原題は John Wyndham, The Day of the Triffids, (1951) で、早川書房の『世界SF全集19』に入っている方の訳では『トリフィドの日』 (峯岸久訳)となっている(早川の方が古いらしい)。
the dayで「勝利」という意味もあり、物語の結末(第17章「戦略的後退」) を考えても、ウィンダムがこの語にその意味を含ませていることは間違いなさ そうである。しかし、日本語の「時代」と「日」のいずれにもあまり「勝利」 の含みはないので(前者には少しあると思う)、どっちが適切な訳語なのかはわ からない。好みとしては『トリフィド時代』か。
それはよいとして、以前にも書いたが、この本は小学生のときに学校で 「児童用SF全集」のようなもので読んだ記憶があり、さらに大変面白かった記 憶があり、かつ最近少なからず気になっていた本である。しかるに、先週のNF のときに、経済学部の建物の一階東側にあるトイレの側に「一冊10円: お代は 箱の中に」と書いてあるダンボールの一群をよだれを垂らしつつ漁っていた際、 この本を偶然--というか運命的に--見つけたのである。
舞台はイギリス。時代は1951年から見た近未来。各国の戦略用の人工衛星 が大量に打ち上げられ、西側と東側の冷戦が続いている。
生物学者のウィリアム・メイスンはトリフィドという食肉植物を研究して いる。トリフィドはソ連が生み出した植物で、良質の植物油を生産するが、根 を持ち上げて歩行することができ、さらに頭部から生えている猛毒の刺毛で動 物を打つことによって死に至らしめ、腐った死体を食物にしてしまう。
トリフィドが人間によって管理され栽培されている間はそれほどの危険は なかったが、地球を通過した大流星群を見た全世界のほとんどの人々が一夜の 内に盲目になってしまい、人々は突然盲目となった危険に加えて、トリフィド に襲われる危険をも合わせ持つことになる。
偶然一時的な失明をして病院にいたメイスンや、なんらかの理由で流星を 見なかった他の極少数の人々は盲目になることを免れ、社会の再建に乗り出す。
一部の人は小人数の集団を形成し、また一部の人は大人数の社会を形成し ようとする。キリスト教道徳を固持して生活しようとする集団もあれば、「新 しい状況には新しい道徳を」と唱えて新道徳の下で暮らそうと考える集団もあ る。
また、盲目になって困っている人々をできるかぎり助けるべきだと言う人 もいれば、彼らを助けたところで数日間の延命にしかならないので、放ってお くべきだと言う人もいる。挙げ句の果てには封建社会を建設しようと言い出す 人もいる。しかし他方では、任意参加(社会契約)による集団を形成する人々も いる。
このように、残った人々は生きるべき道を模索し、いつの日か再びトリフィ ドに占領された土地を取り戻すべくたくましく生きていく…。
・上の説明を読んでもわかるように、このSFは「H・G・ウェルズの流れを 汲む、思想的空想小説」(訳者あとがき)である。イギリスのユートピア小説の 流れにあると言っても過言ではないだろう。新社会や新道徳の構想など、倫理 学を学ぶ者としては非常に興味深いテーマがそこここに見られる。
・たとえば、主人公のウィリアム・メイスンが、これから取るべき道は、
のいずれかだと言うとき、ぼくは「あ、これライフボート・エシックスじゃ ん」とうなずくわけである。読み込み過ぎか。
・ちょっと反共くささがあって時代を感じさせるが、それ以外の点ではあ まり古びた感じを与える要素はなく、古典としての風格がある。文句なしの名 作。
再度読んでもおもしろい。
ただ、 これまでに読んだ彼の他の作品なども考慮した場合、 ウインダムの特徴の一つに、 主人公の性格付けが弱い、 という点が挙げられると思う。 常識的な性格をしているので、 感情移入することはたやすいが、 逆にあまり印象に残ることはない。 まあ、それが欠点だとしても、 発想の奇抜さやストーリー展開によって十分に補われていると思うが。
この本は訳がいまいちだし、 今は創元のもハヤカワのも絶版になってるみたいだから、 いつか翻訳してみたい欲望に駆られる。 ペンギンで原書が手に入るみたいだから、 今度丸善にでも行って見てこよう。 (01/26/98 追記)
コーカー:「相手にまじめにうけとらせるには、相手自身の言葉で話さなく ちゃならないことがわかっていないらしい連中が世間にはわんさといる。きみ がもし、しかつめらしい話をして、シェリーを引用すれば、相手はきみを芸当 をする猿かなにかのように、利口だとは思うだろうが、きみがいうことにはな んの関心も持たないだろう。きみは、相手がまじめにうけとる癖がついている 言葉でもって話さなくてはならないんだ。そして、これはまた、ほかの場合に も効き目がある。労働者の聴衆に話す政治的インテリの半分は、そのいうこと の値打ちを相手に伝えることができない--それは、連中が聴き手の頭では理解 できない高尚なことをしゃべるからというのではなく、大部分のものは声を聞 いているだけで、言葉を聞いていないからだ。そこで、聞いていることを大割 引きすることになる。なんだかへんちきりんで、ふつうの話とはちがうからだ。 そこで、おれは、自分のやるべきことは、ふたとおりの言葉がしゃべれるよう になって、正しい場所で正しい言葉を使い--そして、時には、まちがった場所 でまちがった言葉を、不意に使えるようになることだと考えた。」(pp. 243-244)
スティーヴンのガール・フレンド:「クリスマスまでには、アメリカ人がやっ てくるわよ」(p. 303)
ジョゼラ:「おお、ビル、わたし、どうしても……おお、あなた、わたし、 とても待っていたわ……おお、ビル……」(p. 325)
メイスン:「いたですね」(p. 378)
トレンス:「まあ、おききなさい、メイスンさん。もしも、われわれがいな かったら、あんなめくらたちは、今ごろは、ひとりだって生きてはいなかった はずですよ--その子供たちだって同様。われわれのいうとおりにして、われわ れが与えるものを食い、もらったものはなんでも感謝するのが、あの連中のつ とめです。われわれが提供するものを断わるというのだったらさよう、その場 合は、連中のおとむらいですよ」(p. 395)
ジョン・ウィンダムは1903年にイギリスのバーミンガム州のエジバスタン 生まれらしい。50年代に活躍。本書の他に『海竜めざめる』、『呪われた村』 などの翻訳がある。なお、この小説は63年に「人類SOS」(スティーヴ・セクリー 監督)という名で映画化されているらしい。
11/24/97-11/25/97
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