1957年、英国ウォルフェンデン報告: 男性成人間で同意された同性愛行為の非 犯罪化を勧告。「法の関知しない私的な道徳(不道徳)の領域が存在する」
この領域[売春と男性間の同性愛についての法]においては、 その[刑法の]役目は、われわれの理解では、 公共の秩序と品位を保つことであり、 気分を害する事柄または有害な事柄から市民を守り、 他者による搾取と腐敗に対して十分な防壁を --とくに、若かったり、身体や精神が弱かったり、 経験不足であったり、特別な身体的、職務的、経済的依存状態にあったりして とりわけても弱者の地位にある人々に--提供することである。
われわれの見解では、 今概略した目的を達成するのに必要とされる以上に市民の私生活に干渉したり、 特定の行動様式を強制しようとしたりすることは、法の役目ではない。
→刑法の正当化根拠についての論争が生じる。ハート対デヴリン。
デヴリン: 「社会は存続のために単一の公共道徳が必要」。 それゆえ、寛容が社会に有益であるとか、 私的道徳は法の関知するところではないという前提は間違い。
反逆罪の法は、国内で国王の敵を助けたり、 動乱を起こしたりすることを禁じている。 その正当化は、確立された政府が社会の存続に必要であり、 それゆえ政府が暴力的な転覆から守られていることが保障される必要がある ということである。 しかし、社会の福祉のためには、 確立された道徳は良い政府と同じくらい必要である。 社会は外的な圧力によって破壊されるより内部から崩壊することの方が多い。 共通の道徳が守られないときに崩壊が起こるのであり、 歴史からわかることは、 道徳的な結びつきが緩むのはしばしば崩壊の第一段階だということであり、 それゆえ社会は政府やその他の不可欠な機関を守るのと同じ手続で 道徳規範を守ることが正当化されるのである。
反逆罪と同性愛の間にアナロジーは成り立つか? 反逆罪=public、同性愛=privateでは? →デヴリン: 私的な不道徳は存在しない。
悪徳の抑圧は政府転覆活動の抑圧と同様に法の仕事である。 私的な政府転覆活動の領域を定義することが不可能であるのと同様に、 私的道徳の領域を定義することも不可能である。 私的道徳について語ったり、 法は不道徳そのものには関与しないと語ったり、 悪徳の抑圧に関する法の役割に厳格な境界線を引こうとするのは誤りである。 反逆罪や煽動を禁止するさいに国家権力にはいかなる理論的限界もないのと同様に、 不道徳を禁止するさいにもいかなる理論的限界もありえないと考えられる。 あなたは、ある人の罪が当人にしか影響を与えないならば、 それは社会の関知するところでない、と論じるかもしれない。 彼が毎晩自分の家で私的に酔っぱらうことを選ぶのであれば、 彼以外に悪影響を受ける人がいるだろうか? しかし、人口の4分の1あるいは半分が毎晩酔っぱらうとすると、 その社会はどうなるだろうか? 社会が酩酊を禁ずる法を作る権限を得るために何人まで 酔っぱらうことができるかについては、 理論的限界を設定することはできない。
デヴリン: 公共道徳の内容は「道理のある人」の感情によってわかる。 不寛容、憤概、嫌悪感の三つが合わさったときに、刑法によって禁止すべき。
立法家はどのようにして社会の道徳判断を確かめることができるのか? 多数派の意見によって得られるというのでは明らかに不十分である。 すべての市民の個々の同意を必要とするというのでは行きすぎであろう。 英国法は頭数を数える必要のない基準を生み出し、常に使用している。 それは道理のある人という基準である。 彼は理性的な人と混同されてはならない。 彼は何か推論をすることは期待されておらず、 彼の判断は大部分感情の問題であるだろう。 それは通りを歩く普通の人の物の見方であり、 --あるいはすべての法律家になじみの古臭い言葉を使うならば-- クラパム乗合馬車に乗車した人の物の見方である。
[デヴリンの道徳観は、神学的でも理性主義的でもない] パトリック卿の講義でもっとも顕著な特徴は、 道徳--刑法が強制してよい道徳--の本性についての彼の見解である。 これまでに自由主義的見解を批判した思想家たちは、たいていの場合、 道徳は神の命令であるか、 あるいは道徳は人間の理性によって発見されうる人間の行動原理だと 考えたからである。 彼らにとっての道徳は、神や理性の法としてのこのような高尚な神的ないし 理性的地位を有していたので、国家が道徳を強制すべきなのは当然であり、 また、人定法の機能は単に人々に善き生を送る機会を与えるだけではなく、 人々が実際に善き生を送ることを確実にすべきでもあることは、 これまた当然であった。 パトリック卿の自由主義的見解の批判は、 このような宗教的あるいは理性主義的な考え方に基いていない。 それどころか、彼の書きぶりからは、 推論や思考が道徳に大きくかかわるという考え方が放棄されているように読める。 英国の民衆道徳が歴史的にキリスト教と結びついていることはうたがいない。 「そのようにして英国の道徳は生まれたのだ」とパトリック卿は言う。 しかし、英国の民衆道徳はその現在の地位や社会的意義を理性に負わないのと同様、 宗教にも負っていない。
[道徳は感情の問題-reasonable manという道徳の判断基準] とすると、道徳とは何なのか? パトリック卿によれば、 道徳とは主として感情の問題である。 「あらゆる道徳判断は、 正常な人であれば他の仕方で行為するなら自分が悪いことをしていると認めずにはいられないだろうという感情である」と彼は言う。 すると、パトリック卿が公共道徳と呼ぶものをわれわれが持つとすれば、 いったい誰がこのような感情を持つ必要があるのか。 彼によれば、それは「道行く人(普通の人)」であり、「陪審席にいる人」 であり、あるいは(英国の法曹では非常によく知られている言葉遣いをするならば) 「クラパム乗合馬車に乗車している人」である。 というのは、法が関係するかぎりでの社会の道徳判断は、 道理をわきまえた人reasonable manという基準によって測られるのであり、 道理をわきまえた人は理性的な人と混同されてはならないのである。 実際、パトリック卿は「道理をわきまえた人は何か推論をすると 期待されるべきではなく、彼の判断は大いに感情によるものであろう」 とまで言っている。
[刑法で強制すべきなのは、不寛容、憤概、嫌悪感のすべてが生じる行為のみ] しかし、問題となっている感情--刑法の発動を正当化するような感情--は、 正確にはどのようなものなのか? ここで議論はすこし複雑になる。 ある慣習が広く嫌われていることは十分ではない。 パトリック卿に言わせると「本気に非難する感情」がなくてはならない。 嫌悪感だけでも十分ではない。 重要なのは不寛容と憤概と嫌悪感が組合さっていることである。 これらの三つが道徳法の背後にある力であり、 それなくしては「道徳法は個人から選択の自由を奪うのに十分ではない」。 そこで、パトリック卿の見方では、 単なる社会の批判的な道徳判断と、 不寛容と憤概と嫌悪感が協和した高みまで上った感情が生みだした道徳判断との間には重要な違いがあるのである。
[この基準に従えば、姦淫は禁止されないが、同性愛は禁止される] この区別は新しいものであり、またとても重要でもある。 というのは、道徳が強制されるとき個人の自由は必然的に削られるという事実に与えられる重要性は、このことにかかっているからである。 この点についてのパトリック卿の見解は抽象的に定式化されているので理解しにくいが、 彼の立場は彼が挙げた例によって十分に明らかである。 彼の立場がもっともよくわかるのは、 姦淫と同性愛について彼が対照的に述べている部分である。 姦淫については、ほとんどの社会における公の感情は、現在では、 協和した程度の強さではない。 われわれは姦淫は一定範囲に抑えられているならば寛容できると思っている。 それが深刻に有害なのは、それが広範囲に広まったときだけである。 そのような場合、個人の自由が制限されるべきかどうかは、 パトリック卿にとっては、 社会への危険を一方の天秤に、個人の制限を他方の天秤にかけてはかるべき 問題である。 しかしもし、同性愛の場合のように、公の感情が協和的な強さに達しているならば、 もし公の感情が、 そのような慣行が社会にとって有害だという「熟慮された判断」を表明しているなら、 もし「その慣行は単に存在するだけでも犯罪であるというほど汚らわしい悪徳だという真性な感情」が存在するなら、 その慣行は寛容の限界を越えており、 社会はそれを根絶してよい。 この場合、個人の自由の主張を天秤にかける必要はないと思われる。 もっとも、深慮の問題として、 立法家は公の寛容の限界が変わること、 協和した強い感情が落ちつくかもしれないこと、を覚えておくべきであろう。 このことは法にディレンマをもたらすかもしれない。 というのは、その場合、法はそれが必要とする十分な道徳的裏付けを 失なってしまうからである。 しかし、法が変更されるならば、 道徳判断が弱まったという印象を与えずにはいられないのである。
[刑法によって不道徳を抑圧することは、社会の存続にとって必要] もしこれ--憤概、不寛容、嫌悪感の組合せ--が道徳であるならば、 そのような道徳を、刑罰に必然的に含まれる不幸を伴う刑法にすることが どのようにして正当化されるのかを尋ねるのはもっともなことである。 この点でパトリック卿の答は非常に明白で単純である。 個人の集合は社会ではない。個人の集合が社会になるのは、 とりわけても共有された道徳すなわち公共の道徳によってである。 社会の存在にとって、これは体系的な政府と同じくらい必要なものである。 だから社会は、社会にとって必要不可欠な他の事柄と同様に、 道徳を守るために法を使うことが許される。 「悪徳の抑圧は、政府転覆の活動の抑圧と同様に、法の仕事である」。 このことを否定する自由主義的見解は「法学における誤謬」を犯している。 というのは、私的道徳の領域を確定することは、 私的な政府転覆活動の領域を確定することと同様に不可能だからである。 国家が反逆や煽動に対して立法する力に限界がないのと同様に、 不道徳に対する立法にはいかなる「理論的制限」もありえない。
[たしかにミルの危害原理は唯一の自由の制限を決める基準ではない] あきらかに以上の議論はすべて、巧妙ではあるけれども、 誤解を招くものである。 自由主義的見解のミルの定式化があまりに単純であるというのはその通りであろう。 人の自由に干渉する根拠は、 「他者危害」という単一の基準が示唆するよりもずっと多様である。 動物の残酷な扱いや金儲けのための組織的な売春は、ミル自身がそう考えたように、 他者危害という記述には容易にはあてはまらない。 逆に、もっとも文字通りの意味での他者危害が存在する場合でも、 有害な活動が法によって抑圧される程度を限定する他の諸原理があっても まったくおかしくない。 というわけで、人の自由が制限される場合を決定する基準は複数あり、 単一ではない。 パトリック卿は理論的制限と実践的制限の違いをしばしば強調しているが、 おそらく彼がこの奇妙な区別によって言いたいのはこのことであろう。 しかし、単純すぎるきらいがあるものの、 自由主義の見解は、道徳と刑法の適切な関係についての思考を明確にするうえで、 パトリック卿よりも良き案内者である。 というのは、 それは彼があいまいにしている部分--すなわち、大衆の道徳を刑法にする前に 考察が必要とされる地点--を強調しているからである。
[たしかに共通の道徳は社会の存続に必要だが、 不道徳を法的に禁止する前に(1)それは有害か(他者危害にあたるか)、 (2)それは共通の道徳を破壊するか、を問わなければならない] 社会がその中で生活するに値するものであるためには、 いくつかの事柄について道徳的意見が一致していることが不可欠であるということは、 まちがいなくわれわれはみな同意するであろう。 殺人、窃盗、その他多くの事柄を禁じる法律は、 これらの法が禁止していることは不道徳でもある という広く共有された確信によって支持されていなければ、 ほとんど役に立たないであろう。 ここまでは明白である。 しかし、だからといって、 受容された道徳によって道徳的否認の印を押されているすべての事柄が、 社会にとって等しく重要であるわけではない。 また、道徳が縫目のない織物--その断固とした否認が法によって強制されないかぎり、 社会を道連れにしてバラバラになってしまうもの--であると考える 理由もまったくない。 実際のところ、 協和した強さに達した道徳的感情--不寛容、憤概、嫌悪感のトリオ--を 目の前にしてさえ、われわれは立ち止まって考えなくてはならない。 われわれはパトリック卿が十分明らかには気付かず、 あるいは区別しなかった二つの異なるレベルにおいて問いを尋ねる必要がある。 第一にわれわれは、道徳感情を害する慣行は、 一般の道徳規範に対する反響とは独立に、 有害なものであるかどうかを問う必要がある。 第二に、道徳規範に対する反響についてはどうか。 一般の道徳のある項目を刑法に組込まなければ、 道徳の全体系と社会の全体系を危険にさらすことになるというのは本当か。
[(1)寛容しがたい不道徳は法によって禁止せよというのは(他者危害とくらべて)あいまい] われわれは、 単にあいまいな決まり文句--「これは公共道徳の一部であり、 社会が存在するためには公共道徳が保存される必要がある」--を繰り返すだけでは、 これらの二つの異なる問いを考えることから逃れられない。 ときにパトリック卿はこのことを認めているように思われる。 というのは、 彼はミルやウォルフェンデン報告書が使ってもおかしくないような言葉遣いで、 社会の全一性と両立するかぎりで個人の自由を最大限に尊重しなければならないと 言っているからである。 しかしこれは、彼の姦淫と同性愛という対比的な例が示しているように、 法が罰してもよい不道徳は一般に寛容しがたいと思われている必要があるということを 意味するにすぎないことが明らかになる。 明らかにこれは、 もし(法によって)抑圧されなければ起こりうるであろう社会組織に対する損害の合理的評価に代わる適切な代案とは言えない。
[(2)同性愛が道徳規範を危険にさらすというのは無茶] おそらく、この問題についてのパトリック卿のアプローチの不適切さをもっとも明らかに示すのは、 彼が性の不道徳の抑圧を反逆罪あるいは政府転覆的活動の抑圧になぞらえている 部分であろう。 もちろん、私的な政府転覆的活動というのは、 「政府転覆」は政府を転覆させるという公的な事柄なので、 語義上の矛盾である。 しかし、同性愛を嫌う道徳的感情が協和的な強さにあるところでさえ、 二人の成人の私的な同性愛的行動がなんらかの点で反逆罪や煽動と 意図あるいは結果において似ていると考えるのは奇妙きてれつである。 一般的な道徳規範からの逸脱がその規範に必ず影響を与え、 その変更をもたらすだけでなくその破壊をももたらすと仮定するのでないかぎり、 同性愛行為を反逆罪と同じように考えることはできない。 道徳のこの項目に反することによって全体系を危険にさらされかねないということが 明らかでないかぎり、このような類推はまったくもっともらしくない。 しかし、 単に人々が唾棄するなんらかの私的な性的行為が法によって罰されないからという理由だけでは、 人々は道徳を捨てないであろう、 また殺人や残酷な行為や不誠実をより善いものと考えることはないであろう、 と信じるに足る証拠は十分にある。
[寛容による道徳規範の変化は、政府の転覆になぞらえることはできない] こういうわけで、反逆罪との類推はバカげている。 もちろん「だれも孤島ではない」--ある人が私的な空間でなすことは、 それが知られたならば、他人にいろいろな仕方で影響を与えるものである。 実際、 一般の性道徳からの逸脱が、多くの同性愛者の生活がそうであるように、 高貴な生活を送っており他のすべての点で模範的な人々によってなされるならば、 パトリック卿が寛容の境界の推移と呼ぶものをもたらすであろう。 しかし、もしこのことが類似した現象を統治の領域において持つとすれば、 それは秩序ある政府の転覆ではなく、政府の形態の平和裡の変化である。 だからわれわれは常識と論理が教えることに耳を傾けて、 私的な反逆罪の領域は論理的に存在しないが、 私的な道徳と不道徳の領域は存在すると言うことができよう。
[より深刻な批判--道徳を感情の問題とすること] パトリック卿の教えはまた、より広汎な、 そしておそらくはより深い批判にさらされている。 理性主義的な道徳に対する彼の反応と、感情の強調により、 彼は大事な赤子を投げ捨ててお風呂のお湯をそのままにしてしまったと思われる。 そしてお風呂のお湯は実に汚ないものであることが明らかになったと言える。 パトリック卿の講義が最初に行なわれたとき、 タイムズは次のような言葉で歓迎した、 「社会は、 その胸中で寛容できないと感じる事柄を寛容することを拒む理由を述べる必要はない、 という考え方には、感動的で歓迎すべき謙虚さがある」。 このコメントはケンブリッジの通信員から次のような反論を招いた、 「われわれは以前ほど謙虚でなくなったように思う。 かつてわれわれが老婆を火あぶりにしたのは、理由を述べることなく、 ただ胸中で魔女は寛容できないと感じたからであった」。
[道徳は感情の問題で、理性的批判ができないならば、魔女狩りも正当化される] この反論は手厳しいものであるが、その手厳しさは健全である。 英国では、もう二度と老女を魔女だという理由で火あぶりにしたり、 人々を違う人種や色の人々と付き合ったという理由で罰したりすることは ないだろうし、姦淫の罪で人々をかつてのように罰することもないだろうと思う。 しかし、これらの事柄が不寛容と憤概と嫌悪感を伴って見られるならば --ちょうどその二つ目がいくつかの国々においてはいまだにそうであるように--、 パトリック卿の原則によるとそれらが法によって罰されるべきだという主張に 対してはいかなる理性的な批判もできないことになると思われる。 われわれにできることは、彼の言葉によれば、 寛容の境界が推移することを祈るだけである。
[道徳を法にする前に、理性的検討が必要] どのような不思議な論理によってパトリック卿がこのような結論に 辿りついたのかはナゾである。 彼にとっては、ある慣習が不道徳なのは、 クラパムの乗合馬車に乗り合わせた人がそれを考えたら気持ち悪くなる場合である。 それはそれでよかろう。 けれども、どうしてわれわれは、 理性と共感的な理解と批判的な知性という資材をかきあつめて、 一般の道徳的感情が刑法になる前にパトリック卿のものとは異なる吟味が行なわれなければならないと主張すべきではないのか。 当然、立法家は次の事柄を問うべきである。 一般道徳が無知や迷信や誤解に基づいていないかどうか、 社会が非難する事柄を実践する人々は他の点でも社会にとって 危険か敵対的であるという誤った想念がないかどうか、 さらにまた、多くの関係者の不幸、脅迫、 そして刑罰--とくに性犯罪に対する刑罰--がもたらすその他の有害な帰結が よく理解されているか。 不道徳を禁止する法を作る前に考えるべきこととして パトリック卿が述べている事柄の中にこれらの事柄が--「理論的な限界」はさておき、 「実際的な考慮」としてさえも--挙げられていないのは、 どう考えても異常である。 どんな理論にせよ、この理論のように、 道徳の保存が社会に不可欠であるというあいまいな根拠に基づいて刑法が用いられることを許しながら、批判的な吟味の必要性の強調を省いてしまうような理論に対しては、 われわれの応答は、「道徳よ、汝の名においてなんたる犯罪が行なわれることか!」 というものであるべきである。
[多数派の道徳の意見に常に従うことは、民主主義の本筋ではない] ミルが理解したように、 そしてトクヴィルが彼の批判的であるが同情的な民主主義の研究においてずっと前に詳細に示したように、 権力は多数派の手中にあるべきであろうという民主主義の原則と、 権力を手にした多数派はいかなる制限も尊重する必要はないという まったく異なる主張を混同することは、 非常にたやすいことである。 たしかに、民主主義国家においては、 多数派が全員の生き方を命じるという特別な危険がある。 この危険をわれわれは引き受けている、喜んで引き受けるべきである。 なぜならそれは民主主義的統治におけるすべての素晴しい事柄の代償だからである。 しかし民主主義の原則に忠誠を誓ったからと言って、 われわれはこの危険を最大化する必要はない。 しかし、もしわれわれがクラパムの乗合馬車のてっぺんに「道行く人」を乗せ、 もし他の人が私的に行なっていることについて、 それを法によって弾圧することを求めるに足るほど気分が悪くなりさえすれば、 彼の要求に対してはいかなる理論的批判もなしえない、 とわれわれが彼に伝えるとしたら、 われわれがやっているのはまさにこの危険を最大化することなのである。