直訳調です。
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ほとんどの近代人にとって、 変化をもっとも深く経験するのは、 自然における周期的な変化を経験することではなく、 また、一見変化しない世界の中で 変化していく自己を経験することでさえない。 むしろそれは、われわれを囲む社会的世界における変化を経験するという はるかに基本的なものであり、 人間たちが自分で住むために創造した世界、 歴史と歴史の諸制度の世界における変化を経験することなのである。 二世紀かそれ以上の間、 われわれの文化がますます自覚しているのは、 われわれの社会的世界の一見もっとも永続的な構造さえも、 決して神によって確立された永遠不変のものでもなければ、 事物の本性に備わっているものでもない、ということである。 むしろそういったものもまた、それらを創造しそこに住む人々と同様に、 歴史的であり、時と所の産物であり、 またそれゆえ、しばしば予見し難いが継続的である変容を受けるのである。
近代の男性と女性は、加速する万華鏡のような社会変化の中で今日まで生活してきて、 また今日も生活しているが、彼ら自身もその変化に巻き込まれているのである。 すべてのものは文字通り彼らの目前で変容する--彼らのまわりの世界、 彼らの都市、彼らの生き方、世の中における彼らの役割、 彼らの性生活と家族生活のパターン。 彼らが困惑するのは、彼ら自身の内的な人格性や彼らの価値や、 さらには彼らのアイデンティティさえもが、容赦なく変化するように感じられ、 またそれらが統一性を失い完全に失なわれてしまいさえすることがありうる、 と感じられることだ。 以前の歴史的時代区分、すなわち、 「世の中」における変化が非常に緩やかでほとんど知覚できないほどであり、 そのため連続性の感覚が優勢だった時代、 における経験と想定しうるものに対し、 われわれには構造の安定性は理念に思え、 変化あるいは過程こそがすべての事物の基本的現実のように思えるのである。 自分自身と自分の世界の現実を過程の中にあると考えるこの理解は、 われわれが見るように、 ほとんどすべての現代存在論や神学や社会理論の内にするどく反映されている。 その結果、変化を理解するという理論的レベルにおいても、 変化を経験し対処するという実存的レベルにおいても、 過程や歴史や新しきものや未来は、 現代性に関する特徴的な研究テーマとなっている。
変化する歴史的状況における人間の一時性は、 われわれの人間としてのあり方の条件を設定する。 したがってそれはまた、われわれの宗教的なあり方、 あるいは宗教的でないあり方の条件も設定する。 われわれの人間性やわれわれの行為やわれわれの宗教性や、 したがってまた、われわれの神学は、 われわれの歴史性と本質的に結びついている。
人間を他から区別するような特徴、
たとえばすばやく学習される__の言葉を所有していることや、
ゆっくり学習される数学を所有していることや、
法制度や詩歌や芸術を所有していることなどの特徴の中には、
過去について熟慮するという習慣がある。
すなわち、過去を思い起こし、
未来の予見とは無関係な動機でそれを調べるという習慣である。
(ここまでは訳す必要なし)
知的であるが人間ではない動物は過去から学習し、
自分の過去から彼らは自分の行動をコントロールする際に用いる
連想?を獲得するのである。
しかし、
人は単に過去を表わしているからという理由だけで写真を保存することがありうるが、
そういった動物たちがそれと同様に自分の精神を記憶の中に浸らせたり、
自分の記憶を単に記憶として愛おしんだり保存したりする、
あるいはそうできる、という証拠は全く存在しない。
写真は外的世界の装飾__の一部である。
たとえわたしがわたしの記憶をなんらかの形で他人に伝えることを選んだとしても、
わたしの記憶はわたしだけのものであり、
わたしの内的生活の事物である。
わたしの記憶は、意識的なものにせよ無意識的なものにせよ、
わたしの経験の連続性を保存しており、
それらは全体としてのわたしの生活にある統一性と単一性を与える。
そっくりの双子でさえ、視点の違いや偶然的な__場所の違いのために、
同一の記憶を持つことはない。
われわれのほとんどは、
自分のものであり他の誰のものでもないと自分にわかっている一群の記憶を
持っている。
自分自身の単一性の感覚は、ときに同一性の感覚と呼ばれる。
ある人が、他の誰も経験していない経験を持っているために、
自分は他の誰からも異なると考えるとき、
その人は自分の単一性について考えているのだ、
と言ったほうがおそらく良いであろう。
一個人の同一性は単一性、
すなわちその人が他の誰とも異なるということを含意するが、
しかし、同一性はまた、
たとえばその人が自分の存在を通じてずっと適用しうる一つの名前を持つことを
正当化する自分の存在の連続性ということをも含意するために、
その概念の範囲と力点は異なるのである。
もしある人が存在と非存在の間を行ったり来たり__するように思えるのなら、
その人の同一性は疑問であり、
またその人はその都度ごとに単一であることになろう。
(ここからは訳す必要なし)
もしスティーヴンソンのジキルとハイドが同一性について考える時間を
持っていたとしたら、彼らが自分の経験の非連続性のために
自己同一性の危機によって苦しんだことは間違いない。
しかし、ジキルもハイドも、物語によれば、
自己の単一性すなわち自己の判明な個性と記憶の特有性を疑う理由は
持たなかった。
個別性の概念は単一だという観念、あるいは
あるいは重要な点で特有だという観念を含意し、
また明確な同一性を持っているという観念、すなわち、
適切な仕方で--適切な仕方で、とはすなわち、
その個人が属している種に対して、ということである
--連続している歴史を持っているという観念も含んでいる。