原題は Fredric Brown, Martians, Go Home (1955) で、早川の初版は1976年(稲葉明雄訳)。
カリフォルニア州の砂漠の中の一軒家で、
SF小説の原稿に苦吟していた小説家ルーク・デヴァルウは、
世にも不思議な体験をした。
奇妙な緑色の小人が彼を訪ねてきたのである。
「やあ、マック」と小人はなれなれしく彼に話しかけた。
「ここは地球だろ?」
驚いて口もきけない彼に、
小人はおりから夜空にのぼっていた月を指さした。
「月が一つしかないもんな。ぼくんとこには二つある」
太陽系内で月を二つもっている惑星といえば、
ただ一つに限られてしまう。
するとこの小人は……火星人なのだ!
痛烈な風刺と軽妙なユーモアをもって描く
奇才ブラウンの古典的名作ついに登場!
(裏表紙から引用)
10億という数の性格の悪い火星人が突如地球上のいたるところに現れる。 彼らは、クイム(テレポート) することによって一瞬の内に好きなところへ行くことができ、 あらゆるものを透視する能力をも合わせもっている。 また、人間は彼らの姿を見、話し声を聴くことはできるが、 彼らに触れることはできない。 (したがって彼らも人間に触れたり、物を動かしたりはできない) だから、火星人に腹の立つことを言われても、 人間は彼らを殴ったり殺したりすることができない。
こんな火星人のタチの悪さを、 ブラウンは余すところなく描きだす。 まず、一切のプライバシーがなくなる。 人間は嘘を言うとたちどころに火星人によってばらされてしまうために、 不倫や詐欺はたちまちなくなってしまう。 男女がセックスをするためには、部屋をまっくらにし、 耳栓をつめて野次馬の火星人を無視しなくてはならない。 また、テレビやラジオは火星人に邪魔されて生中継ができなくなり、 ハリウッドは崩壊する。 軍事機密は漏らされるので戦争はできない。 あらゆる情報が白日にさらけだされてしまう。 さらに、火星人に対する恐怖のため、 経済は史上最悪の恐慌を迎える。
上のような、あらゆる情報が表に出てしまう状況というのは、 なかなか面白い。
さらに、後半では、唯我論(ソリプシズム)に関する議論が現われ、 火星人はすべてSF作家ルーク・デヴァルウの幻想ではないのか、 いや、そもそもこの世すべてが、ルークか、作者のブラウンか、 あるいは読者自身の作った幻想にしかすぎないのではないのか、 という疑問が提出される。 独我論という、難解な哲学的議論が、 非常にわかりやすい形で提示されている。 (ところで、このアイディアは、 筒井康隆の『エディプスの恋人』に使われているんじゃないかな)
前半の終わりあたりで少しだれる感じがしたが、後半は一気に読めた。 よくできた哲学的娯楽作品。知的興奮します。
スナイダー博士(唯我論について): ラテン語でただひとりという意味のソルスと、 自己という意味のイプセの二語をいっしょにした言葉です。 ただ自己のみ。自己こそが唯一の実在である、という哲学思想だな。 まずコギト・エルゴ・スム--我惟う、ゆえに我あり--から発した必然的帰結であり、 その論理性からして、二次的な段階をいっさい受けいれないものだ。 自分をとりまく世界と、そのなかに住む人びとはすべて、 自分自身をのぞくと、たんなる自分の想像の産物にすぎないという思想なのだがね。
Fredric Brown (1906-1972)
代表作: What Mad Univers (1949)
(邦訳名、『発狂した宇宙』)
04/07/98-04/11/98
B+