直訳調です。
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芸術は聖なる行為たりうるか? まさにこの問いの立て方においてこそ、 神聖さと美しさをつなぐ道とその境界についての問題が、 現象学者にもっとも明確な形で提示される。 このような問いの立て方をするということはすなわち、 美しきものについての哲学的な定義を与えようとはしないということであり、 また、「自然はその本質において美しいのか、 あるいは知性がそれ自身の美しさを自然のうちに読みこむのか」 というような問いにわれわれは専念しないということである。 これらは美しきものの絶対的価値についての問いである。 いいかえると、美しきものについての形而上学に属する問いである。
われわれの関心は、美しきものそれ自体にではなく、 美しきものがわれわれの心をゆさぶり、 われわれの心を通じて表現を見出す仕方にある。 美しきものの印象と表現をわれわれはふつう芸術と呼ぶ。 もちろんわれわれはこの語を専門的な意味で用いているわけではなく、 芸術の実践にさえ関心があるわけではない。 風景の美しさに見入る者はだれでも、美しきものを経験する。 それに加えて、その風景が美しいと言えて、 どういう点で美しいのかを言える者はだれでも、 すなわち、自分の経験を表現できるものはだれでも、芸術家である。 これができない者は、 自然の美しさを芸術作品の美しさを知覚するのと同じ仕方で経験している。 そのような者は、両方の場合において、 美しさそのものではなく、むしろ美しさの経験に関心を持っている、 すなわち、潜在的(印象主義的)であろうと、 顕在的(表現主義的)であろうと、芸術に関心を持っている。
われわれは、美しさと神聖さとの関係についての問いを、 人が経験するかぎりでの美しさと神聖さの関係の分析に限定する。 つまり、聖なる行為と美しき行為、すなわち芸術とに限定する。
それゆえ、われわれはこの関係が 「芸術は聖なる行為たりうるか?」という問いによってしか把握しえないことを、 聖なるものについてわれわれが用いるまわりくどい表現から見てとる。 これを逆さにした「宗教は芸術たりうるか、あるいは芸術に帰着するか?」 という問いは、聖なるものを「完全に他なるもの」であり「完全に妥当なるもの」 としたわれわれの定義からして、受けいれがたいものになる。
14世紀、15世紀、 16世紀の知的状況についての研究が深まるにつれてますます明らかになるのは、 この重要な変革の時期が一つのまとまりをなしているものとして 考えられなければならないということである。 「後期中世」と名付けられた思想家を、「ルネサンス」、「宗教改革」、 あるいは「初期近代」と名付けられた思想家から分かつ旧来の壁は、 これらすべてのグループにわたる連続性と相互依存性の証拠の下で、 ガラガラと崩れさる。 この時期を貫いた大局的な見方をする必要がもっともあり、 またそのための文献的基礎がもっとも確立しているのは、 神についての問いである。 というのも、 近代哲学においてかくも大きな創造的努力が神の問題に注がれたことを 理解するには、 その揺籃期を通じてとくにこの分野においてすべての種類の思想家が 共通して感じていた困難を頭に入れておく必要があるからである。
とりわけスコラ学者について言えば、 トマス主義、スコトゥス主義、そして唯名論という伝統的な学派の歴史を彩る 教義的混乱と果てしない論争が頂点に達したのは、 神の存在と本性においてであった。 論点は、神が実際に存在するかどうかとか、 通常神に帰せられる属性を有するかどうかということではなく、 これらの真理を哲学的な手段によって知ることができるかとか、 どのように推論を確立すべきかということであった。 論争における中心的問題には、 神の理性的探究に対して信仰がなす、あるいはなさねばならない貢献とか、 自然哲学から援用される議論の範囲ということがあった。 自然的理性によって厳密な因果的論証ができることを否定した オートルクールのニコラウスに従うことを拒んだ者でも、 かならずしも意識することなしに形而上学的基盤から 自然学的基盤に議論を移行させてしまうことがしばしばであった。 神の存在を確立するために自然哲学に頼れば頼るほど、 彼らは推論を信仰に基づかせるか、 一連の純粋に形式的な分析によって長々と論証する必要に迫られた。 しかし、形相的本質についての概念的弁証法に彼らが頼ればそれだけ、 彼らは神の哲学からその存在的基盤を奪ってしまい、 また自然学における新たな進展の哲学的意義をも失なってしまいがちであった。