なんで死刑ってやったらあかんの?

誤判可能性を論拠とする死刑廃止論の検討


1. 初期設定

いま仮に、ソクラテスに息子(ソクラッチ)がいたとする。幼いソクラッチ はあなたにこう訊く。

なんで死刑ってやったらあかんの?

そこで、仮にあなたが死刑廃止論に賛成だとすると、あなたはどのように 答えるだろうか。

(当然ソクラッチはギリシア語を話すわけだが、わたしが(関西弁に)翻訳し てあなたに伝えていると考えていただきたい。また、もちろんソクラッチはギ リシア人特有の合理的精神を持っていると考えられるから、「あかんもんはあ かん」式の答えには満足しないと思っていただきたい)


いくつかの答えを思いつくままに記してみよう。

これらの内のいずれかにあなたの答えは当てはまるだろうか。

(他にもいくつかの答え--例えば、特にアメリカでは人種差別や階級差別の 問題が大きくからんで来るし、政情が不安定な国々では政治犯の死刑の問題が ある--が考えられるかもしれないが、とりあえず今問題にしたいのは、日本に おける死刑制度の是非、特に殺人犯に対する刑罰としての死刑制度の是非であ る。そこで、ソクラッチもそのつもりであなたに質問していると思ってもらい たい)


さて、仮にあなたが答えが、「死刑制度には誤判がつきもので、 何も悪いことしてない人が死刑にされるかも知れへんから、死刑はやったらあ かん」であったとしよう。これは死刑制度を廃止する理由を誤判可 能性に求める議論で、日本では団藤重光氏をはじめとして、多くの死刑廃止論 者が「もっとも決定的な論点」(『死刑廃止論』、144頁)と考えるものである。 (『死刑廃止を求める』、136-148頁も参照)

そこで、本稿では、「誤判可能性が死刑制度を廃止する決定的な 根拠であるといえるかどうか」を--死刑廃止論者になったつもりの わたしが、ソクラッチの素朴な問いに答える形式で--検討してみようと思う。

(なお、本文中に引用した文献の詳細は、本稿末尾の参考文献欄に記してお く)


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Satoshi Kodama
kodama@socio.kyoto-u.ac.jp
Last modified on 12/23/97
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