Bernard Williams, `Internal and External Reasons' from Stephen Darwall et. al., Moral Discourse & Practice: Some Philosophical Approaches, Oxford: Oxford University Press, 1997, 363-371.
児玉 聡
本論文`Internal and External Reasons'(1)においてウィ リアムズは、「Aにはφする理由がある」(2)という言明 (以下、理由言明と呼ぶ)の分析を行なっている。彼によれば、このような理由 言明には大きく二つの解釈が成り立つ。一つは彼が内在的解釈 と呼ぶもので、簡単に言うとこの解釈によれば、「Aにはφする理由 がある」という言明は、Aにφする動機がある場合には真、ない場合には偽に なる。たとえば「Aには軍隊に入る理由がある」という言明は、Aに軍隊に入る 動機があるならば真、ないならば偽となる。彼はこの解釈が成り立つ理由言明 を内在的理由言明と呼んでいる。もう一つの解釈は、「Aに はφする理由がある」という言明の真偽はAにφする動機のあるなしに依存し ないというもので、彼はこれを外在的解釈と呼び、この解 釈が成り立つ理由言明を外在的理由言明と呼んでいる。こ の場合、たとえAに軍隊に入る動機がなかったとしても、「Aには軍隊に入る理 由がある」という言明が真になることがありうる。本論文において彼は洗練さ れた形での内在的解釈を支持し、理由言明の外在的解釈は「誤りであるか、不 整合であるか、あるいは何か別のものを誤解を招く仕方で表現している」 (pp. 369-70)と結論している。以下では内在的解釈と外在的解釈についての彼 の考察を順に見ていく。
なお、ウィリアムズが外在的解釈の検討の部分で断わっているように(pp. 366-7)、 本論文における理由言明の分析は合理性一般にかかわるものであり、 道徳性に限定されるものではない。 また、本論文において彼は、 「Aには〜する理由があるthere is a reason for A to ...」という言明と 「Aは〜すべきであるA ought to ...」 という言明を等しいものとしては見ておらず、 oughtの分析は行なわれていない(3)。
まず、ウィリアムズは内在的解釈のもっとも単純なモデルを提示する。 これは、「Aにφする理由があるのは、 Aがφすることによって満たされる欲求を持つ場合である」というものである。 たとえばAがジントニックを飲みたいという欲求を持っているならば、 「Aにはジンとトニックを混ぜて飲む理由がある」という言明は真である。 彼はこれをヒュームの立場を単純化したものとして、 下位ヒュームモデル (the Sub-Humean model)と呼んでいる。
ウィリアムズはこのモデルは単純すぎるため、 より洗練された内在的解釈を提示している。 単純だというのは、 このモデルには「理由」が含意する合理性rationalityという要素が 抜けているからである(どのような形で合理性が問題になるかは、以下で見る)。 そこで、彼はより洗練された内在的解釈の特徴として、 次の四つの条件を提示する。
すでに見たように、「Aにはφする理由がある」という内在的理由言明の真偽は、 Aにφする適切な動機が存在するかどうかに依存する。 そこで、Aの持つ動機の集合Sの中にφする動機が存在しないならば、 内在的理由言明は偽になる(i)。 ところで、 下位ヒュームモデルによれば、 この集合Sに含まれる要素は欲求のみであり、 しかもすべての欲求が行為の理由になりうるとされる。 しかし、ウィリアムズによればこれは正しくない。 というのは、ある欲求の存在が誤った信念に基づいている可能性があるからである。 上の条件の(ii)と(iii)はこの点にかかわっている (欲求以外にもさまざまな要素が集合Sに含まれることについては、 もう少しあとで述べる)。 この点について、 彼自身が出している有名なジンとガソリン(gin and petrol)の例を用いて説明する。
今ある行為者がジントニックを作るためにジンとトニックを混ぜあわせようと しているが、彼がジンと信じている液体は実はガソリンであるとする。 この場合、「彼には自分がジンと信じている液体とトニックを混ぜあわせて 飲む理由がある」と言うべきだろうか。もし彼が実際にそう行為した場合、 彼の行為を説明するさいにそう述べるのは一見もっともらしい。 しかし、理由言明は合理性をも問題にすると考えられるから、 彼の信念に誤りがある場合、 そうする理由があったと述べることはやはり適切ではない。 したがって、φしたいという欲求の存在が誤った信念に基づいている場合や、 φすることによって欲求が満たされるという信念が誤っている場合は、 こうした欲求はAにφする理由を与えない(ii)。 また、この事例のように、Aは自分にφする理由があると思っていても 実は(信念に誤りがあるために)そのような理由はなかったり、 逆に、 Aが自分について当てはまる内在的理由言明を知らなかったりすることも ありうる(iii)。
ウィリアムズは、 Aが自分について当てはまる内在的理由言明を知らない理由として、 ある事実を知らない場合と、集合S内のある要素に自分で気付いていない場合を 挙げている。前者は、Aがある事実を知っていれば、 欲求を満たすためにφする理由があることに気付いていた、という場合である。 後者は、φすることによって満たされる要素Dが集合S内に存在することが、 よく考えてみるとわかるという場合である(iv)。 彼は、この「よく考えてみると」(熟慮deliberation) を合理性と結びつけて考えており、 上と同じことを「φすることがDと合理的に結びついている場合」 という風に表現している。 またこの「よく考えてみるとわかる」というのも、 単に欲求と行為のあいだの手段目的関係に気付くというだけではなく、 集合S内のさまざまな要素をどのような順序で満足させるべきかとか、 衝突する要素のいずれを満足させるべきかとか、 楽しい夜にするにはどのような行為を組み合わせれば満足いくものになるか、 といったことの発見や解決も含まれる。 こうした熟慮の結果、 内在的理由のある行為を発見したり、 ある行為をするさらなる理由を見つける場合もあれば、 また逆に、 信念の誤りに気付いたり、 ある行為の帰結について(たとえば相手の立場に立つことより) 想像力を働かせたりした結果、 ある行為をする理由を失なったりする場合もある。
このように、ウィリアムズは単純な下位ヒュームモデルを修正し、 誤った信念の存在や熟慮による理由の発見といった事態を考慮に入れた 内在的解釈を提示する。 その特徴は一つには合理性(信念の正しさや熟慮)を重視するという点であり、 また一つには行為者の動機の集合Sが固定しておらず、 熟慮を通して要素が増えたり減ったりするということである。 さらに集合Sの要素についても、狭い意味での欲求だけでなく、 一定の価値判断を下す傾向性や、感情的反応のパターン、 個人的な忠誠、それにさまざまな(人生)計画などが含まれ、 またそれらは必ずしも利己的なものである必要はないとされる。 このように単純な下位ヒュームモデルを超えた内在的解釈を打ち出すことにより、 彼は内在的解釈の立場を魅力的なものにしているが、 彼も認めているように(p. 369)、 「熟慮」によって何ができて何ができないのかというのは非常に曖昧である(4)。 次に、外在的解釈についての彼の考察を見る。
代々軍人を輩出してきた一家において、 軍隊に入隊する気がまったくない息子に対して彼の父親が 「おまえには軍隊に入る理由がある」と言うとする。 この場合、 父親は息子の気持ちを知りつつも、 「よく考えたら息子は軍隊に入る気になるだろう」 と考えているかもしれない。 だとすれば上の理由言明は内在的なものである。 しかし、 父親が「よく考えてもやはり息子は軍隊に入る気にはならないだろう」と 考えつつそのような主張をしているとすれば、 上の言明を外在的なものと解釈しなければならないだろう。
ウィリアムズによれば、 外在的解釈の大きな難点は、 行為の説明ができないことである。 たとえば上の息子が軍隊に実際に入隊した場合、 父親が「息子には軍隊に入る理由があったから、入隊したのだ」 と述べても、これでは息子の行為を説明できていない。 なぜなら、 行為の説明にはそのように行為した動機が含まれていなければならないのに、 外在的解釈の立場では理由言明は行為する動機がなくても真になりうるからである。
そこで、外在的解釈の立場で行為の説明ができるように、 ある特定の考慮が理由であると信じることによって 動機が与えられると仮定する。 こうすれば、 たとえば上の父親は、 息子が軍隊に入ったのは、よく考えたすえ、 家族の伝統を尊重することが軍隊に入る理由になると 彼が信じるようになったからだと説明することができる。 この説明は一見すると「よく考えたら行為する理由があることがわかる」 という内在的解釈とほとんど区別がつかないが、 重要な違いは、 内在的理由言明の場合は行為者の動機の集合S内に 熟慮の結果なんらかの仕方でφする動機となる要素が存在することが 前提されているのに対し、 外在的な理由言明の場合はそのような要素の存在は前提されていないということ である。それゆえ、 外在的理由言明は 「行為者が合理的に熟慮すれば、 彼がもともとどのような動機を持っていたとしても、 φする動機を得るようになる」(p. 368)という主張と等しいか、 すくなくともこの主張を含意することになる。 しかし、ウィリアムズの考えでは、この主張は明らかに偽である。 なぜなら、彼によれば、 もともとφする動機があったか、 それを生みだすような別の動機があったのでないかぎり、 よく考えた結果φする動機を得るということはありえないからである。
このように、ウィリアムズは理由言明の外在的解釈は行為の説明のさいに必要な 動機という要素を説明できないという理由から、外在的解釈を批判している。 たしかに「よく考える」ことにより、 今までなかった動機が新たに生じることもあるが、 それはそれを生みだすきっかけとなる動機がある場合に限るのであり、 外在的解釈の場合、いくら「よく考えて」も、 元になる動機がなければ行為する動機は出てこないというのである。 それゆえ、外在的解釈の立場から、「あなたは〜する理由がある」 と言ったり、それをしない人を「不合理だ」と言ったりするのは、 「不合理」という言葉の誤用ないし濫用であり、 単なる「はったりだ(bluff)」(p. 370)と彼は非難している(5)。
「Aはxする理由がある」という主張は、 「Aにxする動機があれば真、なければ偽になる」という内在的解釈と、 「Aにxする動機があろうがなかろうが、真になりうる」という外在的解釈がありえる。 内在的立場では、「Aがxしないのは不合理だ」と非難するのは、 「Aが合理的熟慮を行なえば、信念に間違いがあるか、 自分でまだ気付いていない動機が存在するはずだ」という意味になる。 しかし、外在的立場では、 このような非難に整合的な意味を与えることはできないことが明らかになる。
[メモ: 内在的解釈はよくわかったが、 外在的解釈の特徴付けがあまりなされていないので、 ウィリアムズが何をやっつけようとしているのか今ひとつよくわからない。 それに、外在的解釈には救うべき点が一つもないのだろうか?]
1, 2. 「Aはxする理由がある」(A has a reason to x; There is a reason for A to x)には二つの解釈がある。
3. この二つの解釈には問題がないかどうか。 以下では、内在的解釈(段落4-15)、外在的解釈(段落16-32)について順に検討し、 最後に公共善とただ乗りの問題について言及する(段落33-34)。
4. 内在的解釈のもっとも単純なモデル(下位ヒュームモデル sub-Humean model)
「Aがxする理由を持つのは、 Aがxすることによって満たされる欲求を持つ場合である」(1)
または「Aがxする理由を持つのは、 Aがxすることによって満たされる--とAが信じる--欲求を持つ場合である」(1')
(1)と(1')の違いは6以降参照。
5. あらゆる内在的解釈の特徴は、 理由言明が行為者の主観的動機付けの集合(subjective motivational set=S)に 相対的であること。そこで、
(i) 内在的な理由言明は、集合Sに適切な要素が不在の場合に、偽となる。
下位ヒュームモデルによれば、集合Sのどの要素も内在的理由を生み出すはずだが、 集合Sの中には誤った信念に基づいた要素が存在しうるため、これは正しくない。
6. 例: ある人が石油をジンと勘違いして、 それをトニックと混ぜてジントニックを作ろうとするとき、 彼にはそのように混ぜて飲む理由はあるか。(そうする欲求は存在する)
答1: 彼は飲む理由があると思っているが、実はない。
答2: 彼が実際に飲んだとき、その行為を説明する理由になる。
(→行為者の信念の真偽にかかわらず、説明の形式は変わらない)
答2からすると、「欲求があれば理由がある」と答えたいところ。
7. しかし、内在的理由の概念は、説明だけにかかわるのではなく、 行為者の合理性をも問題にするから、 上の答えは不適当。そこで、
(ii) 集合Sの要素である欲求Dは、 (1)欲求Dの存在が誤った信念に依存しているか、 あるいは(2)xすることが欲求Dの満足につながるというAの信念が誤っている場合は、 Aに理由を与えない。[上の例では、1. ボトルに入っているものを飲もうという欲求 (ボトルの中にジントニックが入っているという誤った信念)、 2. ジンを飲もうという欲求 (ボトルに入っているものを飲むことによっては満たされない)]
とはいえ、彼が実際にxした場合、彼はxする理由があっただけでなく、 彼がxしたことは、彼は誤った信念に基づいて合理的に行為したことになる (狂人の合理性)。
8. 認識論的帰結
(iii) (a)Aは自分についての内在的な理由言明を誤って信じることもある
(b)Aは自分についての真なる内在的な理由言明を知らないこともある
(b)の一つのケースは、彼がある事実を知っていれば、 集合S内のある欲求のために、xをしたいと思う場合。
9. もう一つのケースは、彼が集合Sのなかのある欲求(D)に気付いていない場合。
10.
(iv)内在的な理由言明は、 熟考すると(in deliberative reasoning)見出されうる。
ただし、熟考の上で選好される単一の行為にだけ内在的な理由言明があてはまる わけではなく、やらない理由の方が勝っている他の多くの行為にも用いられうる。
11. 下位ヒュームモデルは、xすることと集合S内のある欲求とが、 因果的な手段-目的関係にあることを想定している(cf.「理性は欲求の奴隷」)。 だが、このような手段-目的関係を見出すことだけが実践的推論(熟慮)の 働きなのではない。
たとえば、欲求の満足を考えると同時に、複数の衝突する欲求があるときに、 どれが優先されるか(time-ordering)を考えたりすること。 また、楽しい夜を過ごすためには、どのような行為が役に立つかというような、 構成的解答(constitutive solutions)を見つけること。
12. 上のような熟慮を通して、内在的理由のある新たな行為の存在に気付いたり、 ある行為にさらなる内在的理由を見つけたりする。 逆に、ある信念が偽であることに気付いたり、想像力を働かせたりすることによって、 集合S内の欲求が減ることもありうる。
13. したがって、集合Sは静的ではなく、流動的である。 また、欲求だけでなく、計画(project)その他も含むものと考えてよい。 それに、欲求や計画は、すべてが利己的なものと想定する必要はない。 (ヒューム的図式を単純化して批判する人々に対するあてこすり?)
14. 集合Sに必要needsが含まれるかどうかは問題。 というのは、行為者は熟慮しても自分が必要とするものに利害関心を持たないで、 しかもそれが誤った信念に基づいているわけではないことが ありうるように思えるから。
15. そのような事例があるとすれば、 内在的な意味では彼は自分の必要なものを追求する理由がないことになる。 しかし、普通われわれはこのようには考えない。
例: 「自分の健康を保つことにはまったく関心がない」とある人が一貫して、 説得的に主張するが、「彼は自分に必要な薬を飲む理由がある」 とわれわれが言うとき、われわれは内在的な意味で言っている。 心のどこかでは彼は健康になりたいに違いないと考えるからだ。
16. もしそう(=彼は健康になりたいに違いないと)考えないとしたら、 われわれは外在的解釈を取っていることになる。 この外在的意味とはいったいどういうものか。
例: ヘンリー・ジェイムズの『オーウェン・ウィングレイヴ』。 父親は、 息子のオーウェンがまったく軍隊に入りつもりがないのを知りつつ、 一家が伝統的に軍隊生活を経験してきたがゆえに、 「息子は軍隊に入る理由がある」と述べたとする。
17. これは、「べしought」が行為者の欲求とは独立にあてはまるという カントの定言命法の問題と同じではない。その理由は、
2について、意味が等しいものと考えるならば、二つの問題は類似するが、 ウィリアムズはこの立場を取らず、「べし」についてもこれ以上語らない。 (Moral Luckで語っている)
18. いかなる外在的な理由言明も、それ自身では、 人の行為を説明できない。 ←理由の外在的言明は、行為者の動機づけとは無関係に真でありうるが、 行為者の行為を説明できるのは、 彼がそのように行為することを動機づける事柄だけであるから。
例: 「オーウェンは軍隊に参加する理由があった」という言明が真であるとしても、 それだけでは(この言明は動機づけとは無関係に真になりうるので)、 オーウェンが行なったいかなる行為も説明されない。
したがって、外在的な理由言明が真であることの他に、 心理的リンクが必要。それは「信念」、 すなわち行為者が外在的な理由言明を信じていることであると思われる。
19. これまで「Aはxする(なんらかの)理由がある」と述べてきたが、 通常は特定の(具体的な)理由言明がなされる。
例: オーウェンは(今や)、 自分の家族が兵士の伝統を持つことが自分が軍隊に入る理由になると信じているので、 軍隊に入るかもしれない。
20. それでは、特定の考察が行為する理由になると信じることが、 行為する動機づけになるのか。ここではなると想定する。 [ただし、akrasiaを排除してしまうほど、 信念と行為する性向との結びつきを強く主張するわけではない]
21. だからといって[信じることが重要な役割を果たすからといって] 外在的な理由言明が何の役割を持たないことにはならない。 外在的な理由言明の内実は、 単にそのような言明を信じる人の状態を考察することによって 明らかになるのではなく (というのは、[外在的理由+信念]というこの状態は、 内在的な理由言明が真になる状態と同じだから)、 そのような言明を信じるようになる(come to believe) とはどういうことかを考察することによって明らかになる。
22. 問題にしたい事例は、 オーウェンのようにある行為をする動機づけを持たない行為者について、 外在的な理由言明がなされる場合である(したがって、 彼について真なる内在的な理由言明はできない場合)。
(1)行為者は外在的な言明を信じていない。
(2)言明を信じるようになる→行為する動機づけを得る。
どうやって新しい動機づけを得たのか。
[しかし、(1)から(2)へはどのように過程を経て移行するのか--某君の疑問]
23. これはいかにして「理性が動機づけを産みだすか」という古来の問いにかかわる。 (reason=rational processes)
ヒュームは上の問いに否定的に答えるが、 それに反対する人を「外在的理由論者」と呼ぶ。
24. 「言明を信じるようになることが、いかにして行為する動機づけを産みだすのか」 について外在的理由論者が提供できる答は、「行為者が正しく熟慮する」 というものだと思われる。とすると、 外在的な理由言明は、「もし行為者が合理的に熟慮したならば、 もともとの動機づけがどのようなものであれ、 彼はxする動機づけを持つようになる」という主張と等しいか、 この主張を含意することになる。
25. しかしそうだとすると、すべての外在的な理由言明は偽であることになる。 というのは、仮定により、 行為者は新しい動機づけに到達するための、 熟慮の開始点になる動機づけを持たないからである。 外在的な理由言明が真であるためには、 それ以前の動機づけの存在を認めたうえで、 新しい動機づけがなんらかの合理的な仕方で生み出されなければならない。 しかし、 それ以前の動機づけと新しい動機づけが合理的な関係を持っていたら 内在的な理由言明が真になってしまうから、 この関係はないものと想定しないといけない。 しかし、このような条件が成立するとは思われない。
26. これに対し、外在的な理由言明は、 「合理的(理性的)な行為者ならば適切に行為するよう動機づけられる」 という主張を含意していると答えることができるかもしれない。 というのは、合理的な行為者とは、行なう理由があることをなす一般的性向が 自分の集合Sの中にあるような人だからである。
27. この答は問題を先伸ばしにするだけ。 なぜなら、この答は問題の行為に「説明の欲求と信念モデル」 を適用しているが、この信念の中身を 「合理的に熟慮するならば、人は適切に行為するよう動機づけられる」 としてしまうと、またぞろ25で述べた反論が問題になるからである。
28. 熟慮の説明があいまいという批判。 先に、 想像力の働きによって集合Sの内容が拡大したり制限されたりすることを認めていた。 だとすると、集合Sから熟慮によってどこまで到達しうるのかがあいまい。
29. しかし、そもそも合理的な熟慮過程というのはあいまいなもの。 発見的、想像的なもの。 合理的思考と霊感・改宗は連続体である。
内在的理由モデルを採用する人には、このことはさほど問題ではない。 彼らにとっては単に、 「Aにはxする理由がある」があてはまる場合(状態)が予想されるよりも 多くの場合に当てはまるということにすぎない。
30. 外在的理由モデルを採用する人は困難にぶつかる。 彼らは行為する理由が(彼らの考えでは)あるのに動機づけられていない人を 非難するときに、不合理だと述べるが、 これについては彼らが非難の根拠をより明確にしなければならない。 (これがウィリアムズの言いたいことらしい)
31. オーウェンの父親は実際には(外在的な意味で)「理由」 という言葉を使わなかった。しかし、 もし彼がそのような言い方をしたら、 彼の言明はこの場合偽であったと外在的理由論者は言うかもしれない。 あるいは、彼はその言明を違う意味で用いたと言うかもしれない。 しかし外在的理由論者がこれらのことを示すことは [外在的理由の真偽の基準が不明確なので]困難である。 しかし、父親が「合理的熟慮をするならオーウェンは軍隊に入るはずだ」 という意味で用いないだろうことはほとんど明らかである。
[ここ、解釈が誤っている可能性あり。 全訳(直訳調)は以下のようになると思われる。 「オーウェン・ウィングレイヴの父親は、実際は、 「理由」以外の言葉を用いて表現していたが、 われわれが想像してみたように、 彼は外在的理由の形式を用いることもできたはずである。 この事実自体が、外在的理由論者に或る困難を与える。 この理論家は--すなわち、 外在的な理由言明の正しさは、 その言明を無視する行為者に対して不合理だと非難する根拠になりうると 考える理論家は--次のように言いたくなるかもしれない。 「もし父親のウィングレイブがこの仕方でオーウェンを非難したとしたら、 彼は、この特定の事例においては、偽であることを主張することになる可能性が 非常に高い」と。 この理論家にとってより困難なのは、次のことを示すことである。 すなわち、[父の]ウィングレイヴによって使われる[「理由」という]言葉は、 真なる言明として(と理論家が想定するように)発話される場合のその言葉の意味とは、 異なることを意味しているということを示すことである。 しかし、ウィングレイヴによって発話されるときのその言葉の意味は、 「合理的熟慮によってオーウェンは軍隊に入隊するように動機づけられる」 というものではほぼ明らかにない--この意味こそが、 もし理論家が望んでいる種類の重みをその言葉に与えようと思うのであるなら、 われわれが見つけだしたその語の(非常におおざっぱな)意味あるいは 含意なのであるが。」]
32. 以上の考察から、外在的な理由言明は偽であるか、整合性がないか、 何か別のことを意味する誤解を招く表現であると結論される。 現実には、この用法を他の意味から切り離すことは難しい。 楽観的な内在的な理由言明かもしれない。 または「行為者がそのように行為すればうまくいくのに」 というだけかもしれない。
外在的な理由言明の立場からの「不合理だ」という立場ははったりである。 内在的な理由言明の立場でしか使うべきでない。
33. 公共善とただ乗りの話--各人はある財を提供してもらいたい利己的な理由を 持つが、それと同時に、 それを提供する手伝いをしない利己的な理由を持つ。 以下ではこのことに関する問いと、 行為の唯一の合理性は内在的理由の合理性だけと考える(ウィリアムズのような) 人の答を述べる。
34. 以上の答は、行為の内在的理由の立場での実践的合理性の概念と 完全に両立しており、また完全に理に適った答えである。