ベンタムの規範に関する主張は、功利性の原理the principle of utility、も しくは最大幸福原理the greatest happiness principleとして知られている。 この原理は、ベンタムによると、「すべての状況において、人間の行為の適切 さを、適切に試すことのできる唯一の正と不正の基準」 (IPML 11 note a)である。では、実際のところ、われわれはこの基 準を用いてどのように行為の正しさを知ることができるのだろうか。そこで以 下では、主に『道徳と立法の諸原理序説』(以下『序説』)の記述に従い、太郎 と花子という二人の成員で構成されている集団において、功利性の原理によっ て行為の正しさがどのようにして決められるのかを見てみることにする。集団 の成員を二人に限定するのは、ベンタムの倫理学説においては、集団は二人以 上ならば何人でも基本的には同じことであり、それゆえもっとも少ない数で考 えるのが簡単だと思われるからである。
さて、今、お金に困った太郎が花子に借金を頼もうと考えており、花子に借金 を頼むことが道徳的に正しいのかどうかを知りたいと思っているとする 1。ベンタムによると、
すなわち、彼によれば、太郎の当の行為が、功利性の原理に適合していれば、 その行為は正しく(なされるべきであり)、そうでなければ、その行為は正しく ない(なされるべきでない)とされる。(もっとも、ベンタムはここで、功利性 の原理に適合していない場合については語っていないが、このように解釈して 問題ないと思われる。)功利性の原理に適合している行為について、人は、「それはなされるべき行為 である」、あるいは少なくとも、「それはなされるべきでない行為ではない」、 と常に言ってよい。人はまた、「それがなされることは正しい」、少なくとも 「それがなされることは不正ではない」、「それは正しい行為である」、少な くとも「それは不正な行為ではない」、とも常に言ってよい。(IPML 13)
では、功利性の原理とは何か、そして「ある行為が功利性の原理に適合する」 というのはどういう意味だろうか。ベンタムによると、
そこで、ベンタムによると、太郎が花子に借金を頼むという行為が、共同体の 幸福を増進させる傾向にあるなら、その行為は功利性の原理に適合しており、 それゆえ正しい。もしそうでなければ、その行為は功利性の原理に適合してお らず、それゆえ正しくない。功利性の原理とは、利害関係者の幸福を増進させるように見えるか減少させる ように見えるかの傾向に従って、ありとあらゆる行動を是認または否認する原 理を意味する。(IPML 12)
ある行為が功利性の原理、あるいは、簡略に、功利性(共同体全般に関する功 利性)に適合すると言われうるのは、当の行為が持つ、共同体の幸福を増進さ せる傾向の方が、共同体の幸福を減少させる傾向よりも大きいときである。 (IPML 12-3)
では、「共同体の幸福」とは何か。ベンタムは、『序説』の第一章においては、 「共同体の幸福」については説明しておらず、代わりに、「共同体の利益the interest of the community」という言い回しについて、こう述べている。
この説明から考えると、「共同体の幸福」とは、共同体を構成している成員、 すなわち今の場合では太郎と花子であるが、彼ら二人それぞれの幸福を合わせ たもの、ということになろう。そこで、ベンタムによれば、太郎の問題の行為 が正しいかどうかを知るためには、その行為によって太郎と花子の幸福の総和 が増加する傾向にあるのか、減少する傾向にあるのかを考えればよいことにな る。共同体とは、虚構的な集合体であり、それは、いわばその 成員とみなされる個々の人々によって構成されている。す ると共同体の利益とは何か? ――共同体を構成する各成員の利益の総和である。 (IPML 12)
さて、そうすると、太郎は、自分が花子に借金を頼むという行為が正しいのか どうかを知るために、その行為によって自分と花子のそれぞれの幸福が増える のか減るのか、そして二人の幸福を合計するとどうであるのかを考える必要が ある。しかし、そもそも「幸福」とは何か。さきほどから「幸福の総和」と言 われたり、「幸福の増進、減少」と言われたりされてきたが、その足したり引 いたり、増えたり減ったりする「幸福」とは何なのか。
ベンタムに言わせると、ちょうどポンドがペンスから成り立っているように (D 60)、幸福は快pleasureと安全security(すなわち、苦painから免 れていること)から成り立っている(IPML 34, 74)。つまり、幸福は 快苦に還元されて理解されるのである。
また、快と苦は「利害関心を引き起こす知覚interesting perceptions」であ るとされ(IPML 42)、ベンタムは単純な快と苦の種類として、感覚の快苦、富 裕の快、欠乏の苦、高名の快、悪評の苦、予期の快苦など、14の快と12の苦を 挙げている(いわゆる身体的な快苦のみにとどまらないことは言うまでもない)。 そして、それ以外の快苦はすべて複合的なものとされ、これらの単純な快苦に 還元されうると言う(IPML 42 par. 1 and note a)。
さらに、こうした個々の快苦は、その快苦の強さ、長さ、(それが得られる)確 実さ、(時間的な)近さ、多産さ(快の場合は他の快を伴なうかどうか、苦の場 合は他の苦を伴なうかどうか)、純粋さ(快の場合は他の苦を伴なわないかどう か、苦の場合は他の快を伴なわないかどうか)、広さ(影響を受ける人々の数) などの7つの観点から評価され、それぞれの快苦の価値は互いに比較可能であ るとされる(IPML 38-9)2。
また、ある行為や出来事によってある人がどの程度快苦を感じるかは、その人 の感受性sensibilityいかんによって変わってくる。そこでベンタムは、ある 人の感受性に影響を与える事情(たとえば、健康や金銭的な事情や知識の質や 量など)を、32に分類して説明している(IPML 51-73)。たとえば、花子が太郎 にある一定の額のお金を貸す場合でも、彼女の感じる快苦の量は、彼女自身も お金に困っているか、あるいはお金に何の不自由もしていないかで、当然異なっ てくるのである。
そこで、太郎は、以上のことを念頭において、当の行為によって自分と花子の それぞれの幸福が増えるのかどうか、そして二人の幸福の総和が増えるのかど うかを考えてみなくてはならない。そしてもし、彼が二人の幸福の総和が増え ると考えるならば、その行為をすることは(少なくとも彼の考えでは)正しいこ とになり、他方、二人の幸福の総和が減ると考えるならば、その行為をするこ とは正しくないことになる。
ところで、ベンタムによるこうした快苦の計算の議論には、これまでいろいろ な問題点が指摘されてきた。たとえば、快苦の強さはどのようにして測定でき るのか、個人間での快苦の比較はいかにして可能なのか、また、一個人におい てさえも、異なる源泉ないし原因から得られる快苦を比較することがそもそも 可能なのか、などである(こうした批判に関しては、たとえば、Hart 1962 461-3; Harrison 1983 148-51; Dinwiddy 1989 49-53を参照)。さらに、たと え仮にそれらの問題点を克服できたとしても、道徳判断の必要性が生じる度に、 問題の行為によってさまざまな人々に生じる快苦を、彼らの感受性まで考慮に 入れて正確に算定することは、ほとんど実践できるとは思えない。
ただし、ベンタムはこのような計算がすべての道徳判断や立法または司法行為 に先立って厳密になされなければならないと考えていたわけではなく、また彼 は、こうした計算は多かれ少なかれ人々が日々行なっていることである、と述 べている(IPML 40)。その一方で、お金を尺度にすれば、ある程度正 確な計算を行なうことができるという発想も、彼がかなり若いときからあった。 しかし、快苦が理論的には厳密に数値化されて計算されうる、という主張に関 しては、後年になるにつれて、撤回とはいかないまでも、かなり慎重になった ようである。(cf. Harrison 1983 154ff; Dinwiddy 1989 49-53; Kelly 1990 31-3)
けれども、こうした問題は最初に述べた本論文の主題とはかなり異なるものな ので、ここでは立ち入った議論はしないことにする。ただし、太郎が自分の持 つ二つの快をまったく比較できないとか、花子の快についてはまったく何も知 ることができない、と想定する十分な理由もないと思われるので、ここでは、 太郎は、たとえ厳密に数値化することはできないにせよ、自分のさまざまな快 苦の程度を知り、それぞれ(少なくとも主観的には)比較することができ、また、 花子の快苦の程度を推し量り、それを自分の快苦と比較することができると考 えて、話を進めることにする。もっとも、このような太郎の計算がときに間違 える可能性があることは言うまでもない。
以上、功利性の原理とそれを用いる仕方を簡単に説明してきたが、功利性の原 理とは要するに、利害関係者全体の幸福――快苦に還元されるような幸福―― を促進するような行為は正しく、またなすべきであるとする正と不正の基準で ある。そして、実際の行為が正しいかどうかを知るためには、われわれは当の 行為が利害関係者各人の幸福にもたらす影響を考察しなければならない。ベン タムは功利性の原理に基づいたこうした思考法が、政府の政策決定、悪政に抵 抗すべきかどうか、約束を守るべきかどうかなど、私的、公的に関わらず、行 為の正・不正が問題になるあらゆる問いに関して行なわれるべきだと考えてい た(cf. IPML 12)。
第一章は倫理的規範である功利性の原理の説明。 本論の議論のためには功利性の原理についての基本的な理解さえあれば十分なので、 あまり功利性の原理について詳しく論じる必要はないのだが、 論文の題名が題名だけに、ないがしろにするわけにもいかず、 一応ある程度説明を加えておいた。
なぜかこの章だけ太郎と花子が登場するが、 これは、「ある人が」とか「ある行為が」とかいうよりも、 具体的に論じた方がわかりやすいだろうし、 おれもその方が議論しやすいと思ったから。 しかし、第二章以降では、彼らは登場せず、 いささか抽象的な議論になってしまった。反省。 太郎と花子の対話で議論が進んだりするといいんだけどね。
修論書いた後に気づいたんだけど、
っていう訳は、今いち。第一文は、むしろ 「虚構的な身体bodyであり、 それは、いわばその身体の各部分membersとみなされる個々の人々」 と訳すべきところだろう。 ベンタムを勉強して3年経ってようやくこのことに思い至った。共同体とは、虚構的な集合体bodyであり、それは、 いわばその成員membersとみなされる個々の人々 によって構成されている。すると共同体の利益とは何か? ――共同体を構成す る各成員の利益の総和である。(IPML 12)
なんか、変な注が二つ付いている…。 一つ目は、「現にある法(実定法)」と「あるべき法」 を区別しなければいけないのと同様に、 「現にある道徳」と「あるべき道徳」も区別されなければならないよ、 っていう話。まあ、要らない注といえばそうなんだけど。 本文を書いていたら、ついこのことに思い至ってしまったので。
二つ目の注は、功利主義をよく知らない人ならおそらく、 「幸福=快」という説明を聞いたら驚くんじゃないかと思ったので、 一応、ありえそうな疑問に対して答えておいた。 まあ、ほとんどの人はベンタムと同様に「快は善いもの、苦は悪いもの」 って考えてると思うんだけど。 え? そんなことない?
この章以降で、「全体の利益の促進」と「全体の幸福の促進」という言い回しが、 ほとんど互換可能な意味で使われるんだけど、 幸福と利益の関係については (いろいろな人にちょっと気になると言われたにも関わらず) 結局何も書かなかった。
「利益」という語の説明は、第二章(2.2.)でされるが、 まあ簡単に言うと、「ある行為が太郎の利益になる」っていうのは、 その行為が太郎の幸福を促進する、っていう意味だと考えてくれればいい。