1. マッキーは自称「道徳懐疑主義者」で、 自分の倫理学理論を錯誤理論と呼んでいる。 マッキーによれば、 日常の道徳判断や道徳的難問には「客観的価値が存在する」 という前提が含まれており、 この前提は通常使われている道徳語の意味の一部として通るくらい根付いているが、 この前提は間違っている。
# 人々の使う言葉や態度といった「道徳の現象」は、 一般に実在論を支持する根拠になるが(この点については、たとえばBlackburn, Essays on Quasi-Realism, p. 3)、 非実在論者のマッキーはそれを虚偽意識(という言葉は使わないが…)から 生み出されたものとして斥ける。
# ブラックバーンはphenomenologyの他に、phenomena (`the surface phenomena of moral thought' p. 167; p. 158)、appearance (`the appearances of morality' p. 157n; p. 158)という語も同義語としても用いている。 これらはみな、たとえば義務と欲求の衝突や、道徳判断について真偽を問うなど、 われわれが道徳という営みにおいて目の当たりにする諸事実を指している。 「現象学」と訳すと何のことやらわからなくなるので、 単に「現象」と訳す。
2. ではなぜマッキーはそういう誤りを除去した語彙を作り出さなかったのか。 それどころか彼はその著書(Ethics: Inventing Right and Wrong) の第二部では、日常の「汚染された(infected)」 語彙を使って善き生や自殺や中絶についての彼の道徳的見解を述べている。 たしかに彼は自分の錯誤理論が(日常の語彙を使用する)第一階の倫理学 (規範倫理学)をすべて無意味にする危険があるのではないかと自問している。 しかし彼によれば、 道徳の社会的役割についてのヒューム的な見解 --道徳は発見されるのではなく作られるものだ--を採用することで、 この危険は回避できるとされている。 しかし、なぜマッキーは形而上学的誤りを犯している道徳語を使って 「道徳」的見解を説く代わりに、 「シュ道徳の語彙shmoral vocabulary」(誤りを取り除いた道徳語)を使って 「シュ道徳」的見解を説かなかったのか。 こうしなかったのは、実は彼の錯誤理論がそもそも誤っていたことを示唆しないか。
# ブラックバーンもマッキーと同様に非実在論の立場に立つが、 マッキーが日常の道徳的な概念は実在論的な見方に汚染されていると考えるの に対し、ブラックバーンは 「道徳概念の単なる使用には誤りは含まれていない」(150)とする。 その証拠にマッキーは、非実在論の立場で普通に道徳語を用いている、 と指摘。`there is something fishy about holding an error theory yet continuing to moralize...' (152)
3. 上記の批判に対しては、 マッキーは実は「道徳」を説く場合と同じ語を使いつつ、 「シュ道徳」的見解を説いていたという反論が予想される。 しかし、道徳を説く(moralize)のとシュ道徳を説く(shmoralize)のは どのようにして見わけられるのか。 むしろ、道徳とシュ道徳という二つの異なる活動があると 考えるよりも、 道徳についての二つの理論があると考えるべきではないのか。 そうすると、錯誤理論の主張は、 《通常の道徳家は現象についての誤った理論を持っている》 という、より穏健な主張に置き換えることができる。
# 道徳的実践は実在論によって毒されているから誤りとマッキーは見るのに対し、 ブラックバーンは、実践の実在論的な解釈が間違っているのであり、 実践そのものに誤りが含まれているとは言えない、と論じている。
4. これに対しては、「全体論的に見ると、 どの理論を採用するかによって実践の意味が変わってくるので、 誤りのない実践と、その本質についての誤った諸見解とに二分するのは無意味」 という反論が予想される。
# 実践に対する理論の影響の有無という問題。 文脈は違うが、後にも、反実在論(理論)を取ると、 実践が変容する(相対主義が蔓延する、など)の問題が取り上げられる。
5. このような全体論はダメ。 その理由: 道徳語の「完全な意味」(実践と理論から得られる意味) と道徳の実践とを区別した場合、 この完全な意味が人によって異なることは、 道徳の実践が人によって異なることを必ずしも意味しない。 これは、人々が数について全く違った理論を持っていたとしても、 実践においては見分けがつかない(誤りが探知されない)のと同じ。 同様に、道徳的実践から「客観主義」の誤りを見分けることはできない。
# 実在論を採っていても、非実在論を採っていても道徳的実践はそれによって 影響を受けないという主張。
6. 「しかし、客観主義の誤りを体現していることがわかる実践があるのでは?」 という反論が予想される。だとすると、そのような特徴は、 Blackburnの準実在論(quasi-realism)で説明できる範囲を超える 特徴であることになる。 Quasi-realismとは、一見「実在論的」な通常の道徳的思考を、 反実在論の立場で説明し、正当化しようとする試みのことである。 私によれば(according to me)、準実在論はほぼ完全に成功しているので、 (日常的な道徳的実践は客観主義の誤りを犯しているとする) マッキーの立場は正しくない。
# 以下では、《非実在論(準実在論)では説明できない道徳的現象がある》 という批判に応答する。
7. (立場の明確化)
# ブラックバーンによれば、マッキーは二理論二実践 (実在論に汚染された「道徳」と、反実在論的に従った「シュ道徳」、 ただし後者は実際には作られていない)、 ブラックバーン自身は二理論一実践(道徳的実践と、 それに対する実在論的解釈と非実在論的解釈)。
8. 実在論を仮定しているとしか思えない(反実在論では説明できない)
道徳的実践とはどのようなものか。ブラックバーンによれば、
道徳的談話において用いられる一見実在論的な文法
(ギーチ・フレーゲ問題(道徳語を使用した文であり、
かつ断言を行なっていない文をどう説明するか)、
道徳的発話がとる命題形式、道徳における真理の役割など)は、
反実在論の立場でも説明可能。
もしそのような説明が成功するのであれば、
道徳的談話の文法が投影説を反証するとか、
修正主義を取らなくてはならなくなるという議論はできない。
例. 反実仮想文「かりに私たちが是認(欲求)していたとしても、
クマいじめは不正であっただろう」
(これは一見すると第二階の実在論的形而上学にコミットしているように見える--
欲求の有無と道徳的不正は無関係のように見えるので)
→「クマいじめの不正さは、わたしたちの是認のあるなしではなく、
主にクマに対する影響にある」という第一階のコミットメントである
とがんばることができる。
このように、準実在論の中心的な戦略は、
特定の第二階の形而上学を体現しているように見える思考は、
実は第一階の態度やニーズを表現している思考であると解釈する、というもの。
`a central quasi-realist tactic: what seems like a thought that embodies
a particular second-order metaphysic of morals is seen instead as a kind
of thought that expresses a first-order attitude or need.' (153)
# 上の説明の試みはこの論文では行なわれていない (`10. Attitude and Contents'を参照せよと注がある)。 indirect contextsにおける道徳語の使用の問題については、 `Moral Realism'のIII (Essays in Quasi-Realism, pp. 123ff)参照。
9. 以下では、投影説は倫理学の命題的文法をうまく説明できるものとして話を進める。 しかし、投影説の説明の仕方は、道徳が持つ客観的な「感触」(objectivist `feel' or phenomenology)を失なわせるのではないかと、 人を不安にさせるところがある。 これは、19世紀の人々が「神なしの倫理」という考え方に対して感じた不安と 似ている(とはいえ、現在のわれわれは「神が死んだなら、何をしても許される」 (ドストエフスキー)という考えには同意しないだろう)。
# 反実在論は道徳的実践を変容させるという意味で、反倫理的だ、という批判。 これは`9. How to be an Ethical Anti-Realist'のテーマでもある (`11. Just Causes' p. 208も見よ)。 上の説明を考慮すると、Ethical Anti-Realistというのは、 ある人々にとっては、Ethical Anti-Christというのと同じぐらい語義矛盾に 見えるのかもしれない。 ブラックバーン自身は、anti-realismよりもprojectivismという言葉を好んで 使っている様子だ。
10. とくに義務obligationについてこれがあてはまる。 義務はわれわれの外部にあってわれわれの感情や欲求を拘束するものとして 一般に考えられている(ie 義務の客観的存在を前提した実践のように思われる)。 マッキーならこのような義務の知覚をエラーとして退け、 実在論者はこの現象を自説の証拠とする。 そして両者から、 準実在論では義務のこの「感触」は説明できないという批判がなされる。
# この批判については、たとえばウィギンズの次の文章を見よ。
the non-cognitive view always readdresses the problem to the inner perspective without itself adopting that perspective. It cannot adopt the inner perspective because, according to the picture that the non-cognitivist paints of these things, the inner view has to be unaware of the outer one, and has to enjoy essentially illusory notions of objectivity, importance, and significance: whereas the outer view has to hold that life is objectively meaningless. (`Truth, Invention, and the Meaning of Life', sec. 5)
また、ちょっと文脈は違うが、 (アレグザンダーによる)遺伝子からの利己主義の正当化に対する シンガーの批判も参考にせよ。
もしアレグザンダーの本当に考えていることが、 「行為の生物学的説明が可能なら、行為の意識的な動機づけの存在 は否定されざるをえない」ということだとすれば、 私たちにできることは、彼は愛の営みをする前に 自分の性的欲求の「本当の意味」は「この種の欲求を人々にもたせた 遺伝子が後の世代に生き残る可能性を高めることにあるんだ」 とパートナーに向かって説明するのだろうかと疑ってみる ことだけである。 私たちの行為について生物学的説明ができるということと、 私たち自身の心の中に生物学的説明とは非常に異なった動機が存在するという こととは完全に両立する。 意識的動機づけと生物学的説明は異なったレベルに適用されるのである。
シンガー、『私たちはどう生きるべきか』、法律文化社、156-7頁
11. これ(人間の欲求や必要とは無関係な義務が存在するという問題)に対しては、 「そもそも第一階の理論として、(帰結主義ではなくて)義務論を取るのが問題」 という説明もありうる(これについてはIVも参照)。 しかし、義務論が間違っていたとしても、 道徳そのものに誤りがあるとは言えない。 そこでマッキーは、(帰結主義でも義務論でも問題になる)義務に焦点を絞り、 投影説だと義務の絶対的で外在的な感触を説明も正当化もできないと考えた。 これが正しいとすると、たしかに投影説はわれわれの道徳にとって危険な説だという ことになるかもしれないが、ホントに正しいのか。
12. この問題を考えるには、道徳的心理の説明と
正当化を区別する必要がある。
説明のレベルでは、投影説はがんばれる。
例. メーベルとフレッドは結婚したい強い欲求を持っているが、
義務の命令に従ってあきらめる。
この現象に対して、一方では、
良心(神の声)とか外在的な道徳的事実というものを持ち出して(実在論的に)
説明することができる。
他方では、フレッドが結婚したい欲求を抑圧するのは、彼の育ちによるものであり、
教育の結果、彼は結婚するという行為を「不正である」と
(あたかも実在論を裏付けるかのように)表現するにすぎないと説明することができる。
こちらの方が納得の行く説明。
というのは、人間の感情は柔軟であり、
一定の方向に強化することができる(感受性の陶冶)
というのはみなが知るところだから。
# 実在論的説明と反実在論的説明のどちらがbetter explanationかという話は、 マッキーの相対性からの実在論批判にも出てくる。
13. 感受性の陶冶という要素は、 投影説だけでなく実在論の立場からの説明でも使われる (道徳的事実の知覚のためには訓練が必要)。 そして、 実在論者が仮定するさらなる要素(事物の自然的要素とは別に存在する価値や義務) は、説明においては何の役目も果していない (`pulling no explanatory weight' 155)。 だとすると、フレッドの例が問題を生みだすとすれば、 それは現象の説明ではなくて正当化(合理性)のレベルにおいてということになる。
14. もしメーベルが、 フレッドの義務感について投影説と準実在論を用いて説明したとすると、 フレッドが合理的に考えたならば「道徳的義務は存在しない」と思うようになるか。 このような考え方は、 神がいなければ利他的になる理由がない(利己的になるのが合理的である) と考えた思想家たちと、合理性に関して同じ間違いを犯している。 われわれがある感受性の起源についてなんらかの信念を持っているという 単にそれだけの理由から、合理性そのものがある感受性をわれわれに押し付ける、 ということはない。 たとえばメーベルがフレッドのヒゲを可笑しいと思うことに対して、 フレッドが可笑しさは実在するのではなく投影の産物だと説明したところで、 メーベルが笑うのをやめることが合理的になるわけではない。同様に、 フレッドが道徳の投影説を聞いたからと言って、 フレッドの決心がにぶるわけではない。
# 投影説というメタな理論が、熟慮に影響を与えるかどうかという問題。
# この点について、すこし文脈が異なるが、 永井均氏の「善なる嘘」(あるいは「まやかし」)についての記述を参照せよ。 ブラックバーンの投影説は、以下で言われる 「みんながそれを知ると世の中が悪くなるような真理」 (反倫理的な真理)と言えるか。
「ぼくはそれ(=道徳には本当は従うべき理由はないが、 みながそうすべきだと信じているがゆえに、従うべき理由が生まれる)を、 ニーチェからヒントを得て、「善なる嘘」と呼んだが、 「善なる嘘」は「善なる嘘」だと知られてしまえば、 もう有効に機能しなくなってしまう。 それは、あくまでも(それ自体は善でも悪でもない)真理 として語られなくてはならないのだ。 道徳的言説は一般にそういうものではないかとぼくは考えた。
ということはつまり、逆にいえば、みんながそれを知ると世の中が悪くなる ような真理というものがありうることになる。永井均、『〈子ども〉のための哲学』、講談社現代新書、1996年、174頁。
15. しかし、 実際に感情の起源についての説明が感情の強さを減じることもありうる。 一つには、他の価値と結びついた説明は 感情の強さを減じる場合がある。 たとえば、心理学者はユーモアを隠された攻撃性と結びつけることがあるが、 もしわたしが自分の攻撃性を恥じているなら、 ユーモアを感じないようにすることが合理的でありうる。 同様に、人々が道徳に関して、 投影説と結びついたならば義務への尊敬を減じるような価値観を 持っている場合がある。 たとえば、実在の世界のあり方を記述しているようなコミットメントのみが 重要であると考えている人にとっては、投影説を受けいれるならば、 道徳に対する尊重が減じられることになるだろう。 しかし、これらの例からわかるのは、 感情の強さを減じるのは、実践についての説明そのものではなく、 ある種の事柄だけを尊重するように育成された感受性に対して 説明がもたらす影響なのである。 `it is not the explanation of the practice per se that has the sceptical consequence, it is the effect of the explanation on sensibilities that have been brought up to respect only particular kinds of thing. So when people fear that projectivism carries with it a loss of status to morality, their fear ought to be groundless, and will appear only if a defective sensibility leads them to respect the wrong things.' (156)
# 実践の説明(理論)そのものは価値中立であり、 投影説が義務感などに悪い影響を与えるとしたら、 そもそも義務感に関して間違った信念を抱いているから。 しかし、 「実在の世界のあり方を記述しているようなコミットメントのみが 重要である」と考えるのはなぜdefectiveなのか。
16. 以上のことは義務だけではなく、他の価値についてもあてはまる。 D・ウィギンズは、 投影説(彼の言い方では非認知主義)はわれわれが価値を自分の外部にある ものと知覚している(すなわち、欲求とは切り離されたものとして考えている) という事実と両立しないと批判する。 これは投影説が(人間の欲求しか問題にしないという意味で) 人間中心主義をとっているという批判とも考えられるが、 その場合は(クマいじめの例で見たように)的はずれな批判である。 しかし、別の理解では、これは15と同様、 「価値が主観的な源泉を持っているのにはがまんできない」 という誤った感受性に基づくものと思われる。 このような誤った感受性に適合した形而上学を作る必要はない。
# 道徳的実践や道徳的概念一般にはエラーはないが、 「神にとって重要でないものは重要でない」 と信じているような特定の感受性には欠陥(defect)があるとする。 しかし、マッキーはこのような特定の感受性をエラーと述べていたという 可能性はないのか?
17. しかしまだ、投影説に基づくと 「本当は義務なんてないんだ」 ということになるという疑いが残るかもしれない。 しかし、それは第一階のコミットメント(規範)と第二階のコミットメント(メタ)を 区別しそこねているから。 `It is not the position that he says these [ that there are real obligations and values, etc.] for public consumption but denies them in his heart, so to speak.' (157) 準実在論者は、 第二階の理論として反実在論者だが、第一階のレベルでは、 本当の義務の存在を主張することができる。 これは、数についての反実在論者が、 数の実在性を否定しながらも、 7+5が本当に12であると主張できるのと同じ。
# しかし、 本当に第一階と第二階(実践・熟慮と理論・説明)は判然と区別できるのか。 Wigginsの`Truth, Invention, and the Meaning of Life'や NagelのA View From Nowhere (たとえば人生の意味について 主観的な視点と客観的な視点の両立が難しいと述べているところ)、 ウィリアムズの『生き方について哲学は何を言えるか』 の第六章の功利主義批判では、この点が問題になっていると思われる。
# もう一つ、科学的知識と道徳に関する見解をメモついでに紹介しておく。 《科学的知識(=世界についての事実)からただちにある道徳が採用されるわけではない (「である」から「べし」は導かれない)。 科学的知識はなんらかの形で道徳的価値を制約するが、 どの価値を選ぶかはわれわれの[実存的]選択だ》とする長谷川眞理子の見解。 ただし、どのような形で制約するのかについてはここでは述べられていない。 どうも実存主義にコミットしているような気がする。
[遺伝子が利己的に振る舞うといった]科学的事実が、 [われわれが利己的に振る舞うべきだというような] 特定の教訓を引きださないのと同様、 特定の倫理観、価値観に科学的根拠などないでしょう。 奴隷制や階級社会の存在を正当化する科学的根拠がないと同様に、 いまの私たちの価値観を正当化する科学的根拠もないと思います。
しかし、科学的事実が価値判断と本当に関係がないのであれば、 結局は、進化生物学が発展しても、私たちの人間観とは無関係なのでしょうか? そうではないはずです。 かつて、人びとは、地球が宇宙の中心であると考え、 それに基づいた宇宙観や人間観を築いていました。 しかし、地球は宇宙の中心ではありませんでした。 その科学的認識は、徐々に人間の人間自身に対する見方を変えていったのです。 それと同じように、 人間を含めて生物がどのように作られているのかを知ることは、 やがて、私たちの人間観、生命観を変えていくでしょう。 事実をまったく無視した価値観を、ずっと持ち続けていくことはできないからです。 こうして、人間のさまざまな価値観は歴史的に変遷してきました。 それでも、獲得した知識の上に特定の価値観、倫理観を引き出すのは、 あくまで私たちの選択なのです。
(長谷川眞理子、「種と個のあいだ: 『利己的な遺伝子』をめぐって」 小林康/船曳建夫編『知のモラル』1996年所収、171-2頁)
18. 実在論者は、道徳の現象を救おうとするここまでの準実在論の (通常の考え方や、通常のコミットメントや情念には錯誤は含まれていないとする) 試みを評価しつつも、やはり依然として敵意を持つかもしれない。 彼らは、倫理学の知識は、投影説が考えているようなものではなく、 色の知覚経験とむしろ似ているとがんばるかもしれない。 この二つの理論(感情を世界に投射するという立場と、 感受性に密接に結びついた実在的性質を知覚するという立場) は必ずしも相反する立場にあるとは言えないが (`as I see it there are in the beginning two invitations, but they are not so much rivals as complementary to each other')、 二つ目の立場はいろいろ問題がある(アナロジーが成り立たない、 なんら有益な説明ができない)ことを本節で指摘する。 この二つ目の立場は、D・ウィギンズ、T・ネーゲル、J・マクダウェル、 そして最近ではH・パトナムらが多かれ少なかれ取っている立場である。
19. 批判者の理解では、投影説とは 「人間は価値自由の世界に対してのみ反応していると考えた方が道徳的実践を よりうまく説明できるので、道徳的価値は感情の投射である」 と主張する説明理論。 これには以下の三つの考慮によって(知覚説の立場から)批判される。
20. 上の思想家たちの全員がこれら三つを採用しているとは言えないが、 以上のような考え方を道徳思考の知覚説の要点として考え、 投影説と比較検討する。
21. 二次性質と価値や義務の性質とのあいだには次のような違いが指摘できる。
22. 物理的(身体的な)美の場合は、これほどの対比はなりたたない。 すくなくともa., c., e., f.(に関して対比が成り立つかどうか)が問題になる。 「美は知覚できても語れない」と言われるゆえん。 他方、何かがどれくらい善いかを語れないときは、 それは何か別の事実(どれだけ自分が幸せかとか) が言い表せないからである。 これらの考慮から道徳理論を二次性質の知覚の理論とそっくりと考えるのは 誤っていると考えられるが、 そのような厳密な類比が知覚説の要点ではないという反論も予想されるので、 もう少し考察する必要がある。
23. よく考えるならば、(1)(2)(3)は投影説に対抗できるような理論を提示できない。 まず、投影説も道徳的性質の知覚について語ることができる。 われわれは一般に、自分が真実を適切に把握していると考えるときには、 自分の知覚について「もしpでなかったら、 pにコミットする(ex. 信じる)ことはないのに」 という反実仮想文を用いて語ることがある。 しかし、このように述べることは認識論の終わりではなく始まりに過ぎず、 理論家は単にわれわれがそのような条件文を信じていると報告するだけではなく、 なぜそれを信じる権利があるのかについて説明しなければならない。 たとえば、「もしその形が正方形でなかったならば、 わたしはそれが正方形であるとは信じなかっただろう」 と語ることができるのは、 われわれが因果的に形によって影響を受け、こうした影響を形についての 判断に用いることができるからである (と、一次性質については普通standardlyこのように説明される)。 また、「もしそれが赤でなければ、わたしはそれを赤だとは信じなかっただろう」 は、自分を含めた人々がどのような条件(光の具合など)の下であれば それを赤と言うか、通常の状態を知っているから言われる(と、 二次性質については普通このように説明される)。 そして、道徳的な知覚について語られるとき、 準実在論の投影説の立場ならばそのような反実仮想文(あるいは、 なぜ人々が知覚になぞらえて語るのか)をきちんと説明できる。
# 共同体における合意を強調するブラックバーンの二次性質理解は、 `Values and Secondary Qualities'におけるマクダウエルの二次性質の説明と 微妙に違うかもしれない。マクダウエルの説明では、 `3. A secondary quality is a property the ascription of which to an object is not adequately understood except as true, if it is true, in virtue of the object's disposition to present a certain sort of perceptual appearance: specifically, an appearance characterizable by using a word for the property itself to say how the object perceptually appears. Thus an object's being red is understood as obtaining in virtue of the object's being such as (in certain circumstances) to look, precisely, red.'とある。 つまり、「対象が赤いという性質を持つと理解されるのは、 それがある状況において、まさに赤く見えるということによる」 というわけだ。二次性質のこの理解が マクダウエルの道徳的知覚の説明にも反映されている。
24. 気をつけないといけないのは、道徳的知覚について語るだけでは、 そのような反実仮想文を説明したことにはならないこと。 道徳的知覚の場合は、形や色のように因果関係や共同体の合意を用いて説明 することはできないため、 そのような説明は存在しない。
# 知覚説は説明に見えて説明になっていないという批判 (知覚したと報告するだけでなく、 どうやって知覚したのかについて説明する必要がある)。 次のマクダウエルについても同じことが言える (`there is no theory connecting these truths to devices whereby we know about them' (26のパラグラフ))。
25. マクダウエルは、(1)投影説の説明の方こそうさんくさいし、 (2)知覚説の方がよい説明を与えられると述べている。 マクダウエルの説明は、 質問の背後にある関心を満たそうとする`interest-relative' (関心相関的)なもの。 「なぜわたしはそのことを怖がったのか」 「なぜならそれは怖がるに値したからだ」 「なぜわれわれは人間の幸福を善いと考えるのか」 「なぜならそれは現実に善いからだ」
26. しかし、同じ質問によってそういうことを聞きたいのではなく、 もっと根本的なことを聞きたい場合もある(形而上学的な説明を求める関心)。 判断の正しさを繰り返すだけでは、 先程の反実仮想文を説明することはできない。
# `playing variations on the theme of everything being what it is and not another thing.' (163)と次のパラグラフで批判される。
27. そもそも道徳的営為を説明しようとするのが間違っている、 それは「外在的な視点」を取っているというquietistの反論に対して (知覚説の人もこのように批判する場合がある)。 一つに、われわれの道徳的営為はその範囲が大きくなったり小さくなったりする。 その適切な範囲を決めるために、道徳とは何かについての説明を必要とする。 また一つに、Xという判断を行なうことについて説明ができないという アプリオリな理由はない。試行錯誤する必要がある。 哲学者が現象(われわれが感じる恐怖を理解すること)のみに満足して、 それ以外(その起源や役割)は心理学者や社会学者や他の科学者にまかせればいいのか (いや、そうではない)。
# `How to be an Ethical Anti-Realist'(pp. 174-5)にもあるように、 ブラックバーンによれば、 このように自然科学的視点から道徳を説明できるのは、 準実在論の強みだと言われる。
# なお、二次性質の知覚と道徳的知覚とのアナロジーの困難については、 ウィリアムズの『生き方について哲学は何を言えるか』の第八章にも議論がある。
28. 投影説(という形而上学)が正しいかどうかという問題は、 第二階の問題だが、これは第一階の理論である帰結主義と結びつきやすい。 これに対してマッキーは実在論を義務論と結びつけている。 帰結主義は今日、人気がないので投影説と帰結主義の関係を最後に少し見る。
29. もしもわれわれがある行為を是認するときに、 その行為の持つ、帰結とはまったく関係しない特徴を是認するようにできて いたとしたら、われわれは義務論を持っていただろう。 この意味では投影説と帰結主義は本質的な結びつきを持たない。 そもそも、形而上学としての投影説は、 われわれが道徳するときに何をしているのかを説明するものであるが、 だからといって、われわれが道徳するときの具体的な仕方のすべての特徴を 説明できるわけではない(し、そのようなものでもない)。 しかし、次の仕方で両者の結びつきが自然であると論じることができる。 投影説は道徳感覚を所与のものとはせず、 道徳するという慣習を説明することによって「お話」を作ろうとする。 その「お話」はマッキーがそうしたように、 しばしば道徳の社会的役割(「道徳は、さまざまな欲求や必要を持つ人々がうまく 暮らせるように作られた発明」)に言及する。 このように「道徳は目的を持った慣習である」と言うと、 形而上学を越えてしまうが、 投影説にとっては自然な補足である。 とすると、投影説を採用する人が、人間の目的に反することを命じるような 義務論を採用することは考えにくい。 とすると、先のフレッドとメイベルの例を取ると、 フレッドが二人の幸せとは異なる方向に行為したいと考えるなら、 彼はただちにそれを義務だと考えるよりはむしろ、 自分の心理状態(そしてそれを生み出した教育) に何か問題があると見るべきことになるだろうか?
# 最後は、帰結主義を取るならば、 先ほどの義務と幸福の衝突の事例はどうなるか、という話。
30. しかし、フレッドは、「みなが自分と同じような動機づけの状態であれば、 社会的に望ましい」と考えることもできる。 これは規則功利主義の洗練された一ヴァージョンである動機帰結主義である (ブラックバーンはヒュームがこれを取っていたという)。 動機帰結主義とは、 「人々の従う動機づけは、人がそれに従う帰結(と、 他の人々もそれに従っていることを知っているという帰結) の善さに比例して善い」というものである。 この帰結主義では、動機づけやそれがもたらすさまざまな帰結によって行為を 判断するので、完全に帰結だけで評価する行為帰結主義や、 すべての価値が通約可能だとする功利主義の欠点を免れている。 したがって、この投影説と動機帰結主義のセットは強力である。
# この投影説と動機帰結主義という結論はマッキーと同じ。 マッキーとブラックバーンはそれほど違わないのかもしれない。
cf. `In the old days ... it was easy: we knew what emotivists and prescriptivists stood for. But this new, conciliatory position is harder to pin down, harder to recognize as a position. My view has always been that it is a question of explanation, of `placing' our propensity for ethics within a satisfactory naturalistic view of ourselves. I distinguish then between the ingredients with which you start, and what you can legitimately end up saying as you finish. To place ethics, I deny that we can help ourselves to moral features and explanations from the beginning. We have to see them as constructions, or, as I call it, projections, regarding ourselves in the first instance as devices sensitive only to natural facts and producing only explicable reactions to them. The aim is to explain and make legitimate the emergence of full-blown ethics on this austere basis. But there is no need to deny, as the error theorists did, that the full-blown system is in order as it is. Nor is there any need to regret apparently realistic features of it, if these can be earned from the slender basis.' (207-8)