IV. 第三の道

1. 直観主義的実在論か準実在論かという二者択一のおかしさ
 たとえ、スティーヴンソン=マッキンタイア流の《倫理学において真理は手に入らないかも》という挑戦に立ち向かって真理を勝ち取るには、[直観主義的実在論から準実在論への]形而上学的立場の移動以外のものが必要だとしても、すなわち、われわれの概念の武器庫にある材料によってわれわれが装備することのできる《倫理的判断の理由》の概念が[プロパガンダ的説得と合理的説得を区別できるほど]豊かで頑丈なものであることを示す必要があるとしても、真理を得るというのは、[直観主義者の言うように]単に、評価的な事実を「見る」ということではないということを譲歩するとたちまち、投影説の形而上学を無言のうちに採用してしまったことになるように*思えてしまう*。
 このように*思えてしまう*のは、形而上学的レベルにおいては二つの選択肢しかない、すなわち投影説か魅力的でない直観主義的実在論しかないという想定に基づいている。しかし、この想定は疑わしい。

# 投影説以外の形而上学的立場で、しかも努力をして真理を得るという立場、第三の道が存在することを示唆している。以下ではまず、投影説の問題点が指摘される。

2. 投影説は理解の順序においても主体の側の反応を実在の側の特徴に先行させる
 投影のイメージのポイントは、一見世界の側に実在しているように思われる特徴が、実は世界の側の特徴ではなく、われわれ主体の側の反応の反映(反射、鏡映)にすぎないということを説明することである。
 ところで、この説明の方向[主体の側の反応→世界の側に反映された特徴]は、*理解の順序in the order of understanding*においてもそれと対応する順序が必要になってくるように思われる。すなわち、われわれは、主体の反応を投影することによって生じるとされる《一見すると世界の側に実在する特徴》についての概念を利用すること*なくして*、主体の反応についての思考に焦点を合わせることができるはずである。

# ほんまかな。実在の仕方の順序と、認識の順序が対応する必然性はあるのか。ここが一番わからん。

 前出のむかつきの場合は、この順序が守られているように思われる。むかつきや吐き気というのは自己完結した心理的な要素itemで、それを概念化するには、「むかつき性」や「吐き気性」といった投影された性質に訴える必要はないと考えられる。(確かに、この心理的現象を十全に説明するには、この反応を生み出す*傾向*を持つという観点から、特定の事物thingsを一まとめに集めなければならないだろう。しかし、これらの事物が持つ*傾向*は、当の反応の投影として説明される必要のある*性質*ではない)

# 事物の持つ傾向は形や重さなどの一次性質、反応の投影として説明される性質は赤さや暖かさといった二次性質、ということか?

 すると、問題はこういうことになる:もし、評価的な概念およびそれと類似した反応をわれわれ主体にもたらす一定の諸概念に関して、われわれが次のような種類の実在論を否定するなら、すなわち、主体の反応をそれと関係する実在の側にある諸特徴の知覚と見なし、真理を獲得することに向けて何の努力もしない種類の実在論を否定するなら、主体の反応は、投影説が考えているように、この種の*説明における先行性*を持つことになるのだろうか。

# `in connection with some range of concepts whose application engages distinctive aspects of our subjective make-up in the sort of way that seems characteristic of evaluative concepts'は「評価的な概念およびそれと類似した反応をわれわれ主体にもたらす一定の諸概念に関して」と解釈した。`whose application engages ...'などともってまわった言い方をしてるところが気になる。# responseという語自体が、「何かに対する反応」という意味で、一番に先行するものではないように思えるが、どうなのか。

3. 「おかしきものthe comic」を例にして検討する
 直観主義的実在論が明らかに魅力的でなく、投影説が明らかに正しいと思われている、非-倫理的な事例として「おかしきもの」を検討してみる。
 いったい何が世界に投影され、その結果《かれこれの事物はおもしろいthings are funny》という考えをわれわれにもたらすのか。
 「笑う傾向an inclination to laugh」は十分な答えではない。というのは、笑う傾向を投影したとしても、必ずしも「おかしきもの」の事例を生み出すとは限らないから--たとえば、笑いはおもしろがっていることamusementの合図になるだけでなく、照れていることembarrassmentの合図にもなる。

# 注15のブラックバーンの論文への言及について。投影説の説明が道徳の力を弱めてしまうのではないか、という批判に対して、投影説の説明は笑いの力を弱めないのと同様、道徳の力も弱めない、という文脈で次のように述べている。`Mabel may be tempted to laugh at Fred's moustache; Fred may seek to dissuade her by telling a projectivist story about the judgement that something is funny, but there is no reason for him to succeed. Finding things very funny is perfectly compatible with believing that it is a tendency to laugh which we project on the world when we do so.' Blackburn, `Errors and the Pheonomenology of Value' Essays in Quasi-Realism, 155
# これに対する上のマクダウェルの批判は若干揚げ足取りにも聞こえるが…

 おそらく正しい反応は「おもしろがっている」としか説明できず、「おもしろがっている」とは《何かが可笑しいことを見出す》としか理解できない。もしこれが正しいとしたら、《何かが可笑しい》という考えをその反応の*投影*として*説明*することはできないのではないか。

# ほんまかなー。どうしてもnaturalisticあるいはreductiveな説明をする必要があるのか。

 何が言いたいかというと、われわれ主体の側の生には、問題の思考法[《何かが可笑しい》という考えなど]の投影説的説明に必要とされるような《自己完結した先行する事実》は存在しない、ということである。唯一関連する反応[たとえば笑うこと]には、問題の思考法に現れる概念的道具がすでに使用されているのである。

 たしかに、笑う傾向というのはある意味では《自己完結した先行する心理的事実》である。しかし、笑う傾向のいくつかの事例を*おもしろがっている事例*として区別できるようになるには、われわれは学ばなければならないのであって、わたしの言いたいことが正しいなら、この学習は何かが可笑しいことを見出すようになることから区別できない。

# learnとearnはパラレル?

 もし、主体の側の状態を、それが投影されたものとして説明されるべき特徴の概念の助けなしには把握することができないとしたら、ある概念の投影説による説明はダメにならないか。もっとも、この懐疑はだからといって直観主義的実在論を支持するものではない。

# 「フレッドのひげはおもしろい」(一見実在論的な主張)→ブラックバーン「投影説的には、フレッドのひげにおもしろさが備わっているのではなく、われわれは『ひげを見たら笑うという傾向』を投影している」→マクダウェル「笑いにはいろいろ種類があるから、『笑う傾向』の投影ではうまく説明できない」→マクダウェル「メイベルの反応は『フレッドのひげを見ておもしろがっている』としか記述できない。が、『フレッドのひげを見ておもしろがっている』という反応は、彼女が『フレッドのひげはおもしろい』と考えたこととしか理解できない」→マクダウェル「とすると、『フレッドのひげはおもしろい』という考えを『フレッドのひげを見ておもしろがっている』という反応の投影として説明するのはおかしい」

# funnyがindefinableであることは、投影説にとって致命傷か?

4. ブラックバーンは上の問題を深刻に考えていない。その原因は例の二分法だろう。
 ブラックバーン自身はこの問題を軽く見ている。彼がこの問題を論じているところは一箇所しかしらない。そこでは次のように述べられている:世界に投影されるべき主体の反応を記述する唯一の方法が、《自分が直面する事物の中にその投影されたものを見出すように思われる》[すなわち、finding something funnyのような記述] というものでも、投影説にとっては問題とはならない、と。

# 注16のブラックバーンの論文への言及について。蓋然性についての投影説的説明の文脈でのpassing comment。
`Projectivism in moral philosophy is open to attack on the grounds that the reaction of the mind that is supposedly projected is itself only identifiable as a reaction to a cognized _moral_ feature of the world. The specific attitudes and emotions (approval, indignation, guilt, and so on) can, it is argued, be understood only in terms of perception of right and wrong, obligations, rights, _etc_., which therefore cannot be reflections of them. Myself, I do not think that this is true, nor do I think, if it were true, that it would refute projectivism. For it is not surprising that our best vocabulary for identifying the reaction should be familiar one using the predicates we apply to the world we have spread. Thus, to take a parallel, many people would favour a projectivist view of the comic, and they may well be right even if our best way of describing the reaction which we are projecting onto a situation we describe as comic is `that reaction we have when we find something funny'. I don't think a behaviourist analysis is either required or helpful, for obviously the behaviour, to someone with no sense of humour, would be incomprehensible.' (Blackburn, `Opinions and Chances' in Essays in Quasi-Realism, 79)
# 上の説明はマクダウェルにとってはたいへん不満。投影説的な説明の仕方が*まったくない*とすると(Blackburn, `nor do I think, if it were true, that it would refute projectivism.')、これは投影説にとって致命傷ではないかと主張している。

 ブラックバーンがこのように考える原因は、直観主義的実在論か投影説かという二者択一的発想だろう。

5. 二者択一から第三の道(no-priority view)へ
 ブラックバーンがそのように二者択一的に考えていることの証拠は、彼の次のコメントに見られる。

 投影説論者の考えでは、道徳的存在者としてのわれわれの本性は、価値も義務も権利も含まない現実に対してわれわれが反応しているものとして、うまく説明される。実在論者の考えでは、われわれが独立した道徳的実在を知覚、認知、直観しうるものとして考えることによってのみ、うまく説明される。実在論者は事物の道徳的特徴はわれわれの感情の両親と考え、ヒューム主義者はそれらを感情の子どもと考える。(注17 Blackburn, "Reply: Rule-Following and Moral Realism" 164-65.)

 ここでいう実在論は労働せずに真理を得られると思っているけしからん立場のもの。だから、この二者択一で言えば、「事物の特徴」をわれわれの感情の両親ではなく子どもと考えざるをえなくなり、感情がはたして必要な説明的独立性[上記3の話]を持つのかどうかを問う余地がなくなる。

 しかし、二者択一である必要はないのではないか。事物の付加的な特徴と感情の関係を両親とその子という見方ではなく、兄弟(姉妹)siblingsと考えたらどうか。

# 注18 Wiggins "Truth, Invention, and the Meaning of Life" (未読) "A Sensible Subjectivism?" sec 8あたりでcomicやfunnyの話をしている。`There is no object-independent and property-independent, "purely phenomenological" or "purely introspective" account of amusement. And equally there is no saying what exactly the funny is without reference to laughter or amusement or kindred reactions. Why should we expect there to be such an independent account?' `What is improbable in the extreme is that, either singly or even in concert, further explanations will ever add up to a _reduction_ of the funny or serve to characterize it in purely natural terms.' (Moral Discourse and Practice, 232)

 兄弟(姉妹)と考えることで、事物の付加的特徴にも、感情にも優先権を与えない、《付加的な概念が関連する感情に先行する》ことは否定するが、同時に《関連する付加的な特徴の概念とは独立に正しい感情を理解することはできない》と考える「優先権無しの立場」(no-priority view)が示唆される。直観主義的実在論者にならない方法は二つあり、投影説はそのひとつの選択肢に過ぎない。

6. no-priority viewでも真理は確立できるか
 「可笑しさ」の場合は、「なぜ可笑しいのか」という議論は必要ないため(通常自己論駁的である)、説得と操作の区別は問題にならない。しかし、「可笑しさ」の事例と道徳の事例に共通する脅威があり、それは《異なる感受性のどちらがより真理に近いか、より良い理由によって支持されうるかは問題にならず、せいぜいのところ主観同士の単なる一致があるだけである》という考え方である。
 そこで、重要な問題は、主観的反応を生み出す種類の思考様式が、その思考様式に対して真理概念が適用できるぐらいに十分実質的な「理由」というものを持つことができるかということである。

7. no-priority viewは、真理を獲得するために、可笑しさについてのわれわれの理解から出発して、ユーモアのセンスのランク付けを試みる
 no-priority viewの優れたところは、問題の領域(倫理、可笑しさ)で真理を獲得しようとする場合に、われわれの反応を明らかにするのに《一見して世界を記述するように見える概念的資源》を用いることができそうだ、という点である。ブラックバーンの二者択一的発想だと、このような資源を用いることは、直観主義的実在論にコミットすることになってしまう。

 可笑しさについての投影説的準実在論の場合だと、事物が真に可笑しいという考えを構築(建築)するには、ユーモアのセンスをランク付けするための原理の基礎(土台)を、《事物を可笑しいと見い出す傾向性the propensity to find things funny》の*外側から*打ち立てる必要があるだろう。

 これと対照的な考え方は、ユーモアのセンスがより洗練されているかどうかという考えを、事物が真に可笑しいとはどういうことかについての理解から*派生する*ものとして理解するというものである。すなわち、《事物を可笑しいと見い出す傾向性the propensity to find things funny》の*内側から*組み立てることを目指すものである。

 可笑しさの概念は、合理的に*孤立した*諸項目の集合のための装置ではなく、この概念を持つためには、合理的に*連関のある*諸概念の体系においてそれが占める場所についての少なくとも漠然とした理解が必要であり、ユーモアの「美学」を明らかにするにはそのような理解を利用すべきである。感受性のランク付けは、このようにして生じるのであり、それが何もないところから(`from what materials?')独立に構築され、事物が真に可笑しいのはどの場合かについて判断を下せるという投影説の考えはおかしい。

 とはいっても、可笑しさについてのわれわれの理解から、ユーモアのセンスのランク付けができるかといえば、まあそれほどできるかどうかは明らかでないので、客観的だという錦の御旗を掲げて、ユーモアのセンスの劣った人を馬鹿にするようなことがないように気をつけるべきである。ただし、*内側から*作業すると、かならずこのような自己欺瞞に陥るとはかぎらない。

# この内側、外側、子ども、兄弟という比喩はよくわからんなあ。

8.
 というわけで、no-priority viewは、*可笑しさそれ自体*に焦点を合わせることにより、真理を獲得することができそうだということを認める。何が真に可笑しいかについての考え(理解)は、[投影説が考えるように]ユーモアのセンスをより優れたものにするものは何かについての、独立に確立された考えによって説明される必要はない。

9. no priority-viewでは、倫理的感受性に内在する視点から、倫理学上の諸概念を批判し洗練させることができる

 倫理においても同じことが言える。no-priority viewによれば、われわれは濡れ手に粟式に真理を得ることができるとする直観主義的実在論と、概念装置conceptual equipmentは投影の産物なのでそれを真理の獲得の際に用いることは許されないとする投影説の選択肢のいずれかを選ぶ必要はない。

 真理を獲得するためには、直観主義のでっち上げの認識論によってなされた*ふり*がなされていることを、実際に満足のいくようになせばよいのである。すなわち、no-priority viewは、知覚という考えが認識論において持つ信用を借りてくるのではなく、*理由に訴えうるsusceptibility to reasons*という考えを中心にした認識論を目指すのである。

 真理に対する脅威が生じるのは、《ある倫理上の立場に立つ理由についてのわれわれの考えに、十分な実質がない》と考えられるからである。この脅威に立ち向かう際には、批判的吟味に耐えうるあらゆる倫理学上の概念を含め、あらゆる資源を用いてはならないという法はない。そして、ある倫理学上の概念を批判的吟味するさいに用いることができるのは、それ以外の諸概念以外にはなく、それゆえ批判的吟味をするさいに*倫理的感受性によって構築された視点の外に立つことはない*のである。

# no priority-viewでは、倫理的感受性に内在する視点から、倫理学上の諸概念を批判し洗練させることができる。投影説では、倫理学上の諸概念は投影の構築物であるから、それらを批判するにはそれらを用いずに、外在的な視点(from nowhere?)から検討しなければならない。図式的にはなんだかもっともらしいけど、ほんま?
# 子ども(投影の産物)が、親(態度や感受性)を批判できないというのはほんとか? なぜ兄弟姉妹だったらできて、親子だったらできないの? 発生の順序にあとさきがあるからといって、相互の批判ができないとは限らないのでは。

10. no-priority viewは真理が獲得できることを約束しない
 no-priority viewを取ったからといって、上記の脅威(マッキンタイアの挑戦)が解決されるとはかぎらない。それは用いることができる資源が武器庫にどれだけあるかによる。戦いが勝利に終わるかどうかはわからない。

Satoshi Kodama
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Last modified: Fri Jul 18 05:24:37 JST 2003