ウィリアム・ギブソンの処女長編(1984)。邦訳は1986年で黒丸尚という人の訳。
どんより濁った千葉シティの空の下、コンピュータ・ネットワークの織りなす 電脳空間を飛翔できた頃に思いをはせ、ケイスは空虚な毎日を送っていた。 今のケイスは、コンピュータ・カウボーイ能力を奪われた飢えた狼。 だが、その能力を再生させる代償に、ヤバイ仕事をやらないかという話が 舞いこんできた。きな臭さをかぎとりながらも、仕事を引き受けたケイスは、 テクノロジーとバイオレンスの支配する世界へと否応なく引きずりこまれてゆく…… 期待の大型新人が華麗かつ電撃的な文体を駆使して描きあげ、 ヒューゴー、ネビュラ両賞を独占した話題のサイバーパンクSF登場!(扉の要約から)
とにかく読みにくい。あまりの読みにくさのために、 読むのに1月かかってしまった。 おそらく訳があまり誉められたものじゃないんだろうと思う。ルビの嵐。 (一体どこが「電撃的」なんだ?)
英語でこれだけわかりにくい内容だったら、 ネビュラ賞、ヒューゴー賞、フィリップ・K・ディック記念賞、 SFクロニクル誌読者賞、オーストラリアのディトマー賞などの賞を 総ナメにすることはできなかったはずだ。 いつか原作を手に入れるべきだろう。
後半はある程度楽しめたが、 特に前半はわけがわからないまま、非常に苦労して読み進んだ。 日本でもこれが名作と言われてもてはやされているというのは謎だ。
巻末の解説(山岸真)には、 『ブレードランナー』や『トロン』や『ターミネーター』などの映画と この作品との類似性が指摘されているが、 気づいたときには既にサイバーパンク時代にいたぼくからすると、 むしろ『アキラ』や菊地秀行の作品などとの類似性を感じた。 とりわけ後半の電脳空間内の描写は、漫画あるいはアニメの『アキラ』の感じが ダブった。(もちろん、影響関係はギブソン→大友、菊地だが)
(そういえば『トロン』って小さいころに映画館に観に行ったなあ。 すごくつまんなかった記憶がある)
モリイ「若いうちって、自分だけ特別だと思うじゃない……。」(291頁)
モリイ「どうしているの、ケイス。《ガーヴィ》でマエルクムといっしょかな。 そうね。それで、これに没入(ジャック・イン)してるんだ。 こういうの、好きだな。だって、これまでだって、危ない橋を渡るときは、 いつも頭の中でひとり言を言ってたんだ。友だちとか、 頼りになる人間がいるつもりになって、 本当に思ってることとか、そのときの気分とかを言う。 それから、向こうがそれについてどう思うかを聞くつもりになって、 それを続けていくのさ。あんたにいてもらうのも、それに似てる。」(310頁)
"フラットライン"「ご立派。ケツからやれるのに、 まともに攻めるてのは昔から好きじゃないんだ」(361頁)
男「これ、テストかい。忠誠度テストだ。忠誠度テストに違いない」(368頁)
ニューロマンサー「ニューロは神経、銀色の径。夢想家(ロマンサー)。 魔道師(ネクロマンサー)。」(398頁)
01/13/98-02/15/98
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