ミル『自由論』要約

勉強会で担当した第一章と第三章だけです。あしからず。


Chapter 1

1. 論文の主題: 社会が個人に対して当然行使してよい権力の性質と限界を確定する

2. 歴史上の問題: 自由とは、 政治的支配者たちの専制から身を守ること、 支配者が社会に対してふるってもよい権力に、制限を設けること

3. 2.の方法

  1. 政治的自由ないし権利を支配者に承認させること: マグナカルタ、権利の請願
  2. 立憲的制約の確立: 議会の承認なしには国王は課税できない

4. 支配者-被支配者関係の変化、代議制(他者支配から自己支配)へ

5. 支配者の権力の制限ではなく、支配者と民衆の利害の一致を目指す。

6. 自己支配だからもはや政府に対する制限はいらないという考えの普及 (例外: トクヴィルなど)

「一時それを助長した云々」ってどういう話?

7. しかしこの考えはあやまりであることが実際に民主主義が行なわれる ようになって明らかになってきた。

8. 米国の例。民衆の民衆自身に対する権力というのはウソ。 民主主義は実は多数者による支配であり、 「多数者の専制」に対する警戒の必要が常にある。

9. 多数者の専制には、政府による個人の抑圧だけでなく、 社会(世論)による抑圧も含まれる。 そこで、人間の望ましい状態にとっては 個人の独立に対して集団の意見が正当に干渉しうる限界を設定する必要がある。

10. しかし、この限界の設定については今日まできちんと検討されてこなかった。

11. この限界は時代や国ごとによってさまざまに設定されてきた。 そして、人々は自分の社会における基準を自明のものとして考えていた。

12. それは習慣の力によるものである。

13. 通常、人々は「他人はかれこれをすべきではない」という判断の基準として、 「自分が同感(反感)できるかどうか(好きか嫌いか)」を用いている。 (たとえば同性愛や中絶)

この話はベンタムの共感・反感の原理を参照。 外的選好という言葉でも説明できるかも。

14. この同感反感の原因はいろいろある。理性、偏見、迷信、自己利益など。

15. 階級がある社会では、道徳は有力な階級の利害や優越感によって決まる ことがしばしばである。

ニーチェ?

16. その他、支配者や神々の好悪という基準も用いられてきた。 功利性(社会全体の利益)の基準もそうした基準とならんで用いられてきたが、 往々にして共感・反感の原因の一角をなすものとしてのみ用いられてきた。

17. これまでの思想家は、多数者の好き嫌いが社会的強制の根拠になることは 問題視せず、特定の好き嫌いを変えることにだけ努めてきた。

18. ただし、信仰の自由(宗教的寛容)だけはこれと事情が異なっており、 多大な犠牲の結果、信仰の多様性が容認されるようになっている。

19. もっとも、ヨーロッパについて言えば、 完全な信仰の自由が実践されている社会は存在しない。

20. イギリスは他の国と比べて、政府に対する警戒心が強いが、 法的強制の限界についてはっきりとした基準があるわけではない。

21. 実際のところ、 政府の干渉が正当か不当かを決める一般的基準はまだない。 みな自分の好き嫌いに応じて適当に判断している。

ベンタムは法の限界という形では以下と同じ議論をすでにしていた。 知名度が低いので「一般的に知られていない」と言われればその通りだが…。

22. 本論の目的は政府や世論の干渉が正当化される基準(原理)を提示すること。 「その原理とは、人類が、個人的にまたは集団的に、 だれかの行動の自由に正当に干渉しうる唯一の目的は、 自己防衛だということである。すなわち、 文明社会の成員に対し、彼の意志に反して、 正当に権力を行使しうる唯一の目的は、 他人にたいする危害の防止である」(翻訳224頁)。 パターナリズム(本人のためになる)は説得の根拠になっても 強制や刑罰の根拠にはならない。 社会が強制できる個人の行為は、他人に関係するものだけである。 個人の身体と精神に対しては個人は主権者である。

第一章で一番重要なところ。 他者危害原理(自由原理)については英文も引用しておく。

That principle is, that the sole end for which mankind are warranted, individually or collectively, in interfering with the liberty of action of any of their number, is self-protection. That the only purpose for which power can be rightfully exercised over any member of a civilised community, against his will, is to prevent harm to others.

23. ただし、未成年や未開人に対してはこの原則はあてはまらず、 他人の安全のためだけでなく当人の幸福のために強制することも許される。

24. 上の危害原則は、功利主義に基づくものとして理解されたい。 つまり、強制が正当化されるのは、他者(社会)の利益を守るため。 したがってまた、 法廷で証言するといった積極的な行為も他者の利益のために強制されうる。

25. 作為だけでなく、 無作為(義務の不履行)にも責任を取らせてよい場合が存在する。

ここらへんはベンタムも『序説』の第17章でまったく同じ話をしている。

26. しばしば、強制しない方がよい場合も存在する。 各人の自発性にまかせた方がよい場合とか、 強制の害悪の方が強制して得られる利益よりも大きい場合とか。

27. 自分自身にだけしか直接関係がないか、 同意(契約)した当事者にだけしか直接関係がない領域は、 法や社会的強制のオフリミット。 もちろん他人の利害にまったく影響しない行為はまず存在しないが、 それについてはまたあとで。そこで、個人の自由の領域は 以下のようになる。

28. (1) 思想(良心)の自由。出版の自由は他人に関係する領域のものだが、 実際上思想の自由と不可分。

29. (2) 行為の自由。他人に危害を与えないかぎり、 自分の好きな人生を生きる自由。

30. (3) 団結の自由。

31. こうした自由のない社会は自由ではない。 他人に危害を加えないかぎり自分の生きたいように生きられる自由こそが 真の自由である。

こういってしまうとリバタリアンぽい。 しかしたとえば経済的に貧しい人は自由の価値を亨受できないかもしれない。 みなが最低限の福祉政策に協力してくれないと困る。

32. この学説は目新しくないものの、社会が認めることはまれである。 古代や中世においては政府の強制は個人の活動のすみずみにまで及んでいた。

33. 近代においては政府のかわりに宗教が個人の活動を統制した。

34. 今日、世論や法の力はいや増すばかりなので、 個人に対する不当な強制を防止する必要がいつにもましてある。

35. まず各論として思想と言論の自由を扱う。 みなこの自由を正当化する根拠にはあまりなじみがないが、 実は応用の効く議論がたくさんある。


Chapter 3: 幸福の一要素としての個性について

general questions: 個性ってなに? 個性が幸福の一要素ってどういう意味?

1. 表現の自由についてはここまで。 次は「自分の意見を、自己の危険と責任とにおいて、 生活の中で実行に移すことが自由に(他人に妨害されずに)なされるべき」 であることを論じる。(翻訳278頁以下)

2. 「自己の危険と責任とにおいて」という条件は重要。 これは「他人の危害にならないかぎりにおいて」という意味。穀物商人の例。

3. しかし、他人に係わらない行動においては他人の危害にならないかぎり、 また自分にしか係わらない行動においては全般に、 自分の意見にしたがって自由に行動できるべき。その根拠は表現の自由と同一。 すなわち、(1)人類は無誤謬ではない、(2)真理は半真理の場合が多い、 (3)真理はほっておくと死んだドグマになりやすいこと、 (4)現時点では多様な意見があることは望ましいこと、 から他人の行動の様式に関しても強制はあるべきではない。

4. さまざまな生活の実験があることは有益。つまり個性は有益。 個性がなく伝統や慣習しか存在しないところでは、 幸福の主要な構成要素であり、進歩の構成要素が欠けている。

個性=生活の実験(幸福の要素、進歩の要素)⇔伝統や慣習

5. が、個性が幸福の一要素だとは一般に考えられていない。

6. 庶民は、自分の生き方が最良だと思っているから個人の自発性(個性)の 内在的価値を認めない。 改革者は、個性は自分の改革の妨げになると警戒している。

7. フンボルトは人間の目的を自己(個性)の完成だと考え、 そのためには自由と多様性が必要条件だと述べている。が、 イギリス人は理解しない。

フンボルトは功利主義抜きの自己の完成論が彼の政府論の基盤になっている。 ミルもフンボルトも人間の完成を主んじるが、 二人とも人間に多様性を認め、 さまざまな完成の仕方があると考えている点に注意。 この多様性の仮定がミルの思想が当時の常識と対立する原因となっているようだ。 以下のカルヴァン派の人間理解と対比せよ。

8. が、そんなイギリス人も、個性をまったく発揮してはいけないとか、 若いときに教育を受けて先人の経験(伝統、慣習)を学んだりする必要もないとか 考えているわけではない。

9. しかし、経験(伝統)に従って生きるにせよ、その解釈には個性が必要である。 その理由。(1)先人の経験は狭すぎるかも。先人は経験の解釈を誤っていたかも。 (2)先人の経験は自分の状況にはあてはまらないかもしれない。 (3)盲目的に先人の経験に従うようじゃ人間の諸能力は成長しない。

「他人と同じ道を辿ってもだめ」な理由。

10. 人間の諸能力は選択をすることによって開発される。 したがって伝統に盲目的に従うだけでは能力は開発されない。

11. 伝統に盲目的に従う人は猿である。 自分で生き方を決める人は人間の能力を発揮する。

12. 言われた通りに生きるのは自動人形でもできることである。 それでは人間の本性が発揮されていない。 「人間の本性は、ひな型にならって組み立てられ、 自己に定められた仕事だけを正確にするように作られている機械ではない。 それは一本の樹木であり、 それ自身を生命あるものとしている内面の力の趨勢にしたがって、 あらゆる側面にわたってみずから成長し発展することを求めているものなのである」 翻訳283頁

13. 伝統に合理的解釈を加えること(つまり、自分の知性を発揮すること) はある程度認められているが、 自分特有の欲求desireや衝動impulseを持つことは認められていない。

14. しかし、強い欲求や衝動も完成された人間を作るために必要である。 強い欲求はかならずしも弱い良心を意味しない。 精力的な性格の方が、無感覚な性格よりもよい。

15. 自分自身の欲求や衝動を持つ人は性格を持つ。そうでない人は性格がない。

16. 過去においては、 各人特有の欲求や衝動(自発性)が社会の安定にとって 望ましくなかった時代があるかもしれない。

17. しかし、今日においては社会の抑圧によって欲求は一様化している。 人々は何がしたいかと考えるより、 何をするのがふつうかと考える。

18. 人々は自分の欲求を捨てることを選んで慣習に従うのではなく、 個性的であろうとする欲求そのものを失なっている。

19. カルヴァン主義は、これがよい状態だと考える。 人間は神に服従し、人間性を滅脚しなければ救われない。

つまり、個性のない一様な生き方が強いられる。

20. しかし、神が与えた人間性は根こそぎにされるためにあるのではなく、 開発させられるためにあると考えるべきではないのか。

21. キリスト教的原罪観よりもギリシア的な自己発展という理想の方がミルは好き。 アルキビアデス<ジョン・ノックス<ペリクレス

あれ、これもニーチェみたいだな。

22. 人間は個性を発展させることにより、 自分にとっても社会にとっても貴重なものになる。

23. とはいえ、他人に危害を加える自由を人々に与えないことは、 社会にとっても当人にとってもよいことである。 すなわち、他人の発展を犠牲にせずにすみ、また利他的性格を発展させる。

24. しかし、 他人の不愉快という理由だけで個性を押しつぶすことは社会にとっても 個人にとっても有害である。

25. ここで話を終わってもよいが、 さらに進んで、 個性のある人間(天才)が個性のない人間(凡人)の役に立つことを論じる。

26. 第一に、凡人は天才から新しい生き方を学ぶ。

27. また、天才はこれまでの生き方が機械的なものに堕することを防ぐ。

28. 天才には自由が必要である。

29. が、人々は天才の思想や行動の自由について無関心である。

30. また、凡人は天才の独創性の意義を理解しない。

31. さらに悪いことに、今日の世の中は凡人(世論)が支配している。

32. 世論は他でもない凡人たちの意見によってできている。

33. 凡人が天才の意見を傾聴しなければ、政府も凡庸になってしまう。

34. 凡人の幸せは天才に導かれることである。といってもわたしは 英雄崇拝を奨励しているわけではない。天才も凡人を強制することはできない。

35. 今日においては、大衆と異なった行動を取る人は非常にまれであるから、 奇矯な行動をする人はそれだけで誉めるに値する。

36. ところで、行動の自由はよりよい生活様式を見つけるためにだけ重要なわけ ではない。自分の思いどおりに生きることには内在的価値がある。

37. 人間は羊じゃないから、 自分らしい生き方をすることが本人にとって最善である。 生活の型が一種類しかないというのは、 靴の大きさが一つしかないというのと同じくらい窮屈である。

38. 異なる人は異なる環境や生き方を必要とする。 人間は多様だから環境も多様でないと成長できない。

39. それなのに、凡人の好む趣味と生き方だけが寛容されている。

40. そして、「だれもしないこと」をしたり「だれもがすること」をしないと、 道徳的に非難される。社会的地位がないと変人になれない。

41. 現代の世論には特徴がある。凡人は知性も欲求も平均的だから、 強烈な欲求を持つ人は天才でも変人でもいっしょくたに軽蔑する。

おそらく現代の世論の特徴とは、次の道徳的運動のことと思われる。

42. 今日、過度の欲求を抑制しようという道徳的運動が起きている。

43. その結果、強い理性によって感情を抑制する偉人ではなく、 もともと感情が弱いために抑制する必要がない人間が生まれている。 両者は似て非なるものである。

44. いまや精力のはけ口はビジネスだけである。 「イギリスの偉大さは、今日では、すべて集団的なものである」295頁

45. 習慣の専制に対抗するものは、 改善の精神と自由の精神といった進歩的原理である。 改善の精神と自由の精神は同一ではないが習慣の専制に対して同盟関係にある。

46. この習慣の支配と進歩的原理の相克が人類の歴史である。 東洋人は習慣の支配に隷属しすぎたため、 個性が死にたえ進歩がとまってしまった。

47. 西洋では、 特異性は排除しても変化は尊重するという点で習慣の性格が東洋と異なる。 たとえば服装。

48. われわれは変化的であると同時に進歩的でもある。 それにもかかわらず、 人々の一様化はすばらしいことだと考えられている。

49. 中国はかつては個性に恵まれた国であった。

50. しかし今や人々は一様化し、社会は発展することをやめてしまった。

51. 今日の世論という統治制度は、中国における政府や教育と同じ仕方で、 西洋人の発展を止めようとしている。

52. 西洋が今日まで進歩してきたのは、ひとえに人々の多様性のおかげである。

53. しかし、西洋では一様化の病がかなり進行しつつある。 フンボルトは自由と境遇の多様性を発展の必要条件としている。

54. 今日、境遇の多様性はますますなくなりつつある。 「相対的にいえば、 彼らは、今日、同じものを読み、同じものをきき、 同じものを見、同じ場所に行き、 同じ対象に希望と不安とを向け、 同じ権利と自由をもち、 それらを主張する同じ手段をもっている。(中略) そして同化はなおも進行中である」翻訳299頁

55. 政治、教育、交通機関の進歩、商工業の増進、これらはすべて同化を促進する。

56. それらにもまして、世論による国家の支配が同化を促進している。

57. というわけで、一部の知識人だけでも個性の重要性を認識してくれないと、 個性の抑圧はいやますばかりである。

58. いま個性の権利を主張しないと、手遅れになる。


補足

『自由論』の三つの源泉(矢島2001)。

  1. 政府からの自由というテーゼ→ベンタム、父ミルから
  2. 世論からの自由というテーゼ→トクヴィルから
  3. 個性、多様性というテーゼ→フンボルトなどのロマン主義者から

ch 1

第1章のone simple principleの段落についてのGeraint Williamsの註釈 (Everyman版, p. 456)。五つのポイント。

  1. 強制、統制などは法的刑罰あるいは世論の道徳的強制を通じてなされる。
  2. 社会全体の保護という意味での「自己防衛」という語はすぐに 「他者への危害を妨げる」というフレーズに置き換えられる。
  3. 正当化されない干渉の根拠がどのようなものであるのか、 今ひとつはっきりしない。パターナリズムや国家社会主義はダメのようだが、 `because it will be better for him to do so'とか、 because it would be `wise, or right'とかいう表現の意味はよくわからん。
  4. ミルは訓戒や説得などは強制の一種としては捉えていない。
  5. 各人は、自分が「主権者」であるような部分を持っている。 これはルソーのように「権利を全部手放して社会に預ける」 という考え方とは異なる。

ch 2

第2章「表現の自由」は全面的にキリスト教批判であるというハンバーガーの主張 「J・ハンバーガーは、『自由論』でミルが批判したすべては、 目立たないがキリスト教に向けられている、と述べている。 とりわけ第二章は、無神論と自由思想家のために、 自由を拡大するために書かれたことを強調している」(矢島2001、366頁)

ch 3

慣習について

グレイの言うようにミルは慣習の持つ重要性に注意を払わなかったか(矢島2001 199頁)

多様性について

「I・バーリンは、個人の意志と多様性にロマン主義の根本的な特徴を見出している」 (矢島2001 60頁)
「ミルは個性と多様性に関する見解を、ギゾーやミシュレ等のフランスの歴史家の 見解にも見出している」(矢島2001 65頁)
「ミルは、人間が幸福に至る道は一つだけしかないとするコントの見解に 疑問を表明し、反駁しているのである。…。 もし人間の幸福に至る道が一つしか示されないなら、 人類はその一つの目標に向けて殺到し、 運よくその目標を手に入れた人は、 まだ手にいれていない他の多くの人々に対して優越感を抱き、 やがて彼らを差別するようになる」(矢島2001 132頁)

しかし、上の議論を認めるなら、真理も多様であることを認めた方がよいことに ならないか。

ミルとキリスト教批判

「ミルのキリスト教批判の論点は、 その受動的性格にある。すなわち、 「汝云々すべからず」が「汝云々すべし」 を不当に圧倒していると言う。また、 キリスト教の受動的性格は、 カルヴァン派の教義に典型的に現われており、 ミルは専制政治と比べても奴隷の教義であると断じている」 (矢島2001 135頁)

「キリスト教倫理の受動的、服従的性格は、 カルヴァン派の教義においてその頂点に達する。…。 ミルによれば、カルヴァン派の理論では、 人間の為しうる一切の善は服従のうちに包含されており、 人間は選択の自由を持っていないと言う」(矢島2001 369頁)

「ミルは、キリスト教倫理とは別のあるべき倫理を想定し、 それをギリシア的な自我発展の理想に見出しているのである」 (矢島2001 370頁)

天才

1832年「天才論」

エリート主義、英雄崇拝

個性的な人が大衆から自由を奪ってしまう危険。

カーライルの英雄崇拝論と愚民観(矢島2001 127頁以降, Everyman p. 460 note 31)
「トクヴィルは、民主的国家における地位の平等化が自由を望む 個人の情熱や感情を弱め、独裁的な権力を許してしまう危険を指摘したのである」 (矢島2001 25頁)
「ミルは精力的な性格について、 豊かな自発性と強力な衝動について強力に主張している。 しかし、精力そのものは妨げられるものではないし、 豊富な精力が他の人々の権利を非常に侵害しがちであるという困難が 常に残るであろう」(ベイン、矢島2001 198頁)


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Fri Feb 01 05:08:59 2002