Simon Blackburn: How To Be an Ethical Anti-Realist - Summary

(サイモン・ブラックバーン、「倫理的な反実在論者になる方法」要約)

from Simon Blackburn's Essays in Quasi-Realism (Oxford University Press, 1993, ch. 9)


([…]の見出しは適当に付けてみた。#以下はコメント。 注と書いてあるのは原文にある脚注のこと)

[1. 哲学一般における実在論論争は、最近人気がなく、 そのような形而上学的営みを批判する自然主義的立場に立つ人が増えている]
哲学者の中には、実在論者と自称する者もいれば、反実在論者と名乗る者もいる。 しかしわたしが思うに、 この論争全体に背を向けたいと思う者が増えてきたようである (注1: Arthur Fine, `Unnatural Attitudes: Realist and Instrumentalist Attachments to Science' in Mind 1986. 未読)。 彼らの強味の一つは自然主義が持つ強味である--この文脈での自然主義とは 《存在するのは、人間についての自然科学だけである》 とわれわれに説くものである。 その主張から出てくるのは、次のことである。 すなわち、(たとえば)物理学や人間学(anthropology)の背後に ひかえる「第一哲学」などは存在せず、 そのようなものによって 世界のどれだけが「われわれの構築」である(反実在論)とか、 逆に「われわれから独立」している(実在論)とか哲学者にわかる などということはない、 ということである。

[反実在論も実在論も本来理論があるべきでないところで理論作りに励んでいる]
この意味での自然主義は、先の二つの陣営のそれぞれに小さな花束と小さな戒告 を授ける[# といいつつ、実在論には花束が一つも授けられていない気がするが]。 反実在論者は次のことを否定する点で正しい--すなわち、物理学の成 功のような事柄には適切な哲学的な(アプリオリな)説明が存在し、一部の鋭い人々 はそれを安楽椅子に座りながら知ることができ、他の人々はできない、という ことを否定する点で正しい。 科学者は、ある結果が生じたのはニュートリノや電子が云々したからだ と言うことができるが、哲学者がそれに付け加える べきことは何もない。 もし哲学者が「この結果が生じたのはニュートリノによって だけではなく、ニュートリノ理論が世界を記述(対応、一致、継ぎ目で切り取っている) しているからでもある」と言おうとするなら、 哲学者は科学を裏付けようとして無駄な、 見栄をはった試みを行なうに過ぎない。 このような試みは、 精神と世界とのつながりが非常に問題の多いもののように思われた デカルト的伝統においては意味を持ったかもしれないが、 その時代はもう過ぎている(# 偶因論のことか?)。 他方、反実在論者は、この路線の不毛さを感じとり、 かわりに通常の世界がわれわれに依存していること、 すなわちわれわれの精神やカテゴリーに依存していることを強調するが、 彼らが提示する追加事項もまた受けいれがたいものである(注2: Ruth Garret Millikan, `Metaphysical Anti-Realism' in Mind, 1986. 未読)。 特徴的なことに、 実在論が空虚なゆえに(=無意味な言明をしているがゆえに)失敗しているとすれば、 反実在論は誤りを犯しているゆえに(=偽の言明をしているがゆえに)--たとえば、 事物が明らかにわれわれに依存していない場合でも、 われわれに依存していると述べることによって--失敗している (注3: Putnam, Reason, Truth and History, CUP, 1981, p. 52. 未確認)。 ここでもまた--おそらくはさらに明白だと思われるが-- 反実在論はいかなる理論も存在すべきではないところに理論を作りだそうと していると見ることができる--この場合、不自然な、デカルト的精神を 世界の一源泉にしようとしている。 これらの理論は「超越的transcendental」と呼ばれるのがもっともで、 この言葉によってわれわれが思い出すのは、 合理的な心理学(# って何?)に敵意を持っていたにもかかわらず カント自身もこの罠を抜け出すことができなかったことである。

[実在論の論争が超越的であることを知るには、 「対応条件節」を用いるとよい--物理学理論の例]
この超越的な側面がよく見えるようにするためには、 わたしが「対応条件節correspondence conditionals」 と呼んでいるものを用いて考えてみるとよい。 われわれは、 《もしわれわれが感覚能力と認知能力を適切に用いてpであることを 信じるようになったならば、pである》と信じたいと思うものである。 どのような種類の理論であれば、 われわれがそのように確信してよい権利を説明できるだろうか。 もしpが基礎的な物理学理論に由来する命題であれば、 その理論によってのみである。 《われわれが云々の情報を云々の仕方で用いたあと、 ニュートリノが存在することを信じる場合、 おそらくニュートリノは実際に存在する》 というのはなぜかを理解することは、 ニュートリノ理論が持っている信憑性を理解することに他ならない。 それが物理学である。 背後での試み、すなわち理論の外側からの条件節の裏付けは、 インチキになるのが確実である。

[局地的な反実在論は意味をなすと論じる]
われわれの科学の成功やわれわれの世界の本質といった大局的なglobal問題を 考えたときは、 (実在論にも反実在論にもコミットしない) 自然主義が勝つべきであるように思われる。 しかし、局地的local領域においては、 (実在論と反実在論の)争いに加わることができるように思われる。 この論文では、なぜわたしがそのように考えるのかをもうすこし詳しく説明し たい。わたしが放置しておく大きな問題は浸透seepageの問題である-- すなわち反実在論が、 われわれの思考の特定の領域において支配権を握って余裕が出てくると、 帝国主義的な目で近隣の領域を見るようになることである。 局地的反実在論者は、 線引きの問題に直面するか--この解決は難しいかもしれない--、 あるいは、自然主義を裏切って、 結局は大局的な反実在論が正しいに違いないと言うかもしれない。こ の論文の第二の部分はこの特定の問題を検討するものである。

[ほんとに局地的には実在論論争に意味があるのか]
なぜ局地的にはこの争いに参戦することができるのだろうか。 物理学についてわたしが言ったことは、 ひょっとするとどの領域でも言えるかもしれない。 《われわれが二かける二が四であると信じるとき、われわれはおそらく正しい》 ということの理由を理解するには、算術を理解していることが必要である。 《理由なき残虐行為は不正であるとわれわれが信じるとき、 われわれはおそらく正しい》ということの理由を理解するには、 倫理を理解していることが必要である。どこに非対称な点が存在するだろうか?

[有意味な局地的実在論の一例としての倫理における投影説と準実在論]
倫理の例に留まって考えてみよう。 ここでは、「投影」説を展開することにより、 価値に対するわれわれの傾向性を満足の行く仕方で位置づけることができる。 わたし的には(according to me)、 道徳的思考の表面的な現象(the surface phenomena of moral thought)は、 この理論に対するいかなる障害にもならない。 そうした現象は、 もし投影説の形而上学が正しいなら、 当然そうなるだろうとわれわれが予想するものとして説明することができる。 (このように説明できるとする学説を準実在論(quasi-realism)とわたしは呼んでいる --この点はあとでまた触れる。) またわたしは、この理論一式が他のライバル理論やライバルと称される理論と比べて さまざまな説明上の長所を含んでいるとこれまで論じてきた。 投影説は、もちろん、新しいものではない--実際のところ、 この理論一式は倫理の本質に関するヒュームの理論の現代的ヴァージョンの一つ として意図されている--ただし、 共感などの情念の特定の作用には一切コミットしていないが。 情動説とヘアの指令説も、直近の先祖である。 いくらかでも新しい点は、準実在論にある--この理論の目的は、 《投影説は倫理の重要な表面上の現象と矛盾しないどころか、 それをきちんと説明するのであるから、 投影説に対して通常用いられる多くの反論は当たっていない》 ことを示すことにある。 これらの反論は、 投影説はわれわれが倫理的に思考するさいのなんらかの特徴に適合していない と主張する。 準実在論はそんなことはないと主張し、 続けて、それらの特徴が存在することを説明する。 そのような特徴には、 情動的あるいは指令的形式に対するものとしての命題的形式や、 倫理的なコミットメントと通常の命題的な態度動詞や、真理について語ること、 証明、知識、その他もろもろとの相互作用などが含まれる。 ここでは、 この(quasi-realismという)計画が自然主義に対して持つ関係が 明らかにされなければならない。

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[準実在論と自然主義とのつながり、その1。 準実在論は倫理的コミットメントについて自然主義的な説明を与える]
第一のつながりは次のようなものである。 自然主義は倫理における準実在論を要求するとわたしは考えるが、 いずれにせよ、自然主義は準実在論を動機づける。 なぜなら、(投影説と準実在論という)この組み合わせにおいては、 倫理的なコミットメントをしている人の根本的な精神状態を 自然主義的に説明できるから。 この精神状態は、(義務や権利や価値についての)信念とは 説明されない。 われわれはこの精神状態を最終的に信念と呼ぶかもしれないが、 それは作業が終わったあとに初めてそのように呼ばれるのである。 事実、われわれは最終的に「(正直さの価値のような)価値や (あなたは自分の子供に対する義務を持つという事実のような)事実が実際に存在する」 と言うかもしれない。 というのも、 哲学のこの領域においては[# 倫理学のことか]、 重要なのは最後に何と言うかではなく、 どのように言うにいたったのかである。 自分が実在論者であるか反実在論者であるかを宣言しさえ すれば良いと思っている人はどれだけいるだろうか--まるで なすべきことは胸に手をあてて「わたしは本気で信じています」(あるいは、 「わたしは信じていません、本気です」)と言うだけであるかのように? 実在論の問題についてのわたしの取扱い方では、 この手の申告はまったく役に立たないものとみなされる。 問題は、この[倫理的]コミットメントの状態についての最善の説明がどのようなものか ということであり、 コミットメントを繰り返し述べることは、 いくら--真理、事実、知覚、その他の--箔を付けてみても、 重要ではないのである。

[倫理的コミットメントは本質的には《一定の反応をする心の姿勢》である]
重要なのは、 この精神状態が何か別のものとして--選択や行為への姿勢stance、 動能的(conative)な状態、あるいは圧力として--その理論的生を授かるという 点である。 もし人間が、 社会的・協力的cooperativeな状況下で競合するニーズを満たそうとするならば、 そのような圧力が存在する必要がある。 この姿勢は態度attitudeと呼んでもよいが、 この語がピッタリと当てはまらなくても問題ではない-- その機能は、ある状況の諸特徴から一定の反応を行なうことへ媒介をなすことであり、 これは適切な状況においては選択を意味する。 ある一定の姿勢を保っている人は、 何か一事あればある仕方で反応できるようにしているわけだが、 それはちょうどある一定の信念を持った人が、 あたらしい情報に対して認知的になんらかの仕方で反応できるようにしている というのと同じである。 人々がある一定の態度を持ち、別の態度を持っていないことはわれわれにとって 重要であり、われわれは人々を教育し、彼らが適切な態度を身につけるようにと 圧力をかけるのである。

ここまでの話で覚えておくべきことは二点。というのは、 投影説プラス準実在論のお話がこの二点なしでできるかどうかを見ることが 重要になってくるからである。それらは: (1)当の倫理的コミットメントを信念以外の何かであると考えること。 (2)現に存在する状態が存在すべき理由について、簡潔で自然な説明が存在すること。

[進化論的に見ると、倫理的コミットメントは実際に行為を行なう一定の姿勢である がゆえに淘汰を生き残ってきた]
協力的・利他的な姿勢が出現するだろうことは単に安楽椅子の思索に 留まるものではない。 このことは理論的研究によっても経験的研究によっても支持されうる (注4 アクセルロッドのThe Evolution of Cooperation)。 ここで注目すべきなのは、 こうした研究による説明が、 [倫理的]姿勢が動能的な機能を持つことであり、 何かを表象するものではないことを主張するだろう点である。 ある姿勢が進化論的に成功し、別の姿勢が成功しなかったのは、 そうした姿勢が[実際に]もたらす行動の問題である。 [わかりにくいので]言いかえると、重要なのは、 行為への圧力の直接の帰結なのである。 進化論的に成功するのは、 一度助けられた相手を実際に助ける動物であり、 助けるべきだなあと考えつつも助けない動物ではない。 生存競争においては、重要なのは動物が実際に行なうことである。 この点は重要である--なぜなら、このことは、 価値が内在的に動機づけを行なうものである場合に限り、 価値の出現についての自然な説明が可能であることを示すからである。 また、進化論的な成功が生じる仕方にも着目せよ。 (たとえば)協力する傾向性が常に存在する動物は、 ノミからの自由とか他の動物に食事を乞うことによって失敗に終わった狩猟を 切り抜ける能力といったその他のニーズにおいて、 よりうまく生きる。 いかなる権利、義務、価値もこの歴史において説明的役割を果たさない。 助けてくれた者を助ける傾向性を常に持つ生き物がうまく生きるのは、 それが徳であるからだ、というような話ではない。 その傾向性が徳であることは、進化論的生物学にとっては無関係である。 そのようなこと[=他人を助ける傾向性が徳であるがゆえに進化論的に成功してきた] を自然主義的に尊重できる説明はない。

[倫理的姿勢と感情(感じ)の関係の多様性について]
このコミットメントは、それが中核あるいは本質でありつつも、 心理的な付加物[欲求、恥、名誉心などの感情]を伴うかもしれない。 ある倫理的姿勢の正確な「感じ」は当地の文化の関数であるか、 他の圧力や他の信念との相互作用のうちのどれかの関数であるかもしれない。 行為への圧力は、名誉や恥や自尊心などさまざまなものと結びつけられうるが、 単純な現象学が存在することを期待する理由はない [# 単純な方程式が存在するとは限らない]。 本質は[行為を生みだすという]実践的な重要性にあるのだが、 それをとりまく感情は非常に多様でありうる。 たとえば、 姿勢が欲求と同じような感じを持つ考える理由はない [# 姿勢は義務感などのさまざまな形で現れうる]。 アナロジーとして、生物学的あるいは進化論的お話が異性間の魅力を説明する 仕方と、その魅力が文化ごとに特定な、しかも驚くべき仕方で生じるさま --欲望と愛情のさまざまな形--を考えてみよ (欲望と愛情の命令もまた、欲求と同じような感じではないことが多く、 とにかくやらなければならないことがあると考えることによって 表明されることもままある。続きはあとで)。 だから、 たとえある理論家が倫理的生の豊かな構成に魅力を感じていたとしても、 今説明したことからわかるように、投影説に反対する必要はない。 倫理的姿勢をなんらかの一つの種類へと「還元」することは必要ではないのである。

[倫理的コミットメントと空間的認知との比較]
さて、上で記述された種類の進化を、 なんでもよいが他の進化、たとえば空間的距離を知覚するわれわれの能力の 進化と比較してみよう。 ここでもまた、重要なのは行為である。 しかし、われれわが得意でなければならないのは、 知覚されたまさにその特徴に応じて行為することである。 カエルの舌がハエを捉えることを可能にする視覚-運動メカニズムは、 カエルの舌がカエルと相対的なハエの位置に到達するさいの軌跡に 適応している必要があり、 知覚された距離を利用して行動をする動物が成功するのは、 距離をあるがままに知覚する場合に限る。 われわれが視覚メカニズムを使ってうまく行動できるのは、 それがわれわれに遠くにあるものを遠くにあるものとして示し、 近くにあるものを近くにあるものとして示すからである。 それこそがそれらの役目なのである (That is what they are for.)。 この比較を要約するとこうなる-- 空間的知覚の目的は空間的であるが、 倫理的コミットメントの目的は倫理的ではない、と。 空間的知覚の善は、表象することにあるが、倫理的姿勢の善はそうではない。 [# う〜ん、ここだけ読むとあまり説得されないが…]

[以上の議論から、局地的には実在論論争が意味があることが示された]
そこで、この種の理論が可能であることによって、 一般的な科学の事例--この場合はさらなる背景理論を提供しようとする試みは超越的になる--と、 局地的で特殊な倫理の事例--この場合はそのようなお話のための自然的な素材が手元に用意されている--との必要とされている対比が提供される。 このことはまた、 一般的な実在論対反実在論の問題を欲している(# これで合ってる?)哲学者は、 局地的な事例から安心を得ることはできないということをも意味する。 そこでは、いわば、理論を生み出す素材が存在するのだが、 それに対して一般的事例においては提供されうる素材がほとんどない (からである)。

このような単純な自然主義的な点が尊重されないことがある。 マクダウエルやウィギンズの立場がそう。 彼らは投影説と同様、ある人の倫理的な見地というのは 彼の持つ感情あるいは動能的な側面に依存しているとするが、 その側面を、価値性質の知覚を可能にする事物(=感受性)と考える。 彼らの立場は、事物の価値を認識するのは感情を動かされたときだけである、 と説明することにより、倫理判断における感情の役割を尊重しつつ、 道徳的意見の持つ「知覚的」あるいは認知的な役割も保持している。

もしこの理論が、文字通り事物における倫理的性質を 知覚するということを意味していないのであれば(すなわち、 感情を動かされたことを「知覚した」と言いかえたにすぎないのであれば)、 投影説と変わるところはない。

だが、これが《文字通りの知覚》を意味しているならば、 この理論はいろいろな問題に直面する。 まず、倫理は多くの場合、知覚された状況よりも想像された状況を問題にする。 さらに、自然主義的見地からは、なぜ良い動能的態度だけでなく、 さらに知覚も必要なのかという問題がある。

こうした問題は知覚説を文字通り理解することから生じるが、 たとえばウィギンズは価値性質とそれを知覚するための感受性は 「等しく相互的なパートナーとしてお互いのために作られ」ていると述べ、 文字通りの理解を支持していると思われる。

投影説は、価値性質が感受性のために作られることは受けいれることができるが (すなわち、価値を表わす述語が思考や言語において、態度の投影として姿を現わす)、 感受性が価値性質の「ために」作られることは受けいれられない。 そもそも誰がそのように作るのか(神?)。 そのようなことは自然主義的に説明できない。

ウィギンズなら、洗練ないし文明化が感受性と性質を作ると答えるだろう。 しかし、これを倫理の本質についての見解と考えるべきか、 あるいはこれは理論的に不要な説明か。 たしかに、倫理的な進歩をしたあと、振り返って昔は事物の価値をあるがままに 評価することができなかったが、今ではそうすることができると思うことがある かもしれない。しかし、このことはいかにして感受性が 価値の「ために作られた」かを説明しているわけではない。 われわれが友情を価値の高いものとして評価するという事実を説明するのに、 (1)それが善いもので、また(2)文明化によってわれわれの感受性が その善さの性質の「ために作られた」と説明するのは適切ではない (理論的に不要、余計である)。

価値性質が感受性の「ために作られた」ことを、 投影説とは異なる仕方で説明する余地はあるか。 色とのアナロジーによって説明できる可能性がある。 しかし、このアナロジーは危険。 というのは、 色の視覚(color vision)は色(の表象)のために作られたとは言えないから。 色の視覚はおそらく物体やその表面を素早く認識する能力を高めるために 作られたのであり、 色の視覚と空間の知覚との非対称性が一次性質と二次性質の区別の要点。

色の視覚とのアナロジーは依存(dependency)の問題に突きあたる。 倫理的性質が文字通り感受性のために、 または感受性によって作られているならば、 倫理的真理はわれわれの思考に依存していることになる。 ウィギンズはそれでいいのだと言うかもしれない。 しかし、われわれの反応のゆえに残虐行為が不正になるわけではない。 残虐行為が忌しいのは、それがわれわれの気分を害するからではなく、 われわれの気分を害するさまざまなひどい事柄によってなのである。

投影説の主張: 残虐行為が不正なのは、 われわれの反応(吟味されているにせよ、集団的なものにせよ)のゆえではない。 「意図的な残虐行為の不正さは何に依存しているか」という問いについては、 内在的な解釈(道徳的な問いと捉える)と外在的な解釈(哲学的な問いと捉える) がありえて、 批判者は準実在論が外在的な解釈にもコミットしていると考えるが、 そうではない。それに答えようとするのは実在論者だけ。

準実在論の形而上学では、われわれとわれわれの反応しか存在しないから、 残虐行為の不正さはわれわれの反応に依存すると言いたくなる。 しかし、ここに含まれている偏見は道徳的事実を自然的事実として扱い、 感受性によって作られたり作られなかったりするものと捉えること。 依存についての話は道徳的な話であるか、 無意味かのいずれかである。

すなわち、態度を表現する一文を使用するやいなや、 倫理的意見を論じるか発するかしているのである。 「残虐行為は不正であるという事実は〜に依存する」 というような表現もそう。 外在的な問いには別のアプローチが必要。 投影説の場合、外在的な依存関係の問いは、 現実の因果関係の世界(自然主義的な世界)に限定される。

ウィギンズやマクダウェルの説明には、説明されるべき価値(たとえば「文明」) が入りこんでいる。暗さを怖がるのは、それが怖いものであるから。 友情に価値を置くのはそれが良いものでありわれわれは文明化しているから。 わたしが感傷的なのを嫌うのは、それが嫌われるに値するから。

[ウィギンズ側の弁明] 倫理を説明するのに倫理の外に立つことを拒否するのは、 《ある一組の諸概念の要素を、別の諸概念に還元したりそれによって説明したり することはできない》というウィトゲンシュタイン的考え方。 倫理的概念を理解するには倫理的感受性が必要。同様に、 倫理的見解の説明を理解するには倫理的感受性が必要なのでは? ちょうど、さきほどの空間的能力についての説明を理解するには 距離を理解していなければならないように。

[それに対する反論] すでに説明したが、物理学の場合は、物理学をとりまく事物や理論は存在しないが、 倫理的コミットメントに関しては、 それを取り巻く自然と自然についての理論(進化論など)によって説明できる。 倫理学においては外在的な説明が可能だというのがわたしの主張のポイント。

ウィトゲンシュタインも、倫理については反実在論者であっただけでなく、 論理学の規則のように、記述を行なわない命題の存在を認めていた。 彼は数学の営みは、数的実在の表象ではなく、 むしろ信念的ではなく態度的なコミットメントを行なう「別の種の道具」 であると考えていた。

ここまで大局では実在論にも反実在論にも背を向ける自然主義が、 倫理においては投影説を支持することを説明しようとしてきた。 投影説は道徳の「存在論」を必要としない点で明らかに反実在論的である。 投影説は道徳的営みを説明するのに、まず自然によって説明できる態度を説明し、 次にそこから、 そうした態度を伝達したり挑戦したりする言語形態を説明するという手法を取る。

抽象的な話ばかりしてきたので、もうちょっと実践的な話をする。 ウィギンズ(やネーゲルやウィリアムズやフット)は、 投影説は「生きられた経験の内部(the `inside of lived experience')」 に合ってないと批判している。 彼によれば、倫理の理論家と参加者の見解が一致していない。 投影説は倫理を「説明するexplain」のではなく「説明して解消するexplain away」 してしまう。 倫理が欲求と衝突する外在的な要求、道徳的義務ではなくなってしまう。

# 投影説は道徳に参加している人の熟慮のあり方と一致しないし、 また、投影説の説明は道徳や義務感といったものを欲求に従属するものとして 仮言的にしてしまう、という批判。

投影説論者は子供を助けるとき、手榴弾に覆いかぶさるとき、 雪の中へと歩いていくとき、「う〜ん、結局オレとオレの欲求や その他の動能的な圧力でしかないしなあ--やめた」と考えるだろうか。

恋人は「う〜ん、これはオレの情念でしかないしなあ--やめた」と考えて 情念から逃れるだろうか。

# このあたりは、ブラックバーンのBeing Good (37頁以降)、 シンガーのHow Should We Live?も参考になる。

ウィギンズのように考える人は、行為の哲学におけるある重要な間違いを犯している。 それは、ある状況のさまざまな特徴に照らして熟慮するさい、 自分の動能的な機能についても熟慮していると考える間違いである。 目が視野の一部ではないように、事物が持つ情動的な衝動を伝える感受性はその 素材の一部ではない。われわれはふつうユーモアのセンスに笑うのではない。 もちろん、自分のユーモアのセンスをおもしろいと評価するときはあるが、 その場合にもその当の機能を使っていることに留意せよ。

この間違いが原因で、 《投影説によれば道徳的義務は欲求の存在に依存するから仮言的だ》 という風に言われることになる。 しかし投影説は、 現実に道徳的義務を感じる当人がそのように考えているというのではない。

理論が実践に影響を与えることはありうるが、必ずしも道徳的義務の力を弱める とは限らない。逆もありうる。

投影説は相対主義に陥るという批判。「真理」が倫理的スタンスに相対的となると、 それは場所や時代ごとに異なるだろうから、真理は相対的になる。 愛や哀しみやユーモアやファッションが相対的なのと同じ?

このような異なる道徳システムを俯瞰する視点からは、倫理的な真理は見出せない。 意図的な残虐行為が不正であることが真理であることを「見る」には、 感受性のレンズを身につけなければならない。しかし、その場合には、 相対的なことは何もなくなる。

感情やファッションの場合は個人的なもの。普遍性を要求するのは間違い。 しかし、最も強い倫理的判断は変化するものではない。 困難な人生によって同情する能力が失なわれることがあるかもしれないが、 それは遺感なことだと見なされる。 ファッションや感情の場合はまったく遺感ではない。 このように言うことによってわたしは自分の倫理的スタンスを表明している わけだが、上で述べたように、そのようにすることによってのみ倫理的真理は 発見されるのである。

II

投影説の他の領域への適用可能性: (1)コミットメントを信念以外の何かであると考えること。 (2)そのような状態が存在すべき理由についての、簡潔で自然な説明の存在。

色のコミットメントの場合。 色の識別能力に関しては(2)簡潔で自然な説明が存在する。 しかし、(1)色のコミットメントを信念と対比すべき理由はない。

様相のコミットメントmodal commitmentの場合


Satoshi KODAMA <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Sun Dec 14 14:51:56 JST 2003