ベンタム『倫理学』部分意訳


功利性は利己的ではない

599. 功利性は、独断主義ipsedixitismによれば、利己的なんじゃと。

600. しかし最大多数の最大幸福という原理は、利己性とはまるで反対じゃ よ。

601. 「功利原理とは利己性のことであり、それを説く人々は利己的である」 と何もわかっとらん夢想家は言うがの。ほほほっ。

602. これまでに見たように(vide supra)、功利原理に対する偏見は、道徳 感情主義者sentimentalistたちによって培われてきたのじゃ。これらの偏見に 対して功利主義者は逐一反論を行うぞよ。

603. 同様にじゃ、これらの偏見の多くが生み出される源である「よこしま な利益sinister interests」に対しても、功利主義者は攻撃を加えるぞよ。

604. 功利主義者が自分の「よこしまな利益」を得ようと努力することは、 決してないぞよ。道徳感情主義者は、しばしばそう努力するがの。また道徳感 情主義者は、私欲を否定せよとか寛大であれとか、いろいろと説教するのじゃ が、それは他人にそういった行為をさせることで、自分が得をしようという魂 胆なのじゃ。ほほほ。

605. 道徳感情主義者が「(自分の利益に逆らうように行動しなさいというのは、 一貫して行い得ないので)偽善だ」というそしりを受けないで済まされるとし たら、それはただただ「だって人間って弱いでしょ」と言い訳することによっ てのみなのじゃ。

606. 道徳感情主義者によれば、功利主義は利己性を認めていると非難されるの じゃ。「利害という源泉から、功利主義者が考えることすべてが生じてくる―― 功利主義者は、私欲の無さについては関心を持たない」とな。

607. 「われわれ道徳感情主義者にとっては、自分というのは関心の対象ではな い。おまえ(功利主義者)は丸ごと肉体であり、それも汚物で出来た肉体だ。わ れわれは火のように輝ける魂だ」じゃと。ほほほ、笑わせてくれるわい。

(これと同様の批判が、ミルの『功利主義論』第二章でも検討されている。 いわゆる「功利主義=豚の哲学」という批判である)

608. 答え。功利主義者によって主張される目標は、最大多数の最大幸福であり、 誰かの幸福を刹那的に満足させることではないぞよ。この格率は決して利己性 ではないのじゃ。利己性であるとの批判を受けるのは、この(功利)原理の持つ 事実認識の部分のみじゃぞ。

609. まさにこの(功利)原理の事実認識(人間理解)の部分にこそ、利己性ら しいところがあるのじゃ。

610. どのような目的にせよ、人間に影響を及ぼそうと思えば、まず人間と いうものを良く知らなくてはならないじゃろ。そもそも利己的な原理(「人間 が利己的である」という原理)を否定したところで、利己性の持つ力は弱まり はせんのじゃ。利己性の力を弱めるためには、利己性とは何かを知ることが先 決じゃ。いいか、(人間が利己的であるという)原理そのものを弱めたりするこ とは不可能なのじゃよ。しかし、この利己性の原理をうまく用いて、利己性が 全体の利益と一致するようにすることは可能なのじゃ。しかしそのためには (人間についての正しい)知識、というものが必要なのじゃ。ほほほほほっ。

Jeremy Bentham, Deontology Together with a Table of the Springs of Action and Article on Utilitarianism, in The Collected Works of Jeremy Bentham, p. 56.


「功利主義って利己主義のことでしょ」と言う人が、倫理学をやっている 人々の中でさえ時おり見出されるのは、大変残念なことである。功利主義と利 己主義は違いますってばっ。

けど、ベンタムがこのような文を書いているということは、すでにベンタ ムが生きている頃から同様の誤解があった、ということだろう。とほほ…。

確かに功利主義の人間理解(事実認識)によれば、人は自分の喜びpleasure をひたすら追求し、自分の苦しみpainをひたすら避けようとする生き物である。 (いわゆる心理的ヘドニズム)

しかし功利原理は、「ある行為が正しいのは、その行為によって 影響を受ける人々全員の幸福を促進する(と思われる)場合である」 とはっきり述べているのである。

したがって、たとえ「最大多数の最大幸福」といった場合に、そこにどの ような問題があるにせよ、功利主義が利己主義と同一であることは決してあり えない。


なお、道徳感情主義と独断主義はほぼ同義で、『序説』では「共感と反感 の原理」あるいは「気まぐれcapriceの原理」と呼ばれていたものである。そ の内容は、「自然法や道徳感覚のように、ある権威を持ち出して来て、次に自 分の勝手な意見を述べる」というものである。(例: 自然法によれば、われわ れは生まれながらにして自由かつ平等である)

(「だってお父さんがそういったんだもん」と言って自分のいい加減な意見 を述べる子供を想像してくれればよかろう)


(幸福と快の関係について)

664. 幸福について言うとじゃな、幸福のたった一つの要素あるいは成分は、 快楽(と苦痛から免れていること)じゃ。ちょうど、ポンドがペニーで成り立っ てるようにな。ほほほっ。

665. 会計士たちは、「ポンドがペニーで成り立っている」ことを何の問題 もなく認めるじゃろ。ほほほっ。

666. しかし道徳家どもはじゃな、「幸福が快楽で成り立っている」ことを なかなか認めようとせんのじゃ。ほほほっ。

667. いかなる会計士も、「ポンドは価値があるが、ペニーは価値がない」 などとおろかなことは言うまいて。ほ、ほほっ。

668.しかし多くの道徳家はじゃな、「確かに幸福には価値があるが、ある 種の快楽には明らかに価値がない」などと愚かなことを言うのじゃ。ほっ。ほ ほほっ。

669. こういう輩(やから)の幸福観はとても上品なものらしく、いかなる 快楽も幸福の要素にはならんのじゃと。ほほほっ。彼らの食べるアップル・パ イの中には、マルメロ以外なにも入っとらんに違いないて。(マルメロ――洋 梨形の芳香のある果実は生色に適さず、ゼリー・マーマレイド・砂糖漬けなど にする)

Jeremy Bentham, Deontology Together with a Table of the Springs of Action and Article on Utilitarianism, in The Collected Works of Jeremy Bentham, p. 60.


……こういう独断的な比喩をいきなり持ってくると、「何を根拠にこんないい かげんなことを」と言われそうである。けれどもぼくとしては、ベンタムのこ ういう「軽さ」あるいは、福沢諭吉のように(<よくは知らんが)庶民に語り かけるような語り口が好きなので、試訳してみた。幸福は快楽で出来ていると いう、いわゆる倫理的快楽説。(もちろんここでいう快楽 pleasure は、肉体的な快楽だけを指すのではない)

26/Feb/1997; 26/May/2001更新


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Fri Jan 28 06:33:24 JST 2000