倫理学風研究 / index

フランツ・ブレンターノ
『道徳的認識の源泉について』覚書(その3)


善の研究: 最終目的(15-16)

・え〜、そもそも〜、われわれは〜、ある目的を求めて意志し行為します。 (もちろん意志を伴わない行為も存在しますが、そういう行為は普通、道徳的 かどうか(あるいは責任)は問われません)

・ところで、日常生活ではある目的が他の目的のための手段として追求さ れることがしばしばですが、ブレンターノ先生はアリストテレス大先生よろし く、「それ自体として求められる目的(最終目的)」というものがあると主張し ます。最終目的とは、「他の何にもまして欲せられ、かつそれ自体が欲せられ る一つの目的」なんです。

・それでは、この最終目的とは具体的には一体何なんでしょうか。ブレン ターノ先生は「あらゆる人は自分自身の可能なかぎり最大の快楽を追求してい る(J. S. Millなど)」という説を誤謬だとして一蹴し(どうやらブレンターノ 先生は快苦の概念を非常に狭く捉えているようです)、「最終目的にはいろい ろあって、その中には正しいものと正しくないものがある」と主張します。

善の研究: 正しい最終目的=最高善(17)、善とは何か?(18-27)

・そこで、次の問題は、どういう最終目的が正しくて、どういうのが正し くないか、ということです。

・ブレンターノ先生は、「獲得可能で、最も善いものが正しい最終目的で ある」と述べますが、すると次は当然、「最も善い」とか「善い」とはどうい うことか、という問いが生じます。

・だんだん頭が混乱して来ましたので、一旦ここまでをまとめると、 「最も善い最終目的を求める意志と行為は、そうでない意志や行為よ りも優れており、それゆえそう言った行為を命じる規則は常に正当性を持つ (普遍的な承認を受ける)」ということですね。それでは次に進みましょう。

・さあ、ブレンターノ先生は「普遍的に承認されるもの」は「内的な優越 性を持っているもの、すなわち最も善い最終目的を求める行為や意志」と説明 しましたが、「善い」はどういう風に説明するのでしょうか。

・ここでブレンターノ先生の有名な「指向的関係」の話が出て来ますが、 特に説明の必要はないので省略します。(簡単に言うと、真偽判断において、A を是認することが正しければ、Aは真であると言われ、善悪判断において、Aを 愛する(気に入る)ことが正しければ、Aは善であると言われる)

(あれえっ、先走っちゃうけど、そうすると「普遍的な承認を受ける最終目 的を求める意志と行為は、普遍的に承認を受ける」あるいは「正しい最終目的 は正しい」っていう議論になるんじゃないの?--まあ、もう少し様子をみよう)

・ブレンターノ先生によると、「善(いもの)」とは、「それを愛する(気に 入る)ことが正しいような対象」のことです。ブレンターノ先生は、「善いも の」にも「それ自体として善いもの」と「手段的に善いもの」の区別をして、 議論を前者に限定すると述べます。

・さて、するとわれわれはどうやって「自分の愛するもの(気に入るもの)」 を「善いもの」であると知るのでしょうか。言い換えれば、どのようにしてわ れわれは「自分の愛」が正しいことを知るのでしょうか。

・ブレンターノ先生は、「自分の愛するものは、すべて善いものである」 というのは誤っていると考えます。ま、これはそうだと言えるでしょう。われ われには、愛される対象が悪いものだと知りつつ、愛さずにはいられない、と いうことがしばしばあります。ただし、ブレンターノ先生のように、「それは ちょうど、自分が是認した真偽判断は、すべて真であるというのと同じだ」と 言ってしまうと本当に二つは全く同じことなのだろうかと疑念が湧きますが。

・ところで、ベンタム先生なら、「自分の快は、すべて(自分にとって)善 である」というでしょうが、「自分にとって快を生み出す対象(善いもの)が、 すべての人にとって快を生み出す(善いものである)わけではない」というでしょ う。「誰にとっても同じだけの快を生み出すもの、すなわち誰にとっても同じ くらい善いもの」というのをベンタム先生は基本的には特定しないはずです。

・さて、ブレンターノ先生によると、真偽判断の正しさはその明証性によっ て保証されます。すなわち、Aに対する是認が真であるのは、その判断の正し さが自己自身の内部に明証的に経験される場合です。これはデカルト式ですね。 すなわち、デカルトにとって「わたしは存在する」という判断が真であるのは、 その判断の正しさが彼にとって明証的だからなのです。

・そこで、ブレンターノ先生は一歩進んで、善悪判断にもこの明証性の議 論を持ち出します。すなわち、「Aが善であるのは、Aに対する愛の正 しさが自分に明証的に経験される場合である」。

「えええ、そうすると、ブレンターノ先生、われわれは何が善いもので 何が悪いものかを直観的に知るわけですか?」

「そうじゃっ」

「けど、ある人はイチゴを気に入ったり、ある人はリンゴを気に入ったり するんじゃないんですか?」

「むむ。そういう低級な気に入ること気に入らぬことと高級な気に入るこ と気に入らぬことを一緒くたにしたらあかんぜよっ。ヒュームはその点でまち がっとるのじゃ」

「えええ、そうすると、低級な愛着と嫌悪の対象は人それぞれだけど、高級な種類の愛着と嫌悪の対象はそうではないとおっしゃられるんですか?」

「うむっ。その通り。たとえば、われわれは知識を善と考え、無知を悪と 考えるじゃろ。なぜなら、知識に対する愛は、明証的に正しい、すなわち、普 遍的に愛するからじゃっ。知識に対する愛は高級な愛で、正しいのじゃっ。知 識を憎むようなやつは、ききき基地外じゃっ」

「先生、先生、落ち着いて下さいっ」

「う、うむ。ごほんげへん。…同様に、われわれは喜びを善、悲しみを悪 とし、善いものに対する愛を善とし、悪いものに対する愛を悪とするじゃろ」

・むむむ。だんだん雲行きが怪しくなってきました。一体、知識が善であ るというのは明証的な(善悪)判断なのでしょうか。

「えええ、そしたらブレンターノ先生、知識って何なんですか」

「うむ?知識って言うのは、君、何かを知っていることじゃよ」

「じゃあ、何か悪いことを知っている、っていうのは善いことですか?」

「いや、君、何か悪いことを知っているというのはありえんことじゃ。そ れは、善いことを知らないって言うことに他ならないんじゃよ」

「え。じゃあ、善いことを知っていることが善いってことになるんですか?」

「むむ…」

・同様に、喜びが善である、というのも怪しい。

「…そしたらブレンターノ先生、喜びってなんですか」

「喜びとは善いものに対して抱く感情じゃ」

「じゃあ、悪いものに対して感じる喜びは善くないんですか?」

「あ、あったり前じゃっ」

「え?すると、喜びが善いっていうのは、善いものに対して抱く感情は善いっ ていうことですか?」

「むぎゅ」

・てなことにならないだろうか(いわゆる循環論法に陥っていないか、とい う疑問)。


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Satoshi Kodama
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Last modified on 12/08/97
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