こだまの(説明と弁明の付いた)卒論 / ベンタムとかいう男 / こだまの世界 / メタメタ倫理学 / index

3.1.(1)刑罰を科すのが不適当な四つの場合(長々バージョン)


それでは次に法が個々人の行動に干渉すべきでない事例を具体的に見ていくことにする。ベンタムは二つの観点から法が干渉すべきでない、個々人の行動の領域を明らかにしようと試みる。一つは、『序説』第13章「刑罰を科すのが不適当な場合」で明らかにした、刑罰を科すべきでない四つの場合に、個人の倫理が干渉する余地があるかどうかである。もう一つは、先ほど区別した個人の三つの行動の領域(図2)におけるそれぞれの道徳的義務を各人が果たすために、法の助けがどれだけ必要かである。

まず、刑罰を科すのが不適当な場合に、個人の倫理が干渉する余地があるかどうかを考えよう。ベンタムによると、刑罰を科すべきでない事例――功利原理によって刑罰が正当化されない事例――は次の4つである。(IPML 159)

  1. 刑罰に根拠がないgroundless場合

  2. 刑罰が有効でないinefficacious場合

  3. 刑罰が不利益なunprofitable場合、または余りにも不経済なtoo expensive場合

  4. 刑罰が不必要なneedless場合

まず最初の、(1)刑罰に根拠がない場合とは、「刑罰によって防止されるべきいかなる害悪も存在しない場合であり、すなわちなされた行為が全体としては有害でない場合(IPML 159)」である。つまり当の行為が功利原理によって正しい(あるいは少なくとも不正でない)と判断される行為の場合である。これはさらに三つに分類される(IPML 159-160)。

a. 問題となる行為によって、誰に対してもいかなる害悪も生じなかった場合。これはたとえば、ある行為が通常は有害かあるいは不快と見なされるものであるとしても、利害関係を持つ人が、その行為がなされることについて適切な同意をしている場合などである。ベンタムは具体的には酒を飲むことや私通などを考えているようである。

b. 問題となる行為によって生み出された利益の方が、それによって生み出された害悪の価値を上回る場合。これはたとえば、差し迫った大惨事を防ぐための予防措置や、功利原理によって正当化される刑罰の執行などである。

c. 問題となる行為によって生み出された害悪に対する、適切な補償が確実にある場合。 これらのいずれの場合にせよ、刑罰に根拠がない場合は、個人の倫理が当の行為を禁止すべき理由――つまり自分からその行為をすることを差し控える理由――もない。なぜなら全体としてその行為には害悪がないからである(IPML 286)。

次に、(2)刑罰が有効でない場合とは、当の行為は功利原理によって不正であると評価されるが、「刑罰によっては害悪が防止できない場合(IPML 159)」である。これはさらに六つに分類される(IPML 160-2)。

a. 刑罰規定が行為がなされる前に制定されていない場合。これは次の場合である。1.遡及(事後)法ex-post-facto law、すなわち立法家が行為がなされてから刑罰を決める場合。2.超法的判決ultra-legal sentence、すなわち裁判官が自分の権限で、立法家が定めていない刑罰を決める場合。

b. 刑罰規定が行為より先に制定されていても、その公表が十分でない場合。

c. 刑罰規定の公表が十分であったとしても、刑罰が行為者の意志に対して何の影響力も持ち得ない場合。これはたとえば、幼児や、狂人や、ワインや阿片などの中毒にかかっている者などの場合である。

d. 刑罰規定の公表が十分であって、刑罰が行為者の意志に対して影響力を持っていたとしても、行為者がなす個々の行為に関しては、それを防止する効果を持ち得ない場合。これが起こるのは、1.意図していなかった行為をする場合、すなわち、たとえば人が大勢いるところを歩いていて他人の足を踏んずける場合のように、しようと思っていなかった行為を結果的にしてしまった場合や、2.状況に気付いていない場合、すなわち、たとえば山の中でたき火をしていたら山火事になってしまった場合のように、当の行為をなそうと考えていたが、その行為が害悪を生み出す傾向を持つ状況(要因)については考えが及んでいなかった場合や、3.状況の誤測mis-supposalをしていた場合、すなわち、たとえば医者がリスクの高い手術をして結果的に患者を死なしてしまった場合のように、当の行為が害悪を生み出す傾向を持つ状況には気付いていたが、その害悪が生じなくなるような状況か、あるいはその害悪以上の利益が生じる状況の存在を誤って仮定していた場合である。

e. 刑罰規定がそれ自体としては、行為者の意志に対して十分かつ有力な影響力を持っていたとしても、より大きな影響力を持った動機が反対の行為をするように行為者の意志に対して働きかけている場合。これは行為者がその行為をなすことで刑罰によって蒙る害悪よりも、その行為をなさないことによって蒙る害悪の方が大きいと考える場合である。これが起きるのは、1.物理的な危険がある場合(たとえば自分の家が火事になったので窓から隣りの家に許可なく避難する場合)や、2.脅迫されて為した行為の場合である。

f. 刑罰規定が行為者の意志に対して十分かつ有力な影響力を持っていたとしても、行為者の物理的な能力physical facultiesが意志の決定に従うことが出来ず、そのためなされた当の行為が全く自発的でないinvoluntary場合。これはたとえば、自分では触れたくないものに誰かに押されて触れさせられるとか、縛られているために触れたいものに触れられないとかいった、物理的強制または抑制がある場合がである。

以上の刑罰の有効でない六つの場合は大別すると二種類に分けられる。一つは行為の性質が問題なのではなく、a.やb.の場合などのように刑罰の方に問題があって刑罰が有効でない場合であり、この場合、当の行為は本来ならば適切な法によって禁止されるべき行為なのであるから、個人の倫理によっても禁止されるべき行為である(IPML 286)。もう一つは、c.〜f.の場合で、この場合は、法の強力な力によって禁止しえない行為は個人の倫理の弱い力によっても禁止し得ないので、個人の倫理の干渉する余地はほとんどないことになる。ベンタムは次のように表現している。

「法の雷(いかずち)が無力であるのならば、単なる道徳のささやきはほとんど影響力を持たない。」(IPML 287)

その次の(3)刑罰が不利益な場合とは、当の行為は功利原理によって不正であると評価される行為であり、刑罰によってその行為を防止することは出来るが、「刑罰によって生じる害悪のほうが、それにより防止される害悪よりも大きい場合(IPML 159)」である。これはさらに二つに分類される(IPML 163-4)。

a. 犯罪の性質と刑罰の性質を比較したとき、通常においては、刑罰の持つ害悪の方が犯罪行為の持つ害悪よりも大きい場合。

犯罪行為を含めた行為一般の持つ害悪は一次的害悪と二次的害悪に分類される(IPML 143-4)。一次的害悪とはある行為によって直接被害を蒙った人やその人と関係のある人々といった、特定可能な人あるいは人々に生じる害悪であり、二次的害悪とは一次的害悪から生じて、社会集団全体あるいは不特定多数の人々に対して――自分も同じ被害を蒙るのではないかという不安による苦痛などの形で――生じる害悪である。

他方、刑罰の持つ害悪は次の四つに分類される。1.強制あるいは抑制の害悪、すなわち、刑罰がある行為を禁止することによって人々に与える苦痛。これは法を守っている人によって感じられる苦痛である。2.不安の害悪、すなわち、ある人が刑罰を受けることを想像したときに感じる苦痛。これは法を破った人で、自分が刑罰を受ける危険があると考えている人によって感じられる苦痛である。3.苦悩の害悪、すなわち、ある人が刑罰を受け始めたときから刑罰そのものによって感じる苦痛。これは法を破った人で、実際に刑罰が科されることになった人によって感じられる苦痛である。4.派生的害悪、すなわち共感による苦痛など、上記の三つの場合に苦痛を蒙る人々と関係を持つ人々が感じる苦痛。

したがって個々の刑罰の持つこれらの害悪と、対応する犯罪行為の持つ害悪が比較考量され、一般的に言って刑罰の持つ害悪の方が大きければ刑罰を科すことは不適当であることになる。

b. 通常においては刑罰の持つ利益の方が刑罰の持つ害悪より大きいが、次のような偶発的な状況の影響によって、刑罰の持つ害悪の方が大きくなる場合。これが起こるのは以下の場合である。1.ある危機的な状況において、法律違反者が多数現れる場合。この場合、刑罰の持つ不安の害悪と苦悩の害悪のが異常なほどに増え、それにつれて派生的害悪の一部も増大する。2.ある犯罪を犯した者の社会に対する貢献性が、非常に価値の高い場合(たとえば政府で最も高い地位にある人)。この場合、刑罰の結果によって、社会はその貢献を受けられなくなることになりうる。3.ある犯罪行為あるいは犯罪者に対して刑罰が科されることに、民衆の不満が大きい場合。4.諸外国の政府の不興が大きい場合。

またベンタムは別のところで次のような分類も行なっている(IPML 287-9)。すなわち刑罰は次の二つのいずれか、あるいは両方の仕方で不利益になりうる。一つは刑罰の適用が犯罪行為を行なった者(有罪者)に必ず限定されていたとしても、刑罰を科すことによって生じる損失expenseの方が、刑罰を科すことによって得られる利益profitを上回る場合であり、もう一つは、犯罪行為の定義の難しさから無辜の者が刑罰を科される危険性があるため、刑罰が不利益になる場合である。前者の例としては私通が、後者の例としては裏切りtreacheryや忘恩ingratitudeが挙げられている。もちろんこの分類は先ほどの分類と矛盾するものではない。

いずれにしても、自分の行動を自分で指導する限りは、他人の行動を指導する際に生じるこういう害悪は生まれない。したがって功利原理から判断して不正である行動であっても、刑罰が不利益な場合に当てはまるのであれば、その行動は法によって禁止されるべきではないが、しかし個人の倫理によっては依然として禁止されるべき行動なのである。

そして最後の(4)刑罰が不必要な場合とは、当の行為は功利原理によって不正であると評価される行為であり、刑罰によってその行為を防止することは出来るが、「害悪が刑罰なしに防止されるか、ひとりでに収まる場合であり、つまり、より経済的に防止される場合(IPML 159)」である。これは、社会的に見て有害な行為を実践することをやめさせるのに、刑罰によるのと同じくらいの効果がより経済的な方法――つまり余分な苦痛を生み出さない方法――によって達成しうる場合であり、たとえば、威嚇terror(意志willに訴えること)によるのと同じくらいの効果が教育instruction(知性understandingに訴えること)によって達成される場合などがそれである。例を挙げると、社会的に見て悪い教えを説く個人あるいは集団がいる。もちろんその教えを説くことを法によって禁ずることも可能であるが、それよりはむしろその教えが誤っていることを議論によって暴き出し、悪い教えを説く者がその行為を自発的にやめさせるようにするか、あるいはその教えの誤謬を社会の他の成員に理解させることによって悪い教えが広まることを防ぐ方がより経済的だと言える。

ベンタムは刑罰が不必要な場合に個人の倫理が干渉すべきかどうかを『序説』では述べていないが、刑罰が不必要な場合に当てはまる行為は功利原理から考えるとやはり不正な行為なのであるから、法によっては禁止されるべきではないが、個人の倫理によっては禁止されるべきだと考えられる 。

以上、刑罰を科すのが不適当な四つの場合に、個人の倫理が干渉する余地があるかどうかを見てきた。そして結論として、法も個人の倫理も干渉すべきでない、あるいは行為がなされるのを妨げるべきではないのは、一つ目の刑罰に根拠が無い場合と二つ目の刑罰が有効でない場合であり、法が干渉すべきでなく、個人の倫理のみが干渉すべきであるのは、三つ目の刑罰が不利益な場合と四つ目の刑罰が不必要な場合であることが分かった。このことをベンタムは別のところで次のように簡潔に述べている。

「あらゆる刑罰に根拠がない場合、全ての刑罰に根拠はない。すなわち政治的サンクションによる刑罰も道徳的サンクションによる刑罰も科されるべきではない。同様に、政治的サンクションによる刑罰が有効でなければ、政治的サンクションよりも力の弱い道徳的サンクションによる刑罰も有効でない。しかし政治的サンクションによる全ての刑罰が不利益であったり、不必要であったとしても、道徳的サンクションが必要で、有益である場合は十分起こりうる。」(OLG 219)


説明と弁明



第1章――人間本性の理論と規範の理論


Satoshi Kodama
kodama@socio.kyoto-u.ac.jp
Last modified on 01/15/97
All rights unreserved.