加藤尚武

(かとうひさたけ Kato, Hisatake)

自由主義の原則は、要約すると、 『(1)判断能力のある大人なら、 (2)自分の生命、身体、財産にかんして、 (3)他人に危害を及ぼさない限り、 (4)たとえその決定が当人にとって不利益なことでも、 (5)自己決定の権限を持つ』となる。

---加藤尚武

「ミルの功利主義的自由主義の限界を明らかにすることが、二十世紀の英米の 倫理学が行なってきた主要な仕事であり…欠点だらけの功利主義的自由主義に しか倫理学に未来がないという危機を、マルクス主義はすっかりダメだと捨て た上で受け止めなくてはならない。

---加藤尚武

「I 抽象的な権利」。言葉の成立事情は後で説明するが、 ここで「抽象的」というのは、「個体化されている」という意味である。 だから「抽象的な権利」というのは「個人の権利」という意味である。 これを「抽象法」と訳したのでは、まるで抽象画の描き方みたいで、 何のことだか分からない。「個人の権利」の内訳が、「所有」、 「契約」、「私権の侵害」となっている。 「権利」と訳せばすらすらと分かることが、 「法」と訳したのではオマジナイみたいになる。 そしてオマジナイの方を「根源的洞察だ」と思って有難がる風潮がある。 正体はただの誤訳である。

---加藤尚武

エゴイズムに基づく好意だからといって、市民道徳に反するとは言えない。も ちろん、人間にエゴイズムを完全に捨てなければ道徳的になれないと説教する 倫理学が存在してもいい。しかし、その倫理学は大多数の人間にとって無縁で ある。

---加藤尚武

「しかし、最大幸福原理には誰も反対できないような説得力がある。「いいじゃないの幸せならば」という歌謡曲があるが、自由でも不自由でも、平等でも不平等でも、「いいじゃないの幸せならば」。ここに功利主義のしぶとい強みがある」

---加藤尚武

何を目標とするかは倫理問題である。どの目標が到達可能であるか技術は技術 問題である。技術は一般に選択可能性の幅を広げる。倫理とは選択可能なもの のなかから最善のものを選択する方法である。

---加藤尚武

恐れなければならないのは、ハイデガーの技術論という研究領域が 「裸の王様」状況になることである。 「裸の王様」状況というのは(…)、 一見、有意味な言葉のやりとりがなされているかのように見えて、 実は誰もが「分かったふり」をしているという状況[である]。
たとえば「アドルノの思想における否定性」という博士論文の審査会で、 それではこのテキストを訳して説明してくださいと誰かが言い出せば、 審査員も論文提出者もしどろもどろになるという状況が現実にある。 それぞれの側でテキストが読めないという現実はひた隠しにする必要があるので、 双方ともに分かったふりをして、 「厳重な審査の結果、適格と認められた」という報告書が書かれる。 これが「裸の王様」状況である。
博士論文審査、学会報告、研究会報告、修士論文審査、 学士論文審査など、哲学系のあらゆる研究の場で「裸の王様」状況が 存在している可能性がある。

---加藤尚武


現代日本の思想家。京大名誉教授、現鳥取環境大学学長。 ヘーゲル哲学の大家であると同時に、 生命倫理学や環境倫理学などの大家でもある。 難解な哲学を一般市民にもわかる言葉で説明できる、日本では非常に貴重な存在。

主著は『ヘーゲルの「法」哲学』、『応用倫理学のすすめ』、 『ジョークの哲学』など。


ちなみに、筆者は学部三回生から修士課程を通じ、 博士課程二回生の終わりに先生が退官されるまで、 加藤先生のお世話になった。 感謝にたえない。

学部二回生のときに『現代倫理学入門』の前身である 『現代倫理学の基礎』を読んで先生の授業に出ていなかったら、 倫理学をやることはなかったであろう。 日本ではあまり流行っていない功利主義に 対して興味を抱いたのも、『現代倫理学の基礎』や 『応用倫理学のすすめ』あたりを読んだからのように記憶している。 そうでなければ、今ごろせっせとカントの著作を 読んでいたかもしれない。

ヘーゲルやシェリングなどのドイツ観念論の おもしろさに目を開かされることはついになかったが、 自分で読んだだけでは意味不明の超難解テキストを、 あたかもそれが小学生の国語のテキストか何かであるかように 平たく説明する能力には大いに感銘を受けた。

10/Jun/2001


加藤尚武のホームページ

上の引用は下記の著作から。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Mon Oct 12 08:19:37 JST 2015