研究題目: ベンタムの倫理学=法哲学思想の検討と応用
現在まで、(1)ベンタムの倫理学=法哲学思想の研究、(2)功利主義と他の規範 倫理学説の比較検討、(3)現代の倫理的問題に対する功利主義的立場からの考 察を行なってきた。
(コメント)字数が多くて用紙に入り切らなかったので一部削除。 「検討する、研究する、考察する」以外の類義の動詞を知らないので苦労する。
現代の実践問題に取り組む場合、個人の内面にかかわる倫理問題と、法規制と の二つの側面を考察することが欠かせない。本研究は、J・ベンタムの倫理学= 法哲学思想の理論的検討を行ない、その成果を現代の実践問題に活かすことを 目指すものである。
60年代以降、英米圏では、新ベンタム全集の編集プロジェクトに伴ない、ベン タムに関する幅広い研究――法・政治思想、倫理学、経済学はもちろん、言語 学、論理学、宗教思想に至る――が活発化している。しかし日本では、ベンタ ムの思想は主に経済学や法学の分野にやや偏った仕方でのみ研究され、純粋に 倫理学の観点からなされたベンタム研究は今日では数少ない。ましてや、ベン タムにおける倫理学と法哲学との双方をフォローし、実践問題に活かす方向で 彼の思想の意義を明らかにした研究者は皆無と言ってよい。そこで、英米圏で の新たな研究を踏まえつつ、J・ベンタムの倫理学=法哲学思想の理論的検討を 行なうことが本研究の第一の目標である。
さらに本研究は、ベンタムの思想史的ないし倫理学史的研究にとどまることな く、応用倫理の一分野である情報倫理において、ベンタム流功利主義の立場か ら提言を試みる。今日、応用倫理の諸問題が活発に議論されているが、特に、 個人倫理と法規制との区別が曖昧なまま一括して「倫理問題」として語られる ことにより、論議が混乱したものとなっていることがしばしばある。これに対 して本研究では、ベンタム流功利主義の立場から、情報倫理における諸問題に ついて道徳的側面と法的側面の双方から分析を加え、一つの明確な立場を確立 することを試みる。
(コメント)某先輩に相当手を入れてもらった。
まず、J・ベンタムの功利主義および法実証主義の理論的検討を行なう。
最終年度に、以上の研究に基づき、ベンタムの功利主義と法実証主義に関する 博士論文を作成する。以上の研究の経緯についてはワールド・ワイド・ウェブ (WWW)上の個人ホームページにて情報提供を行なう。また、資料収集および意 見交換のために、新ベンタム全集を編集中であるイギリスのロンドン・ユニヴァー シティ・カレッジへの短期間の留学を考えている。
(コメント)あ。最初の「まず、」っていらないじゃん。しまった。後の祭り。
ここも某先輩に助けてもらった。応用倫理の研究をいかにベンタム研究と結び 付けるかについて苦労した。一貫性一貫性。
(コメント)ここも、ベンタム研究を全面に出す形で書くよう注意された。
英米圏では60年代以降、ベンタムの研究が盛んになりつつあるにも関わらず、 現在の日本においては、哲学あるいは倫理学の分野でベンタムの倫理学=法哲 学思想を中心に研究している者は極めて少ない。残念ながら、ベンタムの倫理 学=法哲学思想は教科書的理解にとどまったままである。しかしながら、とり わけ信頼のおける全集が新たに編集されつつある現在においては、功利主義と 法実証主義の確立者であるベンタムの原典を精読し、そして他の同時代あるい は現代の思想家たちと比較検討しつつ詳しく研究することには大きな価値があ ると思われる。また、ベンタムの思想を「生きたもの」として、彼の倫理学= 法哲学的思考を現代の倫理問題に適用するという試みは、現代の倫理問題に対 する解決の一助となりうるのみならず、彼の思想のさらなる理解につながるで あろう。
(コメント)あ。「また、」の前で改行するの忘れてた。いかんいかん。 ちゃんと最後まで気をつけてやらなきゃなあ。
「なぜ死刑制度は廃止されるべきなのか?――応報論を論拠とする死刑廃止論 の検討」、 『生命・環境・科学技術倫理研究 III』(千葉大学)、1998年3月、 185-191頁。
1. ヘンリー・シジウィック著、加藤尚武・長岡成夫監訳、『倫理 学の諸方法(仮題)』(H. Sidgwick, The Methods of Ethics, 7. ed., 1981)、理想社、1998年頃刊行予定。第一巻第六部(原文で約10頁)を 担当。
2. T・ビーチャム&N・ボウイ編、加藤尚武・梅津光弘監訳、『ビジネス・エシッ クス第一分冊(仮題)』(T. Beauchamp & N.Bowie ed., Ethical Theory and Business, 5. ed., 1997)、晃洋書房、1998年秋頃刊行予定。第一章 第一部の前半、および第二章の一部(原文で合わせて14頁)を担当。
D・ディクソン、「遺伝情報に関する顧問委員会が英国で設置される予定」、 『ヒトゲノム解析研究と社会との接点研究報告集 第2集』、京都大学文学部倫 理学研究室、1996年、285-286頁。
(コメント)「その他参考となる事項」って役に立つんだろうか。 あまり期待しないで、他の部分をしっかり書いた方が良さそうだ。
修士論文の要旨
本論文の目的は、18-19Cの英国の思想家J・ベンタムのA Fragment on Government(『統治論断片』)およびAn Introduction to the Principles of Morals and Legislation(『道徳と立法の諸原理序説』) を主なテキストとして用いて、前半でW・ブラックストーンの自然法思想およ び社会契約説に対するベンタムの批判を検討し、後半でブラックストーンとベ ンタムの思想を対比的に考察することを通じてベンタムの功利主義と法実証主 義を明確にすることである。
『統治論断片』は1776年に匿名で出版されたもので、当時英国法に関する権威 であったW・ブラックストーンの有名な著作the Commentaries on the Laws of England(『英法釈義』)の序論の一部分が批判的に検討されてい る。
従来、ベンタムのこの著作は彼が法実証主義的な見解を披露したものとしての み見られ、(法哲学とは切り離された)倫理学的見地からはそれほど見るべきも のはなく、彼の功利主義は主に1789年に出版された『道徳と立法の諸原理序説』 において明らかになると考えられてきた。また、それゆえ、この著作が倫理学 の分野で顧みられることはほとんどなかったと言ってよい。
たしかに、ベンタムの功利主義の基礎的理解は『道徳と立法の諸原理序説』の 前半部分を読むことによって得ることができる。しかし、この著作を読む限り では、例えばベンタムが功利原理と義務の関係(「われわれは功利原理に従う 義務があるのか?」)は十分には明らかにされず、また、彼の功利原理と彼が批 判する他の倫理学説との差異もそれほど明確にはならない。
そこで、彼の功利主義をよりよく理解するためには、『道徳と立法の諸原理序 説』を精読する一方で、彼が自らの功利主義を確立する大きな起因となった 『統治論断片』におけるベンタムによるブラックストーン批判の含意を検討し、 この著作のあちらこちらに散らばっている彼の功利主義的発想を丹念に拾い集 める作業が必要になると思われる。
さて、本論文の前半では、『統治論断片』が詳細に検討される。『統治論断片』 は、序言、序論、第一章「政府の形成」、第二章「政治体制」、第三章「英国 の政体」、第四章「最高権力が法を作る権利」、第五章「最高権力が法を作る 義務」からなっており、このうち、ベンタムの思想を明らかにする上で特に重 要であるのは第一章、第四章、第五章である。
(1)社会契約説批判
第一章においては、社会契約説が批判される。ベンタムによれば、社会契約説 とは、主権者の人民に対する義務と人民の主権者に対する義務は、双方が交わ した契約によって生じるという学説であり、この学説は「約束は守られねばな らない」という考えを基礎に持っている。しかし、たとえば「王は臣民を法に 従わないで支配する約束をする」とか、「臣民は王にたとえいかに不利益な行 ないをされようとも従う約束をする」など、常識的に考えて拘束力を持たない のであり、したがってどのような約束でも守られねばならないというのではな く、むしろある約束が拘束力を持つかどうかは功利性によって基礎づけらねば ならないことが明らかにされる。
(2)自然法における正・不正の基準の批判
第四章においては、抵抗権と関連して、自然法思想の危険性が述べられる。そ こで、自然法を用いた正・不正の判断は、一見客観的な事実を問題にしている ように見えながら、実はそれを主張する人の感情の表明に過ぎず、それゆえい つまで経っても議論に結着がつかないと批判される。そして逆に、功利主義に 基づいた正・不正の判断は、問題となるのは行為の(蓋然的)帰結という事実に 基づくので、議論に結着がつく可能性が高いことが述べられる。
(3)自然法における義務概念の批判
最後の第五章においては、ブラックストーンの用いる「義務」という言葉の曖 昧さが指摘され、ベンタムの義務の概念が披露される。ここでもブラックストー ンの「義務」の概念は、それを用いる人自身の内的な感情を表明するだけでな んら外的な根拠を持たないので、論者の意見が分かれた場合には議論に結着が つかないと批判される。それとは反対に、ベンタムの用いる「義務」は、それ に違反した際に与えられる刑罰(サンクション)の源泉に応じて「政治的義務」、 「宗教的義務」、「道徳的義務」の三つに分けられる。そしてこれらはいずれ も、「なんらかの形で苦痛を与える」という外的な根拠を持つために、実際に なんらかの義務があるかどうかの議論は容易に解決がつきうるとされる。
そこで得られる重要な結論の一つは、功利主義においては、正・不正の判断も、 義務の有無の判断も、客観的な事実に基づくものであり、しかも、「ある行為 が正しいか不正であるか」という判断と、「ある行為が(政治的、道徳的、宗 教的)義務であるかどうか」という判断は全く別の事柄だということである。 すなわち、功利原理から見てある行為が正しいからといって、その行為をなす ことが道徳的義務あるいは政治的義務だということにはならないのである。
(コメント)急いで書いたので内容がだいぶ怪しい。 最初に書いたものを某先生にお見せしたところ、 「これではベンタムの著作のまとめであって論文とはいえない」と 適切にも指摘されたので (たしかに結論の部分を除けば完全なまとめである --まだそれほど研究が進んでないんだもの)、 体裁だけでも論文らしくしようと思って章分けしたり番号なんかを振ったりした。
う〜ん。修論を書くためにこれからしっかり勉強しないとなあ。
ずいぶんがんばったから採用されると良いが、 某先輩は「落ちたときがっかりするから期待しないほうが良いよ」とのこと。 この先輩はDC1のときもPDのときも採用されているのだが…。