「倫理学的思考における類推の役割 (人工妊娠中絶の議論を例にして)」
[大人と子供の関係史研究会用ハンドアウト]
児玉聡 (日本学術振興会特別研究員、横浜国立大学大学院国際社会科学研究科)
17/May/2003
キーワード: 類推(類比的推論、analogical reasoning)、一貫性(consistency)、等しい事例は等しく扱え(Treat like cases alike)、道徳的に重要な違い(道徳的に有意な違い、morally relevant difference)、人工妊娠中絶(abortion)
1. 主要な倫理学理論
・功利主義: 利害関係者全体の幸福を増大させる行為や規則は正しい
・ミルの自由原理: 他人に危害を加えないかぎり、個人は行動の自由を持つ
・カントの定言命法: 自分の格率が普遍的な法になることを意志できる仕方で行為せよ(他人も自分と同じ行為をしてもかまわないか) or 他人を単に手段(モノ)としてではなく、常に同時に目的(人格)として扱え
・権利論、義務論: 一定の道徳的権利(義務)を尊重して行為せよ
・徳論: 行為ではなく性格を問題にする or 徳の高い人(ロールモデル)が行為するように行為せよ
・(自然か不自然か・人間的か非人間的かという思考法はポピュラーだが、倫理学的には使えない)
・原理主導型のものは、三段論法的な思考法(大前提としての道徳原理、小前提としての個々の事例→結論としての道徳判断)を用いている
・これらは、非常に簡単な例(たとえば、罪のない人を殺すことが不正かどうか)においては有効だが、複雑な現実問題の場合は適用が困難。たとえば人工妊娠中絶(以下、中絶とする)。また、われわれは現実の道徳的問題においてこのような思考法(推論)を用いているか?
2. 類推的思考
・とくに生命倫理学に代表される実践的な倫理学(いわゆる応用倫理学)においてしばしば用いられるのは、原理主導型ではなく事例主導型の類推的な思考法。今回はこの思考法に照明を当て、どのような推論であるかを明らかにする。その例として、中絶についてのトムソンや江原由美子の議論(第4章参照)を検討する。
2.1 類推とは
・類推的な思考法とはどのようなものか。
*arguing by analogy (類推、類比推理) is arguing that since things are alike in some ways, they will probably be alike in others (S. Blackburn, Oxford Dictionary of Philosophy)
・一般に、あるケースAに特徴a, b, c, dがあり、別のケースBに特徴a, b, cがある場合、「ケースAとケースBは特徴a, b, cを共有しており、両者は類似しているので、おそらくケースBも特徴dを持つだろう」と考える思考法。
・たとえば、哲学で有名な例で言えば、他者の心の存在、神の存在(デザインアーギュメント, watchmaker)の証明などに用いられている。
・上の事例では、類推的推論は確実な結論はもたらさない。実際に確かめてみる必要がある。
・道徳的思考における類推的推論は、「あるケースAに特徴a, b, cがあり、Rという道徳判断がなされたならば、別のケースBが特徴a, b, cを持ち、*ケースAとケースBにはそれ以外に道徳的に重要な違いがないのであれば*、ケースBについてもRという道徳判断をなさなければならない」となる。「なさなければならない」と強い主張がなされるのは、一貫性(consistency or coherence 整合性)の要求であり、法律において判例が拘束力を持つのと同様。(cf. 第3章におけるポズナーの議論)
・たとえば、「イラクに対する宥和政策は、ナチスドイツに対する宥和政策と同様に、誤りである」という類推を考える。ナチスドイツの場合(ケースA)には、独裁者(a)、宥和政策の結果の侵略戦争(b)という特徴があり、宥和政策は行うべきでなかった(R)という道徳判断がある。イラクの場合(ケースB)にも、独裁者(a)、宥和政策の結果の大量破壊兵器の保持および侵略戦争の可能性(b')という特徴があるので、ナチスドイツの場合と類比的に宥和政策は行うべきでない(R)とされる。
2.2 その他の例
・シンガーのバングラデシュの例(第4章参照)。
・最近の事例で言えば、イラクや北朝鮮関係の議論でもよく類推的な推論が用いられている。
・(北朝鮮について)道にひっくり返って大声でわめいている子供がいる。あれが欲しい、これが欲しいとダダをこねている悪ガキに、甘やかしのアメを与えるのか。それともごつんと頭をたたいて厳しいしつけをするのか。韓国はアメをしゃぶらせようとしている。率直にいって賛成しかねると申し上げたい。 (産経抄 2002年12月21日朝刊)
・米軍が独裁者と大量殺戮兵器を持つイラクを攻撃するのであれば、同様に独裁者と大量殺戮兵器を持つ北朝鮮も攻撃し市民を「解放」すべきことになる。
・国連の人権委員会の北朝鮮非難決議に反対した国々(キューバ、リビア、スーダン、ジンバブエなど)は、北朝鮮を非難することは自国も同罪で非難されることになるので、反対した。
・マイケル・ムーア、イラク戦争は、目的は正しいが手段が間違っている。友達の家に車で行って、駐車場に止めてくれと言われたから駐車場の門をぶちやぶって入ったようなもの。
2.3 一貫性について
・「等しい事例は等しく扱え」(Treat like cases alike)→そうしないと一貫性がない。
・同じ特徴を持っている(同じように記述される)事例に関しては、同じ判断を下すことが要求される。
*ヘアのsupervenience(依存性)の説明: 「まず、『善い』の特徴のうち、 依存性と呼ばれている特徴を取り上げよう。 「聖フランチェスコは善い人だった」とわれわれが言うとしよう。 こう述べて、しかも同時に、 《聖フランチェスコとまったく同じ状況に置かれ、 まったく同じように行為したにもかかわらず、 善い人ではなかったという点においてのみ聖フランチェスコと 異なる人がいたかもしれない》 と主張することは論理的に不可能である」(R.M. Hare, The Language of Morals, Oxford UP, 1964, p. 145.)
・「言行一致」という意味での一貫性とは異なるので注意。これはまた別の問題。
2.4 道徳的に重要な違い
・しかし、まったく同じケースは存在しない。どの特徴をとりあげ、どの特徴を捨象するかが問題になる。moral relevance (道徳的重要性) / morally relevant difference (道徳的に重要な違い)の問題。ケースAとケースBは、a, b, cという特徴を共有しており、ケースAはRという道徳判断がなされているが、ケースBはケースAが持たないdという特徴を持っているがゆえに、Rという道徳判断がなされないとき、dは「道徳的に重要な違い」と呼ばれる。
・たとえば、保守派の人が「中絶は不正だが、死刑は不正ではない」と言う場合、「両方とも殺人だから、あなたの立場には一貫性がない」と言うとする。すると、「中絶は罪のない人を殺すから不正であるが、死刑は罪のある人を殺すから不正ではない」と言うとする。この場合、「罪のあるなし」が道徳的に重要な違いとして主張されている。反対にリベラルな人が、死刑は不正だが中絶は不正ではないと言う場合、たとえば人命は罪のあるなしにかかわらず重要だが、胎児は人ではない、と主張するかもしれない。この場合、「生物が人であるかないか」というのが道徳的に重要な違いとして主張されている。(以上、A. Westonの議論を参考にした)
2.5 道徳的に重要でない違い
・実践的な関心としては、morally irrelevantな違いとはどのようなものかが気になるところ。
・ある特徴がmorally relevantかどうかに関しては人間の(道徳的)平等の原則がつよく作用している。
・道徳的に重要でないとされる区別の例
・男か女か (「男は浮気してよいが、女はダメ」)
・自分か他人か (「自分のことを棚に上げる」というのは、morally irrelevantな違いとしてしばしば非難される。「他人に同じことをされたらどう思うか」という議論は、自分か他人かという区別をmorally irrelevantなものとして捉えている)
・人種
・職業
2.6 議論の仕方
・もう一つ、実践的な関心としては、類推的な議論をどのように批判すべきか、という点が気になるところ。トムソンのようなとっぴな例に対して「そんなSF的な例は話にならない」とか、「それとこれとはぜんぜん違う」というだけでは、議論にならない(cf. 第3章のポズナーの批判)。
(1)類比が成立していないことを指摘する。道徳的に重要な違いを見落としていることを指摘する。この場合、単に「違い」を指摘するだけではなく、それが「道徳的に重要な違い」であること(違った道徳判断を生み出すこと)を論じる必要がある。(たとえば、中絶と死刑は罪のあるなしで違うとがんばる)
(2)最初の事例(ケースA)についての判断がそもそも怪しいことを指摘する。(ナチスドイツに対する宥和政策は間違っていなかった、など)
(3)(1)、(2)がダメならば、類推を受け入れるしかない。
(以上、A. Westonの議論を参考にした)
2.7 類推的思考の利点
・このような類推的思考法は、もともと決疑論(casuistry)の名で知られていた(カトリックの道徳神学)。中世以降、非常に細かい「道徳的に重要な違い」が立てられ、道徳原則に対する偽善的な例外規定が増えていったため、17世紀にパスカルの強力な批判を受けて衰退する。(判例法的な思考でもある。これもベンタムによって強力な批判を受けた)。しかし、1960年代以降、具体的な倫理的問題の解決が哲学・倫理学者に期待されるようになり、再び原則ではなくケースに基礎をおいたボトムアップなアプローチが力を取り戻してきた。(Jonsen and Toulmin; Arras 106 (ただしArrasはcasuisticなアプローチは原理主導型のアプローチと対立関係ではなく相補関係にあると論じている))
・原理主導型の場合は大前提となる道徳原理を共有している必要があるが、類推的な議論の場合は、必ずしも同じ原理原則を持っていなくても議論ができる。たとえばより具体的な原則であるインフォームドコンセントが同意されていれば、それを基礎付ける原理が功利主義であってもカント主義であってもかまわない(overlapping consensusの形成)。多元的社会に向いている(Arras 110-2.)。
・モチベーションの問題も生じにくい。ケースAとケースBに関して類推が成り立つとき、ケースAの道徳判断がケースBに「転移」するだけでなく、それをする(しない)動機も「転移」する。たとえば、シンガーの池で溺れている人を助ける例と第三世界の貧困に苦しむ人を助ける例のアナロジーに納得するのであれば、池で溺れている人を助ける動機がある人は、貧困に苦しむ人を助ける動機をも持つはず。
・ただし、パラダイムケース(ケースA)の道徳判断はそもそもなぜ正しいと言えるのか、という問題は残る。法における判例ほど権威がない。偏見に基づいている可能性もある。保守的な傾向(Arras 111, 113)。
→もっとも、権威がない分、検討がしやすいとも言える。類推的議論を検討する過程においてパラダイムケースを偏見を暴露することもできる。トムソンの例などは必ずしも保守的とは言えない。
3. 中絶の議論、再考
・ポズナーのトムソン批判(Posner 1999, 54-5)を見る。批判は六点にまとめられる。
(1)ヴァイオリニストは架空の(SF的な)事例なので、それに対する道徳判断は当てにならない。
→アナロジーを受け入れない。しかし、どのような事例なら道徳判断は「当てになる」のか。(cf. Dale Jamiesonは1)文学的literary事例、2)現実ostensiveの事例、3)仮定的hypotheticalな事例、4)空想的imaginaryな事例に分け、4)についての道徳判断は(背景が不明確または記述がすでに偏向しているため)とくに当てにならないというJamieson 484-5)。
(2)女性は妊娠してもベッドに寝たきりになるわけではない。
→ヴァイオリニストのケースとの違い(負担の大きさ)の指摘。しかし、これは道徳的に重要な違いか?
(3)胎児は「見ず知らずの人」ではなく、自分の子供であるから、母親は子供に対する特別な義務がある。
→ヴァイオリニストのケースとの違いの指摘。しかし、胎児は自分の「子供(child)」か?
(4)見ず知らずの他人を助ける法的義務が課される場合もある。
→ヴァイオリニストのケースの(道徳)判断を問題にする。
(5)ヴァイオリニストのケースは「死なせること(不作為)」、中絶は「殺すこと(作為)」。中絶は「プラグを抜く」よりももっとひどいことをする(吸引・掻爬、頭蓋の破壊など)。より適切なアナロジーは、ヴァイオリニストから離れるためには挽肉機(meat grinder)によってミンチにしなければならないというような例(p. 57)。
→作為と不作為という違いの指摘。
(6)そもそも類推的思考は蓋然的であり、結論を正当化しない(`Analogies stimulate inquiry; they do not justify conclusions. p. 53; `Analogies are at most suggestive.' p. 55)。
→この考え方は誤り。アナロジーが正しければ(=道徳的に重要な違いを指摘できないかぎり)、道徳判断が「転移」することを受け入れなければならない。
・シンガーの批判。ヴァイオリニストを切り離した帰結(結果)が全体的に見て望ましくないのであれば、切り離すべきではない。(シンガー、『実践の倫理』、180頁)
→ヴァイオリニストのケースの道徳判断を問題にする。しかし、全体的な帰結の良し悪しについてはなかなか合意が得られないことが予想される。
・江原氏の例については練習問題。
4. 資料
・J.J. Thomson: 妊娠の継続は不完全義務(慈善と同様、やることを強制されない義務)であり、完全義務ではない
ジュディス・J.トムソン、「人工妊娠中絶の擁護」(加藤尚武・飯田亘之編、『バイオエシックスの基礎』、東海大学出版会、1988年)
「胎児は受胎の瞬間から人である」と一歩譲って認めることにしよう。ここから議論はどのように進行するであろうか。(1)人は誰でも生存権を持つ。(2)ゆえに、胎児は生存権を持つ。(3)母親が自分の体の内側や外側でこれから先、生じるであろうことについて決定権を持っているのは、もちろん明らかである。誰でもこれは認めるであろう。(4)しかし、母親のこの自分の身体に対する決定権よりは、人の生存権の方がより重いし、より切迫しているということは確実である。そこで、生存権は母親の決定権より重いのである。(5)ゆえに胎児を殺してはならない。人工妊娠中絶を行ってはならないというわけである。
この議論はもっともらしく聞こえる。しかし次のことを想像してみて欲しいものだ。朝、あなたが目を覚ますと意識不明状態のバイオリニストと背中どうしで繋げられて一緒にベッドの上にいる。彼は有名なバイオリニストで、致命的な腎臓病であることが判明したため、音楽愛好者協会は入手しうるあらゆる医療上の記録を調べあげ、あなただけがそのバイオリニストとちょうど適合して、助けとなる血液型の持ち主であることをつきとめた。そこで彼らはあなたを誘拐し、昨夜あなたの循環器系統にバイオリニストの循環器系統が繋がれたというわけである。あなたの腎臓は自分の血液から毒素を除去する役目を果たしているが、それと同様に彼の血液から毒素を除去する役目もあなたの腎臓が行うためである。
さて病院の主治医は言う。「あの、音楽愛好協会の人達がこんなことをあなたにしてしまったのは遺憾です。もし分かっていたら絶対許さなかったでしょう。だけど彼らはやってしまったわけです。そこでバイオリニストはあなたと繋がっています。彼をあなたの腎臓からはずせば、彼を殺すことになるでしょう。でも大丈夫、9ヵ月だけですよ。それまでに彼の病気は回復し、あなたと切り離して1人でも大丈夫な容態となります。」これに同意することが、あなたに道徳的義務として課せられるのか。あなたが同意するとすれば、それはもちろんすばらしいことだろう。大変な親切である。しかし必ずそれに同意しなければならないのか。9ヵ月でなく9年ならどうか。または、もっと長引くならどうか。病院の主治医があなたに次のように言うとすればどうか。「不運だと思います。でもこれから先ずっと死ぬまでバイオリニストと繋がったままベッドの上で過ごさなければなりません。というのは、いいですか、すべての人は生存権を持っています。バイオリニストは人間です。あなたが自分の体の内側と外側で、これから先、生じるであろうことについて決定権を持っていることを認めるとしても、人の生存権の方があなたのその決定権より重いのです。それゆえ、あなたは彼をあなたの腎臓からはずすことは絶対に不可能です。」これは無茶な話だとあなたは思うだろうと、私は想像する。ここから察するに、今しがた私が挙げた、もっともらしく聞こえる議論には、おかしなところが実際にある。(82-4頁)
Judith Jarvis Thomson, 'A Defense of Abortion' sec. 4.
しかし、本人から招かれて使用するという場合以外にも、ある人が別の人の体の使用権を得る仕方があるかもしれない、と論ずることもできよう。仮に女性が自発的に性交を楽しみ、しかも妊娠の可能性に気づいていたとして、実際に妊娠したとしよう。彼女は胎内にいるまだ生まれていない人の存在に対して、いやそれどころかその発生に対して、責任の一端を担っているのではないか。たしかに彼女はその人を招きいれたわけではない。しかし、その人が胎内にいることに対して彼女が部分的に責任を負っていることによって、その人は彼女の体を使用する権利が得るのではないか。…
われわれはまた、この議論が実際にその目的を本当に果たせるかについてまったく明らかでないことに気づくだろう。というのも、事例にはいろいろあり、細かい違いが重要になるからだ。もしも部屋の空気がこもっていて、換気をするためにわたしが窓をあけたところ、泥棒が入り込んできたら、「おやおや、こうなったらからには彼は部屋にいることが許される。彼女は彼に自分の家を使う権利を与えたのだ-だって彼女は自発的に、彼が部屋に入ってこれるようにし、しかも泥棒という稼業が存在することを十分に知っていたんだから、彼がそこにいることに対して責任の一端を負っているんだもの」というのは馬鹿げているだろう。もしわたしが泥棒が入ってくるのを防ぐ目的で窓に鉄格子をはめており、しかし鉄格子に欠陥があったために泥棒が入ってきたのだとすれば、先のように述べることはさらに馬鹿げているだろう。泥棒ではなくて、何の罪もない人が間違って入ってきたと考えたとしても、やはり同じくらい馬鹿げているだろう。また、次のように考えて見てもよい。人のタネが花粉のように空気中を漂っており、もしあなたが窓を開けるとその一つが部屋に入ってきてカーペットかクッションに根を張る。あなたは子どもが欲しくないので、窓を改修してきめの細かい網戸を取り付ける-自分が買うことのできる一番高いやつを。しかし、ありうることだが、そして非常にまれに実際に起こることだが、網戸の一つに欠陥があり、タネが部屋に入ってきて根を張ってしまう。その場合、育ち始めた人の植物はあなたの家を使う権利を持つだろうか。そんなことはあるまい-たしかにあなたは自発的に窓を開け、万が一の場合には危険と知りつつカーペットやクッションなどで部屋を飾り、網戸には時々欠陥があることを知っていたにしても。ある人は、「やはりあなたにはそのタネが根を張ったことに責任があり、そのタネがあなたの部屋を使う権利がある、というのも、結局のところあなたはカーペットもクッションもなしで暮らしたり、あるいは窓と戸を閉め切って暮らしたりすることも、やろうと思えばできたはずだからだ」と論じるかもしれない。しかし、これは無茶だろう-というのも、同様な論法でいけば、だれでも子宮摘出をすることで、またそうするにせよしないにせよ、(信用の出来る!)軍隊なしにはけっして家から出ないことによって、レイプによる妊娠を避けることができるからだ。
・江原由美子: 妊娠の継続は臓器提供と同様に、ドナーの自己決定が優先する
江原由美子、『自己決定権とジェンダー』、岩波セミナーブックス、2002年、244-251頁
本人に害を与えるようなことは、たとえ本人の自己決定に反したとしても、認めるべきではないという判断が成立しうるということはこれまでにも論じてきました。つまり私たちは、他者について、本人のために何がもっともよいことなのかを考える責任を放棄することはできず、本人が自己決定を行ったということによってどんな決定も正当化されるわけではありません。けれども、本人の自己決定がなければ、なされてはいけないと言えるような身体に対する処遇もあります。それは、本人のためではなく、他者のために身体に対して何か処置をするたとえば、献血や骨髄の提供や臓器の提供など-場合です。こうしたことは、提供する人の身体のためになされる処置ではない。提供を受ける側のためになされる処置です。本人のためではなく、他者のための処置です。臓器の提供を例に考えてみましょう。臓器移植を認めるかどうかについては異論があるとしても、もし認められるのならば、それは提供者が自己の臓器を提供することに同意している場合に限られるということは、ほとんどすべての人が合意すると思います。本人の同意なしに臓器が摘出され他者に移植されるとすれば、身体は他者によっていかようにも利用されうる資源であるかのように、位置づけられてしまいます。人間を、いかようにも利用されうる身体として扱うことは、人権を否定することになってしまう。たとえその目的が「他者の健康や命のため」という崇高な目的であったとしても、提供者の同意なしに臓器を摘出したり、血液を採取したりすべきではないということには、ほとんどの人が合意するのではないでしょうか。そうでなければ、まさに主体でもある身体を、他者のためにいかようにも利用できるモノのように扱うことになってしまうからです。
臓器移植については以上のように考えられるとすれば、また妊娠を維持することを「女性が子どものために自分の身体を進んで提供する」行為として「構築」するならば、「女性の自己決定権」についても同じように考えることはできないでしょうか。つまり、妊娠の維持には女性の同意が必要である、と。もし女性の同意がないまま妊娠・出産を強要するとすれば、それは女性を生殖の道具として扱うことになってしまいます。「胎児は女性の一部」だから「女性の自己決定権」が認められるべきだというのではなく、まったく逆に、「胎児は別の人格であり他者である」からこそ、その他者のために身体を提供するという妊娠`出産には、本人の同意を確認する機会、すなわち「女性の自己決定権」が認められなければならないのではないでしょうか。女性たちが「女性の自己決定権」という概念を主張したとき、「私の身体は私のもの」という言葉で言いたかったことは、「胎児も私の身体の一部だからどう処分しようが私の勝手」という意味ではなく、「胎児は私ではない別の存在である。だからこそ、自分が同意しているかどうかを問われることなく自分の身体を提供するよう強要されることは、自分が生殖の道具として扱われることになってしまう」という内容だったのではないかと私は思います。
(中略)
よく考えてみれば、妊娠・出産ということ自体、本人の身体に役立つ身体機能ではないのではないか。それは、子どもという自分ではない存在をこの世に生み出すための身体機能であり、本人の身体にとってはむしろ危険性をはらむことでもあるし、苦痛をも感じることなのです。その意味では、妊娠の維持・継続は、臓器の提供などと同じことと見なしうる側面を持っているのです。臓器の提供などの場合において、本人の同意を確認する機会を設けることなく、本人には拒否する機会も与えられることなくそれが行われるとするならば、多くの人々は猛然と批判するに違いありません。たとえそれが、他者の命を救うために必要なことであったとしても、本人の同意を得ることなく、本人の身体を利用することは許されない、と。そうだとすれば、「女性の自己決定権」も当然認められるべきではないかと考えることができるように思います。
(中略)
作為と無作為?
ではなぜ、女性が妊娠するということは、「他者のために身体を提供すること」という枠組みには当てはまらないと考えられているのでしょうか。一つには、「他者」の意味に違いがあるのかもしれません。臓器移植などでは、多くの場合提供者は、提供を受ける側とは血縁関係などを持っていない善意の第三者です。けれども、妊娠の場合には、提供者は「他者」とはいっても提供を受ける側と親子関係があることは明白です。だから「本人の同意が不可欠」ということにはならないのかもしれません。
けれども、骨髄移植や生体肝移植や腎臓移植などの場合、提供者は提供される側と血縁関係があることが多いにもかかわらず、そこでは「同意は不必要」かというと、そんなことはありません。むしろ、「家族だということで、提供する側に無言のプレッシャーがかかるのではないか」という心配もされたりしていますから、「本人の同意が必要」だということは、当然の前提なのだと思います。ではなぜ、妊娠の場合には、そういう枠組みでは把握されないのか? それどころか、本人が身体の提供への同意を拒んだ場合、つまり人工妊娠中絶をした女性を堕胎罪という刑法犯として扱う法があったり、法的に合法化されている条件下で人工妊娠中絶をした女性を「殺人者」として責めるような社会規範があるわけです。「他者のために身体を提供する」という点においては共通性を持つと思われる他のケースでは、こうしたことが起きず、妊娠の場合にはこうしたことが起きる。それはなぜなのか?こういう疑問を提起してもよいのではないかと思います。
妊娠それ自体は行為としてではなくたんなる「自然現象」と位置づけられていて、人工妊娠中絶だけが行為として位置づけられている、ということを先ほど述べましたが、こうした作為と無作為の区別に関わる表象の仕方に一つの理由があるのかもしれません。妊娠自体は「自然」であり、何ら意図や作為を含まない。だから妊娠を維持するということを、「胎児を育てている」行為として見る必要はない。けれども人工妊娠中絶は、意図的な行為であり、意図的に胎児を排除することだから「殺人」である。こうした作為と無作為の区別が、胎児という他者のために女性が行っている意識的意図的な努力については行為として考える必要がないものと見なし、胎児という他者に対して「害を与える」場合だけ、行為と見なし評価し責任を問う。こういうことがあるのではないか。こうした議論の立て方が、「胎児は母親とは独立した他者」であるということを前提としながら、他者のために身体を提供することに関して「女性の自己決定権」を認める必要はないという主張を成立させてきたのではないかと思います。けれども、作為と無作為は簡単に逆転できます。どんな社会学の教科書でも、行為の中には「あえて何もしないこと」を含むと書いてある。ここから考えれば、「妊娠を維持する」ということは、何もしないこと=行為ではないこと=「自然現象」として見ることができるだけではなくて、あえて何もしないこと/胎児のために身体の不調を被っても甘受すること=胎児の命のために意思において不作為であること、と見ることもできるわけです。それどころか多くの女性は妊娠を維持するために、通院したり入院したりしている。ここから考えれば、妊娠の維持=不作為=自然現象という見方は、多くの女性の身体経験を無視した表象なのではないかと思います。こういう表象の政治が、「女性の自己決定権」という問題の議論の場にすでに関与しているのではないか。「女性の自己決定権」とは、こうした表象自体が持つ権力作用に抵抗することとしても構想されなければならないと最初に述べたのは、こういうことなのです。でもそれだけではない。
なぜ妊娠の維持ということは、「他者のために身体を提供すること」としては考えられないのか。そこには、母性という表象が関与していることは明らかだと思います。自分自身の経験を振り返って見ても、なぜか、妊娠・出産に関していろいろ努力したり辛さや苦労を我慢しているなどということを、女性自身が表現すべきではないというような自己規制がかけられていることを実感します。つまり妊娠を維持するということを、「他者のために身体を提供する」という積極的な行為として女性が表現することを自己規制させる何かがあるのではないか。それが、妊娠の維持を不作為と見なすような表象を成立しやすくしているのではないかと思うのです。
・シンガー: 池で溺れている人を助ける義務と、第三世界の貧民を助ける義務の類比推論
Peter Singer, One World, pp. 156-158
1971年--当時、かつて東パキスタンと呼ばれていた地域でパキスタン軍が行なっていた虐殺から逃れるためにインドの難民キャンプで暮らしていた数百万人のベンガル人たちが飢えで死にかけていた--、わたしはこれと異なる例を用いて、われわれが遠い国々に住む知らない人々を助ける義務を持つと論じた。わたしが読者に想像してもらったのは、わたしが講義に行く途中で、浅い池を通り過ぎるという例であった。池を通り過ぎるとき、わたしは幼い子どもが池にはまるのを見て、その子が溺れそうになっていることに気付く。池に入っていって子どもを救い出すことは簡単にできるが、そうするとわたしの靴とズボンは濡れてドロだらけになるであろう。そうなるとわたしは自宅に戻って着替えなくてはならないし、講義を休講しないといけないだろうし、靴は台無しになってしまうかもしれない。しかし、そのようなささいな考慮の方が子どもの命を救うことの善よりも重いとみなすならば、それはとんでもないことであろう。その子を救うことがわたしのすべきことであり、もしわたしがかまわず講義に行ったとしたら、わたしがいかに清潔で濡れておらず、時間通りだったとしても、わたしは深刻な不正を犯したことになるであろう。
次にわたしは、この状況から一般化して、われわれはみなベンガル地方の難民に関して、小さな犠牲を払うことによって子どもの命を救うことができる人と同じ立場にあると論じた。というのは、世界の先進国に住むわれわれの大多数は収入の一部を自由に使うことができ、それを娯楽品(frivolities)や奢侈品の購入のために当てているが、そういったものは自分の靴とズボンがドロだらけになるのを避けることと同じくらいささいなものなのである。人々が飢えで死ぬ危険があり、またわれわれのつつましい金額の寄付を--適度な効率で--命を救う食糧や基礎的な医薬品に変えることのできる団体が存在するのにもかかわらず、もしわれわれがこのようなことをするのであれば、われわれは子どもが池にはまるのを見てもかまわず歩き続ける人より自分の方がましだと言えるだろうか。しかし、まさにこれがその当時の状況だったのである。豊かな国々によって寄付された金額は、難民の生命を維持するのに必要な額の6分の1以下であった。英国は他のほとんどの国に比べるとより多くの寄付を行なっていたが、それでも英国が寄付した額は、コンコルド超音速旅客機を建造するための回収不可能な費用として使う予定であった額の13分の1でしかなかった。
わたしは、二つの状況の間に人々が見いだすかもしれないさまざまな違いを検討して、そうした違いは〈ベンガル地方の難民に寄付しないことによって、わたしたちは深刻な不正を犯している〉という判断を避けるのに十分なほど道徳的に意味のある違いではない、と論じた。とくに、わたしは次のように書いた。
(引用)わたしが助ける人が10ヤード先に住む隣人の子どもであっても、1万マイル離れた一生名を知ることもないベンガル人であっても、まったく道徳的な違いはない。(注9)
わたしの知るかぎり、距離そのもの--すなわち、10ヤードと1万マイルの違い--を問題にしてこの主張に異議を唱えた者はいない。もちろん、自分の行なう援助が適切な人に届き、その人を本当に助けられるかどうかについてわれわれが抱きうる確実性は距離によって影響をうけるかもしれず、そしてそれによってわれわれが何をすべきかは異なってくるかもしれないが、それは別の事柄であり、自分の置かれている特定の状況に依存することである。しかし、人々が*実際に*異議を唱えたのは、われわれが他の国の知らない人を助ける義務は、自分の隣人や同国人の誰かを助ける義務と同じであるということに対してである。彼らに言わせると、明らかにわれわれは、自分の隣人や同国人に対して--また自分の家族や友人に対しても--、他の国の見知らぬ人に対しては持たないような特別な義務を持っている。(注10)
5. 文献一覧
・江原由美子、『自己決定権とジェンダー』、岩波セミナーブックス、2002年
・John D. Arras, `A Case Approach' in Helga Kuhse and Peter Singer ed., A Companion to Bioethics, Oxford: Blackwell, 1998, pp. 106-114.
・Sylvan Barnet & Hugo Bedau, Current Issues and Enduring Questions: Methods and Models of Argument (2nd Ed.), Boston: Bedford Books of St. Martin's Press, 1990, pp. 32-36
・Dale Jamieson, `Method and moral theory', in Peter Singer ed., A Companion to Ethics, Blackwell, 1991, pp. 476-487.
・Peter Singer, Practical Ethics, Cambridge, 1993. (ピーター・シンガー、『実践の倫理 [新版]』 山内友三郎・塚崎智監訳、昭和堂、1999年)
・Peter Singer, One World, Yale University, 2002.
・Judith Jarvis Thomson, `A Defense of Abortion' (1971) in John Harris ed., Bioethics (Oxford Readings in Philosophy), Oxford University Press, 2001, pp. 25-41. (ジュディス・J.トムソン、「人工妊娠中絶の擁護(抄訳)」加藤尚武・飯田亘之編、『バイオエシックスの基礎』、東海大学出版会、1988年)
・Anthony Weston, A 21st Century Ethical Toolbox, Oxford: Oxford University Press, 2001, ch. 10 `Treat like cases alike'
Satoshi KODAMA
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