David Wiggins, `Truth, Invention, and the Meaning of Life': 第6章要約

(Leaving...)

・次に、結論として、内部的(参加者)なパースペクティブの外部的説明の議論に は一般的な困難a general difficultyがあることを述べる。そして示唆を行な う。

・功利主義者や経済学者は人間の欲求/心理状態に究極的/内在的価値があると する。世界のそれ以外のものが価値を持つのは、それらが欲求の現実的、潜在 的対象である場合である。たとえばベンタムは『序説』で次のように述べている。

厳密に言えば、あるものが善いか悪いかするのは、それ自体において そうであるか、あるいはその結果によってそうであるかのいずれかで ある。前者に当てはまるのは快苦の場合だけである。後者に当てはま るのは、快苦の原因である事物の場合だけである。

・しかし、これでは不安定になる。外部的なパースペクティブにおいては内在 的善は存在しないので、上の理論は内部的なパースペクティブに属するものの はずである。しかし、内部的なパースペクティブではこのような価値の見方は 受け入れられない。というのは、内部的なパースペクティブでは《ある意識状 態だけが内在的に善い》というベンタムの考えは経験に合致していないからで ある。なぜなら:

# すなわち、快に内在的価値があるという主張は没価値的なouter viewにおけ る主張ではありえないのでinner view からのものだが、inner view (`the inside of lived experience')の立場から言えば、追求しているのは快楽(心 理状態)ではなく、快を与える対象(精神が志向する対象--たとえば金、権力、 名誉、異性)であり、しかもその対象は(快の手段としてではなく)内在的価値 を持つものとして追求されている。心理的快楽説に対するよくある批判だが、 価値を欲求充足に帰する考え方一般に適用されている。「唯一それ自体として 価値があるのは、なんであれ、欲求を充足することである。それ以外のことが らは手段としてのみ価値がある」「けど、君は欲求を充足すること自体を求め て行動しているわけじゃないだろう。それに、それ以外のことがらを、常に手 段として求めているわけじゃないだろう」

# 投影説が`the inside of lived experience'に反しているというのに対して は、ブラックバーンがEssays on Quasi-Realismのp. 176のあたりで批判し ている。説明と熟慮を分けるという話。参考のために、 自分で作ったまとめから以下に引用しておく。

ウィギンズ(やネーゲルやウィリアムズやフット)は、投影説は「生きられた経 験の内部(the `inside of lived experience')」に合ってないと批判している。 彼によれば、倫理の理論家と参加者の見解が一致していない。投影説は倫理を 「説明するexplain」のではなく「説明して解消するexplain away」してしま う。倫理が欲求と衝突する外在的な要求、道徳的義務ではなくなってしまう。

# 投影説は道徳に参加している人の熟慮のあり方と一致しないし、また、投影 説の説明は道徳や義務感といったものを欲求に従属するものとして仮言的にし てしまう、という批判。

投影説論者は子供を助けるとき、手榴弾に覆いかぶさるとき、雪の中へと歩い ていくとき、「う〜ん、結局オレとオレの欲求やその他の動能的な圧力でしか ないしなあ--やめた」と考えるだろうか。

恋人は「う〜ん、これはオレの情念でしかないしなあ--やめた」と考えて情念 から逃れるだろうか。

ウィギンズのように考える人は、行為の哲学におけるある重要な間違いを犯し ている。それは、ある状況のさまざまな特徴に照らして熟慮するさい、自分の 動能的な機能についても熟慮していると考える間違いである。目が視野の一部 ではないように、事物が持つ情動的な衝動を伝える感受性はその素材の一部で はない。われわれはふつうユーモアのセンスに笑うのではない。もちろん、自 分のユーモアのセンスをおもしろいと評価するときはあるが、その場合にもそ の当の機能を使っていることに留意せよ。

この間違いが原因で、《投影説によれば道徳的義務は欲求の存在に依存するか ら仮言的だ》という風に言われることになる。しかし投影説は、現実に道徳的 義務を感じる当人がそのように考えているというのではない。

(The participant...)

・参加者(=inner view)は、事物や事態に*ある外的な性質*を見出し、その性 質が存在するがゆえにその事物や事態を重要だと考える。すくなくとも参加者 にとっては、その性質が単なる投影であることはありえない。というのは、い かなる欲求的・美的・観想的な精神状態であっても、それが対象を見る場合に、 《すべての非道具的価値は人間の欲求充足の状態に存する》というテーゼによっ て要求される特別な仕方で、対象が派生的な価値を持つとは見ないからである。

For no appetitive or aesthetic or contemplative state can see its own object as having a value that is derivative in the special way that is required by the thesis that all non-instrumental value resides in human states of satisfaction.

# 当事者は、《内在的価値を持つのは快、欲求充足だけ》という考えに基づい て事物に派生的価値を見出しているのではない。これはその通りだが、これが 欲求充足説に対する決定的な批判になるか。アナロジーとして、《人々は、現 実には功利主義的思考や計算をしておらず、義務を内在的なものと考えている》 という功利主義に対する批判と、ヘアの二層理論による応答を想起せよ。二つ の批判に共通するのは、人々が*実際に・現実に・無批判に・無反省に*考えて いること(phenomenology)を、ある理論を反証するための決定的な根拠として いること。別のアナロジーとして、《人々は、現実には(from the inner point of view)、地球は動いているとは感じていない》ということが、地動説 に対してどの程度の反駁根拠となるか考察せよ。とはいえ、十分に反省したか らといって、内在的価値を持つのは欲求充足だけである、ということにはなら ないかもしれない。

# 話はそれるが、欲求充足に価値を見出し、志向性の対象にまで踏み込まない のは、各人の善の構想にはタッチしないで欲求充足の最大化を目指すことと考 えることができ、これは自由主義的な功利主義の長所である。

・実際に経験される心的状態が、このような外部的視点の異質な見方で自身や 対象を見なければならないとすると、心的状態は、必要とされる欲求などの態 度が生じるかぎり、他のどんなものにでも価値を認めることになる。しかし、 このような心的状態の概念は、内部的なパースペクティブについてのわれわれ の理解とはかけはなれている。(注19の最後「この(価値の欲求充足)理論につ いてわたしが言っていることは、端的にはこういうことである。すなわち、こ の理論は、理論の出発点である《対象志向的な状態object-directed states》 の実際の経験に対して忠実でない(untrue)、ということである」)

# 欲求充足説、より広くは非認知説だと、何にでも価値を見出せることになる。 しかし、美しい山が内在的価値を持つということを認めないからといって、た だちに何にでも人々が価値を見出すということにはならない。ウィギンズが `provided only that the requisite attitudes could have been induced'と 正しく条件を述べているが、このprovisoが強調される必要がある。内在的価 値を認めなくても、人間の欲求にはある種の傾向があることを認めることはで きる(多くの人は山を美しいと思うなど)。ただし、ウィギンズは次に見るよう に、単純な内在的価値説を取っているわけではない。

(I promised ...)

・先に述べたとおり、価値についての示唆をもって非認知説の批判を終える。 その示唆とは、《心的状態の対象を、価値と心的状態とその対象からなる概 念的構造における一段劣ったパートナーとか派生的な要素と考えるかぎり、 人間の状態を理解しようとする試みは成功しない》というものである。

[N]o attempt to make sense of the human condition can make sense of it if it treats the objects of psychological states as unequal partners or derivative elements in the conceptual structure of values and states and their objects.

・これは「我々がそれを欲求するのは、それが善美であると思われるがゆえに であって、我々がそれを欲求するがゆえに善美であると思われるのではない」 (『形而上学』岩波出隆訳下巻151頁)というアリストテレスの正反対の誤りよ りもさらに悪い。スピノザはこのアリストテレスの文章を意図的に逆転させた (「我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝動 を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を 感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断する、ということである」『エチ カ』岩波畠中訳下巻179頁)。

# プラトンの『エウチュプロン』における 「敬虔なものは敬虔なものであるから、神々によって愛されるのか、 それとも愛されるから、敬虔なものであるのか」も想起せよ。 (プラトン、『ソクラテスの弁明--エウチュプロン、クリトン』、 山本光雄訳、角川文庫、1968年改版、28-29頁)

・しかし、真の知恵は、アリストテレスとスピノザの双方に反対して、`Why should the _because_ not hold both ways round?'と尋ねることだろう(すな わち、「我々がそれを欲求するのは、それが善美であると思われるがゆえにで あり、また、我々がそれを善美であると思われるのは、それを欲求するがゆえ にである」)。適切な説明は、心的状態とその対象を平等で相互的なパートナー とみなすことであり、心的状態がその対象を相互依存するものとして包含する ものとして、心的状態と性質を理解しなければならない。

# マクダウエルはウィギンズのここを受けてsibling説を主張している(`What about a position that says the extra features [ie. the moral property of the object] are neither parents nor children of our sentiments, but ... siblings?' `Projection and Truth in Ethics' in Mind, Value and Reality, p. 159 and note 16)。

# ブラックバーンも同様にこの部分を問題にしている(`How To Be an Ethical Anti-Realist' in Essays in Quasi-Realism pp. 171-2)。equal partners で あることを認めず、あくまで色や善悪は投影の産物であり、人間が社会的生活 をよりよく営めるように進化の過程で身につけたものである。

(Surely ...)

・「われわれがxを欲求するのは、xを善いと考えるからである(we desire x because we think x good.)」というのと、「xが善いのは、われわれがxを欲 求するからである(x is good because (it is such that) we desire x.)」と いうのの両方が真になることは十分にありえることである。「から(because)」 の説明がそれぞれの場合に違うという事実はこの主張を不利にするものではな い。また、二つ目の「から」が、《あるパースペクティブから知覚されるよう なxの非道具的価値が存在するためには、人間によって欲求されることが必要 である》という風に説明されなければならないからといって、非認知説に対抗 して生じている現在の反-非認知説的な立場が不利になるわけではない。

# ムーア・プラトン的(一次性質型)実在論というスキュラと、非実在論という カリュブディスの間を通って、価値の二次性質理論へ。

(There is an analogy ...)

・この示唆を、色とのアナロジーで説明する。われわれが郵便ポストを赤いも のとして見るのは、郵便ポストが(実際に)赤いからである。だが、郵便ポスト が(実際に)赤いとみなされるのは、実際に赤い事物をすべて、かつそれらだけ を、見分ける(人間が持つような)知覚装置が実際に存在しているからである。 すべての可感的動物(sentient animals)が赤い郵便ポストを赤いものとして見 るわけではない。しかし、この事実によって、赤さが郵便ポストの外的で単項 的(非関係的)monadicな性質であるという考えが論駁されるわけではない。と いうのは「赤い郵便ポスト」は「人間にとって赤い郵便ポスト」の省略ではな い(すなわち赤さは「〜の父である」やライプニッツ・マッハ的な空間理解に おける「動く」のような関係的性質relational propertyを持たない)からであ る。とはいえ、色のカテゴリーは人間中心的なカテゴリーだという意味で、相 対的な性質relative propertyである。このカテゴリーは、われわれの感覚器 官に類似する生物においてのみ根付くような関心interestに対応するものであ る。

# 「赤さ」は、「大きさ」や「固さ」のような一次性質と違い、知覚する主体 のあり方に依存して存在する二次性質である。しかし、だからといって「赤さ」 がexternalでmonadic propertyでないことにはならない。このexternal あた りが気になる。relativeとrelationalの区別もよくわからん。「赤さ」のよう な二次性質が「実在」するというのはどういうことだろう。存在するのはあく まで一次性質的なtextureだけで、二次性質自体は存在しないと思うのだが。

# `interest-relative'な説明については、ブラックバーンの`Errors and Phenomenology of Value'を見よ。

ブラックバーンはマクダウェルの「価値と二次性質」という論文における投影 説の批判を検討している。マクダウェルによれば、投影説の説明はうさんくさ く、彼自身の「関心相対的(interest-relative)」な説明の方が優れている。 「関心相対的」な説明とは、問いの背後にある関心を満たすような答えを与え ることで、たとえば「わたしはなぜそれにびっくりしたのだろう」という問い に対して、「なぜならそれはびっくりするに値したからだ」と答えたり、「な ぜわれわれは人間の幸福を善いと思うのだろう」という問いに対して「なぜな らそれは実際に善いからだ」のように答えたりする説明の仕方である。これに 対してブラックバーンは、このような問いには、そうした確証を得たいという 関心以外にも、さまざまな関心がありうることを指摘する。とくに彼が指摘し ているのは、われわれがおかしさを感じたり、驚きを感じたり、さらには道徳 的な営みを行なうことが、われわれの自然科学的な世界観(注7)の中でどのよ うに説明されるのかという関心であり、投影説はまさにこのような関心に答え ることができるが、マクダウェル流の知覚説では質問に対してオウム返し的に 答えるだけしかできない、と論じている。(『実践哲学研究』の児玉の論文紹 介から)

(Philosophy has ...)

・哲学は「善さ」と「赤さ」「黄色さ」の違いにばかり注目してきたが、これ には長いあいだ私は驚いてきた(注20)。

# この部分はBlackburn, `Errors and the Phenomenology of Value', in Essays on Quasi-realism, p. 159に言及がある。`I do not think he should have, unless indeed it is marvellous that philosophers should emphasize things that are banal and basic.' こう述べたあと、二次性質 の経験と価値経験の違いを述べている。ブラックバーンの挙げる違いのいくつ かは、Wigginsの`Sensible Subjectivism?' (1991)でも指摘されている。

・というのは、色の持つ客観性と人間中心性は、われわれの価値経験と強い類 似性があるからである。色とのアナロジーによって、人間が事物や人や行為に 関して価値評価をするさいに価値性質に帰する外在性だけでなく、価値性質と 欲求の平等なあり方、いわば価値性質と欲求が「お互いのために作られた」と いうことが明らかになる。事物を可笑しいと感じさせる性質と、その性質によっ ておかしがる精神のあり方がお互いのために作られているというのと比較せよ。

(注20) 価値は帰属的(attributive)、色は帰属的でないという違いがある。 しかし、《黄色に対応する恒常的な関心が存在しないがゆえに、 黄色は何かを推奨したり好意的に評価したりするようには作られていない》 という事実を、 (この事実自体は疑いがないのだが)誤った仕方で表現している哲学者たちがいる。 もしも、そのような恒常的な関心が黄色に対してあるとすれば、 黄色も「鋭いsharp」や「美しいbeautiful」や「正義にかなっているjust」と 同様に推奨的であるだろう。

# ここ、よくわからん。ブラックバーンの「錯誤と価値の現象」で出てきた attributiveは「f. 典型的には評価的述語は主体に帰属的で、ある行為は父の 行為として善いとか、司令官の行為として善いとか言われる。二次性質にはそ のような特徴はない」というものだったが、同じだろうか。このウィギンズの コメントは、価値と事実の違いはそれほどなくて、ある性質に対して「恒常的 な関心」があるかないかの違いにすぎない、ということか。

(注20の続き) 《価値述語は事実からそれほど明確に切り離されたものではない》 という主張に反対する非認知主義者はいつも卑怯な手を使っている。 その手とは、記述的な述語の「模範的な事例central/paradigm case」と 価値評価的な述語の「模範的な事例」を選んで、両者がいかに違うかを論じる というものである。しかし、コウモリと(動物の典型としての)象を比べることに よって、コウモリは象と違うから動物ではないということを論証することはできない。 そのような対比を行なう前に、対比のポイントを説明すべきである。 今回の事例(「黄色い」と「善い」)においては、事実と非事実の区別をする前に、 非認知主義者は対比のポイントを示すべきである。 そのポイントが示されないかぎり、「黄色い」と「善い」が同じではないという 事実からは、三つの可能性がありえることになる(注にある図参照)。

  1. 価値と事実は違う。
  2. 価値は事実に包含される(すべての価値は事実でもあるが、 一部の事実[eg 黄色]は価値ではない)。
  3. 事実と価値は重なりあう部分がある(事実でない価値もあり、 価値でない事実もある)。

価値と事実を排他的に区別するポイントを見つけようという努力もあるにはある。 ウィトゲンシュタインが`Lecture on Ethics'でやっているが、 わたしはかなり失敗していると思う。 指令主義者は価値評価と行為の結びつきを指摘することによって、 この区別を行なおうとするが、わたしが4節で述べたように、 その結びつきが成り立つのは熟慮的な判断deliberative judgmentと 行為のあいだだけであって、価値評価evaluationと行為のあいだには 成り立っていない。

# マクダウェルの「価値と二次性質」の冒頭にもあったが、 ドグマティックに(あるいは定義によって)価値と事実を区別することに対する異論。 「価値と事実は違う」と教えこまれてきた人間にはにわかには理解しがたい 主張だが…。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Sat Oct 18 23:08:56 JST 2003