本論

4. 第二の応答: 「『べし』は『できる』を含意する」について


4.1. 批判をかわせるかどうか

第一の応答のように利益の自然的調和説を仮定することなく、両立不可能性の 批判に答える別の方法がある。この応答は、すでに述べたように、「『べし』 は『できる』を含意する」という原則を問題にするものである。

その応答の骨子はこうである。たしかに、心理的利己説を前提するならば、あ る人がある行為をするか否かは、その行為がなされることに彼が利害関心を持 つかどうかによって決定される。したがって、彼がその行為に利害関心を持た ない限り(より正確には、その行為に利害関心をまったく持たないか、あるい は、「その行為をすると不利益になる」という負の利害関心を持つ限り)、彼 は本性上その行為をできないのだから、その行為は集団全体の幸福を促進する がゆえになされるべきであると言っても無駄である。だが、当の行為によって 彼に得られそうな利益を調整することにより、その行為がなされることに彼が 利害関心を持つようにすることは、常にではないにせよ、可能である。すなわ ち、たとえば法や道徳などの力で外部から彼の利益に影響を与えることによっ て、彼が自発的には行なうことのできない行為を「できる」 ようにすることは、常にではないにせよ、可能である。そこで、「『べし』は 『できる』を含意する」という原則における「できる」を、単に「自 発的にできる」を意味するものと考えるのではなく、この意味での 「強制すれば(すなわち、他の人が彼の胸中に十分 な利害関心を生み出すならば)できる」ということをも意味するもの と理解するならば、両立不可能性の批判は当たらないことになる。

このような応答はこれまでに、プラムナッツ1やハート やディンウィディといった研究者によって主張されてきたものであるが、クイ ントンの次の説明が簡潔である。

それゆえ、議論を一貫させるためには、心理的利己主義者でもある功利主義者 は、ある所与の状況において行為者に開かれている選択可能な行為の集合は、 彼自身の幸福に最も役立つと彼が考える単一の行為に――利己主義の原理によっ て――限られているわけではない、と言わねばならない。そして、これが、実 際のところ、彼らが通常することなのである。彼らにとって、行為者が できること――彼がそれをすべきだと言えるために必要と される意味において――は、サンクションを用いるならば彼に行なわせること ができることなのである。……。「人は、それをなすように仕向けられうるこ とをなすことができる」という原則に基づくならば、行為者が実際に行なうこ と以外にも、彼のなしうることはたくさんある。(Quinton 1989 6-7)2

通常、「『べし』は『できる』を含意する」の原則が意味しているのは、「行 為者がすべきだと言われうる行為は、行為者が選択可能である行為でなければ ならない」ということだと考えられるが、クイントンの言っているのは、功利 主義者は、その選択肢に「自発的になしうる行為」だけでなく、「強制される ならばなしうる行為」をも含めて考えている、ということである。そこで、 「『べし』は『できる』を含意する」の原則をこのように理解するのであれば、 本論のはじめに述べた「1. 人は、集団全体の幸福を促進すべきである」は、 「人は、自発的に、あるいは強制される(すなわち、それをすることが当人の 利益になるようにする)ことによって、集団全体の幸福を促進することができ る」ということを含意していることになる。したがって、この場合も、利益の 自然的調和説を想定した場合と同様に、ベンタムの規範的主張と人間本性に関 する主張が両立しないという批判は当たらなくなる。

ところで、この応答は、利益の自然的調和説を想定する第一の応答とはどう違 うのだろうか。いずれの応答も、両立不可能性の批判が、つまるところ、「本 人が自発的にできない行為をすべきだと言うのには意味が ない」と述べるものと考えているが、この批判に対して、利益の自然的調和説 の支持者は、「いや、彼はそのなすべきとされる行為を本当は 自発的にできるのだが、彼は自分の利益を見誤っているので、でき ないと思っているに過ぎないのだ。それゆえ、彼にそのなすべきとされる行為 が、本当は自分の利益になることを(法の力、あるいは議論 によって)悟らせればよい」と応答するものだと言える。

一方、第二の応答の支持者は、「たしかに、彼はそのなすべきとされる行為が 自分の利益になるとは思っていないので、現状では、彼はその行為を自発的に することはできないだろう。また、その行為は自分の利益にならない、という 彼の考えは、ときには誤っている可能性もあるが、実際に正しい場合もある。 しかし、それならば、法などの力を通じて、彼がその行為によって得られる利 益を調整し、そしてその結果、その行為は自分の利益にならないと思っている 彼の考えを変えることにより、彼がなすべき行為をすることができるようにす ればよいではないか」と応じるものだと言えよう。

つまり、前者が、現世においてさえ徳と幸福が本来は一致 するがゆえに、行為者は正しい行為をすることが可能だと論じるのに対し、後 者は、そのような仮定はせず、もし現世において徳と幸福が一致しないのなら ば、徳と幸福がなるべく一致するような社会的枠組を作ればよいではないか、 と論じるわけである。換言すれば、前者が、道徳的な行為(全体の幸福を促進 する行為)は、本来は常に、行為者にとって自愛の思慮に適う(自分の幸福を促 進する)行為であると論じているのに対し、後者は、道徳的 な行為は、必ずしも常には自愛の思慮に適う行為とは限らないが、人為的に自 愛の思慮に適う行為にすることができると論じているので ある。とはいえ、両者とも、「全体の幸福を促進する行為は、それが同時に自 分の幸福を促進しないと行為者には思われるのならば、彼はそれをすることは できない」という認識においては一致していると言える。


4.2. ベンタムのテキストに基づくかどうか

では、第二の応答は、どの程度ベンタムの考えにそっていると言えるだろうか。 すでに見たように、ベンタムが利益の自然的調和説を採用していたことを明確 に示す文章はないに等しいと思われるのに対して、彼が第二の応答の立場に立っ ていたことを示唆する文章は豊富にある。たとえば、彼は次のように述べてい る。

658. 功利主義は、道徳家と立法家のための唯一の適切な目的は、最大多数の 最大幸福だと述べる。
659. そして、あらゆる個人をその目的に向けて行為するよう仕向けることが できる唯一の手段は、当人の幸福だと述べる。すなわち、 動機として彼に作用する利害関心を示すかまたは生み出す かすることによって、彼がその目的に向けて行為するように仕向けるのである。 (D 60; cf. D 59-60, 62-3, 66, 71-2)

議論の余地のない事実、すなわち、いかなる人も、行為の瞬間にそれをするこ とが少なくとも彼の目に利益になる(「利益」という語に与えられる最も広い 意味で。とはいえ不適切な意味とは言えない)とは映らない行為を、これまで したことはないし、今後もすることもできないという事実に関して言うと、こ の著作の中でわたしが述べることはすべて、この根拠に基づいている。
ある人によって、別の人の行動は次の二つの方法のいずれかによって影響され うる。1. 影響を与える当事者が何もすることなくして、そう行動することが すでに自分の利益になることを彼に信じこませることによって。あるいは、 2. [影響を与える当事者が]何もしなければそう行動することは自分の利益に ならないであろうが、そう行動することが自分の利益になるという帰結をもた らすような、なんらかの行為をすることによって。一言で言うと、単に誘因 inducementsを示すか、あるいは誘因を生み出すことによって。(D 175)

これらは『行為の動因の一覧表』の草稿(marginals)や『倫理学』からの引用 だが、これらの引用から窺うことのできる「個人の利益を全体の利益に人為的 に一致させる」あるいはベンタム流に言えば、「利益と義務を一致させる」 (ex. D 63)という主題は、次の『憲法典の主要諸原理』からの引用 においてはっきり述べられている。

もし、……、統治者の立場においては、その立場がどのようなものであれ、い かなる人の行動も、いかなる瞬間においても、その同じ瞬間に自分自身の個人 的な利益になると当人に思われる事柄と対立しているような利益によって決定 されることは合理的に期待できない、というのが正しいのであれば、彼の行動 を普遍的利益に役立つような方向へ向かわせるには、人間の本性上、事柄の本 性上、統治者の特定の利益を普遍的利益と一致させることに存するような方法 を除いてはない。
そこで、ここにおいてわれわれは、先の二つの原理(功利性の原理と、自己選 好ないし身びいきの原理3)に加えて、三つめの主要原理 を持つのである。
これを手段指令Means-prescribing原理、または利益連結指令 Junction-of-interests prescribing原理と呼ぼう。
第三の原理を作るには、前者の二つを結合させればよい。
一つめは、あるべきことを宣言する。次のものは、現にあることを[宣言する]。 最後のものは、現にあることをあるべきことと一致させる手段を[宣言する]。
それでは、この利益の連結はいかにして達成されうるのか? 事柄の本性上、一 つの方法しかありえない。それは、その個人の立場のゆえに彼が影響を受ける かもしれないあらゆる邪悪な利益4の影響と効果を消滅 させることである。これが達成されたなら、彼はそれによって事実上、すべて のそうした邪悪な利益(利害関心)を失なうであろう。彼の行為を決定しうる唯 一の利益として残るのは、彼の正しく適切な利益のみである。その利益は、普 遍的利益の中にある彼の持分によって成り立っており、それは、全体として考 えられた普遍的利益と一致する利益と言うのと同じことである。 (FP 235; cf. FG 513-5)

以上のベンタムの言明から読み取ることができるのは、彼は「人はときに功利 性の原理に自発的に従うことができない」ということを十分に理解していたと いうことであり、しかも、それが自分の倫理学説に対する本質的な批判になる とは考えていなかったということである。というのも、彼は、彼の規範的主張 である功利性の原理(上の引用で言う第一の原理)と人間本性に関する主張(第 二の原理)を述べたさい、全体の利益と個人の利益の衝突が現実に起こりうる がゆえに、人々はときに功利性の原理に自発的に従うことができないことを認 めており、そしてそのことを認識した上でさらに、全体の利益と個人の利益の 衝突を解決する方法(第三の原理)を提案していたからである。そして、彼のこ の解決法が含意しているのは、明らかに利益の自然的調和説ではなく、むしろ、 功利性の原理の命じる「なすべき行為」の中には、選びうる選択肢として、 「自発的にできる行為」だけではなく、「強制されるならばできる行為」も含 まれている、ということなのである。


4.3. 功利性の原理は立法家のためだけにあるのか

このように、第二の応答はベンタムの言明によっても十分裏付けられるもので あると言える。しかし、この反論は十分満足の行くものだろうか。道徳家ない しは倫理学者は次のような不満をもらすかもしれない。すなわち、ベンタムの 倫理学説をこのように理解したとき、法や刑罰といった手段を用いて人々の利 益ないし利害を調整することのできる立場にある人々、すなわち統治に携わる 人々(公人)にとっては、功利性の原理は法や刑罰を制定するさいの指導原理と して有益かもしれないが、そうした手段を持たない個人(私人)にとっては、功 利性の原理はいったい何の役に立つのだろうか、と。ベンタムは功利性の原理 を「私的個人のあらゆる行為だけでなく、政府のあらゆる政策にも」 (IPML 12)適用されうる「道徳と立法の原理」だと主張していたので はなかったのか?

この不満に対する一つの答え方は、ベンタムの功利性の原理は、実際のところ、 道徳の原理というよりもむしろ「すぐれて統治の原理である」(永井 1982 8-9)と認めてしまうことだろう。言い換えると、たしかに功利性の原理はあら ゆる行為に道徳的な評価を与えるが、それは結局のところ、立法者の 視点に立った評価なのだ、と認めることである。実際、第二の反論 を支持するプラムナッツ、ハート、ディンウィディらは、多かれ少なかれこの ような見地に立っていると考えられる。たとえばディンウィディは、両立不可 能性の批判に答えて、次のように述べている。

……功利性の原理は、普通の個人がそれを用いて自らの道徳的行為を律するこ とが期待されるような原理として意図されていたのではない。それは、……、 立法家やその他の公的な立場にいる人々に向けられた指針preceptとして意図 されていたのである。もし普通の個人の行動が社会的視点 から――共同体の視点、そしてそれを運営する責任を持つ人々の視点から―― 眺められるならば、個人の行動が共同体における幸福の総量をどの程度増やす か減らすかによってその行動を正または不正と判断することは、ベンタムの考 えでは、意味があった。しかし、もし物事が個人の視点から考慮されるならば、 彼が心理的に拘束されている以外の何かを追求すべきだと 言っても意味がなかった。たしかにベンタムは、理性的な人ならば全員、最大 幸福原理が、社会全体がそれに基づいて運営されるべき原 理であることを認めるだろうと考えたが、彼は各個人が自分自身の幸福の最大 化以外の何かを目指すことは期待していなかった。(Dinwiddy 1989 29; cf. Ayer 1954 255; Plamenatz 1963 9-10; Hart 1982 xcii)

たしかに、ベンタムの関心が道徳よりもむしろ立法の問題にあったことは、疑 う余地がない。それは、彼の膨大な量の著作のそのほとんどが立法や経済など の社会政策上の問題に関わっていることを考えてみても明らかであろう。とは いえ、彼の倫理学説が統治に携わる人々たちのためだけに意図されたものであ ると考えるならば、それは行き過ぎであろう。というのも、彼の著作の中でも より道徳に関わるものを読むと、彼は、法や刑罰などによって新たな利害関心 を生み出すことのできない人々においても、功利性の原理がいくつかの仕方で 役立ちうると考えていたように思われるからである。功利性の原理が私人にお いても役立ちうる仕方として、次の二点を挙げることができる。

まず一つに、功利性の原理は、道徳の議論に客観的な基準を持ち込むことによっ て、「公共の道徳的議論」(Harrison 1983 189)を可能にする。このことは、 もちろん、政策決定の際にも有用な特徴だと言えるが、しかし、個人間の道徳 的議論においても等しく有用である。功利性の原理が個人間の道徳的議論にお いて持つこの利点は、『統治論断片』において、いわゆる悪法問題を論じてい る部分ではっきり述べられている。

わたしは、論争している当事者間の――ある法の擁護者とそれの反対者の間 の――議論は、もしも彼らが直ちに功利性の原理に明示的 に、そして恒常的に訴えさえすれば、現在よりも解決する可能性がはるかに高 いだろうにと、確信せずにはいられない。この原理がすべての議論を基礎づけ る立脚点は、事実問題のそれである。すなわち、未来の事実――ある未来に起 きうる事柄の蓋然性の問題を議論の立脚点とするのである。そこでもしも論争 がこの原理に助けられて行なわれたとすれば、次の二つの事柄のいずれかが起 きる。人々がその蓋然性に関して意見の一致を見るか、または彼らは、議論の 本当の根拠について然るべく議論をした後に、遂に、いかなる一致も期待でき ないことを知るのである。彼らはともかくも意見の一致 の基づく点を、明晰、明示的に知るであろう。(FG 491)

もしも道徳的議論が、つまるところ人がある行為に対して持つ確信や感情を表 明しあうだけだとすれば、意見の相違する人々は、「意見の一致に達する最小 の可能性すらなく、永遠にお互いをいらいらさせ、混乱させ続けるであろう」 (FG 492)。一方、功利性の原理に基づいて、道徳的議論の争点を、 未来の事実、すなわち、当の行為によって生じうる帰結をどのように予想する か、という点に絞るならば、意見の異なる人々は、少なくとも可能性としては、 同じ結論に達することができるだろう。このように、功利性の原理は、道徳的 議論に参加する人々の確信ないし信念を吟味するための客観的な基準を与える のである(cf. Austin 1995 54, 57)。

もっとも、ある行為の正しさについて、このようにして意見の一致が見られた としても、少なくとも議論の当事者の一方は、その行為をする十分な動機を依 然持たないかもしれない。しかし、先に見たように、ベンタムにとっては、 《ある行為がなされるべきかどうか》ということと、《ある人が、その行為に 対して、十分な動機(あるいは利害関心)を持つかどうか》ということは別の問 題なのである。だから、彼の考えではまず、その行為が正しいかどうかを決定 し、そして次に、どうすれば人々にその正しい行為をさせることができるかを 考えればよいのである。

また一つに、立法家以外の普通の人々であっても、他人の利害関心にまったく 影響を与えることができないわけではない。ベンタムは、人はたとえ法の力を 持たなくても、ある行為に対して別の人が持つ利害関心をある程度まで変える ことができる、と考えていた。彼は、立法家と違って法の力を持たない道徳家 あるいは倫理学者deontologistが、人々に正しい行為をさせるためになしうる 事柄を二つ挙げている。

660. 政治的権力を持たない単なる道徳家が、そのような立場において、一般 幸福を促進することのできる仕方。1. 存在している動機を示すことによって。 2. 新たな動機を作り出すことによって。
661. 私人である道徳家が、そのような立場において、この目的に向かって作 用する動機を作り出しうる役柄。この目的のために民衆的ないし道徳的サンク ションを用いる世論裁判所の、主要な構成員として。(D 60; cf. ibid. 67, 69-70, 205, 335-6)

要するに、一方で道徳家は、本人が考慮に入れるのを忘れているような、すで に存在している動機を指摘することによって、ある全体の幸福を促進する行為 が、同時に自分の幸福を最も促進するものでもあると彼を説得することができ る(あるいは、少なくともそう試みることができる)。他方、道徳家は、世論を 代表する一人として、その行為をすれば評価され、逆にその行為をしなければ 不評を買うであろうことを彼に表明することにより、彼の利害関心に影響を与 えることができる(あるいは、少なくともそう試みることができる)5。ベンタムの言う「道徳家」が具体的にどの範囲の人々を 指すのかはよくわからないが(おそらく道徳哲学に関する著作がある人々のこ とだろうと思われる)、道徳家が行ないうるとされる上の二つの事柄は、もち ろん、多かれ少なかれ通常の個人ができることでもある。

このように考えると、功利性の原理、およびそれに基づくベンタムの倫理学説 は、立法において有用であるだけではなく、道徳においても十分に有用である ように思われる。

以上、本章では、両立不可能性に対する第二の応答が有効であること、および それがベンタムの考えにそったものであることと、そして彼の倫理学説が立法 のために役立つだけでなく、個人の道徳のレベルにおいても有益であると考え られることを示した。


  1. プラムナッツは、1954年に出版された彼の著作、 The English Utilitariansにおいては、 「功利主義と利己主義は、もちろん、両立不可能な学説である」 (Plamenatz 1954 9)と述べ、 この両立不可能性の批判を他の研究者たちのように単に紹介するのではなく、 彼自身その批判を強く支持してもいた。 しかし、彼は1963年に出版されたMan and Societyにおいて もう一度この問題を取り上げており、 そこで彼は自分の以前の考えが誤りであったことを認め、 ベンタムの二つの主張の両方あるいはいずれかは、偽であるか、 または不適切であるかもしれないが、 少なくとも二つの主張は両立不可能であるわけではない、 と論じている(Plamenatz 1963 10)。 そして、彼がそう論じる根拠として述べているのが、 この第二の応答にそった議論なのである。
  2. 他にも、Hart 1982 xcii-xciii, Dinwiddy 1989 28-9など。 「……ある人に関して、それをするのが彼の利益に反するのに、 功利性の原理によって要求されるある行為をすべきだと述べることは、 つまるところ、 そのような行為を彼に要求することは適切でありうると述べることであり、 また、彼がそれをするようにさせることは適切でありうると述べることである」 (Hart 1982 xcii)。
  3. 本論文第二章注10参照。
  4. 本論文44頁の引用参照。
  5. さらに、ベンタムは、道徳家が行ないうるもう一つの事柄として、 ある行為に関して政府が法を制定するように働きかけることを挙げているが (D 205)、先の二つだけを挙げることが多い。

説明と弁明

この章は、先の両立不可能性の批判に対して、次のように答える。 「いやいやいや。 その批判は「できないことをすべしって言っちゃいけない」 っていう前提からしておかしい。 当然みんなの利害は対立するんであってさ、 ある一つの正しい行為に対して、 みんながみんなそれをやりたいと思う十分な動機を持ってるはずないわけ。 だから、できなかったらやらせちゃおう、 鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギスってやつで、 正しい行為が行為者当人の利益にすればいいわけでしょ。 そのために道徳的説得とか法的強制とかがあるんであって。」

利益の自然調和説が 「長い目でみると全体の利益を促進する行為が、 自分の利益を最も促進する」という経験的に怪しい仮定をするのに対して、 こちらはそのような仮定はいらず、 その分すっきりしていると言える。 (ただし、「強制」などという言葉を多用すると、 道徳的な色合いは減ってしまうかもしれない)

しかし、こういう議論をすると、 「じゃあ、功利性の原理は統治者とか権力者と呼ばれる人だけの道具なの?」 という反論が予想されるわけだけど、 4.3.で、 「いやいやいや。そうじゃなくって、「強制」っていっても統治者だけが 利害関心を左右できる力を持つわけじゃないの。 ぼくら平民の間でも、 議論してある行為をすることが行為者自身の利益になることを説得できるし、 また、そんな行為やったら村八分にするよっていう態度を示して、 行為者の利害関心に影響を与えることもできるわけでさ。 それに、功利性の原理を用いて議論すれば、 功利性の原理って客観的な基準だから、 道徳的議論がわかりやすくなるでしょ?」 と応答している。

ただし、功利性の原理以外にも客観的な基準はあるじゃん、 という批判もありうるが、それには今回は答えていない。 また、ディンウィディやハートらが、 功利性の原理を主に統治のための道具として捉え、 道徳における基準とみなさなかったのには、 何か理由があると思われるのだが、 そこも深く突込んで議論することはできなかった。 その意味で、4.3.はいささか表層的な議論と言えなくもない。



KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Wed Feb 3 13:11:58 JST 1999