The Enforcement of Morals, 102-123. 1964年10月15日にシカゴ大学で行なわれた講演から
1. 自由社会とは、「自由と権威の衝突にさいして、 個人的自由を優先する社会」という意味でしかない。 「どれだけの自由が認められるべきか?」 という問いではなく、「どれだけの権威が必要か」と問うべき。
2. (ミル的な考えによれば)個人的自由の境界線が明確に引けるならば、 しばしば多数者の専制に苦しむ少数者にとってはたいへん価値がある。 必要なのは、あらゆる法をテストするためのある包括的原理。
3. 米国憲法はそのような包括的原理と考えられる。 しかし、ミルにとっては米国憲法は不十分。 ミルは永遠不変で一般的な原理を求めた。
4. ミルの他者危害則。省略
5. この原理の要点は、 個人は自分の仕方で自分の善を追求できるべきであるということ。 その反対はパターナリズムとされる。 ミルは他者危害によって自由の領域を区別しようとした。 ミルのいう他者危害とは主に身体的危害である。
6. 社会に住む個人は、自分の身体的・精神的・道徳的健康を促進する義務を 自分だけでなく、他人に対しても負っている。 ミルは「特定可能な個人」に対するそのような義務は認めるが、 「人間の自由というより大きな善」 を優先するので、社会一般に対するそのような義務は認めない。
7. しかし、個人の健康と道徳を一定規準に保つ義務を法が個人に課すことは、 パターナリズムの観点からではなく、社会に対する貢献という観点から正当化できる。 「パターナリズムの動機は個人に善をなすこと。 もう一方の動機は社会の成員のあまりに多くの人の弱さや悪徳によって 社会になされる危害を防ぐこと」(p. 104)。 ミルもこの区別を認めたうえで、個人に自由を認めた方が、 社会がそのような義務を課す権利を認めるよりも社会に対する貢献は大きいと 考えた。
8. ミルの自由概念は当時でも受けいれられていなかったし、 現在でもそうである。
9. 多くの人はミルが期待したように自由にしておけば社会に貢献するが、 一部の少数者は強制されなければ何もしない。
10. このことは、パターナリズムが勝利したということではなく、 ミルの引いた境界線は完全に守られているわけではないということ。
11. 1957年のウォルフェンドン報告は、 1963年にハートが講演で述べているように、 ミル的な自由原則を採用している。 われわれは宗教が個人の自由になったように、 道徳も個人の自由にすべきなのか? 法はいずれにも干渉すべきではないのか?
12. 100人の社会を考えてみる。90人が有徳で10人が不徳の場合、 有徳な人は不徳な人と付きあう義務はない。不徳が広まるし、 不徳な人は集団に対する貢献が少ないだろうから。
13. 90人の有徳な人はどうすべきか。 社会はクラブではないので追放することはできない。 10人の不徳な人の自由を奪って強制すべきか、 あるいは大目に見て有徳になるのを待つべきなのか。
14. ミルはじっと待つべきだと考えた。 どの生き方がいいかは確実にはわからないのであるから、 個人は他人に危害を与えないかぎり生活の実験をすることを許されるべきである。
15. フリーセックスの運動にはこのような生活の実験という意図が多少あったかも しれないが、その他の不道徳(重婚、近親相姦、ポン引き、同性愛、 アルコール依存、麻薬依存)にはそのような意図があったということは聞いたことがない。
16. これらの不徳な人は、自分が悪いことをしていると知っている。 ミルも認めているように、個人の自由が良いのは、 自由それ自体に価値があるからではなく、 それによってその当人も社会もより良くなるから。 しかし、自分が悪いと知っていることをやる自由には価値がない。
17. ミルは伝統的道徳の足枷を外すことによって、 個人がより自由に生活の実験ができるようになればよいと考えていた。 しかし、少数の人が生活の実験をする一方で、 多数の人は悪徳への道へといざなわれるだろう。 ミルが悪徳の商業化(ポン引きなど)について意見が不明確なのは、 彼がこの点に気付きながらしっかり取り組まなかった証拠である。
18. 個人は自由にポン引きをしたり賭博場を経営したりできるか。 ミルの自由原則から言えば当然イエスだが、 彼は「社会が悪いと考えているならば、そのような行為を制限することができる」 という議論にも説得力があるとし、はっきりした答を出さなかった。
19. 彼は悪徳を商売にする人々についてだけ(強制が許されるかもしれないと) 考えていたが、 本当の区別は、悪徳と知っていることをやる人と、 美徳と知っていることをやる人とのあいだに引かれるべきである。
20. 不徳な人々の中に、少数の生活の実験者がいるとする。 不徳を抑圧した場合、新しくよりよい道徳も抑圧されるかもしれない。 ここで二つの問い。「麦ともみがらは分離できるか」、 「分離できないとすれば、新しい道徳の抑圧による害悪と、 悪徳の寛容による害悪とはどのようにバランスを取られるべきか」
21. 二つ目に対するミル流の答えは、 「(1)個人の不道徳は害悪を持たない、 また(2)持ったとしても、法は抑圧の手段としては役に立たない」 というものである。それゆえ一つ目の問いは事実上無意味になる。
22. この(1)と(2)の議論は、とくに同性愛が念頭に置かれている。 同意した成人間の同性愛は害悪を持たないし、 法的に禁止しても役に立たないと言われる。しかし、 ポン引きについてもこれが当てはまるかどうかはそれほど明らかでない。 自由論者は法の介入を禁止する一般的原則を立てようとするが、 その場合には、(1)あらゆる例について考える必要がでてくる、 (2)特定の悪徳が現実に社会に害をもたらしていないだけではなく、 その本質として害をもたらさないということを示す必要がでてくる。 これは困難。
23. ハートの言うように、 法の恐怖によって道徳を教えることはできないかもしれないが、 法には他の人を悪影響から守るという一般予防の役割などもある。
24. 私的な不道徳による犯罪を他の犯罪と区別して、前者は法的に禁止しても ムダという議論は理解できない。ポルノを売る人を刑務所に入れることが無意 味なら、窃盗や強姦を罰することも無意味になるのではないか。
25. 以上から、(2)法は悪徳の抑圧に対して力があると仮定する。 次に、(1)個人の不道徳は社会に害悪を持たないという論点。 実は、不道徳は身体的にも精神的にも社会に害を与える。 目に見える(tangible)危害と目に見えない(intangible)危害と言いかえてもよい。
26. 目に見える危害は、個人が悪徳にふけるならば不健康になり社会に貢献で きないということ、さらにまた、多くの人がそうするならば、社会全体が弱く なるということである。これに対する反論は、 悪徳の広がりによってそのように社会が弱くなる可能性はほとんどない、 というものである。
27. この反論に答えるために、自然な悪徳と不自然な悪徳を区別する必要があ る。同性愛は不自然な悪徳であり、それが社会全体に広まることは、 まずありえない(独身主義もそうだが、そのような社会はいずれにせよ存続できない)。 同性愛は社会全体に広まると社会に有害なゆえに悪徳とされるのではない。
28. しかし、自然な悪徳はこれとは異なる。有徳な人はつねに多数者で、 不徳な人はつねに少数者だからほっておけと論じるのは、 忠誠心の高い人はつねに多数者で、謀反をはかる人はつねに少数者だから ほっておけというようなものだ。
29. しかし、謀反や兵士の反乱や暴動についてはこのように考えられることは ない。社会は活動の性質に応じてそれを禁止する権利を持ち、 特定のケースにおいては社会への危険と個人の自由と幸福との比較をして決定 しなければならない。(公共の福祉と個人の自由の衝突)
30. これに対して、個人的な悪徳を抑圧する権限を社会にある程度認めるとし ても、社会ができるのは悪徳の広がりを一定限度に抑えることであり、 撲滅することではないと言われるかもしれない。しかし、プリムソル線はない。
31. もしアルコール依存が社会的に広まるならば、 「ここからは法の知ったこっちゃない」と言えるような境界線は存在しない。
32. 目に見えない害悪とは、個人の不道徳な行為が社会の道徳についての信念 を弱めてしまうことである。
33. どのような道徳にせよ、共通の道徳が社会の存立に欠かせないことは広く 認められている(ハートも認めている)。
34. 社会が古い道徳を守るのは、新しい道徳がそれよりも悪いからではなく、 移行期間における社会の崩壊を恐れるからである。
35. 新しい道徳といっても、古い道徳の一部を変更するだけだという反論が あるかもしれない。しかし、どこまでが許されどこまでが許されないかという 問いがまたぞろ出てくる。 さらに、多くの普通の人は道徳を個々の独立の信念の集合としては考えておら ず、むしろ相互依存関係にある信念の集合であり、一箇所が弱まると全体が弱 まってしまうようなものとして理解している。これは不合理かもしれないが、 合理的な哲学者の考える道徳よりも普通の人の考える道徳の方が今の議論にお いては重要である。
36. 法が道徳を守ることになると、道徳は固定してしまうという批判がハート によってなされる。しかし、その場合でも道徳は法と同じぐらいか、 それ以上に流動的である。それは一つには、法は道徳のすべての領域を取り扱 わないからである。また、法が道徳を守ることにより、良い動機からの道徳の 改善と、悪い動機からの道徳の弛緩化を区別することができる。
37. 法は、道徳を変えようとしている人の誠実さを試す役目を果たす。
38. 英国では不道徳であると考えられていない行為は法によって禁止されることが もはやほとんどないので、今言ったことはより自由の制限された国についてよ りあてはまることである。
39. 同性愛についてはこの発言はあてはまらないと言われるかもしれない。 同性愛は不自然な悪徳であるから、社会全体に対する目に見える害悪は及ぼさ ないかもしれないが、目に見えない害悪(共有道徳の崩壊)をもたらすと考えら れる。この主張が承認されないとすれば、目に見えない害悪だけをもたらす不 道徳な行為については個人の自由を認めることも可能かもしれない。
40. 道徳の改革者は、 個人の不道徳は法の知ったこっちゃないと主張するよりも、 法が有益でなくむしろ有害であると主張した方がよい。
41. 行為の有益さと有害さのバランスを取ることが重要。 人工妊娠中絶が不必要な不幸をもたらすなら、禁止すべきであるが、 「法の知ったこっちゃない」という理由から禁止するのはおかしい。 立法家は普遍的規則によって拘束されるべきではない。(行為功利主義的)
42. 立法家は「共通善のために」立法するといわれるが、これはさまざまな価 値を考慮に入れて決定するということを意味する。
43. したがって、理論的には法が介入できない個人の領域は存在しない。 自由社会において個人の自由を守る最大のチェックは、 「社会の運営に妨げにならないかぎりは他人の自由を尊重する」 という各人の確信である。
44. 自由社会においては、もしある人が他人の行為が悪徳であり社会にとって 脅威であることを説得できなければ、それ以上は法的には何もできない。
45. しかし、立法家が不誠実であると考えるならば、個人は自分の良心のため に戦うことができる。
46. このようなことを述べるのは、わたしが「法はつねに正しい」 と主張しているわけでないことを示すためである。
47. 宗教の自由はまさにこのような仕方で確立された。
48. 宗教が社会の基礎から外されたからといって、信仰なくして社会が成り立 つというわけではない。宗教的信仰と同様に、道徳的信仰も必要。 宗教的信仰は人間の目的を決め、道徳的信仰はそれに至る道を決める。 目的がさまざまになったからと言って、みなが別々の道を歩むことはできない。
49. 宗教の自由と道徳の自由には重要な違いがある 改宗することは非難されないが(それぞれの宗教は価値として等しいか、 すくなくとも邪悪だとは考えられていない)、 少年が同性愛を行なうことは腐敗だと考えられる。 信仰はそれぞれ等しいものと考えられるが、道徳と不道徳は明らか に価値に違いがある。
50. ミルはたとえ不道徳に行為しているとわかっていても、人間は誤るものなので、 90人の人は10人の人を自由にさせるべきだと論じた。
51. ミルの自由論の核心はこの無誤謬性の論点。 人間は無誤謬ではないから各人は自由に行為することを許されるべきである。
52. 立法家にとってはこのような信念は通用しない。ミルは思想の自由と 行為の自由をしっかり区別していない。このような理屈が通ると刑罰は まったく課せないことになる。法律家は合理的な疑いを越えていれば、 自分の考えは正しいと仮定しなければならない。
53. マルクス・アウレリウスのキリスト教迫害の例。
54. しかし、抑制することは悪く、 なんでも自由にするのが良いというような信念に対するわれわれの軽蔑は、 アウレリウスが異教に対して抱いた軽蔑と同じくらい強いだろう。
55. アウレリウスがキリスト教が社会を崩壊させるという信念に基づいて行動 したのは、(その次の文明がローマ文明よりもよくなるということに気付いて いない点では誤っていたが)正しいことであるとミルだって言うだろう。
56. 自分が無誤謬でないと認めることは、自分が常に誤っていると認めること ではない。法律家は自分の信念に従って行為する必要があるのであり、 ミルの無誤謬性の論点は理想としてはよいかもしれないが、 実践には役に立たない。
57. 個人的には、ミルの議論は理想的でもない。 ミルの生きた不自由な時代にはミルの主張は有意味であったが、 もはや「他人に危害を与えないかぎりは各人が自由に行為した方が 社会はよくなる」という考えは、ドグマの一つでしかない。 このような極端な自由がなければ自由社会とは言えないというのならば、 自由という名をあきらめた方がましだ。