常に問われてい る」のであるnote5。あらゆる主題において功利性という事情が賞賛と 是認との源泉であること、行為の功罪に関するあらゆる道徳的決定において それが常に問われること、それは正義、忠実、名誉、忠誠および貞節に対して 払われる高い尊敬の唯一の源泉であること、それは 人間性、寛大、仁慈、温和、慈悲、憐み、および節制等のあらゆる他の社会的 美徳と不可分であること、そして一言で言えば、それは人類と我々の同胞に関 連を有する道徳の主要部分の基礎であることは、事実の問題(a matter of fact)であるように思われる。(Hume 1927, sec. v, Pt. II, p. 23)
さらに、次の引用でベンタムは、彼が問題にしているのは、ヒュームのよ うに「これまでの是認の感情が何に基づいてきたか」ではなく、「是認の感情 が何に基づくべきか」であることをはっきり述べているように思われる。
「しかし、それでは、功利性の考慮以外の何物からも、われわれは正と不 正の概念を得ることは決してないのか?」わたしは知らない: わたしには関係 のないことだ。道徳感情が、功利性の考慮以外の何らかの源泉からはじめに生 み出されうるかということは、一つの問いである: 検討と内省を行なったうえ で、道徳感情が、事実の点で、内省を行なう人によって実際に他の根拠に基づ いて主張され、正当化されうるかというのは、また別の問いである: 正しさの 点で、道徳感情が、社会集団に向けて演説している人によって他の根拠によっ て適切に正当化されうるかというのは、さらに別の問いである。最初の二つの 問題は思弁的な問いである: それらがどのように決められようと、比較的に言 えば、重要ではない。最後のものは、実践的な問いである: それを決めること は、あらゆる決定の中で最も重要なことである。(IPML 28d)
→批判「この訳は誤訳の可能性はないのか、別の解釈はできないか」
→児玉「ないと思うが、もう一度検討してみる」
そこで、ローゼンの議論(1)における「原理」の検討は、ハートの主張に対 する批判としては成功していないと思われる。というのも、ベンタムの用いる 意味での功利原理は、たしかに一連の作用の基礎ないし始まりとなるような 「是認の感情」であり、そしてその限りではヒュームの功利性の概念に従って いると言えるけれども、しかし、彼の功利原理は、是認の対象となる行為の持 つ功利性を、その是認が基づくべき根拠として挙げるもの だからである。そこで彼の功利原理は、(ヒュームのように)人々が現実に是認 している事柄に関して、その事柄の持つ功利性を指摘するためにあるのではな く、むしろこれから行なう道徳判断が基づくべき基準となるものであり、それ ゆえハートの言う意味での批判的基準と呼べるものである。
さて、それでは次にローゼンの議論(2)を検討しよう。ローゼンによれば、 ベンタムは、「抵抗のとき」がいつ来るか、すなわち「抵抗するという行為が 正しい」と言えるのはどのような場合かを知るために、功利原理に訴えるので はなく、法や慣習などの実定的規則に訴えなければならないと考えていた。と いうのも、功利原理に訴えた場合、「ある人は抵抗は正当化されると感じるが、 その感情を他人の感情および評価と調整する方法をまったく持たないかもしれ ない」ため、抵抗することがいつ正当化されるかについて、人々の同意を得ら れない可能性があるからである。そうした同意を得ることができるのは、実定 的規則に訴えることによってのみである。
ベンタムによれば、ある行為の正しさに関して、功利原理に基づいて判断 をなした二人の人間の「内的な確信」ないし意見が相違した場合、彼らは功利 性に訴えることができる。そして、その行為が功利性を持つかどうかは、「事 実問題」、「すなわち、未来の事実--ある未来に起きうる事柄の蓋然性の問題」 (FG 491)である。その際、たしかに、ある行為を行なった場合、未来に生じる であろう功利性に関する事実判断の相違が拭いがたいものであるために(未来 に関する事実判断が難しいことについては、天気予報を見よ)、人々は功利原 理に基づいた議論を重ねたあとでさえ、意見の一致が見られないかも知れない。 その点に関して、ベンタムはこう述べる。
すなわち、ベンタムによれば、たとえ功利原理を用いた場合でも、ある行為 (ここでは市民が抵抗するという行為)が正・不正であるかどうかに関して、み なの意見の一致を得ることができないかも知れない。しかしそれは、「公共の 道徳的議論を可能にする状況を設定し、言語を設定する」(Harrison 1983, p. 189)ことができるものであり、それゆえ、万能とは言えないまでも最も有望な 基準なのである。したがって、ローゼンの功利原理に対するこの否定的な主張 は、ベンタム自身の功利原理に関する言明とは異なるように思われる。彼らは、議論の本当の根拠について然るべく議論をした後に、遂に、いか なる一致も期待できないことを知るのである。彼らはともかくも意見の 不一致の基づく点を、明晰、明示的に知るであろう。…。 しかし、口論の根拠が単なる情念の問題ではなく、判断の違いであり、しかも、 彼らの知るかぎりでは、その違いは本当sincereのものであるということを知っ たとき、和解への扉はずっと大きく開かれているであろう。(FG 491)
→「抵抗のとき」を実定的規則によって判断するのは、便宜的手段にすぎない
「この目的、原理、規則の言明は、法典を基礎づけている原理についての 言明であり、それを判断するための批判的原理の言明ではなかった」→ハート の用法では、「法典を基礎づけている原理」も(説明的原理ではなく)「批判的 原理」のはず。
→批判「ローゼンの読みでは、法実証主義と功利主義との関係はどうなるのか」
→児玉「(それだけでは質問の意味がよくわからない気もするが)検討してみる」
忠告「他人を批判するときは、なるべく良い点を誉めるべき」
ケリーによれば、これまでの通説の解釈によればベンタムは行為功利主義 者であった。しかし、「ベンタムは行為功利主義者であるという主張によって 何が含意されているのかは明らかでない」(Kelly 1990, pp. 59-60)→行為功 利主義にも二つの意味がありうる。
つまり、直接的な功利主義的義務論と間接的なそれとは、「功利原理が、 その命じるところを行なう道徳的義務を含意しているかどうか」によって区別 される。
ただし、ここで言われている間接的な功利主義的道徳義務論は、いわゆる 規則功利主義(個々の行為の正・不正は、功利原理によって正当化された一般 的規則に適合するかどうかで判断される)と同じものではないので注意。規則 功利主義と行為功利主義との区別の根拠は、「功利原理が規則のみに適用され るのか、あるいは規則だけでなく個々の行為にも適用されるのか」にある。 (cf. Kelly 1990, p. 67 n88)
→批判「間接的な行為功利主義的道徳義務論は規則功利主義と実質的に同
じことを言っているのではないか」
→こだま「違うと思うが、要検討」
→批判「規則功利主義も間接義務論と直接義務論とにわけられるのか」
→こだま「理論的には可能だと思うが、これも要検討」
→批判「聞き慣れない区別の仕方なので、
もうちょっとわかりやすく説明せよ」
→こだま「御意」
ケリーによれば、個人的行為者も、立法家も、 あらゆる機会において功利性を最大化する道徳的義務を負っているとすると:
これらの批判は、直接的な行為功利主義的義務論に対するものである。→ そこでケリーは、ベンタムがこの立場をとっておらず、(ハートの見解とは異 なるが)一種の間接的な行為功利主義的義務論をとっていたと論じる。 (pp. 60-62)
ポステマは、法的権利と功利原理の命令が衝突する場合、ときには法的権 利を無視して功利原理に従う義務があると論じているが、これはベンタムの議 論とは異なる。(p. 63)
例: 善き市民のモットー: 「きちんと従うこと; 自由に批判すること」→ 個人としての市民は、功利原理に従って法制度を自由に判断してもよいが、自 分の行為を法の要求に従わせるように要求される。(つまり、政府が不正だか らといって、ただちにそれに抵抗する道徳義務は生じない)
ケリーの結論:
ポステマが「功利主義的体系の枠内における権利という実践の正当化は、 功利主義的考慮に還元されなければならない」と論じるのは正しい。しかし、 ベンタムは個人による功利性の計算が道徳義務の根拠を与えるということは認 めなかった。そこで、ベンタムは、ポステマの言うような直接的な行為功利主 義論をとってはいなかった。というのも、功利原理は行為の理由の権威的源泉 authoritative source of reasons for actionではないからである。 (pp. 63-64)
社会的相互作用、そしてしたがって社会的福祉は、予期と予期-功利性を生 み出すような規則や規範の存在に依存している。もしも個人的行為者が社会的 福祉を最大化することを行なう義務を負っているとすれば、彼はこれらの社会 的規則に従うべきかどうかを常に計算しなければならなくなり、そしてこのこ とは予期の発達を損なうことになる。もし個人が権利を尊重するのは、功利性 の計算によって彼がそうすることが正当化される場合のみだとしたら、その権 利は予期の条件としての役目を果さないであろう。というのも、権利が行為の 権威的理由であるかどうかは、開かれた問いopen questionであり続けるから である。法的な規範や権利が権威的理由として機能しない限り、それらは予期 の源泉として機能しえない。(p. 64)
各々の状況において社会的福祉を最大化することを行なう義務は、固定し ている予期のパターンを立法家が無効にしなければならない可能性を常に開か れたままにするであろう。そしてこのことは、予期の安定性が依拠している立 法家の行動の規則性を損なってしまうであろう。行為の権威的理由のすべては、 行為功利主義的な理由に還元されうるものでなければならないが、このことは、 個人や立法家がすべての状況において社会の福祉の最大化を追求する直接的義 務を負っていることを含意しない。(p. 65)
この原理は「道徳の領域一般」および政府という特定の領域における正不 正の基準である、というベンタムの言明は、それが個人の行動の指導 guidanceのためではなく、単にその批判的評価 evaluationのための道徳基準であり、そして個人の行為から何を適 切に要求することができるかと、それを得るためにいつ道徳的サンクションを 用いることができるかを決めるものである、ということを意味しているものと 解さねばならない。これはベンタムによってなされた発言--たとえば、「人々 は一般に、この原理を採用している…たとえ自分自身の行為を命じるためでは ないにせよ、自分自身の行為や、他の人々の行為を判定するために採用してい る」(13頁)--と合致している。(Hart 1996, p. xciii)
ベンタムは、功利原理を「正と不正の尺度」と呼び、ある社会の法や慣習 道徳を判断するための基準を形作っているものとして考えているが、彼が責務 ないし義務(これらの語を彼は、ミルもそうしたように、等価なものとして扱っ た)が功利原理によって生み出されることはない、と考えていたのは明らかで ある。彼にとって、ある人がある仕方で行為する義務を持っているための必要 条件は、そのように行為しなかった結果、害悪を被る可能性が高いということ である。(Hart 1982, pp. 86-7)
すなわち、ハートによれば、
ハートの議論が成功するためには、ベンタムは功利原理が慣習的な道徳的 サンクションの存在とは独立の、行為の理由の直接的源泉であるとは考えてい なかった、ということでなくてはならない。しかしながら、ベンタムは次のよ うに書くとき、功利原理を行為の理由として確かに認めている: 「(自分を含 む)社会に対して、全体的にみて有益になると思われるすべての行為を、各人 は自分から行なうべきである」。彼は明らかに、功利原理へ直接に訴えること が行為する理由の源泉になりうると考えていた。したがって、ハートが、ベン タムは義務の間接的理論--これは通常、功利原理は道徳的義務の源泉であるよ うな規則を決定するための基準としての役割を果す、ということを含意すると 理解される--を持っていたと論じるのは正しくない。(p. 67)
ポステマもハートもだめ。ということは…→折衷案。
義務のサンクション理論は、行為の権威的理由の源泉としての功利原理と、 どのように調停されうるのか? 解答は、ベンタムの「べし」という語の使用法 において見出される。現代の倫理学説においては、「わたしはxをす べきである」という言明を、「わたしはxをする義務を負っ ている」という言明と等価であるとみなすことが、疑問に附される ことのない慣例となっている。この慣例は、一部にはカント流倫理の結果であ るが、それはまたキリスト教的自然法の伝統にも辿っていけるものでもある。 しかしながら、ベンタムの義務のサンクション理論を考えると、彼が「べし」 という語の使用に責務や義務の存在を含意していたようには思われない。した がって、慣習的な道徳義務は、権利と義務を与える制度や慣習を媒介にして、 功利原理と間接的につながっている。この限りにおいて、ベンタムは間接的な 功利主義的戦略を用いており、そしてこのことはハートの理論を支持する。し かし、ベンタムが「(自分を含む)社会に対して、全体的にみて有益になると思 われるすべての行為を、各人は自分から行なうべきである」と書いたとき、彼 はすべての個人がそのように行為する義務を負っていると論じていたのではな く、むしろ彼はすべての個人は必ずしも決定的な理由ではないにせよ、そのよ うに行為する理由を持っていると論じていたのである。この文脈における彼の 「べし」という語の使い方は行為の理由を意味しており、義務や責務の存在を 含意するカント的な強い意味ではない。こうした功利主義的な理由は必ずしも 決定的なものではなく、他方で功利主義的な正当化を伴なった制度から生じる 義務は決定的なものだと考えられる。(Kelly, pp. 67-8note6)
→批判「このケリーの主張や、君の注6は、ベンタム
内在的でない。ベンタム自身の発言も引用すべき」
→こだま「ごもっとも」
(1)は、明らかに「当人にそう行為する(あるいはしない)動機を与える」 という意味。しかし、(2)においても「行為の理由=動機」と考えるならばケリー の議論はベンタム解釈としては失敗←動機はサンクションによってのみ与えら れるから→もしそうでないとすれば、結局ケリーの言っていることはハートと 同じにならないか?
理由の二つの意味について。(Harrison 1998, IPML 32-33)
(ただし、功利原理に基づいた判断は、第一章で得られた知見を考慮すれ ば、「その行為は社会全体の幸福を増進するように思われる」という意味を持 つだけでなく、その行為に対する是認の感情をも伴なうわけだから、この是認 の感情がその行為をするためのある程度の強さの動機になるとも考えられる。 ケリーがこのことを指して「行為の理由」と言っているとすれば、彼の言って いることは正しいと言えるかもしれない)
(自分を含む)社会に対して全体的にみて有益であることが見込まれる行為 全ては、各人が自分から行なうべきである。しかしそのような行為全てを、立 法家が各人に行なうよう強制すべきであるというわけではない。(自分を含む) 社会に対して、全体的にみて有害であることが見込まれる行為全ては、各人が 自分から差し控えるべきである。しかしそのような行為全てを、立法家が各人 に差し控えるよう強制すべきであるというわけではない。(IPML 285)
→各人が常にそのように「すべき」なのも、立法家が常には各人にそのよ うに強制「すべきでない」のも、「社会全体の幸福を増進させる行為は正しい」 とする功利原理からの当然の帰結。何か特別な「行為の理由」が生じているわ けではない。
ハートの主張は、一つに、「個人は自己の快の増進を目 指す」という心理的快楽説と、「社会全体の快を増進する 行為をなすべし」とする功利原理との調停を意図したものであった。すなわち、 功利原理がわれわれに「社会全体の幸福を増進する道徳義務」を与えると考え ることは、「自分自身の幸福を増進する」ことしかできないとする心理的快楽 説と両立しない。それゆえ、功利原理は「個人の行動の指導 guidanceのためではなく、単にその批判的評価 evaluationのための道徳基準であり、そして個人の行為から何を適 切に要求することができるかと、それを得るためにいつ道徳的サンクションを 用いることができるかを決めるもの」と論じられたのである。(Hart 1996, pp. xcii-xciii)
ケリーの解釈による「行為の理由」としての功利原理と、 心理的快楽説は整合性を持つか? 「個人は自由に功利の命令を追求することができる」(p. 69)のか??
義務(政治的義務)という語が、わたしに対して用いら れたとき、その語がどのような意味を持つのかを、わたしはよく理解している つもりだ; …。わたしがすべき義務とは、わたしがそれを しなければ法によって刑罰を受ける見込みがあるというこ とである: これが義務という語の元々の、通常の、適切な 意味である。(FG 496)
三つの種類の義務を想定することができる; 政治的、 道徳的、そして宗教的義務である; それ らの義務を強制する三種類のサンクションに対応している: あるいは、同じ行為がこれらの三つの理由から、ある人の義務であるかも知れ ない。(FG 496c)
サンクションとは、義務的な力obligatory powersあるいは動機 の源泉のことである: すなわち、苦と快 の源泉のことである; 快苦は、それらがかれこれの様態の行為と結 びついているのに従って、動機として作用するものであり、 実際のところ、そう作用しうる唯一のものである。(IPML 34-35a)
(第一章の結論)ベンタムは、功利原理を、現にある法や道徳、すなわち実 定法や実定道徳を説明するために 用いたのではない。彼は、道徳判断における「是認の感情」を対象に備わった 功利性に基礎づけることにより、原理的には全員の判断が一致することを可能 にする批判的基準を提示したのである。
(第二章の結論)ベンタムの功利原理はある行為がなされるべきこと、また はなされるべきでないことを示すが、その行為をする道徳的義務ないし動機を 与えてくれるわけではない。ベンタムの「べし」「正しい」は、いかなる意味 でも「道徳的義務」を含まない。(保留)
→批判「一章と二章のつながりが明確でない。二本の論文をくっつけたようだ」
→こだま「ごもっとも。思い切って第一章はばっさり削る可能性も考えられる」
→批判「結局どちらもハートが正しいというのでは君の主張がないではないか」
→こだま「ごもっとも。
しかしハートの路線がだいたいにおいて正しいと思われるので、
ハートに対する批判を叩くのも重要だと考えられる」
→批判「修論なんだから、批判ばかりでなく、君自身のテーゼを出せ。
他の研究者に対する批判は、あくまで論文の薬味である」
→こだま「御意。(ただし、こうした固定した論文観には多少異論があるが…)」
→批判「ベンタム自身の引用が少ない」
→こだま「修論ではもっときちんと引用するつもり」
忠告「異なる解釈に関して図を書いてみるのも手。 また、自分のベンタム解釈にどのような長所があるのかを考えてみる。 最初と最後はきちんと書く」
(こだま さとし kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp)
1 R・ハリソンも、その著書において、ハートと同様の見解を述べている。 (see, Harison 1983, pp.110-111)
2 ヒュームの功利性も、ベンタムの(功利原理における)功利性も、 共に「公共の功利性public utility」を指しているということについては、 Rosen 1996, pp. liii-livを参照。
3 ローゼンは、より最近の論文でも同様のことを述べている。
この原理[功利原理]は、基礎ないし出発点としての役目を果たす以外に、ベン タムによって、「是認の感情」として、すなわち、ある対象に適用されたとき にその功利性を是認するものとして述べられた。(Rosen 1998, p. 133)
4 翻訳は、デイヴィッド・ヒューム著、『道徳原理の研究』、渡辺峻明訳、 晢書房、1993年(81-82頁)によった。ただし、原文では「効用」とあったのを 「功利性」に変えた。
5 ベンタムとヒュームのこの違いに関しては、ベンタム自身も自覚してい たようである。たとえば、ベンタムは1822年、デュモンに宛てた手紙において、 ヒュームは功利原理を「現にあるものを説明するために-- わたしはあるべきものを示すために」用いたとある(Dinwiddy 1989, p. 39, Harrison 1983, p.)。さらに、Article on Utilitarianism: Short Versionに おいても、ヒュームの功利原理を評価しつつ、次のように批判している。
近年まで法の領域においてはどうあるべき かがほとんど問題にされず、そして、それが実際に 問題にされた場合は、気付かれることなく、現にどうある かという問題といたるところで混同されてしまっている。そして、 このデイヴィッド・ヒュームの著作における道徳の領域に おいても、事態は同様である。(D 324)
6 今日用いられている道徳的な意味でのshouldやoughtなどが(道徳的)義務 の概念と密接に結びいていることに関しては、G・E・M・アンスコムの難解で あるが示唆に富む以下の論文も参照せよ。G.E.M. Anscombe, 'Modern Moral Philosophy', in Philosophy (1958), vol. xxxiii. no. 124, pp. 1-19. この論文の中で、彼はこのような道徳観を、「倫理の法 概念law conception of ethics」と呼び、キリスト教的世 界観の産物としている(p. 5)。
7 ベンタムに関するこれら以外の参考文献については、 http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/~kodama/bentham/biblio.htmlを 参照のこと。