(おうごんりつ the golden rule)
So in everything, do to others what you would have them do to you, for this sums up the Law and the Prophets. (Matthew 7:12)
Tricky one, this. If I were to try and treat others as I want to be treated myself, I would need to be massaging everyone's feet with oil, paying particular attention to the spaces between their toes. At the same time, I would be bringing them an almost continual stream of toast soaked in butter and heavily laden with honey. I would then talk to them at great length and with total sincerity about how much I respected their professional work, admired their social skills and envied their rugged good looks and superb physique. I would then admit to having a lifetime crush on them and volunteer to serve them in anyway possible. I suppose that's why it's called the golden rule, because, like gold, it doesn't occur naturally very often.
---Guy Browning, `Angelic Upstarts' in The Guardian: Weekend, 02/Jun/2001, p. 44.
「人になされたいことを人になせ (自分が他人にしてもらいたいと思うことを他人にしなさい)」 という形式で述べられる教えを、 一般に黄金律と呼ぶ。聖書(マタイ7:12、ルカ6:31)の言葉が有名だが、 それ以外の宗教でも同様のことが述べられている。 また、『論語』(15:23)においては、 「人になされたくないことを人にするな」 という否定的な形で述べられている。
黄金律は一般に道徳の基礎となる重要な規則と考えられており、 また、カントは 定言命法を黄金律の基礎を提供するものと考えていたようである。 (野田又夫編、『カント (世界の名著)』、中央公論社、1979年、275頁、註2) ホッブズも 自然法は黄金律によって要約されると考えている (『ホッブズ (世界の名著)』、184頁)。 ミルも黄金律が功利主義の要点を述べていると考えている (『ベンサム ミル (世界の名著)』、478頁)。
もっとも、黄金律を用いれば大抵の場合はうまくいくとはいえ、 これだけで道徳のすべてが尽くされるとはとうてい言えない。 その一つの理由は、他人と自分では、してもらいたいこと、 あるいはしてもらいたくないことが異なるかもしれないからである。 (この批判については、加藤尚武、『現代倫理学入門』、講談社学術文庫、1997、 135頁以降を見よ)。
たとえば、わたしは自分の体重を人に知られてもまったく構わないが、 だからと言って知り合いの女性の体重を人前で大声で言ったら、 わたしはその女性に絶交されるであろう。 この場合、「人になされたくないことを人にするな」 という規則だけでは不十分であり、 「もしあなたがその人の立場にあるならばなされたくないことを、 その人にすべきではない」と述べ直す必要があるであろう。 すなわち、わたしは自分が何をなされたくないか、を考えるよりも、 「相手の立場に立つならば」何をなされたくないだろうか、 と考えなければならないのである。
20/Feb/2000, 10/Dec/2002