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(功利原理の証明)


ベンタムによると、行動の正・不正の評価の際に用いる基準は、功利原理と、それ以外に、禁欲原理the principle of asceticismと共感・反感の原理the principle of sympathy and antipathyがある(IPML, II, 2)。以下はベンタムによるそれら三つの原理の定義である。

(1)功利原理:「功利原理とは、利害関係のある人の幸福を増進させるように見えるか減少させるように見えるかの傾向に従って、ありとあらゆる行動を是認または否認する原理である。」(IPML, I, 2)

(2)禁欲原理:「禁欲原理とは、功利原理と同じように、利害関係のある人々の幸福を増進させるように見えるか減少させるように見えるかの傾向によって、あらゆる行動を是認または否認する原理である。しかし功利原理とは逆さまの仕方で、である。つまり、ある行動が幸福を減少させる傾向を持つ限りにおいてその行動を是認し、幸福を増進する傾向を持つ限りにおいてその行動を否認するのである。」(IPML, II, 3)

(3)共感・反感の原理1:「共感・反感の原理とは、ある行動を是認するか否認するかするとき、利害関係のある人々の幸福を増進させる傾向に基づいてではなく、かといって幸福を減じる傾向に基づいてでもなく、単にそれを是認したい、または否認したいと思うから、という理由に基づく原理である。つまり、その是認または否認をそれ自身で十分な理由となし、いかなる外的な根拠を探す必要も無いとする原理である。」(IPML, II, 11)

このうち(2)禁欲原理は、ある種の快楽は長期的に見るとより多くの苦痛を生み出す、と考えた一部の哲学者や宗教家たちが、快楽という名の付くものをすべて否定し、さらには苦痛を求めることにこそ価値があると空想するに至ったところから生まれた原理だ、とベンタムは言っている(IPML, II, 9)。彼によると、宗教家が苦行などという形で苦痛を求めるのは、そうすることによってより大きな苦痛(たとえば神による未来の刑罰という形の宗教的サンクション)を逃れることが出来ると考えているためである。また、哲学者がある種の快楽(たとえば肉体的な快楽)を避けるのは、そうすることによって他の種の・より大きな快楽(たとえば社会的な名声による快楽という形の道徳的サンクション)を得られると考えているためである。したがって彼らの「苦痛が善であり、快楽は悪である」という考えは、結局のところ功利原理を誤用したものに過ぎないのである。また、この原理を道徳と立法の原理として首尾一貫して用いることはできない、というのは明らかであろう。「もし地球上の人間全員のわずか10分の1がこの原理を一貫して用いたとしても、地球は地獄と化すであろう(IPML, II, 10)」とベンタムは述べている。

さらに(3)共感・反感の原理であるが、ベンタムに言わせれば「正・不正の基準に関してこれまでに作られてきた様々な体系は、すべてこの共感・反感の原理に還元(IPML, II, 14)」される2。これらの体系はいずれも、自分の感情のおもむくままにすべての行動を是認・否認することを、自然法やモラルセンスといった・存在を証明できないものの名の下に正当化しようとするものである。しかし、行動の評価基準になる原理とはそもそも、内的・主観的な是認や否認といった感情を保証し指導するものとして何らかの外的・客観的な理由を指摘するものであるはずであるのに、共感や反感といった感情をそのまま行動の正・不正の根拠あるいは基準と見なす共感・反感の原理は原理という名にも値しないものだとベンタムは主張する(IPML, II, 12)。つまるところ、これは「わたしの気に入った行動は正しく、わたしの気に入らない行動は不正である」という自分の独断あるいは偏見を何の客観的根拠もなしに正当化し、自分の意見を他人に押し付けるための原理なのである。しかし各人によってある行動に対する共感・反感の度合いは様々であるため、この原理は行動の客観的・普遍的な評価基準にはなりえないのである。

そこで(2)禁欲原理と(3)共感・反感原理が反駁され、最後に残った(1)功利原理が「道徳と立法の唯一の正しい原理」と呼ばれるわけである。

しかしなぜ、自分の幸福を最大化するように行動するわれわれが、各人は利害関係者全員の幸福を最大化するように行動せよと命じる功利原理を受け入れなければならないのであろうか。われわれがこの原理に従う必然性はあるのであろうか。

ベンタムによると彼の功利原理は他のすべてのことを証明する原理であるので、この原理自身の正当性については直接には証明しえない(IPML 13)。それゆえ彼は『序説』の第二章「功利原理に反する諸原理について」において、功利原理以外の行動の正・不正の基準すべてを反駁することによって、つまり消去法によって功利原理の正しさを示そうとする。ここではその議論には立ち入らないが、結局のところ彼が功利原理の正当性を示しきれているとは言い難い。しかし、


説明と弁明

途中で終わっている。この証明で問題なのは、はなから功利原理が正しいと仮定して他の道徳原理を反ばくしていることなの。それでは功利原理の正しさそのものは証明されない。それに消去法を行なうのなら、「一つは正しいものが必ずあること」と「これ以上他には道徳原理はないこと」を示さなきゃいけない。けど後者は非常にむつかしい。はっきり言って無理だ。


  1. あるいは気まぐれcapriceの原理、独断ipsedixit原理などとも呼ばれる。(IPML 21 c, D 32)

  2. たとえばモラルセンスということを言うシャフツベリー・ハチソン・ヒューム・スミスや、コモンセンスを説くペインやビーティ、その他悟性や自然法を判断基準に用いる思想家たちがやり玉に挙げられている。(IPML 26-28 d, D 39-55)


第1章――人間本性の理論と規範の理論


Satoshi Kodama
kodama@socio.kyoto-u.ac.jp
Last modified on 01/17/97
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