使用テキスト: ピーター・シンガー、『私たちはどう生きるべきか』
「こだまです。こだまです。えー、こだまです」
「この授業は教職科目の倫理学です。ご存知かどうかわかりませんが、 この授業は先生が急拠変更しましたので、シラバスも変更しました。 したがって梅原猛についてはまったく論じる予定はありませんので、 それを期待してきた人はすみやかにご退室ください。 宗教について語る予定もありませんので、 それを期待してきた人もご退室ください。 恋愛についてもそんなに語りませんので、 恋愛相談は心理学か文学の授業に出てやってください。 人生について悩んでいる人は、ある程度この授業が役に立つかもしれませんが、 症状が深刻な方は病院に行かれた方がいいかもしれません。 また、 同じ教職科目でペーペーのぼくよりももっと偉い先生が倫理学を教えるようなので、 この授業がおもしろくないようなら、そちらに行く方をお勧めします。 この授業で何を論じるかについては、もうすぐ言います」
「単位認定についてですが、 仮にも教師を目指す人々が授業に出てこないのはけしからんので、 出席を重視します。8割以上、 つまり15回中12回以上出席しない人は自動的に単位が出なくなりますので、 そんなの無理だと思う方はすみやかにご退室ください。 試験はありませんが、 授業の8回目と13回目にレポートを出題する予定です。 何か質問はありますか? あ、携帯は電源を切ってください」
「さて、今日は導入です。 シンガーの『実践の倫理』第一章を参考にして、 倫理学がどういう学問かについて説明します。 シンガーの人となりについては、時間があればあとで説明します」
「シンガーは『実践の倫理』の第一章のはじめで、 倫理についての偏見というか先入観というか、 倫理はダサいという見方をなくすために、 『倫理はかれこれではない』 という議論を四つしています」
「まず、倫理は『性に関する一連の禁止』ではありません(翻訳2頁)。 もちろん、『婚前交渉はいけない』とか『買春は不潔だ』とか 『セーフセックスをしなければいけない』とかいうのは 倫理的な意見ですが、別に倫理学ではそういう説教をするわけではなく、 むしろ、『なんで婚前交渉あかんの?』とか『なんで買春あかんの?』 とその理由を問います。ただし、倫理は性の話だけではなく、 『なんでクジラを食べたらあかんの?』とか『なんで死刑はあかんの?』 とか『なんで他人に親切にしないとあかんの?』なんて話も倫理の話題で、 シンガーはとくにこういう話を問題にしたがってるので、 買春とか婚前交渉については残念ながらこの授業では取り扱わないと思います」
「しかし、『倫理=純潔の教え』というのは理由ない連想ではなく、 実際に倫理とかモラルという名でこういうことを説く人はよくいます。 その例を以下に挙げましょう」
「次の文章は5、6年前に読んだ某大学生新聞(10/20/96)からです。 (強調は児玉による)」
"純潔"は幸福を保証
異性への敬愛の念が湧く
成すべき準備とは前回、最高の幸福は純愛に基づく夫婦関係にあるという結論に至った。では、 現在大学生の者はそのために何を準備すればよいのだろうか。
まず、数多くの恋愛経験を積んだ方が、真に将来の伴侶を愛することができる のではないかと考える人が多い。しかしそれは錯覚である。 恋愛経験を積むということは、それだけ別れの経験を積むことになり心に深刻 な傷をたくさん負うことになるからである。・・・実際に数多くのリ ハーサルをこなした異性と結ばれたいと心底から思う人がいるであろうか 。たとえ愛するのに不器用であっても「私にとっての異性は生涯あ なた一人しかいない」という言葉を交わし心とからだの全てを捧げ合うことで 比較にならないぐらい、言い換えれば絶対的な喜びをもたらしてくれる。結局「純潔」に集約
このように考えていくと結局やるべきことは、「純潔を守る」ことに集約され るのである。・・・将来の妻(夫)のために自分の心と身体を清く保つのである。
純潔を保つには
しかしコンビニでさえアダルト雑誌を置いているし、電話ボックスの中には情 欲をそそるテレクラのシールがいっぱいに貼られているものもある。また最近 の女子高生も、テレクラブームで悲しいかな、純潔などとんでもないという風 潮である。さらに教育の場では倫理性を抜きにした科学的性器教育 が行われている。もはや純潔は死語となってしまっている。・・・
だからこそ自分という存在をじっくり知らねばならない。何者にも、流行や風 潮など周囲の環境に対しても巌(いわお)のごとくに左右されない自分を作り上 げていかねばならない。・・・
それと同時に第二回でも述べた通り、自分の情緒を育てておくことが重要であ る。・・・そうなれば異性を自分の欲望の対象とすることが許せなくなる。そ して金のために、性欲のために、寂しさ紛れのために簡単に体を許し、 より深い幸福を売りとばすアダルト雑誌や水商売の女性が哀れで可哀想に思え てくるのである。さらには自分の心と体は自分のものではなく、む しろ将来の妻(夫)のためのものであることが分かり、自分勝手に心と体を使う ことができなくなるのである。このような境地にまで至れば一応安全といえよ う。
「もう一つ。今度のはかなり古いです。古本屋で見つけた本からです」 (『娘の愛と生活』から)
マン・ハント無用
引く手あまた、ということになれば、もうマン・ハントなんて必要はないのです。
そうです。じつは若い女性にとって、マン・ハントだの、 ボーイ・ハントなんていうものは、 初めっからぜんぜん必要ではないのです。 あんなものは、やりたい人にやらせておけばよいのです。 あんなことをやるのは、自分の持っている女の真価、 底力に気づいていない女性なのです。
女の本質は、花です。 万色撩乱たる花であります。 静かに咲いていれば、どんなところにいてもそこへ蜂が訪れるのです。 花がノコノコ歩いて行って蜂をつかまえる、 そんな馬鹿なことがあるものではありません。
自己観察を怠る女性は、 そのことに気づかないので、 年頃になってバタバタします。 釣人が、いつまでたっても釣れそうにないので、 竿を逆さに持ちなおして、 ガバガバと水面を掻きまわしているようなものです。 はては、裸になってザブンとばかり飛びこんで、 魚を追いかけまわす、というようなもので、 まことにブザマなことです。 女性を釣師に例えたのはたいへん失礼ですが、 やはり女性は、「待つ」のが正しいのです。 なんだか大昔のモラルを持ち出してきたように思われるかもしれませんが、 どうして、これこそもっとも現代的な女性の生き方なのであります。
ただし、「待つ」といっても、やたら男性のことばかり夢見て、 キョロキョロともの欲しそうにしているのは困ります。 加山雄三さんの楽屋あたりをうろうろして、 「さあ、わたしは花ですよ。蜂さんどうぞ」 なんていったって、そうはうまくまいりません。
むしろ、男性のことなんかしばらく忘れて、自分を磨くのです。 女という花を育てる、 というより、人間という大輪のバラを、菊を、 日日やすみなく育てるのです。
働く女性は美しい----と申しますが、 同じように、人生の勉強に打ちこむ女性もじつに美しいものです。 「自分を見つめ、世間を見つめ、本を読み、親に喜ばれる娘となり、 私利をはなれ、人々の喜びを見てわが歓びとする女性----」 そんな方向を目ざす女性(己れを知る女性)を、 人々がどうして放っておくでしょうか。 いいえ、もしそんなあなたに、 魅力を感じないぼんくら男、 メクラ男ならば、こちらからおことわりです。 「どうぞおかまいなく」といえばよいのです。
世の中はふしぎです。 神秘です。 あなたが50の勉強をすれば、50の値うちの男性があなたに声をかけるのです。 もしあなたが、100の勉強をすればかならずや100の力をそなえた男性が、 やァどうもどうも、と現われてくるのです。
こうなれば、もうあなたは相手を選ぶことさえ不必要になってくるのです。 「女にだって選ぶ権利はあるのよッ」----なんて、小ざかしいかざりです。 そんな人には、選ばなければアブナイほどクズばかりが寄ってくるのでしょう。 大自然の仕組みは、そんな非科学的なのものではありません。 もっともっと、よくできているのです。
すなわち、自分をきたえる勉強が終ったところへ、 サッと現われた彼、それはかならずや、 あなたの理想の男、あなたを夢中にさせてくれる男性なのです。 夢のように甘く、太陽のように燃えたつ恋愛のできる女性は、 日ごろから人間的な力をたくわえているものです。 理想の恋人は、与えられるべくして与えられたもので、 一時のお化粧ではダメなのです。 チャーム・スクールのレッスンぐらいではムリなのです。
もっと深く、自分の奥底を見つめていただきたいのです。 正しい自己観察は、自然な自己表現につながるのです。 さらに、そうした自己表現は、眼に見えずとも人の心に伝わるものです。 誘いに出かけずとも、 ハイ・ヒールで背のびをしなくても、 人々は、あなたの真価を知るのです。 これが、マン・ハントの極意であり、じつは、マン・ハントなど、 まったく無用だということなのです。 このへんがじつは、世の中の、なかなか楽しいところなのであります。
(120-3頁)
「今からぼくもこういうことを教えるのかというと、 そうではありません。 ここで『倫理』と『倫理学』というのを区別しておきましょう。 もともとは二つともethicsという語の訳語ですが、 おおざっぱに言うと『倫理』というのは、「老人には席を譲るべきだ」とか 「浮気はすべきでない」とか「賄賂は受けとってはならない」とか、 「〜すべきだ」あるいは「〜すべきでない」とかいう規則(ルール)や信念のことを指します。 もうちょっと付け加えると、典型的には、「〜することは正しい」 「〜することは間違っている(不正である)」「〜することはよい」 「〜することは悪い」なんていう言葉も使われます。「浮気(するの)は悪い」 「クローン人間を作ることは間違っている」とか。 それに、規則や信念と言いましたが、たいていの場合は、 ある人や集団が持つ道徳規則や道徳信念のセットというか集合のことを、 『倫理』と呼ぶことが多いです。『キリスト教倫理』とか、 『日本人の倫理』とか『企業倫理』とか。あ、今『道徳』という言葉も使いましたが、 この意味での『倫理』はほとんど『道徳』あるいは『モラル』というのと同義、 同じ意味です」
「さて、ここでもうすこし『倫理』の意味をはっきりさせておきたいのですが、 ふつう『倫理』というと、すでに社会において確立された古くさいルールや信念、 たとえば「売春はいけない」とか「嘘をついてはならない」とか 「浮気はいけない」とかいうものを指すと考えられています。 だから『倫理』って古くさいとか、いんちきくさいとか、 若者にとっては理由があってもなくても反抗すべきものとか、 そんな風に考えられるわけです。しかし、強調したいんですが、 今若者が持っているルールや信念も一つの『倫理』なのです。 『若者倫理』あるいは、『若者のモラル』と呼んでもいいかもしれません。 ぼくはもう死期の近いお年寄りなので、 この『若者倫理』の内容はちょっとはっきりとはわかりませんが、 だいたいは、『〜やってもいいじゃん、別に』 というような、何でもOKというものだと思われます。 『援助交際? やってもいいじゃん、別に』『麻薬? やってもいいんちゃうの、別に』 『浮気? ばれへんかったらやってもいいやん、別に』 なんていうのが典型的だと思うんですが、 これはみなさんに聞いてみる必要があります。 とにかく、言いたいことは、みなさんも一つの倫理観あるいは道徳観を持っていて、 それはあと十年も二十年もすればみなさんが自分たちの子供に説教するようになったときに、 子供たちに『何それ、古くさい』と言われるかもしれないものなのです」
「そこで、この授業でみなさんに考えてほしいことは、 『古くさい倫理』を批判すると同時に、 みなさんがなんとなく無批判に受けいれている『若者倫理』についても、 一度立ちどまって批判してほしいのです。 このように、自分の信念も含めて、社会にある道徳信念やルールについて 反省的について考える学問を『倫理学』と言います。 『道徳』と対比して『道徳哲学』と呼ばれたりもします。 『倫理』と『倫理学』はよくごっちゃにされ、 倫理学を専門的に研究している人々でも、『学』と発音するのをめんどうがって 『リンリ、リンリ』というので、『倫理』も『倫理学』もいんちきくさい、 古くさい、説教くさい、とにかく何かクサイものだと思われていますが、 そんなことはありません。まあ、真面目クサイというのはある程度あたってますが。 だから、『倫理学』では、『麻薬はだめです』と教えるのではなく、 むしろ『え、ほんまにダメなん? なんでそうなん』と尋ねたり、 逆に、『麻薬? やってもいいんちゃうの、別に』とか 『浮気? ばれへんかったらやってもいいやん、別に』 とかいうみなさんの信念に対して、 まるで子供のように『え、ほんまにいいん? なんでそうなん?』と尋ねて、 そうした信念が正しいかどうかを反省し検討する学問なのです。 ここで言う『反省』するというのは、『悪いことをしたので謝る』 という意味ではなく、日頃自分が無批判に抱いている信念について疑ってみて、 よくよく考えてみることです。 というわけで、倫理学とは、 もっと一般的に言えば、自分たちの生き方を見つめなおす作業なんですが、 これでは一般的すぎて、宗教と区別が付かないかもしれません」
「長くなってきましたが、まとめると、 『倫理』はみなが信じている道徳的なルールや信念のことで、 『倫理学』とは、そうしたルールや信念をいろいろな角度から吟味する学問です。 『いろいろな角度から』というとなんともあいまいですが、とくに重要なのは、 信念やルールの根拠や理由を問うということです。 この学問にどこまでのことができるかというと、 そんなに期待しない方がいいんですが、 みなさんの無批判な信念のいくつかは根拠がないことが示されるかもしれません。 たとえば『自然に生きたらいいんやろ』とか『不自然なのはあかんやろ』とか 『生き方は人それぞれなんやから、口はさんだらいかんやろ』 とかいうような考えは、根拠として不十分なことが示されるでしょう(たぶん)。 ただし、『売春はあかん』とか『中絶はあかん』とかいうはっきりした結論は、 倫理学的な検討によっては確実には示せないかもしれません。 この辺のことを少し頭に置きつつ、先に進みましょう」
「あ、シンガーの話からそれてしまいました。 シンガーは、『倫理は性に関する一連の禁止ではない』という他に、 あと三つ『倫理はかれこれではない』と言ってるんですが、 その二は『倫理は実践に役立たないルールの集合ではない』 ということです(翻訳2〜3頁)。つまり、倫理は日常的にどうでもいいルールの あつまりではない、ということです。 これは上で述べたことから明らかですよね。 たしかに『汝姦淫するなかれ』とか『汝盗むなかれ』 とかいうのも倫理のひとつですが、こればっかりが倫理ではなく、 『汝カンニングするなかれ』とか『クジラを食べたらダメ』とか 『死刑は廃止すべきでない』 とかいうのも倫理だし、『プチ整形すべきでない』あるいは 『カンニングはどんどんすべきだ』 とかいうのも倫理です。 倫理というのは、性に限ったものでもなければ、 日常どうでもいいことについて禁止するルールでもなく、 社会で生きている人々が何か行為をするたびに問題になるようなものです。 まあ、さきほども言ったように、 倫理学がそういう日常的な倫理問題についてどれほどのことが言えるか というのは問題なんですけど」
「三つ目は、『倫理は宗教がなくても成り立つ』という主張です(翻訳4〜5頁)。 もちろん宗教のほとんどが、独自の倫理規範、かれこれすべきだとか、 かれこれすべきでないというルールブックみたいなものを持っています。 たとえばカトリックの公式の見解によれば、 人工妊娠中絶はほぼ全面的に禁止です。 アイルランドやポルトガルなどのカトリック教国は 非常に厳しい中絶禁止法を持ってるので、 毎年多くの女性がお隣のイギリスやスペインに行って中絶してるそうです。 精子は神聖だから、 マスターベーションどころか、コンドームを付けたセックスもだめ。 イスラム原理主義、つまりコーランに厳密に従った生活をしていた タリバン政権下では、アフガン人は次のことができませんでした」
アフガニスタン人男女ができないこと:
- 婚外交渉 (鞭打刑)
- テレビを見ること
- ラジオを聞くこと
- ダンスを踊ること
- たこあげをすること
- チェスをすること
- おもちゃの兵隊、人形で遊ぶこと(偶像崇拝にあたる)
アフガニスタン人男性ができないこと:
- 同性愛 (死刑: ブルドーザによって轢き殺される)
- ボクシングをすること
- ひげを剃り落とすこと
- 脇毛と陰毛を剃らないこと
アフガニスタン人女性ができないこと:
- チャドリ(体全体を隠す伝統的衣服)以外を着ること
- 学校で勉強すること
- 病院以外で働くこと
- マニキュアを塗ること
- 家族以外の男性と話すこと
「また、神さまがちゃんと働いていてくれたら、 たとえば政治家が汚職をするたびに雷が落ちてきてくれるとか、 そういう信賞必罰があれば、 人々ももっと悪いことをせずに生きるようになるかもしれません。 そういう意味で、 みなが一つの宗教を信じていて、神さまがきちんと仕事をしてくれていると、 倫理学者の仕事もわりと楽になるかもしれません。 しかし、すべての宗教が倫理規範を持っているからといって、 宗教がなければ倫理が存在しないわけではありません。 それはおそらく神さまを信じていないみなさんが、 『クジラは殺して食べてもよい』とか『プチ整形をしてもよい』とか 『安楽死は認めるべきだ』とか『クローン人間はだめだ』とかの、 ある種の倫理を持っていることからも明らかです」
「もちろん、『本当に宗教なしで倫理がやっていくことができるか』 というのは重要な問いで、今後の授業でも言及することがあるかもしれませんが、 基本的には今後の議論はとくに神さまがしっかりお働きになっていることを 前提していないものと思ってください。そういう意味でこの授業でやるのは 宗教的ではなく、世俗的な倫理です」
「最後の四つ目ですが、シンガーによると、 『倫理は相対的ないしは主観的である』という主張も、 ある意味では正しくありません(翻訳5頁)。 これはどういうことかと言うと、 まず、文化によって倫理が違うということがあります。 倫理は文化相対的だというわけです。 これはまあその通りで、過去には黒人奴隷を認めている社会もあれば、 障害を持って生まれた赤子は山に捨てるのが当然というような社会もあり、 最近でもイスラム原理主義の影響が強いナイジェリアでは、 離婚したあとに他の男性と結婚せずに子供を産んだ女性が 死刑宣告されたりしてました。石を投げつけられて殺されるというやつです。 ぎりぎりで死刑は免れたようですが」
「たしかにこういう意味では倫理は文化ごとに違っていて、 このかぎりで『文化相対主義』は正しいんですが、 だから『よそ者は批判をしてはならない』というと、 これはちょっとおかしいことになります。 もちろん、かつての米国のように黒人奴隷を認めていた社会でも、 たとえば『アンクル・トムの小屋』を書いて奴隷制度を批判したストウ夫人が いたように、みながみな同じ考えをしているわけではなく、 一つの文化の中でも議論があるわけです。 米国の中で議論ができるんだったら、 他の国の人々が口を狭んではいけない理由はありません。 たしかに、事情をよく知らない人間が口を挟むとたいてい 『お前の知ったこっちゃない』と言われるわけですが、 しかし、『なぜ黒人は奴隷にしてもいいのか』という問いは、 米国の中の人が問うても、他の国の人が問うても 同じ質問です。『クジラはなぜ食べてもよいのか』という問いも同じです。 日本人が問うても、外国人が問うても、 クジラを食べてる人はちゃんと説明してしかるべきでしょう。 ここではこの具体的問題に深くは立ち入りませんが」
「同様に、倫理は文化ごとに違うというだけでなく、 人それぞれに違うという意味での『倫理主観主義』も同じことが言えます。 たとえばぼくはクジラを食べてはいけないと考えていて、 みなさんはクジラを食べてもいいと考えているとする。 これは当然ありうることで、 それぞれ違う倫理観を持っていてあたりまえなわけで、 この意味で『倫理は主観的だ』と言いたければそれでもいいんですが、 だからと言って『他の人の倫理についてはとやかく言うべきではない』となると、 --これもまた一つの倫理観なんですが--『どうしてそうなるの?』と問うことができる。 『考えは人それぞれ』っていうのはいいんですが、 だからと言ってその理由を聞いてはいけないことにはならない。 まあ、当然、実社会では他人の倫理観について『なんで?』と問うのはたいへんで、 『そんなことされるとうっとうしいからしゃべりかけんとって』 と言われればそれまでで、取り調べ室に入れて『なんでなんだ?』 と尋問するわけにはいかないし、 このみなさんが持っていてあんまり反省していない(疑っていない)倫理について 問うのが倫理学なので、まあそういうことをやる気がない人、 『みんなそれぞれ考えが違うんだから、ほっとかなきゃいけないんだよ』 と主張して、『なんでほっとかなきゃいけないの?』と尋ねられても 『そんなこと知らない』と答える人は、 あんまりこの授業に出ても意味はないかもしれません」
「というわけで、長くなりましたがまとめると、 シンガーによると倫理は(1)性についての禁止ではない、 (2)役に立たないルールの集合ではない、 (3)必ずしも宗教を必要としない、(4)文化や個人ごとに違うからと言って、 批判とか検討することができないものではない、ということになります。 特に、倫理学とは、みなさんが持っている倫理観を反省し検討する学問である というところを覚えておいてください」
「それで、後期には倫理学史についてやる予定なんですが、 前期ではシンガーの『私たちはどう生きるべきか』という本を読みます。 シンガーはこの本で『自分の得になることをしたらいいやん』 『環境が悪くなろうが、アフリカでバタバタAIDSで死ぬ人がいようが、 パレスティナ人やイスラエル人が何人死のうが、あんまり関係ないし。 自分が楽しかったらいいやん』というような『私益を追求する倫理』 を批判して、『もっと倫理的にならんといかんで』 ということを説得力を持って主張しています。 シンガーの言うこの『倫理』の内容、いわば『シンガー倫理』は、 来週あきらかになると思います。 ちょっと説教くさいんですが、この本を批判的に読むことで、 みなさんに倫理学的な思考法を身につけてもらいたいと思います」
「あと、シンガーについて説明しようかと思いましたが、 時間がないのでまたにします。興味がある人は『実践の倫理』や 『私たちはどう生きるべきか』の訳者解説か何かを読んでみてください」
「来週は『私たちはどう生きるべきか』の第一章に入りますので、 この本を手に入れて、序と第一章を読んできてください」
「え〜、ごめんなさい。こだまです。ごめんなさい。二回目です。ごめんなさい」
(なるべく台本を見ずにPowerPointを使いながら説明。学生にも質問すること。)
(PowerPoint p. 2) 「まず、先週の復習から行きましょう。 先週は倫理学ってどんな学問なのかを説明しました。 倫理学を理解するためには、 一つに、倫理学と倫理を区別することで、 この授業では特定の倫理観や道徳観を押しつけるわけではなく、 倫理の根拠を問うことを目的とします。 もう一つに、 倫理とか道徳とかモラルっていうのはいろいろあって、 一般にはみなさんの親や先生から押しつけられる古くさいルールを 倫理と呼ぶことが多いですが、 みなさんが日頃行動してるときに意識的、 無意識的に守っているルールも倫理だということを強調しました。 大学生には大学生のモラルがあり、 ヤクザにはヤクザのモラルがあるというわけです」
(PowerPoint p. 3) 「そして最後に、シンガーによる四つの「倫理は〜ではない」というのを見て、 倫理に対する誤解をなくしてもらおうとしました。 シンガーによれば、倫理は性道徳の禁止にだけ関わるものではないし、 実践に役立たないルールの集まりでもないし、 宗教と必ず結びついているわけでもないし、 他の文化の倫理とか、 他人の倫理--というか生き方--に口を出せないというのものでもありません」
「要するに、この授業でやりたいことは、 『東洋や西洋ではこのような倫理が守られていました。 そして日本では現在このような倫理が守られています。 では、暗記してください』 というものではなく、 自分の生き方について、 自分が守っている倫理について、 シンガーの議論を参考にしながらちょっと真面目に考えてもらいたいのです。 自分の生き方について反省というか吟味というか批判というか、 そういうものをやりたいわけです」
(PowerPoint p. 4) 「次に、先週のアンケートを読んでいてちょっと気になったところを言います。 シンガーの四つ目の『倫理は文化・個人に相対的でない』 というところを、『倫理は主観主義であるというところが面白いと思った』とか 『他人との倫理がちがうことを批判してはダメ』という風に理解した人がいた ようですが、それは誤解です。 『個人レベルで倫理は存在しているもので、個々の倫理観に善悪はない』 と書いていた人もいましたが、これもちょっと誤解です。 倫理主観主義にはいろいろな意味があるんですが、 今回の文脈では、 『各人にはそれぞれの倫理観があるんだから、 意見が違えばそれ以上議論したり、批判したりできない』 というような意味です。 同じように、倫理相対主義というのは、 『各文化にはそれぞれの倫理観があるんだから、 意見が違えばそれ以上議論したり、批判したりできない』 というような意味です。 気をつけて欲しいのは、 シンガーはこのいずれの立場もオカシイと批判していることです」
(PowerPoint p. 5) 「ちょっと具体例を挙げて話しましょう。 最近、小泉首相が靖国神社を参拝して、 また中国や韓国との摩擦が起きています。 小泉首相がどうすべきかについてここでぼくの意見を述べる気は まったくありませんが、 日本の新聞の社説をいくつか読むと、 議論の仕方がオカシイと思うのです」
(PowerPoint p. 6) 「たとえば先日の4月16日付けの産経新聞の社説によると、 日本の首相が靖国神社に参拝するのは基本的に国内問題なので、 中国にうかがいを立てることはない、ということです。 前回の話に引き付けて言い直すと、 産経の社説が述べていることは、 『中国は日本に口出しすべきでない』あるいは 『日本は中国の意見を聞く必要はない』という倫理的な信念です。 そして、その理由あるいは根拠は、 『首相が靖国神社に参拝するのは国内問題だから』というものです」
「もちろん日本は中国の『ご機嫌うかがい』をする必要はありません。 中国の『日本の首相は靖国に参拝すべきではない』という倫理的信念を聞いて、 それをただ命令を聞くかのように『ああそうですか、了解しました』 と言う必要はありません。 また、中国が議論をする気がなく、政治的圧力をかけてくるばかりであれば、 日本政府は中国のやり方は不当だと批判すべきです」
(PowerPoint p. 7) 「しかし、中国にきちんと議論する気があるのなら、 日本は中国の主張の根拠を尋ねて、日本の主張の根拠も主張し、 どちらが理屈が通っているかを考えてみるべきであって、 『国内問題だから』という一言で片付けてしまうのはおかしいのです。 そもそもなぜ『国内問題』だったら中国の政府や人々が批判しては ダメなのでしょうか。ぼくは日本人ですが、産経が『首相は何よりも、 国のために戦死した日本人とその遺族のことを考えて決断してほしい』 と述べたら、 『じゃあ首相は多くの中国人の死者については何も考えずに決断していいのか』 と疑問に思い、質問してみたくなります。 それと同じ質問を中国人がしてはいけないという理由はまったくないように 思えるわけです。ちょっと話がこんがらがってきたかもしれませんが、 言いたいことは、 『中国が日本の国内で起きている事柄について口を出すべきでない』 という主張は、まったく根拠がなく、 中国が筋の通っていることを言ってるならば、 それについて日本はきちんと反論すべきなのです」
「同じことが個人のレベルでも言えて、 『それはこっちの話であなたの知ったこっちゃない』とか 『それはわたしのプライバシーだから、口出ししないでもらおう』とか 『それは個人の勝手だ』 とか言われたりもして、まあ人の歯の磨き方に文句をつけてくる人がいたら、 こう言われても仕方ないかもしれませんが、 しかしたとえば隣の家で家庭内暴力が起きているというような場合、 シンガーの言うように、 こういう主観主義的な態度はおかしくて、 とりあえず倫理学の基本的な立場としては、 どんな倫理的信念についてもその根拠を尋ねようとするのです」
「あと、ぼくが早口で困るというコメントがいくつかありました。 ぼくは歩くのは速いけどしゃべるのは遅いとよく言われるんですが、 時間がおしてくると早口になってしまうこともあるので、 聞き取りにくくなったり、 みなさんがノートを取ってるのに無神経にしゃべり続けているときは、 遠慮なく消しゴムかなんかを投げつけてお知らせください。 あと、アンケートに関しては、ちゃんと授業を聞いてから書いているかぎり、 どんなに批判的なことを書いても単位には影響しませんので、 今後もいろいろケチをつけてくれてけっこうです。 おもしろかったらおもしろい、 おもしろくなかったら寝てましたと正直に書いてくれると参考になります」
「他に前回の授業でわからなかったことがあれば、質問をお願いします」
(PowerPoint p. 8) [ちょっと休憩: 純潔の一例としてのブリットニー・スピアーズ]
(PowerPoint p. 9) 「それでは、前回の復習が長くなりましたが、 まず、序から行きましょう。読んできてくれましたか。 テキストはもう大学生協で売ってましたよね?」
(PowerPoint p. 10) 「さて、シンガーは『「このために生きる」 といえるものがまだ何かあるだろうか』という風に話を切り出しています。 もう少し続けて引用すると、 『金銭や、恋愛や、自分の家族の世話のほかに、 何か追求するに値するものはあるだろうか。 もしあるとしたら、それは何だろうか。 「このために生きる」などという話にはかすかに宗教的な香りがする。 しかし、全然宗教的でない人でも、 自分の人生に一つの意義--今の人生に欠けているような意義--を与えてくれる 基本的な何かを自分は見逃しているのではないか、 という落ち着かない感じを抱いていることは多い』 (翻訳5頁、訳に少し手を入れた)と述べています」
(PowerPoint p. 11) 「この『何のために生きるのか』という問いに対して、 シンガーは『倫理的に生きることができる』と述べています。 では、シンガーの言う『倫理的な生き方』とはどういうことか。 この問いに明確に答えるためにはこの本全体を読まないといけませんが、 ここでシンガーは次のように述べています」
たいていの人は、倫理を、あれこれのことをするなと命じる規則の体系と思っていて、 私たちがいかに生きるべきかを考える基礎であるとはみなしていないのである。 そういう人たちはおおむね私益追求の生き方をしているが、 そうしているのは生まれつき利己的だからではなく、 他の生き方が彼らには厄介なもの、当惑させるもの、 あるいはただ単に意味のないものに見えるからである。(…) たいていの人は、(…)自分自身の物質的な私益を追求すること以外には、 このために生きるといえるものを何も見いだせないでいる。 しかし、倫理的な生き方ができるという可能性は、 この袋小路からの出口を与えてくれる。この可能性こそ本書の主題である。 6-7頁
「ってなことを書いていますが、まだ納得する必要はありません。 『私益の追求はダメだって? なんだかいんちきくさいなあ』とか 『新手の新興宗教じゃないの、これ』 という風に考えていてくれてけっこうです。 『ようわからんけど、毎日適当に楽しく生きてるのが一番じゃないの』 と思っている人は、その考えをまだ持ち続けてくれてかまいません。 ただし、この『シンガー倫理』がいんちきくさい、うたがわしいと思うと同様に、 実はひょっとすると自分のこれまでの生き方も疑わしいんじゃないか、 自分の生き方は自分で選んだつもりだったけど、 実はまわりの友人やらテレビ番組やらに洗脳されているだけではないのか、 と疑ってみることも重要です。この点については何度もくりかえそうと思います」
(PowerPoint p. 12) 「さて、 シンガーが『倫理とは何でないか』について述べているところに注目してください。 彼はこんな風にも述べています」
倫理的な反省をする生き方は、すべきことやすべきでないことを規定する一連の 規則を厳守することではない。倫理的に生きることは、 自分がどう生きているかを一定の仕方で反省することであり、 反省して得られた結論に従って行動しようと努めることである。 8頁
「シンガーの言う『倫理』の意味に気をつけてください。 シンガーの『倫理的な生き方』とは、 社会の大勢の人がやっている生き方に従うということではなく、 また、シンガーの言うことを鵜呑みにして生きるというのではなく、 自分の生き方を反省し、その反省に基づいて生きるということです。 これは言いかえると、 これまでの自分の生き方を振り返って --『反省する』とは自分を振り返ってよく見るという意味です--、 『このままでいいんだろうか?』と真剣に考えてみるということです。 これまでなんとなくタバコを吸ってきたとか、 なんとなく自転車を駅前に放置してきたとか、 なんとなく結婚して子供を産もうと思ってきたとか、 なんとなく投票には行かなかったとか、 なんとなく牛でもブタでもクジラでも食べてきたとか、 なんとなくローソンの募金箱にはお金を入れたことがなかったとか、 だいたい『なんとなく』いろいろしてきたと思うんですが、 そういうことについてよく考えてみよう、 というのが倫理的な反省だと言うんですね。 それはたとえば、 『これまでまわりの人にあわせて牛でもクジラでも食べてきたけど、 ほんまに牛食べていいんかな、ベジタリアンになるべきなんとちゃうんかな。 まわりの人と同じように行為してていいんかな』 という風に考えてみるということです。 じゃあ、考えてみるというけど、どんな風に考えてみたらいいのか、 というのがこの本で論じられていることです」
(PowerPoint p. 13) 「それでは第一章に入ります。 最初にシンガーは米国の投資家について話しています。 この投資家は億万長者で、 常日頃から公共の利益のために働くと公言しているにもかかわらず、 インサイダー取引をして見つかっちゃうんですね。 インサイダー取引っていうのは、 株価が変動するという内部情報を事前に入手して、 うまい具合に株を売り買いして一山もうけるという行為で、 日本でも犯罪とみなされます」
「口では公共の利益と言っておきながら、 法を犯してまで私益の追求をする人って、 日本の政治家でもよくいるようですが、 シンガーは、彼らを含めて、われわれはみな『究極の選択』をしていると言います。 われわれは、二つの相いれない生き方、すなわち『倫理優先の生き方』と 『私益優先の生き方』のいずれかを選んでいるのです」
「シンガーは『究極の選択』と対比して、『制限のある選択』について 語っています。この区別はわかるでしょうか。 『制限のある選択』とは、追求すべき目的は決まっていて、 どの手段を選んだらいいか、というような状況です。 たとえば、金持ちになりたいという目的があって、 じゃあ野球選手になろうか、医者になろうか、弁護士になろうか、 あるいは銀行強盗をやってみようか、というのは『制限のある選択』です。 ある目的に対して、どのような手段が合理的かを問題にするので、 『手段の合理性の問題』と呼ぶこともできます」
「それに対して、『究極の選択』というのは、 手段の選択ではなく、どの目的、 あるいは根本的な価値を選ぶべきなのか、という場合です。 シンガーがここで考えているのは、 他人の幸福・不幸を気にせずもっぱら自分の幸せだけを配慮して生きるのか、 あるいはそうではなく、 他人の幸福・不幸を配慮して生きるのか、という選択です。 これが彼の言う『私益優先の生き方』と『倫理優先の生き方』 との究極の選択なのです。これは、 どのような目的が優れているかを問題にするので、『目的の合理性の問題』 と呼ぶことができます」
(PowerPoint p. 14) 「ついでに究極の選択に関連してシンガーが言及している『実存主義』 について簡単に説明しておきましょう。 実存主義者の代表的な人物は何人かいますが、 とりあえずフランス人のジャン・ポール・サルトル(1905-1980) の思想について話します」
(PowerPoint p. 15) 「人間が作ったもののほとんどは、それ固有の目的を持っています。 たとえばナイフ職人がペーパーナイフを作るとき、 ナイフには物を切るという目的というか本質があるので、 職人はその本質を頭に入れてペーパーナイフを作ります。 もちろんペーパーナイフでパンにバターを塗ることもできるんですが、 『ペーパーナイフって何をするためにあるの?』と尋ねられると、 やはり『紙を切るため』とか『手紙の封を切るため』と答えるでしょう。 このように、ペーパーナイフはそれ固有の目的すなわち本質を持っており、 コップも机もトイレットペーパーも目的を持って作られています」
「しかし、無神論者のサルトルによると、人間はそうではありません。 人間は固有の目的を持たないまま、この世に放り出されます。 そういうわけでわれわれは何をしたらいいのかわからない場合が多いわけですが、 とりあえずペーパーナイフと違って、 目的があらかじめ指定されていないから、自由に目的を選択できるのです。 世界平和という目的のために国連で働くこともできるし、 自分の幸せのために国連はあきらめて結婚して家庭を築くこともできます。 あるいは国連も結婚もと欲張ってみることもできます。 バレないように浮気をすることもできるし、 バレなくても浮気はしないでおこうと決心することもできる。 これがサルトルの言う『実存は本質に先立つ』という人間特有の自由な状態であり、 それゆえにシンガーが言うような究極な選択を人間はすることになるのです。 あ、実存とは存在のことです。 われわれ人間はあらかじめ目的なしに存在しているということです。」
「しかし、シンガーの言うように、 究極の選択というのはしばしば一人で決めないといけないので、たいへんです。 それゆえ 『究極の選択には勇気が必要である。(…) 私たちはめまいを感じ、その状況 からできるだけ早く抜け出したいと思う。そこで、以前のとおりに行動し続け ることによって、究極の選択を避けるのである』(7頁)ということになります。 よく考えること、究極の選択をすることを拒否するわけです。 しかし、なるべく年を取ってから後悔しない生き方をするために、 せめてこの授業の間だけでも真剣に生き方について一緒に考えてみたいと思います」
(PowerPoint p. 16) 「倫理優先に生きるか私益優先に生きるかというこの問題は、 すでに古代ギリシアにおいて2000年以上前に論じられていました。 プラトンの『国家』という有名な本の中に、『ギュゲスの指輪』 という有名な逸話があります。この話によれば、 リディアに住むギュゲスという羊飼いが透明人間になれる指輪を偶然見つけ、 しめたこれならなんでも悪いことやり放題だと考えて、 実際にリディアの女王をてごめにして、さらに王を殺してしまい、 ちゃっかり王位についてしまいます。 こないだあった『インヴィジブル』という映画では、 透明人間になった主人公がまぬけなのでけっきょく悪は勝ちませんでしたが、 この話ではギュゲスはうまいぐあいに悪業をやりとげたんですよね。 そこでプラトンはグラウコンという若者にこう言わせています」
(PowerPoint p. 17)
ひとは言うでしょう、このことこそは、何びとも自発的に正しい人間である者 はなく、強制されてやむをえずそうなっているのだということの、動かぬ証拠 ではないか。つまり、〈正義〉とは当人にとって個人的には善いものではない、 と考えられているのだ。げんに誰しも、自分が不正をはたらくことができると 思った場合には、きっと不正をはたらくのだから、と。(…) 事実、もし誰か が先のような何でもしたい放題の自由を掌中に収めていながら、何ひとつ悪事 をなす気にならず、他人のものに手をつけることもしないとしたら、そこに気 づいている人たちから彼は、世にもあわれなやつ、大ばか者と思われることで しょう。ただそういう人たちは、お互いの面前では彼のことを賞賛するでしょ うが、それは、自分が不正をはたらかれるのがこわさに、お互いを欺き合って いるだけなのです。(岩波文庫の『国家(上)』110頁から)
「つまり、不正を働いてもつかまらないなら、 私益優先の生き方をするのがかしこいだろうというのです。 これって、一見正しいように思いませんか? もし透明人間になれるんだったら、 なんでわざわざ倫理優先の生き方をしないといけないんでしょう? 銀行強盗した方がいいんじゃないでしょうか? しかし、 プラトンもシンガーも倫理的な生き方の方が優れていることを示そうとします。 シンガーはプラトンの答には説得力がないと言っており、 本書で彼自身の答を示します。 そこで、われわれはシンガーの答に説得力があるかないかを 考えてみたいわけです」
(PowerPoint p. 18) 「ところで、シンガーは、 現代の消費社会は自分自身の利益の追求を人生の目標とすることを奨励していると 言っています。 とにかく働いてどんどん金をもうけ、 大きい家を買い、 ガソリンを食う大きな車を買いそろえることが個人の幸福であり、 みながそういう生き方をすれば社会全体の経済は発展するのであり、 現在日本が現在不況で苦しんでいるのは、 人々が働いて貯めたお金をちゃんと使わないからだ、というわけです」
(PowerPoint p. 19) 「しかし、現在の環境問題や、国内の不況や政治腐敗、 また世界の貧困や戦争といった問題を見渡してみると、 このような私益優先の生き方はもう行きづまっているんじゃないか、 ひょっとしたらわれわれはもっと別の生き方を見つけるべきなんじゃないか、 と思えてくる。けれども、 やっぱりぼくらは多くの場合、倫理より私益の方が大切だと思っていて、 なかなかこの思考の枠組からは逃れられないかもしれません。 そこでシンガーは、この本のこれ以降の章で、 まず私益追求の生き方がうまく行かないことを明らかにし、 その代わりに、新しい生き方を提示するのです。 一章の最後の方でシンガーは倫理的な生き方についてこのように述べています。 『本書で描く倫理的な生き方とは、 もっと広い他の目標に自分自身が同一化することによって、 人生に意味を与える生き方である』(31頁)。 これだけではまだシンガー倫理の内容がよくわからずなんだか怪しげですが、 これからの講義では、 われわれはこのシンガー倫理を採用すべきなのかどうかを 考えていかないといけません」
「そういえば、最近、 阪神タイガースの選手が、 あしなが育英会という交通事故などで親を失なった子供を 助ける団体を支援しているみたいですが、 おそらくシンガーはこういう生き方をわれわれに勧めてるんですよね。 たしかに阪神の選手がやってると『えらいなあ』と思うけど、 『あいつらあんまり給料もらってないそうやけど、 それでもおれらよりは金持ちやろうから、金出して当然や』 とも思ってしまいますよね。しかし、 問題は阪神の選手が倫理的に生きるかどうかじゃなくて、 自分自身がどうするかです。われわれもあしなが育英会に寄付すべきなんでしょうか、 あるいはめんどくさいしほっておくべきなんでしょうか。 ぼくもみなさんも本書を読んでこの点についてはっきりさせる必要があります」
(PowerPoint p. 20) 「まとめると、第一章の内容は、 われわれは現在、私益優先の生き方と倫理優先の生き方とのあいだの『究極の選択』 を迫られていて、シンガーは倫理優先の生き方が優れていることを今後の章で示す、 ということです。なんともあじけない要約ですね。 まだ一章を読んでない人は、おもしろいのでぜひ自分で読んでみてください。 あと、実存主義の考え方と、ギュゲスの指輪についても説明しました。 第一章にはマルクスも出てきますが、これはまた今度説明します。」
(PowerPoint p. 21) 「ええと、それではあとアンケートを取ったら今日は終わりです。 来週は第二章をやります。 この本は半期で最後まで読む予定ですので、 ちゃんとテキストを手に入れて読んできてください」
「すいませんすいません。こだまです。ごめんなさい」
(PowerPoint 23. 活舌について) 「え〜、前回も話すのが速すぎるとか、 モゴモゴしゃべっていて何を言っているのかわからない、 もっと活舌よくしゃべれという注文が来ていたので、 今回はなるべくゆっくり活舌よくしゃべれるように試みます。 え〜、ちなみに、活舌とは 『俳優、アナウンサーなどが発音する場合に、舌の回りが滑らかであること』 (小学館国語辞典)だそうです」
(PowerPoint 24. 前回の復習) 「え〜、まず前回の復習ですが、 前回は『私たちはどう生きるべきか』の序と第一章を扱いました。 要するにそこで言われていたのは、われわれは今日、『私益優先の生き方』 と『倫理優先の生き方』のいずれを選ぶかという究極の選択を迫られている、 という話でした。
「私益優先の生き方というのは、 他人についてはあまり考えることなく、ときには多少の犯罪を行なってでも、 自分の物質的な利益を最大化しようとするような生き方です。 それに対してシンガーの言う倫理優先の生き方というのは、 これはまだあんまりあきらかになっていないのですが、 他人や社会の利益を尊重して生きるような生き方のことです。 そして、シンガーはこの『倫理優先の生き方』が優れていることを、 本書のこれ以降で示そうとしています」
「ところで、こないだ言ったように、 ぼくの理解では倫理というのは多様で、 ヤクザもヤクザの倫理というか生きる上でのルールを持っていて、 私益を追求する人もある種の自己利益追求型の倫理を持っていると言えます。 だから、シンガーの言う倫理も唯一の倫理ではないという点に注意してください。 まあそれでも、ふつうわれわれが倫理とかモラルとか言った場合には、 『他人や社会の利益を尊重する倫理』というシンガーの言う意味で使うことが多いと 思いますが」
「それと前回は、 第一章で出てきた、『究極の選択』と『制限のある選択』の区別、 実存主義、ギュゲスの指輪についても説明しました。覚えているでしょうか」
(PowerPoint 25. カンニングについて) 「そういえば、 ギュゲスの指輪の問題で、学生のみなさんに関係の深い問題は、 『バレなければカンニングはいいか』というものです。 どうなんでしょうね、カンニングって。 こないだ読んだ新聞記事には、こんな風に書いてありました」
いかさま(いんちき、cheating)はどんな文化でも悪い言葉である。 しかし、試験や授業評価は公平なゲームと考えられている。 高い成績を得るためにいかさま(カンニング)をすることは、 本当はいかさまでも何でもない。 それは世の中ではあたりまえのことなのだ。 みながやっているのだ。…
「利己的な視点から言えば、 カンニングには悪いことよりも良いことの方が 多いね。 カンニングで優が取れれば(…)未来はバラ色になるかもしれない。 良い学位が取れれば、キャリアは万全になるかもしれない。友達と協力してカ ンニングするなら、反対する理由よりも支持する理由の方が多いよ」 (日記を参照)
「要するに、世の中に出たら人をダマすのはあたりまえなんだから バレないようにカンニングするのは社会勉強の一つだと言うわけです。 まあこれに同意するみなさんはボクのレポートを書くときにでも試しに やってみてくれたらいいですが、 ネットや本で見つけた文章をそのまま書き写すときは、 ぼくも怪しいと思ったら徹底的に探しますので、 よっぽどうまくやらないと見つかるものと思っておいてください。 この大学の正式なポリシーは知りませんが、剽窃(piracy)したことがわかったら、 単位はあげられませんので注意してください」
(PowerPoint 25. エピクロス) 「まあ、実際、ギュゲスの指輪は存在しないから、 『絶対にバレなければ不正なことをしてもいいか』 という問いはあんまり日常的な問題ではないんですよね。 日常的には、ヘレニズム時代の哲学者のエピクロスが言うように、 悪いことをしたらいつ発覚するかと怯えなきゃいけないから、 けっきょく損するんですよね。朝日新聞社の阪神支局を襲撃した連中は そろそろ時効になるらしいですが、今は喜んでいても、 これまでずっと日陰に暮らして、 いつ捕まるかとヒヤヒヤしながら生きてきたんじゃないかと思います。 浮気とか横領とかも同じです」
たとえかれらが(不正を犯しながら)発覚されないでいることが 可能であるとしても、発覚されないという保証を得ることは、 不可能である。そこで、(不正を犯したがために)かれらをたえず悩ます未来に ついての恐怖が、現在、かれらの喜ぶことを許さないばかりか、 煩いを受けないでいることをも、許さないのである。
(エピクロス『教説と手紙』岩波文庫124頁)
「さて、第二章に進む前に、 前回のアンケートについてちょっとコメントしておきたいと思います。 前回もいろいろ書いてきてくれてありがとうございます」
(PowerPoint 27. アンケート1)
と書かれた方がいました。つまり、そんなことは当たり前だと。 シンガーも『私たちはどう生きるべきか』でこんな風に書いてます」ペーパーナイフは人間が用途に応じて作ったもので、目的があるのは当然、 またサルトルも私達も、人間であるのにもかかわらず私達が自らを作ったわけ ではないので、その目的をみい出すことなど無理ではないか?
(PowerPoint 28. アンケート1、シンガーとサルトル)
「人生は無意味だ」という主張を実存主義者たちは衝撃的な発見として扱った が、今日ではこの主張を彼らから聞くことはもうなくなった。退屈しきった若 者たちから聞くことはあるが、彼らにとってはそれはわかりきったことである。 (29頁)
「しかしまあ、サルトルによれば、これまでの哲学の考え方では、 神を信じていようがいまいが、 人間にはある目的というか本質というか本性があって、 その目的を実現するために生きるべきものと考えられていたんですよね。 つまり、『実存は本質に先立つ』じゃなくて、『本質が実存に先立つ』 と考えられていた。たとえば、理性というのが人間の本質だとすると、 理性的に生きることが人間の使命であって、 感情や情欲に流されて生きるのは動物のすることだとか」
「しかし、 サルトルはそういうのはぜんぶ間違えていて、何のために生きるかは、 見つけるんじゃなくて各自で作りださないといけないと考えたんですね。 『人間はみずからつくるところのもの以外の何ものでもない』 (『実存主義とは何か』翻訳42頁)というわけです。 だから、『目的を見いだすことは無理ではないか』という質問は、 『ペーパーナイフの本質のような意味での人間の本質を 見つけることは無理ではないか』という意味だとすると、 サルトルもその通りと言うと思います。 要するに生きる目的は各人が自分で作らないといけないのです」
(PowerPoint 29. アンケート2) 「次です」
ギュゲスの指輪を自発的に正しい人間はおらず、強制的に正しくあろうとす るよい例であると言った人は、プラトンですか? それともシンガーですか?
「若干質問の意味がわかりにくいですが、 ギュゲスの指輪の例は、プラトンの『国家』という対話篇において、 グラウコンという若者がソクラテスに対して、 『こういう指輪の話があって、 バレなければ不正をした方が得だというもっともらしい議論があるんですが、 ソクラテスよ、これを反駁してくれないか』と問題を出してきたんです。 それ以降、倫理学で『われわれはなぜ道徳的であるべきか』 という問題でこの例がよく取り上げられるようになりました」
生き方は人それぞれだから、 誰にも当てはまるような素晴らしい生き方があるとは思えない。
「これはおっしゃる通りです。 シンガーも倫理優先の生き方をしろと言っていますが、 それはみんながまったく同じ生き方をすべきだと言っているわけではありません。 じゃあまあどういう生き方を勧めているかというと、 これはもう少し本を読んでから話した方がいいかもしれません」
(PowerPoint 31. アンケート4, 5)
他人のためだと思って生きていても自分のためになっていたり、 "自分のため"、"他人のため"の範囲がどこまでなのかと思いました。
「これもなかなか難しい問題で、 国連で世界平和のために働くか家族を作って幸せに暮らすかのどちらかを選択を しなければならないという場合、 『国連で働くのを選んだとしたら、それは結局自分のためなんじゃないの?』 という疑問が出てくるかもしれませんよね。 まあこれも今明らかにするよりは、シンガーの本をもう少し読み進めてから の方がいいと思うので、先延ばしすることにしましょう」
"他人を傷つけたり、迷惑をかけない限りは自分の好きに生きるべき"という 言葉を聞いたことがあるが、[シンガーの倫理優先の生き方は] それとは相対する考え方だと思った。
「これもシンガーの第二章と第三章を読んでいくと明らかになりますが、 必ずしもシンガーの言う倫理優先の生き方がこの 『他人に迷惑をかけないかぎり、何をしようと個人の自由』 という考え方--というかこれも一つ倫理観なんですが--と対立するわけでは ありません。これから読み進めていくとわかるように、 シンガーにとっては『他人』というのは第三世界の貧困に苦しむ人々や、 食用のために日光も当たらないような環境で育てられる豚や鶏も含んでいて、 また『迷惑をかけない限りは』と言ったときには、 ごく近くのまわりの人だけでなく、 環境破壊を通じて他の地域に住む人々に迷惑をかけることがないかぎりというように、 普通にみなさんが考えているよりも『他人』とか『迷惑』の範囲が大きいのです。 最後にもう一つ」
(PowerPoint 31. アンケート5)
主観主義がまちがっていると言われましたが、 逆になぜ、他人が自分の倫理観に口出しする権利があるのでしょうか?
「これは非常に良い質問です。 『倫理は個人ごとに違うんだから人の倫理に口出しすべきでない』 という主観主義の考え方や、 『倫理は文化ごとに違うんだから他の文化について口出しすべきでない』 という相対主義の考え方は、このようにしばしば 『おまえにオレのことをとやかく言う権利はない』という形で表現されます」
「さて、『権利』というとなんだかもっともらしいですが、 当然こういう権利は法的には保証されていません。 『あなたはクジラを食べていいとおっしゃってますが、 それはおかしいんじゃないですか』と質問した人が、 ちょっとあなたの質問、それ権利侵害ですと言って逮捕されることはありません」
「『人は他人の倫理観に口出しする権利はない』という人は、 おそらく『あなたの倫理観を押し付けてこないでください』 ということを言いたいんだと思うのですが、 問題は、この発言、すなわち 『あなたはわたしの倫理観をとやかく言うべきではない』という発言も、 倫理的な発言で、一種の押し付けになってるんですよね。 『諸外国は日本人がクジラを食べるかどうかについてとやかく言う権利はない』 というのもそう。これ自体が倫理的な発言だから、 やっぱり『なんでそうなの?』『なんで権利がないの?』 ということが問題になるのです。 まあこの問題は根が深いので、また機会があればさらに論じることにしましょう」
「何か質問ありますか。『なんでオレの意見が取り上げられないんだ、この野郎』 という方は、ここでおっしゃってください。ないですか。ないですね。 あと、ブリットニーと純潔の関係については、 6月号の『エル・ジャポン』に載っているという情報をもらいましたので、 興味がある方はそちらをどうぞ」
(PowerPoint 32. What's in it for me?) 「え〜、みなさん第二章を読んできてくれたでしょうか。 先週、『私益追求のどこが悪いんだ』と書いていた人がいましたが、 第二章と第三章では、私益優先の生き方をみなが追求すると、 けっきょくみんなが損をする、ということが述べられています。 第二章では、私益追求型の生き方が礼賛される米国では、 共同体が崩壊し、犯罪だらけの国になったことが述べられます。 第三章では、 私益追求が今日の環境破壊をもたらしていることが説明されています。 今回は第二章をやります」
「え〜、ちなみに、『そのどこが私のためになるんだ』という第二章の章題の 原語は、`What's in it for me?'というフレーズで、 自分にどういう取り分がどれだけあるのかを聞く言い方です。 『それがどうオレのためになるんだ?』というような意味です。 シンガーはこの発想が諸悪の根源だと考えているんですね」
(PowerPoint 33. 1980年代のレーガン政権) 「まず、 シンガーは私益の追求を奨励する米国がいかに住みにくい社会になってしまったかについて説明しますが、 この背景にある80年代のレーガン政権の政策について簡単に説明しておきます。 レーガンは今はアルツハイマーで苦しんでいますが、 元はハリウッド俳優、81年から89年までは米国大統領を務めた人で、 彼の考え方は単純に言えば、『米国の経済の調子が悪いのは、 福祉政策のための増税やいろいろな規制で自由市場がちゃんと機能していないからだ。 だから、減税して規制緩和をすれば、 自由市場が活性化してすべてうまく行くはずだ』 というものです。これがレーガンの経済政策の基本で、 レーガンとエコノミクス(経済)をくっつけてレーガノミクスと呼ばれました。 英国ではサッチャー首相が同じようなことをして、 サッチャリズムと言われていました。」
「米国ではレーガンのいた共和党が保守、 クリントンがいた民主党がリベラルとまあ一応区別があって、 共和党というのはレーガンや今のブッシュのように減税をして 金持ちを喜ばせる政党なわけです。 それに対して、民主党は増税をして福祉政策を充実させ、貧しい人を喜ばせる。 それでレーガンの時代には共和党の政策がかなり極端な形で実行されて、 要するに自己利益の追求がこれまで以上に奨励されたんですよね。 すると金持ちはものすごい金持ちになり、 貧乏人はますます貧乏になった。 けど、共和党の考え方だと、 金持ちになるのも貧乏になるのも自分の責任だから、 貧乏人はだれも助けてくれないんですね。 だから貧乏人は犯罪に走る、 とこういうシナリオがシンガーの議論の背景にあるわけです。 ついでに、この貧乏人の自己責任という保守主義の考え方を紹介しておきましょう」
ここに一人の貧者がいたとする。彼または彼女が貧しくなったのは、彼または 彼女の自助努力が不足していたためである。なぜ自助努力を怠るものが少なか らずいるかというと、貧者を救済するための福祉が過剰だからである。福祉は モラル・ハザード(倫理の欠如)、すなわち「依存の文化」を生みだし、社会の 活力を低下させるから、必要最小限にとどめるべきである。(佐和隆光、『市 場主義の終焉』46頁)
(PowerPoint 34. 米国における犯罪の増加) 「さて、そういうわけで、シンガーはレーガン政権時代の世相を描きます。 まず犯罪というわけで、 ニューヨークやロサンゼルスの金目当てあるいはほとんど無差別な殺人事件、 それにもうちょっと小さな犯罪として、地下鉄の無賃乗車を挙げています」
「この無賃乗車の例がおもしろくて、 無賃乗車する人のことを英語ではフリーライダーと言うんです。 『ただで乗る人』という意味です。 公共のものを使いながらそれを運営する代価を支払わない人のことで、 もっと一般的には脱税する人とか、 みんなで寄せ鍋するときに何も持って来ずにただ食べるような人のこともフリーライダーと言われて、 通常みんなから忌み嫌われます。 これについてはまた7章あたりで出てくると思います」
(PowerPoint 35. フリーライダーの正当化) 「それで、シンガーの言うように、 このフリーライドする人たちの考え方が私益優先の生き方を象徴しているんですよね。 他の人もフリーライドをやってるんだから、自分だけお金を払うのはバカらしい。 『私一人だけがおめでたい人になるのはごめんだ』(37頁)と」
(PowerPoint 36. 貪欲な私益の追求) シンガーによれば、政治家も大会社の重役も労働組合の指導者も大学教授も みんなこんな風に考えている。 政治家さえもが公共の利益を忘れて、 『世の中の問題なんか構うものか。〈そのどこが私のためになるんだ〉 というのが私のお気に入りの台詞だよ』(39頁)と言って賄賂を受けとっている。 こういう態度をレーガン政権とそれに続くブッシュ(父)政権が--直接的にとは言わないまでも、間接的に--奨励した結果、 貧富の差は広がり、金持ちはますます貪欲になり、貧者はますます貧困になり、 その結果犯罪が増加したというんですね。 つまり金持ちの貪欲な私益の追求と貧者による犯罪の増加はレーガノミクスという 一枚の鏡の両面だというのです」
(PowerPoint 37. 共同体の喪失) 「さらに、こうした私益追求の奨励は、共同体の崩壊をもたらします。 シンガーによれば、 そもそも米国社会は共同体の結びつきを破壊してしまうような要素が すでにありました。一つは日本もそうですが、会社の転勤が多い。 また一つには、親と子の経済的な結びつきが弱く、 子は成人するかしないかという頃からさっさと独立しようとし、 親も老後の世話を子供に頼もうとしない。 そういうわけで家族とか、近所付き合いというのが疎遠になる。 これは日本の社会にも多かれ少なかれあてはまると思いますけどね」
(PowerPoint 38. ゲマインシャフトとゲゼルシャフト) 「さらにシンガーは、ドイツの社会学者のテニエスあるいはテンニースの ゲマインシャフトとゲゼルシャフトという区別を出して、 米国はゲゼルシャフト的だと言っています。 ゲマインシャフトというのは共同社会とか共同体とかコミュニティという意味の ドイツ語で、 こないだの『実存は本質に先立つ』という実存主義の標語にひっかけて言うなら、 『集団は個人に先立つ』ような社会です。 たとえば家族とか故郷とか、自分が選んだんじゃなくて、 自分がそこに生まれて、 自分の選択では容易には抜け出せないような社会集団のことです。 こういう集団では集団への忠誠心の方が私益追求より優先するのが普通です」
「それに対して、ゲゼルシャフトというのは利益社会とか訳されるんですが、 あ、シンガーの本では『諸個人の連合』と訳されてますね。 これは『個人は集団に先立つ』ような集団のことで、 自分の利益を追求しようとする個人が集まって作るような集団のことです。 典型的には会社がこれに当たりますが、 伝統的に日本の会社は家族的な、ゲマインシャフト的な要素も持っていました。 今はどうもそうではないようですけど」
(PowerPoint 39. 米国社会は利益社会的) 「それで、シンガーによれば、米国の社会、 あるいは一般に西洋の社会はゲゼルシャフト的、 利益社会的なんです。 ヘーゲルによればそうなった諸悪の根源はソクラテスらしいんですが、 とくに利益社会型の発想の典型とされるのがホッブズやロックの社会契約説で、 まあこれはまた詳しく説明したいと思いますが、 要するに社会契約説とは、 自分の利益あるいは権利をよりよく守ろうと思った人々が集まって、 まるで会社を作るかのように社会を作ったという説で、 米国の憲法の思想的背景にロックの社会契約論があることはよく知られています」
「それで、シンガーによれば、もともとこういう発想の下に成り立っていて、 個人主義が強くて、ともすれば共同体意識が喪失されてしまいそうな米国社会で、 レーガンみたいな私益追求礼賛型の政治をやったもんだから、 共同体はあえなく崩壊して、というと言いすぎですが、まあ崩壊の危機に瀕して、 犯罪が多発するようになったというわけです。 いくつか印象的な部分を引用しておきましょう」
初期の頃は、アメリカの個人主義は共同体の価値をも尊ぶものであった。今日 では、私たちがもっている個人主義のイデオロギーは、私的な利益の最大化を 奨励するだけのものである。これは消費中心型の政治につながる。こうした政 治においては、「そのどこが私のためになるんだ」ということが問題のすべて であり、公共の利益を考慮することはますます関連のないものになる。(49頁、 『心の習慣』より)
(PowerPoint 41. その結果…) 露骨な私益を奨励することによって解き放たれた化け物が、共同体への帰属感 をむしばんでしまった。誰もが「自分の利益だけを求める」風潮を推し進めて いる。私たちは他人を利益の源泉となりうるものとみなし、また自分のことを 他人は同じようにみなしているのだと思っている。ここで私たちが仮定してい るのは、「他人は隙あらばいつでもあなたを利用しようとするのだから、あな たは世話を自分でやいたほうがいい」というものである。(…) しかし、地縁 意識でも、広範な親縁関係でも、雇い主への忠誠心でもなく、私益のつかの間 の結び付きによってしか拘束されない孤立した諸個人の連合は、よい社会では ありえない。(…) 「包囲された状態にあり、見知らぬ人々のすべてを疑って わが家を武装キャンプに変えてしまっているようでは、豊かな私生活を送るこ となどできはしない」(52-3頁)
(PowerPoint 41. その結果) そういえば、米国の代表的なシンガーソングライターのキャロル・キングも 「友人は良いよね。他の人たちは信じられないから」と歌っています。
友達を持ってるっていいことじゃない?−人々はとても冷たいから−あなたは 傷つけられ、見捨てられる−魂を奪い取られることさえある−そうならないよ うに気をつけないと
「まあそれはおいといて、こういうレーガン政権の私益優先型の社会で起きた 最も象徴的な事件が、1992年のロス暴動におけるショッピングセンターなどの 略奪だとシンガーは言います。地下鉄のただ乗りと同じで、みんなが盗んでい るのに自分一人が何も取らないなら、おめでたい人になってしまうと言わんば かりに、みなが町の略奪に加わったことが、第二章の最後で鮮明に描かれています。 そしてシンガーはこれが私益追求の社会のなれのはてだと言うのです」
レーガン、ブッシュの両大統領のもとでの無力な下層階級の急激な増大、−− 世界で最も鼻もちならない際立った消費が第三世界的なゲットーと隣り合わせ に存在する都市における、貧富の二極対立化−−この縮図を最もよく示してい る都市でこうした一切のことが起こったのは……偶然の一致ではない。(55頁)
(PowerPoint 42. まとめ) 「では今日のまとめをしておきましょう。 シンガーは、 みなが私益優先の生き方をするとどうなるかということを論じるために、 レーガン政権下の米国社会の姿を描きました。 まあちょっと大げさというか単純に聞こえると思いますが、 そこでは、金持ちは他人を顧みずに富の追求に邁進し、 金のない貧乏人は犯罪に走るという社会で、 共同体とか公共心とかいう発想はほとんど失なわれていました。 そして、そのような社会の結果が、 ロス暴動だというのがシンガーの考えです。 まあ、このシンガーの米国社会の批判を鵜呑みにしないで、 みなさんがよく考えてみてください。 また、どの程度日本にもこの批判が当てはまるかも考えてみてください。 この話はけっして対岸の火事というわけではなく、 日本に住むわれわれ一人一人も真剣に考えるべき問題です。 というか、この授業ではぜひ真剣に考えてほしいと思います。 ちなみに、シンガーはこの本の第六章で日本についても論じています。 それと、フリーライダーという概念と、 ゲマインシャフトとゲゼルシャフトという区別を説明したので、 これも覚えておいてください。質問はありますか?」
(PowerPoint 43. 次回の予告) 「次回は第三章『世界を使い果たす』を読みますので、 あらかじめ読んできてください。 アダム・スミスも勧めていた私益優先の生き方が環境問題を 引き起こすことになったという話です」
「こんにちは。児玉です」
(PowerPoint 45. ノートについて) 「前回はしゃべるのが速いとかいう苦情はさいわい来ませんでしたが、 パワーポイントのページの切替えが速いので、ノートを取れなくて困る、 どうにかしろ、という苦情が寄せられていました。 本音を言うと、ノートは逐一取るんじゃなくて、 重要な部分だけ取ってくれたらいいし、 またぜひそうできるようになってほしいんですが、 ほっておくと学級崩壊が起きるかもしれませんので、 一応妥協案として、 パワーポイントの内容を毎回の授業の翌日ぐらいにウェブに掲載したいと思います。 コピーはもったいないのでしません。 必要なら、各自プリンタを使ってやってください。 ということで、授業中はあまり必死にノートを取るのはやめて、 頭を使って考えるようにしてください。予定では、 次のURLに掲載するつもりです。 http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/~kodama/class/2002/」
(PowerPoint 46. 前回の復習) 「さて、前回はシンガーの本の第二章を扱いました。 シンガーはこの章で、 みなが`What's in it for me?'という私益優先の生き方というか 『私益優先倫理』を追求するとどうなるかを説明するために、 80年代レーガン政権下の、貪欲が奨励された社会の姿を描きました」
「レーガンは、 それまでの福祉重視の政策のせいで慢性的な赤字財政になっていたこともあり、 一言でいえば『自由市場万能思想』と呼ぶことのできるレーガノミクスという 経済政策を行ないました。 これは、 政府が福祉政策を行なわなくても、 減税によって勤労意欲を向上させ、 また規制緩和によって企業家たちが自由に経済活動を行なえるようにすれば、 つまり政府が経済に極力手を出さないようにすれば、 米国は豊かになり金持ちも貧乏人も幸せになるという考え方です」
「しかし、レーガン政権がこの政策を追求した結果どうなったかと言うと、 みなは公共の利益のことは忘れてひたすら私益を追求し、 企業のトップの人々や政治家たちといった金持ちはますます 金持ちになるために犯罪を行なってでも金持ちになろうとし、 政府の助けが受けられなくなった貧乏人はますます貧乏人になり、 犯罪に走るようになった、とシンガーは述べていました」
「それだけでなく、公共の利益という発想を忘れた人々は 地下鉄のような公共の施設を使ってもなるべくフリーライド、 ただ乗りをしようとするようになり、 共同体の意識が希薄になっていったと述べられていました。 また、シンガーはゲマインシャフト(共同社会)とゲゼルシャフト(利益社会)という 区別も利用し、 米国は公共の利益を優先するゲマインシャフトではなく 私益を優先するゲゼルシャフトにますますなりつつあると言っていました。 そして、そのことを象徴する事件が1992年のロス暴動における町の略奪だと」
「そういえば、フリーライダーを『いいとこどり』と表現した人がいましたが、 それは適切な表現だと思います。協力しないくせに、 おいしいところだけかっさらっていくという人ですね。 嫌われます、こういうタイプは」
「あと、こないだちゃんと答えられなかったのでちょっと調べたんですが、 レーガン大統領は、1981年に暗殺されかけ、 1985年には結腸ガンの手術をし、 1987年には皮膚ガンと前立腺の手術をしたそうです。 1994年にアルツハイマーであることを公表しました。 2001年2月に90才になったそうなので、今は91才ですね。 長女のモリーンさんは去年の8月に60才で皮膚ガンで亡くなったそうです」
「ちなみに、80年代以前の米国社会がどういうものだったかについては、 シンガーの本の第四章を読むとわかります。すごいおもしろいので、 ぜひ読んでみてください。何か質問はありますか」
「では、前回のアンケートに書いてあったコメントの中から、 おもしろかった、または気になったものについてコメントしておきます」
(PowerPoint 47. フリーライダーについて)
フリーライダーやカンニングに関しては、「みんなやっていることだ」という のは間違っていると思う。実際はみんながフリーライダーをしていたら電車な どの経営はたちゆかなくなって、結局は自分も電車に乗れないという状況にな るはず。フリーライダーは結局一部の人がしていることであるから、「みんな がしているから」という理由で正当化するのは説得力がないと思う。
「これは鋭い指摘だと思います。みんなが電車のただ乗りをすると、 すぐに鉄道会社がつぶれるはずだと。 たしかに電車のただ乗りという行為が成り立つためには、 きちんと乗車運賃を払うたくさんの『おめでたい人』がいる必要があり、 まったく『おめでたい人』がいなければただ乗りも成り立たないから、 厳密な意味では『みんながやってるからオレもフリーライドする』 という主張は成り立たないわけですね。これは脱税でも同じで、 みなが脱税したら政府は無一文になって崩壊してしまいます。 まあしかし、こういうことを言う人の真意は、 『一部の人がフリーライドをして得をしているから、 オレもおめでたい人間にならないようにフリーライドしてどこが悪い』 ということなので、これを説得するには 『みながフリーライドしたら…』という議論だけでは不十分かもしれませんが。 いずれにせよ、上の指摘は重要だと思います」
「あっ。カンニングについては前回言い忘れましたが、 ぼくの授業のレポートを書くときに本とかインターネットで 調べたものを丸写しをしたことがわかると、 単位は自動的になくなりますので気をつけてください。 自分はギュゲスの指輪を持っているから大丈夫という自信のある方は やってみてくれたらいいですが、 こちらも怪しいと思ったら全力で調べますので 十分によく考えてから実行してください。 では、次」
(PowerPoint 48. ゲマインシャフトとゲゼルシャフトの区別について)
私の父は、会社人間です。会社はゲゼルシャフトと言われましたが、私の父の 場合は、ゲマインシャフトだと思います。
「なるほど。 お父さんは自分の利益よりも共同体の利益を優先するということですね。 ちょっと先週言い忘れたかもしれませんが、 このゲゼルシャフトとゲマインシャフトという区別は、 実際の社会や集団に当てはめるときは、『ややゲゼルシャフト的』 とか『かなりゲマインシャフト的』とかいう風に程度の差を認めるものなので、 『一般に会社はゲゼルシャフトの典型と考えられているが、 日本の会社は伝統的にかなりゲマインシャフトつまり共同社会的』 というように言うことができると思います。 たとえば、一度入ったら抜けられないとか、 自分のためではなく会社のために身を粉にして働くとか、 そういう傾向が強いということです。 保守主義者なら、 最近では結婚もゲゼルシャフト的になってきたと嘆くかもしれません。 夫婦別姓なんかを認めたら、 ますます家族よりも個人が優先されることになるとか、 そういうことを言うかもしれません」
共同体優先の社会というのも逆に、戦争とかにつながったりして恐いんじゃな いかなと思いました。
「個人よりも共同体の利益を優先すると、全体主義につながるのでは、 ということですね。たしかに、 共同体の意識が強いところには不都合もあって、 小さい社会に住むとプライバシーがぜんぜんないとか、 その集団の体質に合わない個人は仲間はずれにされるとか、 あるいは、ある共同体と別の共同体のあいだでいさかいが起こるとか。 時間がないのでこれ以上は検討しませんが、 前回は極端な個人の利益優先の社会の欠点を考えましたが、 その逆の危険もあるということは重要です」
(PowerPoint 49. 保守主義について)
保守主義に関して…貧者が何故貧者なのかについては、もちろん当人たちの努 力が欠けていることは原因だし、またはやむを得ずという場合もあると思う。 しかし、そういった状況を受けて、政府が「当人が悪い」という理由だけで、 援助しないのは、おかしいと思った。
「こないだは『貧乏人が悪いのは自分の責任だから国家が助けてやる必要はない』 という保守主義とか新自由主義と呼ばれる考え方だけしか 紹介しませんでしたが、 それと対立するリベラルな考え、 すなわち『貧乏人が悪いのは当人の責任ではないことがしばしばであるから、 国家は助けてやらなければならない』という方も紹介しておきましょう。 これも佐和隆光の『自由主義の終焉』からです」
彼または彼女が貧しくなったのは、 親が貧しかったため十分な教育をうけられなかった、 幼少時に健康を害した、あるいは生まれつき能力が劣っていたなど、 本人にとっては不可抗力の受難ゆえのことである。 (47頁)
「だから、たとえば親が貧乏でまともな教育を受けられない子供がいたら、 政府はそういう子供が自分の能力を最大限に発揮できるように、 しかるべく教育をしてやるべきだ、と論じるわけです。 同様に、失業者がいたら、もう一度チャンスが来るように、 失業手当を与えるべきだ、と。こういうことを言うと、 保守主義者は『そんなことをしたらモラルハザードが生じる』 とか非難するわけですが」
「次は二人分です」
(PowerPoint 50. 私益の追求について)
米国は利益社会的で、個人主義である、というお話で、確かにそうだと思いま すが、一方で国や地域への忠誠心、愛国心が強そうなのはなぜだろう、と思い ました。また、資本主義というのはそもそも私益追求によって成り立つものだ と思うのですが、私益追求を否定するとなると、資本主義までも部分的であれ 否定すると言うことでしょうか。
私益の追求は限りなくつづくのであろうか。貧富の差は、たしかに物質的な面 では大差があろうが、こころの面からゆうと(ママ)、富者といわれている人達 のほうがまずしいかもしれないと思うと、本当の豊かさとは何かを考えずには いられない。
「たしかに、去年9月のテロ攻撃のあとに大勢の若者が軍に志願したというような 話があるように、米国は愛国心の強さでも知られていて、 シンガーが言うように私益追求というだけでは説明できない要素があると思います。 フリーライダーだったら、軍隊に参加することは他の人に任せて、 自分は金もうけをしておけばいいということになるでしょうから。 また、資本主義は私益追求を基礎にしているから、 私益追求を否定するということは、資本主義も否定するのか、 とか、富の蓄積がはたして幸福につながるのか、とか述べられていますが、 これはまさに3章以降の主題なので、 先に進みながら答えを探していきたいと思います」
(PowerPoint 51. エゴイズムについて)
私は今ボランティアをしています。自分では、貧しい人を少しでも楽にしてあ げたい、少しでも安定した生活を、などと考えているつもりですが、心のどこ かで、自分はそうでなくてよかった、富者が貧者を助けてやっているというエ ゴがあるような気がしてなりません。もしくは、そんな親切な自分に酔ってい るだけなのかも…。
こんな私はボランティアをすべきではないのでしょうか? 他のボランティアを している人々は、どのような気持ちでそれをやっているのか、知りたいです。
「これは難しい問題です。『他人のために行為をしているように見えても、 自分もけっきょくエゴイストあるいは偽善者ではないのか。 車内で老人に席を譲って良い気になるのも、 席を譲らずに座っているのも同じことなんじゃないか』という思いは、 けっこう多くの人が持つんじゃないでしょうか。 ボランティアをやっている人がいれば意見をお願いします」
「もうちょっと授業が進んでからまたこの話を取り上げる機会があると思うので、 今回はぼくの意見は述べませんが、友人にこの話をしたら、 中島義道の『カントの人間学』(講談社現代新書)を読め、 と言っていました。本屋にでも行って、 この本の第二章のあたりをパラパラと読んでおもしろかったら買ってみてください。 てっとり早く言うと、裕福な人が他人を助けるとき、 自分がエゴから行為しているのか、 純粋に道徳的に行為しているのかを知るためには、 一度全部財産を失なってみて、 極貧になっても同じ行為ができるか試してみればいい、 というようなことが述べられています。 まあ、できるならちょっとやってみてください。そしたら次が最後です」
(PowerPoint 52. 対岸の火事?)
自分がどう生きるか、自分が大切だと毎回の講義で痛感します。
「ええと、この方の言うとおり、 この本でシンガーは主に米国を例にとって話をしているわけですが、 だからといってけっして対岸の火事について話しているわけではなく、 われわれ一人一人の問題として論じています。 だから、この授業でも、他人事として聞いてないで、 自分の生き方を反省してもらいたいわけです。 これは教えている自分にも言えて、 ついつい他人事のように説明してしまいますが、 やはり『そういう自分はどうなのか』とつねに自問すべきだと思います」
「ええと、それでは前回の復習はこれまでにして、 次に進みたいと思います。質問はありますか」
「それでは第三章に行きます。 第二章は、社会が私益優先の生き方を奨励すると、貧富の差、犯罪の増加、 共同体の喪失など、国内でさまざまな問題が生じるという話でしたが、 第三章は、世界的に見ると、 このような生き方は環境破壊を引き起こすことになる、という話です。 簡単に言うと、社会はアダム・スミスによって正当化された自由市場経済が、 環境に対する経済活動の影響を考慮していないために失敗する、 ということが言われています。 しかし、これでは何のことかわからないと思うので、 まずアダム・スミスの経済思想を簡単に説明して、 次に環境問題について論じましょう」
(PowerPoint 53. アダム・スミスの思想)
「アダム・スミス(1723-1790)は18世紀にスコットランドで活躍した哲学者です。 彼の主著は『諸国民の富』で、 この書で彼は古典的な自由主義経済の正当化を行なっています。 第四章では、私益の追求がどのようにして宗教的に正当化されるようになったか という話が出てきますが、それに対してアダム・スミスは、 私益の追求がいかにして経済学的に正当化されるかを、 『神の見えざる手』という考え方を用いて簡単かつ巧妙に説明しました。 スミスは社会全体の利益を追求すると言っている人ほど ロクなことをしないと考えていて、 むしろ各人が私益を追求した方が、『神の見えざる手』の不思議な作用によって、 社会全体の利益というか富が増大すると考えました」
「これはたとえば、 ある町にどういう風な店を開くかということを考えた場合に、 一つには、だれか町の偉い人が全体の利益を考えて、 他の人に、おまえは肉を売れ、おまえは靴を売れ、 おまえは家を作れという風に命令して計画的に人々の仕事を決めることができます。 しかし、そうすると、あんまり肉を売りたくない人が肉屋になったり、 靴屋も競争がないのでいつまで経っても足が痛くなるような靴を作ったり、 インターネット喫茶があったら便利なのに、 偉い人が気付かないからいつまで経ってもそのような店は開かれない、 というようなことが起こる。また、偉い人は偉い人で、 口では全体のためと言いながら、袖の下を受けとったりするかもしれません」
「そこでもう一つには、 肉を売りたい人が肉を売って、 靴を売りたい人が靴を売って…という風にする方法が考えられます。 こうすると、一見みなが肉屋になったり、 靴屋が一軒もなかったりということが起こりそうですが、 実は不思議なことにこの方が結果的にうまく行く、とスミスは考えたのです。 なぜなら、多くの人が肉屋になることで競争が起こり、 安くて質の良い肉屋だけが残り、 それ以外の人々は店を閉めて靴屋などの別の商売をせざるをえなくなる。 靴屋においてもこういう競争が起こるし、 もしまだだれもインターネット喫茶を開いていなければ、 だれかがしめしめと考えてインターネット喫茶を開いて一儲けするかもしれない。 こういう風にスミスは、人々が自由に商売できるようにさせておけば (これを自由放任主義、レッセ・フェールと言います)、 いつのまにか自然と適所に適材がいるようになり、 それにより全体の利益も増大すると考えたのです。 そしてこの『各人が私益を追求すると、全体の利益が増大する』 という不思議な作用を、『神の見えざる手』によるものと表現したのです」
「しかし、こうすると、 肉屋を開いても靴屋を開いても競争に負けてしまった人々は、 たいへん貧乏になるのではないかと疑問に思いますが、 スミスはそんなことはないと言います。 たしかに肉屋で大成功した人に比べると、 肉屋でも靴屋でも失敗した人は貧乏ですが、 それでも、自由主義経済のおかげで社会全体が豊かになっているので、 この町で一番貧乏な人も、 さきほどのような計画経済を行なっている社会の人々よりもよっぽど暮し向きがよい、 と言うのです。 このように、社会が不平等でも、 社会全体の富が増大すれば貧乏人もそのおすそわけを受けることができるという 考え方を『トリクルダウン理論』と呼びます。trickle-downとは、 水が滴り落ちるということで、 富が社会全体に浸透するおかげで貧乏人も得をする、というわけです。 この理論はレーガノミクスでも用いられました。 実際はあんまりうまく行かないようですが」
「このように、スミスによれば、 人々が自由に私益を追求すれば非常に効率的な仕方で社会の富が増大すると 考えました。そして実際に、18世紀以降の歴史を見ても、 スミスの言うとおりに各人が私益を追求してきた資本主義社会は、 景気の波がありながらも、 長いあいだ富を増大させ繁栄を手にしてきたように思われます」
(PowerPoint 54. 私益追求と経済成長の限界)
「しかし問題は、畑を作るには土地が必要で、その土地は有限だということです。 木や魚といったものは、ある程度切ったり採ったりしてもまた自然に増えますが、 増える以上のペースで取ればなくなってしまいます。 ガソリンなどの資源に至っては、 一度使ってしまうと何千万年も経たないと戻りません。 しかも、米国の西部が有限であったように、 空気の浄化能力も有限、オゾン層も有限ということで、 いつまでもいつまでも自然の資源を使い続け、 自然を破壊し続けて経済発展ができるというのは 幻想だということがわかってきました。 これはスミスの予想外のことだったと思います」
(PowerPoint 55. 農業の例)
「大気汚染や温暖化といった環境問題についてはよく知っていると思いますので、 シンガーが農業について述べているところをちょっと見ておきましょう。 農業と言えば、 普通は同じ土地でいつまでも繰り返し繰り返し作物を生み出すことができるように思えますが、 米国の農業はそうではない、とシンガーは言います。ちょっと引用します」
今世紀の初頭、合衆国には世界で最も肥沃で厚い土壌があった。 現在では、合衆国で行われている農法のために、 毎年およそ70億トンもの表土が 失なわれている。 たとえば、アイオワ州では一世紀にも満たない間に表土の半分以上が失われた。 乾燥地帯では、これらの農法によって地下水脈が枯渇した。 テキサス州西部からネブラスカ州に至る牧畜地帯の下を流れるオガララ帯水層が その例である。この水脈は水をたくわえるのに数百万年もかかったかけがえのない 資源である。 最後に--またこれが最も重要なことなのだが--これらの農法は、 機械を動かしたり科学肥料を生産するのに化石燃料に頼っているため、 大量のエネルギーを使う。 伝統的には、農業は土中の養分や太陽光線のエネルギーを利用する一つの方法で あって、おかげで人々が利用できるエネルギーが増した。 たとえば、メキシコの小さな農家で育てられたトウモロコシの場合には、 化石燃料を1カロリー使えば83カロリーの熱量が得られる。 アメリカの飼育場で生産される牛肉の場合には関係が逆になる。 つまり、1カロリー分の食物を作るために33カロリーの化石燃料を使うのである。 太陽エネルギーの獲得による農業形態ではなく、 蓄積されたエネルギーの消費によって成り立つ農業形態が開発されてきたのである。 (65-6頁)
「先進国の人々は、 トウモロコシやポテトではなく牛や豚や鶏の肉を食べるために、 急速な勢いで資源を使い土地をダメにしていっているというわけです。 印象的な部分をもう少し引用しておきましょう」
(PowerPoint 56. 肉を食べると…)
豊かな国々では、毎年国民一人のために一トン近い穀物が消費されている。 一方、インドではその数値が四分の一トンを越えることはない。 この違いは、私たちがより多くのパンやパスタを食べているから生ずるのではない (パンやパスタを食べてそれだけの穀物を消費することは物理的に無理である)。 それは、私たちが消費するステーキ一枚一枚、ハム一枚一枚、 鶏のもも一本一本が、もとは多量の穀物からできているために生ずるのである。 (67頁)
「先進国のこのような食事の嗜好を満足させるために、 たとえばブラジルでは放牧のために毎年広大な森林が伐採され、 そのために二酸化炭素の放出量が増えるばかりか、 牛のオナラに含まれるメタンガスのせいで、温室効果はさらに高まる、 とシンガーは述べています。 ふだん肉を食べていると実はこんな影響が出てくるのです」
「また、スミスは富める者は貧しい者の取り分を奪うことはないと述べていますが、 先進国は発展途上国の分まで資源を使用し、 発展途上国以上に急速に地球の環境を悪化させています。 そのため、 たとえば現在急激な経済発展を遂げている中国などの国に対し、 石炭を使用した環境破壊はやめろ、 というように批判することが非常に難しいという事態が生じています。 いわゆる南北問題のひとつですね」
「というわけで、ここまでをまとめると、スミスの考えでは、 人々が自由に私益を追求していれば社会の富が増大して万万歳のはずだったのですが、 実は社会の富が増大する一方で、 その富を生み出す土台であった自然がどんどん痩せほそっていたのです。 これはいわば、寄生虫が、宿主が死にかけていることを知らずに、 調子に乗って宿主から栄養を摂っているような状態なわけです。 スミスは見えざる手はてっきり神のものだと思っていましたが、 実はそうではなかったのです」
(PowerPoint 57. 今後どうすべきか)
「さて、そうするとどうすべきかと言うと、 無限の経済成長とよりよい生活水準という発想はあきらめて、 環境に配慮した持続可能な社会を目指さないといけないことになります。 こういうと、われわれに幸せになるのをあきらめろと言うことか、 と反論されそうですが、シンガーは、 スミスもそもそも富の増大が幸福の増大につながるとは必ずしも考えていなかった と述べています。ここらへんはもう省略しますが、シンガーの本の中では、 生活水準が上がることによって必ずしも幸福になるわけではないということが、 米国での統計などを用いて説明されています。最後に、 シンガーの主張のかなめとなるところを引用しておきます。
(PowerPoint 58. 今後どうすべきか2)
自分自身の利益に関する狭い見方、 特に消費第一主義の発展によって第二次世界大戦以来形作られてきた考え方をもち続ける限り、 物質的な豊かさの減少は後退にしか見えないであろう。 豊かさの減少が避けられないことを認めたとしても、 また現在の経済はこのままでは持続できないことを認めたとしても、 私たちはそのことをしかたのないことだが残念なことであると考えるであろう。 つまり、世界全体の利益にとっては望ましいが、 自分たちの生活に悪い影響をおよぼすと考えるであろう。 しかし、私益に関してより広い見方を私たちがもつならば、 地球の環境のためばかりでなく自分たちのためにも、 その変化を喜んで受け入れるであろう。 歩いたり、自転車に乗ったり、公共の交通機関を使ったりすることは、 空調の効いた自家用車で渋滞の中を移動するより資源の節約になるであろう。 しかし、資源をあまり使わないからといって、 歩いたり、自転車に乗ったり、 電車を利用したりする人々のほうが全体として不満を覚えるであろうか。 これだけ見てもわかるように、国民総生産の大きさは国民の幸福度の指標には けっしてならないのである。(79頁)
(PowerPoint 59. 今後どうすべきか3)
私たちにとっての本当の利益は何かという観点だけから考えても、 よい生き方に関する私たちの考えを変えなければならない強力な論拠がある。 さらに、この考え方を変えなければならないまったく異なる理由があることも、 今では理解できる。この考えは、物質的な富や消費に限界があるなどとは 誰も考えなかった時代に構想され確立されたのである。 成長には限界がないと考え方がすでに擁護できなくなったのであるから、 それにともなって、 よい生き方に関する私たちの考え方ももはや擁護できなくなったのである。 (80頁)
(PowerPoint 60. まとめ)
「では、今回の話をまとめておきます。 アダム・スミスは、各人が私益を追求することによって社会の富が増大すると述べて、 私益の追求を経済学的に正当化しましたが、 経済の発展は『世界を使い果たす』 ことによって行なわれていることが明らかになったため、 無限に豊かになることは不可能であることがわかりました。 しかし、シンガーの考えでは、 だからといってわれわれは今後は今よりも不幸になるしかない というわけではなく、 『私益のあくなき追求、富の増大こそが幸福を保証する』 という考え方を反省することにより、 環境にやさしい社会においてより幸福な生き方を見つけることができるのではないか、 というのです。なんだか話が新興宗教っぽくなってきましたが、 これが実際にどういう生き方になるのかは、 もう少し先の章で明らかになるでしょう」
(PowerPoint 61. 次回の予告)
「では、次回は第四章をやりますので読んできてください。 かなり長いですが、すごくおもしろい章なので、ぜひ読むことをおすすめします。 授業では駆け足で説明することになりますので、ぜひ読んできてください。 いや、読め」
情報感謝。
「え〜、児玉です。なんか先週から来てる人もいますが、 この授業は特別な理由がないかぎり全15回中12回以上出席しないと 自動的に単位は出ませんのでご注意ください。 特別な理由は適宜聞きますが、 休んだ回数に応じてレポートを数本余分に書いてもらうなどして 対応するつもりです」
「今日は量が多いのでかけあしになるかもしれません。覚悟してください」
(PowerPoint 63.)「前々回は、 社会が私益優先の生き方を奨励するとどういうことが起きるかという例として、 80年代レーガン政権下の米国についてのシンガーの説明を見ました。 そして前回は、 アダム・スミスによって経済学的に正当化された私益の追求には、 実は深い落し穴があったということで、環境問題について見ました」
「もうすこし詳しく言うと、 スミスは個人が私益を追求すると『神の見えざる手』 によって社会全体の富がうまいぐあいに増大すると述べ、 そのような社会では貧乏人も比較的豊かになることができると主張しました。 トリクルダウン理論というやつですね。 このようなスミスの楽観的な考え方がうまくいくかは別としても、 スミスは地球資源の有限性を頭に入れていなかったので、 われわれは無限に発展できるわけではないということに気付きませんでした。 ですから、現代の経済政策においては、 まだまだ経済成長や技術革新によって貧困も環境問題もすべて解決するという 声も大きいようですが、 環境の保全と両立するような持続可能な発展ということが言われるように なったわけです」
「ただし、シンガーの言いたいことは、 われわれの経済活動が環境問題を生み出しているという当たり前のことではなく、 そうした経済活動を支えている私たちの世界観、私益追求の生き方が問題なのだ、 と言いたいのです。この世界観を持ち続け、 富の増大=幸福の増大と考え続けるかぎりは、経済成長の速度を緩めて、 生活レベルを現状維持あるいは低下させることは、 幸福の減少になるから望ましくないということになるでしょう。 そこで、シンガーは、この私益追求の生き方について反省しなければ ならないというのです。前回はまあ、こんな話でした」
(PowerPoint 64-74.)
「というわけで、 今回も先に進む前に前回のアンケートについてコメントしておきます」
「無限の発展から持続可能な成長へ」の意味がいまいち理解できません。
「前回言いたかったのは、要するに、経済の無限の発展というのは、 環境や資源が有限であるために無理なことがわかったので、 今後は環境をダメにしてしまわないような経済発展を行なわないといけない、 ということでした。 最近の環境問題では、持続可能な発展とか開発とかいう言葉が出てきますが、 シンガーが説明していないこともあり、前回はとくに説明しませんでした。 加藤尚武編の『環境と倫理』によると、持続可能な開発とは、 次のような条件を満たす開発だとされます」
「次です」
経済発展の代償として環境問題があげられましたが、最近では環境経済という 考え方も出てきて、私益追求、経済発展をおしすすめ、結果環境を守るという 逆さの発想があるようです。私益追求=環境破壊と必ずしもいえないのではな いかと…。
「そうですね。経済が環境に与える影響を分析して、 環境政策の基礎を作ろうとする環境経済という学問もあるようです。 ただし、 環境経済の基本的な考え方は、持続可能な成長 すなわち環境の保全と両立するかぎりでの経済発展を目指すというものだと 思われるので、 『経済発展をおしすすめ、結果環境を守るという逆さの発想』 とまでは言えないと思います」
「次です」
物事には、始まりがあれば必ず終わりがある。人類の歴史も例外ではなく、い つか終わるときが来るのではないだろうか。人類の歴史など地球の歴史に比べ ればちっぽけなもので、いつ終わってもおかしくはない。そう考えると、シン ガーの考え方は結局延命措置に過ぎないような気もしてくる。永く続くことが 幸せなのか、だとすればどこまで続けばよいのか。
「自分の視点から見ればその通りですが、 子供や孫の世代に対する配慮が足りません。 シンガーが求めているのはそのような視点なのです。 自分さえ適当に生きて死ねれば、 子供たちはどんな空気を吸おうがどんな水を飲もうがかまわないというのは、 自分さえうまいものを食べていれば、 中東やアフリカで子供たちがお腹を減らしていてもかまわないというのと同じです」
富の増大=幸福の増大という考え方を変えることが必要だと言っているが、明 日の食べ物さえ確かではない人々にとっては、この考え方は当てはまらないと 思った。
「その通りで、食べ物や衣服など、最低限必要なものが満たされていなければ、 幸福になるのは難しいと思います。また、必需品と奢侈品の区別も難しくて、 たとえばインターネットはどっちなんだとか、自動車はどうだとかいう問題も あります。しかし、シンガーが批判しているのは、先進国の、 一定水準以上のレベルの生活をしている人々、つまりわれわれであって、 そういう人が、 明日の食べ物があるかさえわからない人を助けるような 生き方をする必要があると言っているのです」
スミスのいう私益追求型のままが続けば、私達の生命にかかわる地球そのもの が危ない状況にある。これは考えれば易いことだと思うしかし、なぜ私たちは 私益追求から脱せられないのだろうか? 個人個人をとってもそうだし、国と国 を比べてもそうだ。南北問題一つとっても解決する光はさしてこない。(…)今 日の日本の政治にしても何にしてもそうだと思える。一人一人の意識が全体に つながる強いものが見えてこない現代だ…
「この『一人一人ではどうしようもない』という気持ちはよくわかります。 『有権者の半数の人が投票に行かないのに、 自分一人が投票しても何も変わらない』とか、 『わたし一人だけが自動車に乗るのをやめても大気汚染は終わらない』とか。 シンガーがこれについてどう言うのか、読みすすめて行く必要があります」
環境問題と経済成長は関係あると思うが、今この時代において環境破壊がおこっ ているのは、個人の意識の低さも関係していると思います。
「『個人の意識の低さ』というのはおそらくその通りなのですが、 『なぜ個人の意識が低いのか』ということを問うて欲しいのです。 シンガーはそれに対して一つの回答を与えているわけで、 彼は、環境問題を単に経済成長と結びつけているのではなく、 まさに個人の意識のあり方である、私益優先の倫理に結びつけて説明しているのです」
人が肉を食べると南北問題が生じ、環境に負担をかけていると言われているが、 一がいにそうは言えないと思う。今後どうすべきかという所も、実行すること は不可能である。
「気合いが入ったシンガー批判で歓迎しますが、 このように主張する根拠が示されていないので、もっともらしくありません。 できればレポートでこの主張を裏付ける議論をしてください」
私自身車を運転するし、肉も食べるが、日常行っていることが少しだが環境な どに影響していると思った。
ただ、このようなことを考えすぎると、車も運転できなくなるし、肉もたべら れなくなると思う。今日の内容はこれからも考え続けようと思うけど、考えす ぎないようにしたい。
「シンガーが車に乗らないかどうかはわかりませんが、 彼はよく考えたうえでベジタリアンになりました。 ぼくは魚は食べるし、 ときどき中華料理屋に行けばギョーザを食べてしまうし、 ラーメン屋に行けばチャーシューを食べてしまいますが、 基本的にはなるべく肉を避けるようにしています。 自動車の免許も持っていません。タクシーもときどき使いますが、 基本的には自転車とバスや電車で移動します。 大学のある授業に出てこのような考え方になりました。 もちろん別にそれほど不幸になったとは思いません」
「この授業に出ているみなさんがこういう考えになるとは思いませんが、 『今日の内容はこれからも考え続けようと思うけど、 考えすぎないようにしたい』と言わずに、どのような生き方をするにしろ、 しっかり考えて生き方を決めてほしいのです。 すきやきや北京ダックがおいしいのはわかりますが、 ほんとにそれを食べていいのか、しっかり考えてから食べてほしいのです」
「まあぼく自身、シンガーに比べればまったくいいかげんなベジタリアンだし、 シンガーのように収入の5分の1を寄付するなんてこともしてないし、 『考えすぎないようにしたい』という気持ちもまだまだ大きいんですが」
「あと、今日もバスに乗って大学に来たんですが、 バスも協力ゲームで、バスはイヤだから車に乗るという人が増えると、 バスは赤字になるし、渋滞も増えることになる。 逆にもしみんながバスに乗るようになれば、バスのサービスは向上し、 自家用車が減って渋滞は緩和されることになります。 だからといって、車に乗らないと決めることは難しいと思いますが」
「次は二つです」
人間の行う様々な思考は全て「私益の追求」で説明がつくと思っている。
人間はやはり私益を追求しつづけるものだと思った。利己的、自己中心的な のをにくく思いつつも、目先の私益を私も常に求めているのかもしれない。
「『私益の追求』でシンガーの言っているのは、 『自分が持つ物質的富を増加させること』なので注意してください。 この意味では、自分の財産の大部分を第三世界の貧困を和らげるために寄付するのは、 『私益の追求』とは言えません。 おそらく上のように書かれた方は、 『すべての行為はエゴイズムであり、財産の寄付もエゴイズムだ』 という主張をしたいのだと思いますが、 これについては次回に考えたいと思います」
自分として一番重要な点は富の増大が幸福の増大であるという発想から脱却す るということだと思う。それができれば人間同志(ママ)の摩擦もいくらか減ら せるであろうし、もちろん環境にもよい。しかし難しいことだと思う。なぜな ら「人間」というものが誕生してからずっと富の増大を求めてきている(よう な気がする)から、遺伝子レベルで富を求めてしまう悲しい「性」を自分にも 感じるからであります。
「よく言ってくれました。 『富の増大、あるいは私益の追求は遺伝子レベルで人間にプログラムされている』 という生物学的説明ですね。 これについてはシンガーが第五章『利己心は人の遺伝子の中にあるか』 で批判しているので、来週やりましょう。 先にちょっと言っておきたいんですが、 以前に説明した実存主義者のサルトルは『人間の行動はあらかじめ決まっている』 という決定論や宿命論を毛嫌いしていたので、 こういう遺伝子決定論に対しても唾を吐いて批判したと思います。 サルトルなら、あくまで『人間は自由の刑に処されている』とがんばるでしょう。 たしかにぼくらには自分自身や恋人や家族を他の人よりも優先する傾向が 遺伝子レベルでプログラムされているかもしれませんが、 それに逆らうことも十分に可能なのです。 あ、この話をしていたらなんだか興奮してきましたっ。 いや、やはり今回はここまでにしておいて、来週もっと興奮しましょう」
毎回、思うんですが、この講義はシンガーの考えを学ぶ講義なのですか?? シンガーの考えから倫理学を学ぶ講義ですか?? シンガーの考えが倫理学ですか??
「二つ目の『シンガーの考えから倫理学を学ぶ』 というのがぼくの考えに一番近いと思います。 世の中にはいろいろな倫理観があり、 そうした倫理観が正しいかどうかを検討するのが倫理学だと言いましたが、 この授業ではとくにシンガーの倫理に焦点を絞り、 単にシンガーの考え方を暗記するのではなく、 みなさんやぼくが持っている倫理観と突き合わせて検討したいのです。 だからみなさんがシンガーの倫理に納得しないのであれば、 どんどん批判してください」
先生は、ノートにとるのはところどころでいいと言いますが、どこがとるべき で、どこが放置するべきか、分かりません。
「実はぼくもノートを取るのは下手で、というか、あんまり取らないし、 あとから読み返したりもしない方なんですが、 まあ、まとめの部分は最低写しておいて、 あとは自分の知らないことで書かないと忘れてしまうこととかを、 あとで読んだときにわかる程度に書いておけばいいなじゃないですかね。 ぼくなら全部テキストに書きこんじゃうかもしれません。 ノートはなくなるので」
先週先生が言ってたテレビを見ましたが、先生は出演されていたのですか? 私 が見る限りわからなかったのですが…。
「ん、まあ数秒出てたんですが、あまり気にしないでください…」
「第二章と第三章では、 私益優先の生き方が社会や環境に対して及ぼす結果について見ました。 今回はそもそもどのようにしてこのような私益追求がとくに米国で 奨励されるようになったか、という話です。 スミスの経済学的正当化の話はその一つの理由なんですが、 シンガーはこの章で古代ギリシアやユダヤ教にまで遡って理由を説明しています。 私益追求に対する思想がいかに変わったかについてのこの説明は、 とてもおもしろいのでまだ読んでない人はぜひ自分でも読んでみてください」
(PowerPoint 75.) 「まずシンガーはドイツの社会学者マックス・ウェーバー(1864-1920)の 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、略して『プロ倫』 から話を始めています。これは資本主義と宗教の関係を語るときに定番の本で、 ここでシンガーは、資本主義では金銭の取得が、手段ではなくて自己目的化 しているという指摘に注目します」
(PowerPoint 76.) 「ここでちょっと、自己目的という耳慣れない言葉について説明しておきます。 第一章で『究極の選択』について説明したとき、究極の価値の選択と その価値を得るための手段の選択という区別をしましたが、 それとよく似た区別が価値についても言われます。 内在的価値と道具的価値という区別です」
「道具的価値というのは、 ある目的を達成する手段として価値があるもののことです。 それに対して、 内在的価値というのは、それ自体に価値があるものです。 究極的な目的のことですね。 たいていの場合、この二つの価値は混ざっているので例を挙げて説明するのが 難しいんですが、たとえば、競馬新聞を買うのは、 どの馬が勝ちそうかを知るためであるのが普通なので、 競馬新聞には道具的価値があります。馬に乗っている選手も、 速い馬は金もうけの手段だと考えていれば、 速い馬には道具的価値があるわけです。 また、健康のために散歩するとか、大学に入るために勉強するとか、 そういう場合は散歩や勉強には道具的価値があるということになります」
「しかし、なかにはそれ自体が楽しいということもたくさんあり、 散歩や勉強も、それが楽しいという人もいますし、 セックスも、子供を生むという道具的価値と切り離して、 純粋にその内在的価値を楽しむ人が多いんじゃないかと思います。 これだけ言えば何となくその区別はわかったんじゃないかと思いますが、 どうでしょうか」
「さて、この区別をしたうえで、さらに言いたいのが、 『道具的価値が自己目的化することがある』ということです。 自己目的化するというのは、 はじめは道具的価値しか持たなかったものが内在的価値を持つようになる、 ということです。 切手集めなんかがこれで、切手は最初は郵便物を送るための道具的価値しか 持たなかったわけですが、マニアが珍しい切手を集めだすにつれて、 それ自体に価値を感じる人が増えてきました。 ま、手段としてやっていたことが自己目的化してしまうということは 多かれ少なかれいろんなところで見られて、さっき言ったように、 健康回復のために散歩を始めたら、 散歩が楽しくなって健康が回復してからも散歩をするようになったとか、 そういうやつです」
「話が長くなりましたが、ウェーバーが言っているのは、 金もうけはもともと手段だったのに、資本主義社会では、 金もうけが自己目的化しているということでした。 シンガーは、このウェーバーの説明を最初に引いてきて、 じゃあいったいどうしてこのような自己目的化が起こったんだろうか、 と歴史を遡っていきます」
(PowerPoint 77.) 「西洋には、ギリシア文化の伝統とユダヤ・キリスト教文化の伝統、 つまりヘレニズムとヘブライズムの伝統が流れていますが、 まずそのヘレニズム文化の金銭についての考え方として、 アリストテレスが登場します。アリストテレスは『政治学』(第二巻第十章)で、 家計をやりくりする手段としての金もうけの術(家政術)と、 純粋に金もうけをするための術(商人術)とを区別しており、 後者はけしからんと言っています。 このけしからん理由はいくつかあるようなのですが、 その主な理由は、商人は、土地を耕したり果実を取ったりして自然から何かを 産み出すことなく、金を右から左へと回して金もうけをしている、 ということです。 貨幣というのはそもそもは物々交換が不便なので発明されたもので、 物を作った人が、それを他の物と交換するために使うのが本筋だとアリストテレス は考えます。だから、物を作らずに、ある人から物を買って別の人にそれを 高く売りつけるのは自然に反する、と言うのです。 農業は善く、商業は悪いという考え方ですね」
「アリストテレスはとくに金貸しを毛嫌いしていて、 利子でもうけるのは自然に反すると非難しています。 これは金銭不妊の説としてよく知られていますので引用しておきましょう」
動物や植物が子孫を増やすのは自然であり、それを私たちが利用するのも自然 である。しかし、金銭は子を生まないから、それを増やして金銭をもうけるの は自然に反するのである」(シンガー、87頁)
(PowerPoint 78.) 「さて、目を転じてヘブライズム、すなわちユダヤ・キリスト教の伝統の方を見ると、 ここでもやはり、金貸しを嫌う文化があったことがわかります。 ユダヤ人は『異国人からは利子を取ってもよいが、 あなたの兄弟からは取ってはならない』(87頁)、 つまり同国人に金を貸しても、それでもうけようとしてはいけないと言っていますし、 イエスは、味方だけでなく、敵にも利子を課してはいけないと戒めています(ルカ、 6:35)。 さらに、『金持ちが神の国にはいるよりは、 らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい』と言って、金持ちを戒めています (マルコ、21:13)。あとで見るように、 宗教改革以降のプロテスタントの教えではこれと反対の意見になって、 金持ちになるのは神から恩寵を受けているしるしだ、なんて言われるようになります」
(PowerPoint 79.) 「どんどんすっとばして説明しますが、 中世西洋でもこのような清貧の思想は少なくとも建前上では健在で、 12世紀になっても教皇や司教やエラい神学者たちが集まる公会議で、 『金貸しは破門』なんて決議が出されていました。 この結果、金貸しは非キリスト教徒のユダヤ人が主にする仕事となり、 金貸しに対する憎悪がユダヤ人に向けられることになるという説明が、 シンガーの本でなされています」
「さらに、中世スコラ哲学のトマス・アクィナス(1225-74)という人がいます。 13世紀にアリストテレスの写本がイスラム世界から伝わってきて、 アリストテレス研究がさかんになったんですが、 このアクィナスはアリストテレスの見解とキリスト教神学の調停を図った人物です。 代表作は『神学大全』という大著です。翻訳で全27冊あります。 彼はそこで、『生活に必要な分、金をもうけるのは自然だが、 必要以上に金もうけするのは不自然だ』というアリストテレスの主張を受け、 『必要に迫られて盗みをはたらくことは合法的か』という問いに対して、 「ある人々はものをありあまるほど持っているが、 自然法によれば、その余計な分はどんなものでも、 貧しい人々の救済という目的のために使用されるべきである」 と答えています(94頁)。 要するに、金持ちからはムリヤリ金を奪っても自然の法にはかなっている、 というのです。ぼくの友人で、 友人から金をダマし取ることは絶対にしないけど、 大企業からはいくら金をふんだくってやってもいいと言っていた人がいますが、 アクィナスが言っていることと近いんじゃないかと思います。 その友人はとくに金に困ってませんでしたが」
「しかし、中世も終わりに近づくにつれて、商業はますますさかんになり、 それを正当化する理論が出てくることになります。 宗教改革を行なったルターやカルヴァンの登場です」
(PowerPoint 80.) 「まずマルティン・ルターですが(1483-56)、 彼は聖職者と平信徒というカトリックの階級的な考え方を否定しました。 シンガーによると、カトリックの考えでは、 聖職者は神によって『召命』(calling, Beruf)すなわち聖職に就きなさいと 命じられているから、まあ自動的に天国に召されるのに対し、 商人や農民というのは、そのように『召命』されていないから、 罪深いままで、救われるためには『功績』を積まなければならない、 あるいは『善行』をしなければならない、とされていたようです。 そして、 この『功績』や『善行』というのは、当時悪名高かった『免罪符』 を買うということだったのです」
「ルターはこういう教会の腐敗に怒り、 結果的にカトリックと袂を分かって新しい教えを作ったわけですが、 その教えによれば、聖職も商業も農業も、職には貴賤はなく、 等しく神から『召命』されており、信仰さえきちんと行なっていれば、 『功績』なんて積まなくてもみな救われるのです(信仰義認説)。 これによってルターは中産階級の圧倒的な支持を取り付けるのです」
(PowerPoint 81.) 「次にジョン・カルヴァン(1509-64)ですが、この人は生まれはフランスですが、 スイスのジュネーヴで一種の神権政治を行ないました。 主著は『キリスト教綱要』(1536年)です 彼によれば、ある人が救済されるかどうかは、全知全能の神さまによって あらかじめ決定されているから、カトリックが言うような『功績』 を積もうが積むまいが、無駄な努力です(救済予定説)。 しかし、カルヴァンによれば、 救済されるかどうかはすでに決まっていてどうしようもないが、 それを知る方法があって、それは世俗的な成功によってわかるんです。 つまり、金持ちになるということは、神の恩寵のしるし、 救済されることのしるしだと言うんです。 このようにして、イエスの『金持ちが神の国にはいるよりは、 らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい』はすっかり色あせてしまい、 プロテスタントの教えでは、金もうけが正当化されるようになるのです」
「さらにカルヴァンはアリストテレスや中世スコラ哲学の金貸し否定の説を批判して、 貨幣は物の交換のために使うだけではなく、 資本として使用して財を増やすこともまったく自然であると言い、 資本主義商業を正当化しました。金を使って労働者を雇い、 労働者が作った商品を売ることによって金をもうけるというあり方は、 どこにも不自然なことはない、というわけです」
「シンガーの説明では、 このカルヴァンの考え方は英国で大きく広まり、 さらに英国の宗教改革が不徹底だと考え、 カルヴァンの教えをより忠実に行なおうとした人々、 つまり清教徒たちは、アメリカに渡ってこの考えを実行しました」
(PowerPoint 82.) 「しかし、カトリック側からすると、 プロテスタントのこういう考え方は下賎きわまるものと見えるようで、 シンガーはアンドレ・ジークフリートというフランス人がアメリカ人を観察して 書いた次のような文章を紹介しています。ちょっと長いですが、全文引用します」
カルヴァンは、……古代以来初めて宗教と日常生活を統一した。というのは、 彼の教義によれば、信者は日常の仕事をよく行えば行うほど、神の栄光に寄与 することになる。カトリック教会は、いつでも金持ちと結び付いてきたけれど も、貧しい人でも魂の高貴さを保ち、もっと神に近づくことさえできると信じ ていたから、富を敬虔のしるしとしてかかげたことはなかった。逆に新教徒は 富を栄光とみなし、利益をたくわえると、神は心優しかった、とうぬぼれてい う。自分の目や隣人の目には、彼の富は神の承認の、目に見えるしるしとして 映った。そして、ついには、義務感から行為しているときと、私益から行為し ているときの区別がつかなくなってしまう。事実彼は区別したいとはまったく 思っていない。というのは、自分の前進に大いに役立つあらゆるものを義務と みなす習慣を身につけているからである。このように自分の心を省みることを 多かれ少なかれ意図的に避けているので、彼は偽善者のレベルにも達しない。 (99-100頁)
「さて、そういうわけで、清教徒が『金もうけは神の恩寵のしるし』 という考えを持って続々と米国に渡っていったわけですが、シンガーによれば、 この発想はフランクリン、スミス、スペンサーといった人々によって世俗化されます」
(PowerPoint 83.) 「ベンジャミン・フランクリン(1706-90)は米国憲法の起草にも関わった 偉大な人物なんですが、『富に至る道』、『若き商人への忠告』 などのベスト・セラーの本で貯蓄や金もうけを奨励したことでも有名です。 彼自身は公共精神に溢れていたようですが、これらの本においては、 『稼ぐだけ稼いだら、稼いだものは手放すな』『時は金なりということを忘れ てはいけない。…手に入れたものをすべて(…)たくわえれば、きっと「金持ち」 になる』(シンガー、102頁)というようなことを書き、 金もうけに関する清教徒の考え方を世俗化するのに大きく貢献しました」
「スミス(1723-90)は前回やったとおりで、私益の追求を経済学的に正当化しました」
(PowerPoint 84.) 「さらに、ロックフェラー・ジュニアやアンドリュー・カーネギーといった 米国の金持ちたちに大受けした哲学者がいます。 これはハーバート・スペンサー(1820-1903)という英国の哲学者で、 彼は社会ダーウィン主義と呼ばれる考え方を唱えました。 これは、ダーウィンの生物の進化についての考え方を社会に適用したもので、 『社会の進歩は生存競争、適者生存によって生じるので、 国家は極力干渉すべきではない』というような考え方です。 要するに、強者は社会の競争に勝ち、弱者は負けるが、 それによって社会は進歩して行くんだから、 国家はこの競争過程に手を出そうとするな、ということです。 これは米国の自由競争社会にぴったり適合する考え方なんですね。 アリストテレスは金もうけのための金もうけは不自然だと言いましたが、 このスペンサー流の考えでは、 競争に勝った者が金持ちになるのは自然の流れなわけです。 こうして米国流の私益追求、金もうけ重視の生き方が生まれてきたのです」
「アメリカが現実にしていることは、金もうけのために金もうけをすることである。 金もうけは目的であって、手段ではない」 (シンガーによるトマス・ニコルスの引用、108頁)
「ところで、急いで付け足しておきたいんですが、 ダーウィン自身はスペンサーのような考え方はしていませんでした。 『適者生存』というのは、 あくまである環境に最適な形で進化した生物が生き残るということです。 たとえば、 洞窟に閉じ込められた魚が世代を経ると目が見えなくなるというのも 環境に適した進化なわけで、 スペンサーのように『進化』と『進歩』をくっつけたような仕方はしなかったのです。 言いかえると、米国の金持ちたちは『進化が道徳的に善いから、 人々(あるいは国家)は進化を邪魔しないよう努力すべきである』 という風に考えていたようですが、 ダーウィンは『生物は進化すべきだ』とかそんなことは言わないわけです。 ま、わかりにくかったらまた次回説明します」
(PowerPoint 85-6.) 「このあと、シンガーは1950年代から1980年代までの歴史を簡単に説明し、 私益追求の生き方が80年代に頂点に達したという記述をしていますが、 時間がないので読んでおいてください。けっこうおもしろいです。 ただ、ちょっと不満なのは、シンガーが米国にある慈善の伝統について説明 していないところで、アメリカ人の愛国心の強さにしてもそうですが、 なぜアメリカ人が、とくに金持ちが慈善が好きなのかは気になるところです。 こないだもニューヨークで子供の権利についての国連会議があったときに、 ビル・ゲイツがかなりの寄付をすることを発表したそうですし。 まあ、そういうことも気にしながら先に進んで行きましょう」
(PowerPoint 87.) 「それでは、今日の授業のまとめをします。 米国に顕著な私益追求の生き方は、どのようにして生じたのか、 というのが第四章の話でした。古代と中世では、 基本的に金もうけは卑しいものと考えられていましたが、 商業がさかんになってきた近代の始めにおいて、 ルターやカルヴァンといった宗教改革の中心的指導者が商人の金もうけを 正当化しました。 これが英国を介して米国に渡っていき、 さらにフランクリンやスペンサーなどの思想とも結びついて世俗化し、 最初に出てきたウェーバーが言うような『資本主義の特徴は、 金もうけが自己目的化していることだ』というような状況が生まれてきた、 とシンガーは説明したわけです。よろしいでしょうか。 ちょっと駆け足になってすみませんでした。 来週はもうちょっとゆっくりできるように心掛けます」
(PowerPoint 88.) 「では、 次回は第五章『利己心は人の遺伝子の中にあるか』を読んできてください」