市場と広場
Jon Elster, `The Market and The Forum: Three Varieties of Political Theory', in Debates in contemporary political philosophy: an anthology (ed. by Derek Matravers and Jonathan Pike, Routledge, 2003), 325-341.
リーディングの序文から
[このリーディング(Debates in contemporary political philosophy: an anthology)にある序文(321-)から]
・デモクラシーの二つの問題。(1)多数決の正当性、(2)一人一票の正当性(どんなにがんばっても、がんばってない人と同じにしか考慮されない)
・エルスターは民主政治の三つの見解を提示し、それぞれを批判。一つ目は投票を私的な選択とみなし、二つ目と三つ目は公的な役割とみなす。
・一つ目:投票は所与の選好を総和するメカニズム。今日のたいていの人はこう考えてるんじゃないか。各人はそれぞれ序列化された選好を持ち、投票によってそれを表明することで、社会全体にとっての選好の序列が決まる。エルスターの批判は二つ。(1)さまざまな理由により、人々の顕示選好の総和によっては、彼らが真に選好しているものは得られない。(2)政治の役割は「正義を創り出す」ことであるから、各人の選好は一定の正義の基準(適応・反適応選好ではないこと、自律的に形成されていること、不道徳ではないこと、など)を満たさなければ受け入れられない。顕示選好の総和は「広場では適切ではない」(321)。
・二つ目:選好は所与ではなく、公的討論によって変容を受ける。公的討論の性格により、共通善に配慮した選好が生み出される。エルスターはこの立場に最も共感しているが、六つの強い批判をしている。それらの批判の基底にある問題意識は二つ。(1)この見解と、現実の政治的意思決定との乖離。(2)適応選好や迎合などの要素を排除した合理的な討論を確立するために制度を作ると、その制度が新たな支配関係を作り出すおそれがある(321-2)。
・三つ目:政治は参加者に有益な影響をもたらすがゆえに正当化される。この立場は、「ある目的を持った活動を行なうことはためになるかもしれないが、ためになるということがわれわれの目的になることはできない」という理由で簡単に退けられる。このように簡単に片付けられるかは疑問。エルスターはデモクラシーを正当化するのにはその内在的価値によるか、道具的価値によるかと二分して論じているが、二つを満たす正当化もありえるし、ひょっとするとこの二つはきれいに分けることが出来ないかもしれない(322)。
・ジョシュア・コーエンの「討議デモクラシー」:政務がその成員の公的熟慮によってなされる団体。コーエンはロールズの正義と正義にかなった制度という理想を用いて議論し、三つの原理によって定義される政治的理想を導出。「適切に行なわれる場合、民主政治には(1)共通善を目指した公的熟慮が含まれ、市民のあいだにある種の(2)明白な平等(manifest equality)が要求され、共通善の公的構想の形成に役立つような仕方で市民の(3)アイデンティティと利益を形成する」。その場合、理性を含むが強制は排除するような公的討論を行なうための条件が問題になるが、コーエンは「理想的な熟慮の手続き」を詳しく説明する。その中で重要なのは、団体の成員は議論の不一致を「他人にとって説得的であると誠実に信じている」理由を持ち出すことによって解決することにコミットしているということ。となると、政治においては、私的な利益を主張することは、他人に訴えかける理由がないかぎりは、排除されることになる。コーエンは適応選好があるために、顕示選好は真の選好と一致しないとも主張し、過激である。理想的な熟慮の手続きにおいては、権力と服従の関係は無効になる(322)。
・コーエンの民主政の構想は、ルソーに源泉を持つ公的生活の説得力のあるバージョンと言える。が、いくつか問題がある。たとえば、公的理性と参加者の動機のあいだの問題。理性的になるという欲求や、理性的であると見られたいという欲求は、ナマの自己利益に優先するだろうか。また、実現可能性はおいておいても、理想的な熟慮の手続きが本当に望ましいかという問題もある。マルクス主義者なら階級的アイデンティティや階級的利益はどうなるんだと言うだろう(Miller, R. `Rawls and Marxism' 1974)。アイリス・マリオン・ヤングはこのような普遍的な構想は特定の集団的利益を差別すると批判する。彼女の立場は、人々が意見の一致を解消するのに役立つ共通の基盤があるという見解を批判する過激な多元主義(radical pluralism)である(Young, I.M., `Polity and Group Difference: A Critique of the Ideal of Universal Citizenship' 1989)。これが正しいと、理想的な熟慮の手続きは擁護できないことになるが、そうすると理性によって支配される広場としての政治という構想はどんなものにしろまったくダメということになる(322-3)。
・マイケル・ウォルツァーは、政治哲学は最高裁判所きどりで政治に介入するのはやめるべきだと主張している。デモクラシーと個人の権利を擁護する立場(例えばリベラリズム)は常に緊張関係にあった。デモクラシーとは、哲学によって判決が下される「正しい」ことを行なうことではなく、人々が意志することを行なうことである。デモクラシーの運営に必要な権利(法の前の平等、政治的抑圧の禁止)は保障する必要があるが、それ以上に哲学者による権利のリストを作ることは、立法を行なう民主的空間に対する過剰な司法活動(干渉)になる(323)。
・上の指摘は重要だが、リベラル・デモクラットは次の二点を検討できるだろう。(1)ウォルツァーの指摘した二つの基本的権利を守るためだけでも、民主的空間においてかなり広範な司法活動が正当化されるだろう(Gutmann, `How Liberal is Democracy?' 1983)。(2)リベラルは、民主的手続きの中に権利を侵害しないメカニズムを埋め込むことができる。たとえば、市民が自分の選好を表明するために投票するのではなく、一定の選択肢の中で最も正義にかなったものを選ぶという投票制度(Waldron, `Rights and Majorities: Rousseau Revisited' 1990)。そうすれば司法審査は不要になるが、われわれの政治の構想(=投票は私的な活動である)に大きな変化を強いるであろう(323)。
序 (政治理論の三つの類型)
Jon Elster, `The Market and The Forum: Three Varieties of Political Theory', in Debates in contemporary political philosophy: an anthology (ed. by Derek Matravers and Jonathan Pike, Routledge, 2003), 325-341.
・三つの政治概念。(1)社会選択理論に代表される見解。政治は道具的であり、重要な政治行動(投票)は私的なものである。政治の目標は、所与で、かつ対立を解消できない私的利益の間の妥協である。これに対し、(2)の見解は政治行動の私的性格を否定し、(3)の見解は政治が道具的であることを否定する。(2)ハバマスによれば政治の目的は妥協ではなく理性的な意見の一致であり、重要な政治活動は意見の一致を生み出すために公的な討論に参加すること。(3)子ミルからペイトマンに至る思想によれば、政治の目的は参加者の変容と教育。政治は目的自体であり、良き生そのもの。以下ではこれらの三つの見解のいくぶん様式化された形(in a somewhat stylized form)で提示する。(325)
I (選好総和型の政治観について)
・政治は公共善にかかわり、市場の失敗(各人の選択を調整しない場合=レッセフェールは、調整された場合よりも悪い帰結をもたらす事態)を解決するもの。市場の失敗とは公共財を提供できないとか、市場のメカニズムとされる自生的な秩序が崩壊すること。さらに資源の再配分も政府の役目。政治に関する一つ目の見解では、資源の再配分は利益闘争と妥協によって得られる--正義にかなった再配分についての意見の一致は存在しない(325-6)。
・この「私的-道具的」な政治観の代表が社会選択理論である。シュンペータやネオシュンペータ理論の方が現実の政治過程に近いが、これは議論しない(326)。[シュンペータ理論は、政治家によって投票者の選好が形成され操作されるとするが、これは所与の選好の総和としての政治と、合理的議論を通じた選好の変容としての政治というエルスターの区別をあいまいにしてしまうから。ネオシュンペータ派(ダウンズなど)は選好総和の過程における政党の役割に着目するが、ここではこのような媒介機構には注目しない。いずれにせよ、政治的問題は政党のようなより小規模な集団の内部でも起こりうる事柄である]。
・社会的選択理論の構造(アロー、セン、ケリー、ヒランドHyllandなど)。(1)(誰を含めるかという問題が生じないように)行為者の数は*所与*とする、(2)(議題操作agenda manipulationの問題が生じないように)選べる選択肢も*所与*とする、(3)行為者の選好も*所与*であり、政治的過程において変更しないものとする(また選択肢とは因果的に独立)、(4)選好は序数的であり、各人の選好の強さは比較できないものとする、(5)個人の選好の順序は完全に決まっており、かつ推移性をもっているものとする(326)。
・このような前提に基づき、社会的選択理論は選択肢の社会的選好順序を決定する。この順序づけは次の基準を満たす必要がある。(6)個人的選好と同様、完全で推移的である、(7)パレート最適であること(全員が選好しているものをそうでないものよりも優先すること)、(8)二つの選択肢に関する社会的選択は、それ以外の選択肢に関する個人の選好の変化とは無関係に行なわれること、(9)社会的選好順序はパレート最適を尊重するだけでなく、なによりも個々人の選好を尊重し反映すること(匿名性--各人の選好は平等、非独裁性、リベラリズム--私的領域の保障、戦略プルーフ--偽の選好を示すことは得にならない)。(326-7)
・このような状況の組み合わせは同時に満たすことが出来ないという不可能性定理がよく問題にされるが、たとえ基数的な選好の序列が確定できるとしても、社会的選択のアプローチには問題が残る。次に挙げる二つの批判は「所与の選好」という想定に関するものである。(1)顕示選好はかれらが真に選好しているものの良いガイドではない。(2)彼らが本当に選好するものは、いずれにせよ社会的選択のよい基礎にはならない。(327)
・(1)実際のところ、選好は「所与」ではありえず、つねに「表明」expressされなければならないため、心中の真の選好と表明された選好のあいだにずれが生じる可能性がある。たとえば、偽の選好を表明することにより、本当の選好を実現する方が合理的な場合もありうる(社会選択理論においては戦略プルーフ性がこれを排除しているが、現実にはほとんどの場合これは個人にとって合理的ではない)。そうなると、顕示選好に関してパレート最適であっても、真の選好に関してパレート最適ではないかもしれない可能性が生じる。となると、社会選択のメカニズムを通じて共通善が示されるという考えは擁護できないことになる(327-8)。
・(原文一部省略)
・(2)真の選好が選択肢の組と*因果的関連*を持つ場合がある(上記3に対する批判)。適応選好(すっぱいブドウ--手に入らないとわかっているものは選好しない)と反適応選好(隣の芝は青い--手に入らないとわかっているものを選好する)の問題。これらは受容可能な選好の実質的基準(⇔推移律などの形式的な基準)を満たさないものの一例である。実質的基準として、以下で自律性と道徳性を指摘する(328)。
# 適応選好については成田論文「適応的選好形成と功利主義」(慶応義塾大学日吉紀要H・18、人文科学第18号抜粋)を見よ。エルスターによると、「序数的功利主義者」であるアロー的には、あの手の届かないブドウはどうせすっぱいから欲しくないと考えた狐は、満たされるべき選好を持たなかったことになるので、まったく不幸になっていない(328)。
# 適応選好の例としては、英国の前回の総選挙で、自由民主党の候補が勝てそうになく、保守党の候補が勝ちそうな選挙区で、自由民主党の支持者が労働党の候補に投票したstrategy votingが挙げられそうだ。しかし、これってエルスターの言うようにまずいのだろうか。
・自律的選好:選好の形成のされ方を問題にする。適応選好や反適応選好(出来ることや出来ないことによって決定される選好)、他人との一致や不一致(迎合、反抗)、珍しい物好きやその逆の珍しい物嫌い、といった不適切な因果的プロセスによって決定されない選好(328-9)。
# `In all of these cases the source of preference change is not in the person, but outside him -- detracting from his autonomy'(329)だって。討議によって選好が「理性的に(カント的に)」変容するのは`in the person'なのか。ちょっと基準が厳しすぎなんじゃないの。理想としてはいいのかもしれないけど。
・道徳的選好:選好がどのように形成されたかではなく、実質的な内容によって道徳的かそうでないかが決まる。悪意のある(spiteful)選好やサディスティックな選好や、普遍化できない排他的な地位的善positional goods(平均収入の二倍の収入が欲しいというような選好)。(329)
# ドゥオーキンの外的選好の問題とリンク。
・自律的でないが道徳的とか、自律的で道徳的でない選好というのもありうる(329)。
・*社会選択理論の基礎となる政治観の根本的な問題は、市場(いちば)においては適切な行為と、広場において適切な行為を混同しているということ*。市場における個人の決定は自分だけに影響を与えるから「消費者主権consumer sovereignty」は認められるが、広場においてはそうでないので、「市民主権citizen's sovereignty」は認められない。社会選択理論は市場の失敗を解決するのには役立つが、福祉の再配分のためにはまったく役立たない(329)。「政治の課題は非効率をなくすことだけではなく、正義を作ることでもある--この目標に対して、前-政治的な選好の総和はまったく適切でない手段である。これが意味するのは、広場の原理は市場の原理とは異ならねばならないということである」(330)。
# 選好の総和という考え方では、富の再配分を正当化できない。本当にそうか。ちょっと議論が足りないのでは。
# 社会選択理論と功利主義を同一視できるか。ベンタムの場合は必ずしも「前-政治的」=顕示選好ではない。討議の要素がある。
・社会選択論の支持者は、(1)顕示選好の総和最大化のオルタナティブは検閲による個人の抑圧しかなく、(2)個人の選好を検閲することはつねに望ましくない、と反論するかもしれない。グッディンは`Laundering Preferences'において選好の自己検閲という考え方によって(2)の想定を問題にしたが、ここでは選好の*変容transformation*について論じることにより、(1)の想定(顕示選好の総和最大化の他には検閲しかない)を問題にする(330)。
# Goodinの論文は`Utilitarianism as a Public Philosophy'に採録されている。
II (討議デモクラシーについて)
・ハバーマス(1982 Diskursethik)の「討議倫理」と「理想的発話状況」がオリジナル。
・政治の目的は、所与の選好の総和化ではなく、公の議論による選好の変容(私的利益ではなく公共善を求める合理的選好の形成)。最適な妥協ではなく公共善についての全員一致による合意が政治の目的(330)。
# *合理的*な議論によって*普遍性*が得られるという想定。ナマの選好は私的利益・非合理、公的討論を経て加工された選好は全体の利益・合理的。選好の変容は認めるけど、全員一致は無理やろ。いやまあ、*理想的には*という条件付きなんだろうけど。
・この理論の二つの前提。(1)いくつかの議論(私的な利益に基づくもの)は公共の場では主張できない。共通善に訴える必要がある。(2)共通善に訴える議論をしているうちに、実際に共通善に関する考慮によって影響を受けるようになる(330-1)。`the conceptual impossibility of expressing selfish arguments in a debate about the public good, and the psychological difficulty of expressing other-regarding preferences without ultimately coming to acquire them, jointly bring it about that public discussion tends to promote the common good.' すると、一般意思は、所与の選好のパレート最適になるのではなく、共通善への関心によって形成された選好の結果となる。単なる所与の選好の総和ではいくつかの否定的外部効果(=市場の失敗)を回避することは出来るかもしれないが、未来世代への悪影響は排除できない。さらに、討論を通じて真の選好が表明されることも保証できるため、戦略プルーフの問題も解決もできる(331)。
# ベンタムの協力についての議論を参照せよ。(1)に近いことを述べている。
# (1)(2)は子ミルも言いそうなこと(投票に関して、あるいは「公共精神の学校」)。討議モデルと教育モデルを判然と区別するのは難しいのではないか。
# たしかに公共の場では厳密に私的な利益を主張することは難しいが、全体の利益ではなく、党派的な利益を主張することはままある。conceptual impossibilityとまで言えるかどうか。国際政治の場で「国益」に訴える議論はどうなるのか。
# 選好の総和では未来世代の利益は代弁されないというのは認めたとしても、討議によって未来世代の利益も代弁されるという仮定はどこから出てくるのか。
# なぜ討議デモクラシーの場合だけこんなに理想的な状況を想定できるのか。ずるいや。
・この理論の問題点を七つ指摘する。エルスターはこの理論に共感があるが、(1)現実から理想に到達できるかという問題を無視しているという意味と、(2)人間の心理の基本的事実を無視しているという意味で、ユートピア的だと批判されるおそれがあると考えている(331)。
# マルクス主義に対する批判とだいたい同じか。
・(1)パターナリズム。政治の議論の参加を強制するのはよいことか(331-2)。→議論に参加することは参政権にともなう義務だ、という反論が予想されるが、(a)この反論には政治に関心を持ち、政治に関わる時間を持つ人だけが権利を持つべきだという想定と、(b)投票においてはinformed preferenceを優先すべきだという想定がある。全員参加は理想的だが、実際に参加できるのは上流階級の連中が圧倒的に多い。合理性と参加者の規模はトレードオフの関係にあることを銘記すべき(332)。
・(2)議論の時間が無限にあったとしても、全員一致の合理的な同意が得られるとは限らない。究極的価値の多元性は認めないのか? (333)
# 序文にあったアイリス・マリオン・ヤングの論点。
・(3)実際には(重要な議論ほど)時間の制約があるから、全員一致になることはめったにない(333)。その場合はなんらかの社会選択理論によって選好の総和を図らないといけない。選好の変容は選好の総和に完全に取って代われるわけではない。
# ベンタムのモデルもこんなんじゃないのかなあ。
・(4)場合によっては、少しの議論はかえって危険なこともある(333-4)。[原文一部省略]
・(5)政治組織は、その部分の合計よりも優れているとか賢いとか考えていること。政治の場に出ると人々はかえって利己的になるのではないか(334)。集団的思考(Irving Janis)は偏見を増幅する。集団における個人は個人的関係における場合よりも利己的になる(Reinhold Niebuhr)⇔人間は集まれば過ちを免れるというアレントの楽観的な見解(『革命について』1973)。ニーバーの群衆嫌いも問題だが、アレントの楽観も危険。彼女はギリシアやアメリカの議会を褒めちぎっているが、ギリシアはデマゴーグ排除に気を使っていたし、アメリカのタウンミーティングでも魔女狩りを決定したりしていた。理性の名のもとで全員が合致して誤った方向に行くほど怖いことはない。公共の討議の問題は、合理性を確保するための手続きないし制度の問題も視野に入れて議論すべき(333)。
# 三人集まれば文殊の知恵⇔烏合の衆。集団=合理性という仮定は確かに危険。
# 群衆の非合理性の問題。シュンペータも見よ。
・(6)全員一致は合理性の証拠ではなく、圧力による皆との一致かもしれない(333)。問題は秘密投票によって解決される種類のものではなく、人々が他の人々に合わせて真の選好をも変えてしまう可能性があるということ。(カメレオン問題)(334)。
・[原文一部省略]
・(7)共通善に訴える議論は必ずしも自己利益の考慮を排除するわけではない。人々は共通善(=調整されていない諸個人の決定よりもパレート改善されているもの)から少しでも多くのおすそ分けを得るために共通善に訴えて議論するかもしれない。`The opposition between general interest and special interests is too simplistic, since the private benefits may causally determine the way in which one conceives of the common good.'(334)
# 例に出てくるレーガン政権初期の経済理論というのはtrickle down理論による累進課税緩和の正当化かな。
・これらの批判の中心となる二つの論点。(1)すでに理想の社会に到達したかのように振舞うことによっては、理想の社会に近づいたことにはならない。理想的な状況で行なうべき行動が、理想的でない状況でも行なうべき行動であるとは限らない。一部の人だけが討論を行なうことによって理想的な社会に近づけるとは限らない。「ハバマスが言うように、自由で合理的な議論は政治的経済的支配を廃止した社会においてのみ可能であるととしても、その廃止が合理的な議論によってもたらされるかどうかはまったく明らかではない」(335)。暴力ではないにしろ、むしろプロパガンダや演説によって良い社会に到達できる可能性がある。手段と目的との間の緊張。
# 共産主義が理想だからといって、社会の一部で共産主義を始めることが、かならずしも共産主義社会をもたらす合理的な手段にはならない、という議論とのアナロジーで考えているようだ。`a little discussion, like a little rationality or a little socialism, may be a dangerous thing.' (335)
・(2)良い社会に到達したとしても、合理的な討論の過程はつねに適応選好や他人との一致などの危険性をはらむ。これを避けるために制度を確立することは、容易に支配関係を生み出す。ここにはつねにディレンマがある(335)。`How is it possible to ensure at the same time that one is bound by rules that protect one from irrational or unethical behaviour - and that these rules do not turn into prisons from which it is not possible to break out even when it would be rational to do so?' (335).
III (教育モデル)
・ハバーマスの議論によれば、政治は実質的な意思決定のための(公共善を達成するための)道具的なもの(335)。それ以外に、政治参加の教育的側面に主眼を置く理論があるが、これには内的に矛盾があることを示す(336)。参加の利益は本質的に副産物である。参加の利益を目的にして参加することは目的を達成しない。トクヴィルは米国のデモクラシーの副産物をほめた。この副産物を評価することは良いが、それを公的な議論の最中に(正当化理由として)目的として論じるのはおかしい(336)。[原文一部省略] チェスや芸術も同じ。また、チャーティスト運動をしている人が、人民憲章を通すことを目的とせず、参加それ自体に意義がある(自尊をもたらす)と考えていたかといえば、そうではない(336-7)。自尊はあくまで副産物。
# シジウィックの快のパラドクスみたいだな。快はあくまで活動の結果として得られるものであり、快そのものを追求しようとすると得られない。政治参加による人格の陶冶も同様。しかし、子ミルのようにこれを正当化の理由の*一つ*にすることは間違いか? 子ミルはデモクラシーによって現存する人的資源を有効利用できるだけでなく、人的資源の増進にもつながると考えている。
# 社会選択型では、政治は自己利益をよりよく達成するための道具的なもの。
# 軍隊の目的は国を守ることであることを認めつつも、個人が自己陶冶のために軍隊に入るっていうのはどうよ?
IV (まとめ)
・デモクラシーの経済理論(シュンペータ、社会選択論):広場は市場と目的も機能も似ている。目的は経済的に説明され、機能の仕方は個人の決定を総和すること。政治は私的な活動(337)。
# `The very distinction between the secret and the open ballot shows that there is room for a private-public distinction within politics.'(337)というのは眉唾だ。秘密投票の正当化理由が私的利益を他人に阻害されずに追求するためであるとは限らないはず(たとえば、公共善に基づく判断を、他人の不当な影響から守るため、という正当化もありうる)。引用されているライアンの読みも誤読の可能性あり。
・そのまったく正反対に位置するのが、広場は市場と目的も制度もまったく違うという立場。市民の政治参加(公的活動)は何か(優れた意思決定)のために役立つのではなく、それ自体に価値がある(卓越性を競い合う、連帯を示すなど)。(337)
# だいぶわら人形っぽいな。ペイトマンの議論もチェックする必要あり。
・その中央に位置するのがエルスターのもっとも好きなもの。広場は市場と働き方は違うが、目的は同じで経済的なもの(337)。時間の制約はあるにせよ、議論が政治過程の中心をなす。「本質は公共的で、目的は道具的」これぞ政治のあり方だ(338)。
Satoshi KODAMA
kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp
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Last modified: Thu Jul 10 10:18:30 JST 2003