(これは京都大学文学研究科倫理学研究室が発行している『実践哲学研究』 第26号の共同報告に掲載された論文です)
本稿では、サイモン・ブラックバーンの「錯誤と価値の現象」を紹介する(注 1)。この論文は四節から成っており、第一節でマッキーの錯誤説(error theory)が批判され、続く第二節でブラックバーンの立場である準実在論 (quasi-realism) に対する批判が検討される。第三節では道徳的性質を色など の二次性質と類比的に論じるマクダウェルやウィギンズの立場の問題点が指摘 され、最後の第四節で、メタレベル(第二階)の理論である準実在論が規範レベ ル(第一階)の理論である帰結主義と親和性が高いことが論じられる。以下、彼 の議論をこの順番に沿って補足を加えつつ説明し、最後に若干のコメントを述 べる。
(注1: `Errors and the Phenomenology of Value', in Blackburn 1993, pp. 149-165. 初出はEthics and Objectivity, ed. T. Honderich (London: Routledge & Kegan Paul, 1985)。)
なお、ブラックバーンはケンブリッジ大学で哲学を専攻し、現在は同大学の哲 学教授である。それまではノース・キャロライナ大学のチャペル・ヒル校で哲 学教授を勤めていた。1969年から1990年まではオックスフォードのペンブルッ ク・カレッジにフェロー兼チューターとして所属していた。主要な著作として、 Spreading the Word (1984), Essays in Quasi-Realism (1993), The Oxford Dictionary of Philosophy (1994), Ruling Passions (1998), Truth (Keith Simmonsと共同編集, 1999), Think (1999), Being Good (2001)などがある。また、1984年から1990 年までMindの編集者であった。
日常の道徳的思考や言明には、われわれの欲求や関心とは無関係の絶対的な義 務だとか、行為の内在的な正しさというような考え方がしばしば現れる。たと えば「わたしあるいは他の誰かが何と言おうとも、闘牛は不正である」という ような発言がそうである。通常、このような「道徳の現象」(注2)は、実在論 者(認知主義者)が反実在論者(非認知主義者)を批判するときの根拠になる。す なわち、非認知主義によれば、道徳的言明は話者の態度の表明や命令とされる が、日常的な道徳の思考は、現に道徳的実在について語っている場合が多く、 非認知主義の立場ではこの現象を説明できない、というわけである。これに対 して、マッキーは、たしかに日常的な道徳的思考や言明は客観的な価値の実在 を前提にしている場合があるが、そもそも客観的価値は実在しないため、誤っ ているのは実在論に汚染された日常的な道徳的思考の方であり、反実在論では ないと論じた。これが錯誤論の立場である(注3)。
(注2: ブラックバーンはphenomenologyの他に、phenomena (`the surface phenomena of moral thought', Blackburn 1993, p. 167; `the rich phenomena of the moral life' p. 158), appearance(s) (`the appearances of morality' p. 157n; p. 158)という語も同義語として用いている。これら はみな、たとえば義務と欲求の衝突や、道徳判断について真偽を問うなど、わ れわれが道徳という営みにおいて目の当たりにする諸事実を指している。「現 象学」と訳すと何のことやらわからなくなるので、単に「現象」と訳す。)
(注3: マッキーの詳しい立場についてはMackie (1977)の第一章を見よ。)
ブラックバーンはマッキーと同様に、道徳的性質や価値の実在を否定するが、 日常の道徳的思考や言語が実在論によって汚染されているという考え方を批判 する。マッキーの立場は、反実在論の立場からではどうしても説明のつかない 道徳的現象があることを認めた上で、理論ではなく現象の方に誤りを見るのに 対し、ブラックバーンの準実在論は、このように一見すると実在論によってし か説明のできない「道徳的現象」を、反実在論の立場から十分に説明し正当化 できることを示そうとする立場である。もしこれがうまく行き、反実在論の立 場から「現象を救う」ことが十分にできるのであれば、マッキーの錯誤説は必 要がなくなることになる。
次にブラックバーンは、このような準実在論のプログラムに対してしばしばな される批判を検討しているが、彼はまず以下のように立場を分類して明確化を 図っている。
このように立場を明確化したあと、ブラックバーンはまず、一見実在論にコミッ トしている道徳の「文法」は、投影説の立場からでも説明できると述べ、ギー チ・フレーゲ問題に言及する。これは、道徳的言明が断言されるのではなく、 間接話法や条件文などの間接的文脈(indirect contexts)において用いられる 場合に非認知主義者はどのように説明できるのかという問題であるが、その一 例としてブラックバーンは、「たとえわれわれが熊いじめ(bear-baiting)を是 認したり、楽しんだり、やりたいと思ったとしても、それはやはり不正である」 という言明を取り上げる。これは、熊いじめの不正さは人々の欲求のいかんに かかわらないと主張しているため、一見すると実在論にコミットしているよう に見える。しかし、ブラックバーンはそうではなく、熊いじめの不正さはわれ われの欲求や享楽ではなく、むしろ熊が感じる苦痛に関係しているという主張 と解釈することにより、投影説でも説明できると述べる。彼は準実在論のこの 「読みかえ」を、「特定の第二階の形而上学を体現しているように見える思考 は、実は第一階の態度やニーズを表明している思考であると解釈する」戦略だ と述べている(Blackburn 1993, p. 153)。投影説によるこのような「読みかえ」 は、この論文ではこれ以上は行なわれておらず、以下ではこのような戦略が (マッキーや実在論者の予想に反して)うまく行くものとして論じられている。
ブラックバーンがここで検討しているもう一つの重要な批判は、マッキーやブ ラックバーンのように道徳的価値の実在性を否定すると、道徳が持つ客観的な 「感触」(objectivist `feel')が失われてしまうのではないか、というもので ある。「もし神が存在しないとしたら、すべてが許されるだろう」というドス トエフスキーの言葉は、かつて実存主義を批判するために用いられたが、同じ く道徳の客観性を否定する投影説の立場も、われわれの道徳を脅かすのではな いかという問題である。たとえば、あらゆる傾向性に反してなされねばならな い定言命法的な義務の存在を人々が信じていたとすると、マッキーならばその ような義務の知覚は誤りであると退けることができるが、準実在論ではそのよ うな義務の知覚も投影説の立場から説明する必要がある。しかし、そのような 説明がたとえうまくいったとしても、その説明を聞いた人々は、もう義務を仮 言的にしか見られなくなるのではないか、という問題である。
この問題を検討するにあたり、ブラックバーンは道徳的心理の説明 と正当化を区別する。彼は、《フレッドとメーベ ルはお互いに結婚したいと強く思っており、おそらく幸せになれると考えてい るにもかかわらず、義務の命令に従ってあきらめる》という例を挙げ、まずこ の現象に対する説明を考える。実在論者ならば、神の声あるいは道徳的実在の 知覚を持ち出して説明することができるかもしれない。しかし、そのような超 自然的なものを持ち出さなくても、フレッドは彼の育ちや教育によって、ある 種の行為に強く反発し、たとえそれをしたいと感じても、不正だとして直ちに 退けるようになっていると説明することもでき、ブラックバーンに言わせれば、 こちらの説明の方が優れている(注4)。
(注4: ブラックバーンはなぜこちらの説明の方が優れているのか、はっきり述 べていないが、一つには、道徳的実在を仮定しないこちらの方がより「経済的」 な説明であるからだと考えられる。それと関連するもう一つの理由は、実在論 者であっても教育あるいは感受性の陶冶を言う必要があり、その場合「感受性 が陶冶されたので、道徳的実在を認識できるようになり、それゆえ義務を優先 した」というような説明においては、道徳的実在の認識はなんら役目を果たし ていない(pulling no explanatory weight)、という点である(Blackburn 1993, p. 155)。後者の論点に対するマクダウェルの批判については、本研究 報告で佐々木拓が紹介している「価値と二次性質」を参照せよ。)
もう一つは、正当化のレベルであるが、ここで言う正当化とは、フレッドが自 分の行為について熟慮するさいに、投影説を受け入れていたら「本当は義務な んてないんだ」と考えて義務をないがしろにするかどうか、ということである。 これに対して、ブラックバーンは、感受性がどのように生じたかという説明そ れ自体によっては、ある感受性を持つことが合理的になったり不合理になった りすることはないと主張している。たとえば、メーベルがフレッドのヒゲをお かしいと笑うことに対して、フレッドがおかしさは実在するのではなく投影の 産物だと説明しても、メーベルが笑うのをやめることが合理的になるわけでは ない。同様に、フレッドが道徳の投影説を受け入れたからといって、フレッド の道徳的確信が弱まるわけではない。
ただし、ある種の価値観を抱いている人々に対しては、このような説明が彼ら の行動に影響を与えることはありうる、とブラックバーンは述べている。たと えば、義務は神の声が命じたものであるとか、実在の世界に存在することしか 重要でない(「価値が主観的な起源を持っているのはがまんならない」)といっ た信念を持つ人が投影説の説明を受け入れたならば、彼らのその後の行為には なんらかの影響が生じるかもしれない。しかし、それは説明それ自体が不道徳 なのではなく、そのように誤った事柄を尊重するにいたった欠陥defectのある 感受性が不合理なのである。以上の考慮からブラックバーンは、準実在論者は メタレベルでは反実在論を取るが、規範レベルでは実在論者と同様に、本当の 義務が存在することを主張できるとしている。
このように準実在論は投影説の考え方を基礎にして、一見実在論的な道徳の現 象を説明しようと試みるものであるが、第三節では、《道徳の現象は、色のよ うな二次性質の知覚と類比的に説明した方がよりうまく行く》という洗練され た実在論の立場が批判される。この立場を代表するのは、デヴィッド・ウィギ ンズ、トマス・ネーゲル、ジョン・マクダウェル、最近のヒラリー・パトナム らである(注5)。彼らに共通するのは、道徳的価値は感情の投影物だとする投 影説の前提にある《主体から独立した没価値的な世界の存在》という想定に対 する批判であり、彼らの立場を総合すると次の三つの点にまとめることができ る。
以上の三つの信条にまとめられる道徳の知覚説の立場に対して、まずブラックバーン は二次性質と道徳的性質の類比は、以下の点で失敗していると論じる。
このような考察から、ブラックバーンは二次性質と道徳的性質は類比的に語る ことはできないと考えるが、彼によれば、道徳の知覚説の決定的な難点は、道 徳の現象について道徳的性質を知覚したからと説明するだけでは、説明として まったく不十分だということである。たとえば物体の形のような一次性質の知 覚ならば、われわれは形に因果的影響を受け、その影響に照らして判断を下す と説明できる。また、赤色のような二次性質の知覚ならば、周りの人々との関 係で自分の通常の状態を十分に知っているので、大勢の人々が十分な光の下で 事物を赤と呼ぶ場合に限り、自分もそれを赤と呼ぶのだと説明できる。しかし、 道徳的知覚は、一次性質のように因果関係によって説明することはできないし、 (c)の違いがあるため二次性質のように共同体の合意によって説明することも できない。このように、ブラックバーンの考えでは、知覚説による道徳の現象 についての説明は二次性質との不十分な類比で終わらざるをえず、投影説に対 抗する理論になりえていない。
このように述べたあと、ブラックバーンはマクダウェルの「価値と二次性質」 という論文における投影説の批判を検討している(注6)。マクダウェルによれ ば、投影説の説明はうさんくさく、彼自身の「関心相対的 (interest-relative)」な説明の方が優れている。「関心相対的」な説明とは、 問いの背後にある関心を満たすような答えを与えることで、たとえば「わたし はなぜそれにびっくりしたのだろう」という問いに対して、「なぜならそれは びっくりするに値したからだ」と答えたり、「なぜわれわれは人間の幸福を善 いと思うのだろう」という問いに対して「なぜならそれは実際に善いからだ」 のように答えたりする説明の仕方である。これに対してブラックバーンは、こ のような問いには、そうした確証を得たいという関心以外にも、さまざまな関 心がありうることを指摘する。とくに彼が指摘しているのは、われわれがおか しさを感じたり、驚きを感じたり、さらには道徳的な営みを行なうことが、わ れわれの自然科学的な世界観(注7)の中でどのように説明されるのかという関 心であり、投影説はまさにこのような関心に答えることができるが、マクダウェ ル流の知覚説では質問に対してオウム返し的に答えるだけしかできない、 と論じている。
(注6: 本研究報告中の佐々木拓による紹介論文を参照せよ。)
(注7: ブラックバーン自身の言葉では「道徳的事実やおかしさの事実や数学的 事実などの分析がなされていない特異な領域に対して、正当にも敵対的であり うる形而上学的見解(a metaphysical view that can be properly hostile to an unanalyzed and sui generis area of moral or humorous or mathematical facts)」(Blackburn 1993, p. 163)。)
また、上のような関心に答える投影説の説明は「外在的な」視点に立ったうさ んくさい説明であり、正当ではないという批判に対しては、ブラックバーンは 次の二つの理由からこれを不当としている。すなわち、(1)道徳的営みの適切 な範囲を決定するためにはこのような説明が必要であり、(2)道徳的営為につ いて説明が不可能であるアプリオリな理由はないので試行錯誤する必要がある、 という理由である。また、このような説明は自然科学者や社会科学者の仕事で あり、哲学者の仕事ではないという態度に対しても、「あらゆるものはそれが そうあるところのものであり、別のものではない」ということを手を変え品を 変え述べるのが哲学者の唯一の仕事ではないと手厳しく批判している。
上で見てきたように、投影説はわれわれの道徳的営為を説明する第二階の形而 上学的理論であり、直接には第一階の規範理論に影響を与えないとされた。し かし、この最後の節でブラックバーンは、投影説はその自然な補足(natural addendum)として、義務論よりは帰結主義と親和性が高いと述べている。
この親和性の高さは次のように説明される。われわれは現に道徳的感情を持ち、 ある種の行為を是認または否認するが、投影説によれば、われわれのこうした 道徳的営みは、協同的な社会生活を円滑にするという機能を果たしていると考 えられる。このような目的論的な説明をする投影説は、人間のニーズや欲求と はまったく無関係の義務を盲目的あるいは超自然的な目的のためになすことを 命じうる義務論よりも、道徳の社会的役割を強調する帰結主義と親和性が高い ということになる。
帰結主義を取ると、義務を守ろうとする動機が弱まるのではないかという懸念 に対しては、ブラックバーンは単純な行為帰結主義ではなく、《みなが同じよ うな動機から行為した場合の帰結の良し悪しによって(行為ではなく)動機を評 価する》という動機帰結主義(一種の規則帰結主義)を取れば問題ないとしてい る。たとえば先ほどのフレッドは、自分の感じる義務感が教育や育ちの結果で あるという投影説の説明を受け入れながらも、動機帰結主義の立場に立って 「みながそのような義務感を持つことは一般的に見れば望ましい」と考えるな らば、その義務感に従うことを正当化できるだろう。
準実在論を標榜するブラックバーンの立場は、本人も認めるように一見すると 理解しにくいが、価値の実在論を否定するマッキーの後継的な立場として理解 すればわかりやすい。実際、実在論を批判するときの根拠や、投影説的理解に 帰結主義を組み合わせた道徳観など、マッキーの路線をそのまま継承している と思われる部分も多い。ブラックバーンによれば、彼がマッキーと大きく異な るのは、錯誤説を認めない点とされている。しかし、第二節で彼は要するに 《日常の道徳的思考や言明には錯誤errorは含まれていないが、一部の実在論 的な思考をしている人々の道徳的感受性には欠陥defectがある》と論じており、 この主張がマッキーの錯誤説と実質的に異なるのかどうかには疑問が残る。
また、マクダウェルやウィギンズらの道徳の知覚説の批判も、マッキーと同様 に自然科学的な世界観に依拠して、道徳的性質とその知覚によって道徳的営み を説明することを批判するものと言えるが、マクダウェルならば、ブラックバー ンがプラトン・ムーア的な価値実在を前提する直覚主義と道徳の知覚説を同一 視している点(注8)、およびブラックバーンが道徳に関して容認する「説明」 が非常に素朴な自然科学観によって制限されている点を批判するであろう。マッ キー=ブラックバーンとマクダウェルの対立の背景には、ロックの一次性質と 二次性質の区別をどう解釈するかという重要な問題が存在するのだが、第三節 ではこの本質的な問題が問われずに議論が行なわれているため、知覚説に対す る決定的な批判にはなっていないように思われる(注9)。投影説を採りつつ一 見すると実在論的な道徳の現象を説明し、しかも帰結主義的立場と親和性が高 いというヒューム的な道徳観は魅力的であるが、問題は洗練された実在論から の挑戦に対して満足の行く対応をすることができるかどうかであろう。
(注8: マクダウェル流に言えば、価値の一次性質モデルと二次性質モデル。 「価値と二次性質」の第五節を見よ。)
(注9: ここではこれ以上立ち入った議論はできないが、この問題はマクダウェ ルの「価値と二次性質」の第二節から第四節、とりわけ、非常に難解な第三節 の議論をどう評価するかという点に集約されると思われる。
(こだまさとし東京大学)