(しれいしゅぎ prescriptivism)
The person who thinks that the fact that an act would be wrong is no reason at all for not doing it shows thereby that he has not fully grasped the meaning of the word. He may have grasped its descriptive meaning, so that he is able to apply it infallibly to the right actions, according to the current moral conventions; but there is another part of its meaning, the prescriptive or evaluative, which he has not grasped. Descriptivism of any sort, if absorbed and practised by any section of society, will lead to the adoption by them of a `So what?' morality; they will be able to say `Yes, I know it would be wrong: so what?'.
---R.M. Hare
道徳判断は、(記述的意味だけでなく) 指令的意味 (prescriptive meaning)を持つとする理論。 ヘアがその主唱者。
指令的意味とは、たとえば「人の物を盗むべきではない」と言った場合に、 その発言に含まれているとされる「人の物を盗むな」という命令のことを指す。 ヘアの考えに従えば、もし太郎が「人の物を盗むべきでない」と言い、 花子がその発言を受けいれたならば、花子は同時に 「人の物を盗むな」という太郎の命令をも受けいれたことになる。 だから、花子がその発言を受けいれ、しかも人の物を盗んだとすると、 花子は実はその発言を真剣に受けいれていなかったか、 あるいは論理的な矛盾を犯していることになる。
指令主義によると、「〜すべきだ」という道徳判断は、 このように「〜せよ」という命令を含んでいるが、 それに加えて普遍化可能性 (universalisability) という特徴を持つとされる。 これは要するに、われわれは道徳判断に関しては、 等しい状況においては等しい判断を下すことが要求されるということである。 たとえば、 ある状況Aにおいて太郎が花子に「人の物を盗むべきではない」 と言うならば、状況Aと重要な点でよく似ている状況Bにおいて、 太郎が花子に「人の物を盗むべきだ」と言うと、太郎は矛盾を犯すことになる。 また、太郎と花子に道徳的観点からして決定的な違いがないとしたら、 状況Aにおいて太郎が花子に「人の物を盗むべきではない」と言い、 同時に太郎が自分に「人に物を盗むべきだ」と言い聞かせることも、 やはり論理的な矛盾を犯していることになる。 この特徴は普通の命令にはないとされ、 普通の命令文と道徳判断とを区別するメルクマール(指標)になる。
ウォーノックは指令主義のテーゼを 「道徳判断は(1)指令的で(2)普遍化可能である」と定式化したのちに、 道徳判断は必ずしも常には指令的ではなく、 また必ずしも常には普遍化可能性を要求しないと批判している。 それについてはまた。
ウォーノックによれば、
指令主義のテーゼは二つの仕方で解釈できる。
(1)すべての道徳的談話は指令という発話内行為を行なっている。
(2)道徳的談話は行為と相互的依存関係を持ち、
この関係は道徳的談話の持つ指令性によって説明される。
ウォーノックによれば、(1)の説明は明らかにあやまっている。 というのは、道徳的談話はさまざまな状況で行なわれ、 必ずしも常に指令という発話内行為を行なっているとは言えないからである。 たとえば、わたしがあなたに「お金を盗むべきではない」 と言えば、わたしはあなたに指令していると言えるだろう。 しかし、わたしがあなたに 「ジンバブエの黒人は白人の農地を占領することをやめるべきだ」 と言う場合、わたしはあなたに指令しているとは言えないだろう。
(2)に関しては、 道徳的談話が行為と密接な関係を持っているという指摘は正しい。 たとえば、あなたが「投票に行くべきだ」という道徳的発話を受けいれるならば、 あなたは実際に投票に行かなければならず、逆に投票に行かないならば、 あなたはその道徳的発話を受けいれなかったことになる。 けれども、このように発話と行為に相互依存関係があるという事実を、 「発話が指令性を持っているからだ」と説明するのはまちがえている。 というのは、 発話と行為の相互依存関係は発話の持つ指令性以外の仕方でも説明でき (たとえば、「わたしは人が殺されるのを見たくない」 という発言する人が、 ギロチンによる公開処刑をいそいそと見に行くなら、 その人は本気でその発言をしたとは考えられない。 しかし、この発話と行為の関係は、 発話が指令性を持つという仕方では説明できないであろう)、 実際のところ、多様な状況においてなされる道徳的発話は、 いろいろな仕方で行為と依存関係を持つと考えられるからである。
(1)と(2)に共通する批判は、 道徳的発話はヘアが考えている以上にさまざまであり、 「指令性」という概念一つでもって説明するのは不可能だということである。
ウォーノックの「普遍化可能性」についての批判はまた。
(28/June/2000)
参考文献
21/June/2000
上の引用は以下の著作から。