"Show no pity: life for life, eye for eye, tooth for tooth, hand for hand, foot for foot."--Deuteronomy 19:21
ジェフリー・H・リーマンは「正義、文明、死刑:ヴァン・デン・ハーグに答 える」1という論文において、応報論的な立場から死刑廃 止を主張している。これに対して、長年の死刑存置論者であるアーネスト・ヴァ ン・デン・ハーグは「リーマンとナサンソンを反駁する」2という論文の中で、リーマンの主張に対する反論を行なっ ている。そこで本稿では、まずリーマンの議論を紹介し、次にヴァン・デン・ ハーグの批判を考慮に入れながらその問題点を指摘する。
リーマンは論文の冒頭で、死刑制度の存廃をめぐる論争においては存置論と廃 止論のいずれの側にも一理あり、相手の主張の妥当な部分を尊重しない議論で は相手を説得できない、と述べている。そこで彼は、これまでもっぱら存置論 の正当化に用いられてきた応報論によって廃止論を正当化することで、存置論 者にも納得が行くような廃止論を論じる、という戦略を採る。このような彼の 方針は、次の一文によく示されている。
まずわたしは、殺人者の処刑が正義justiceであることを根拠づけるような応 報的正義の概念を簡略に述べる。そして次に、たしかに死刑は殺人に 対する正義に適ったjust刑罰なのだが、死刑廃止は近代国家の文明 化の使命の一部であることを論じる3。(Reiman, p. 274)
それでは、まずいくつかの用語の定義を確認しておこう。応報論とはどのよう な理論なのか。リーマンによると、応報論とは「加害者は、自分のなした悪の ゆえに、それにふさわしい苦しみでもって仕返しpay backされるべきだという学説」(ibid., p. 278)である。この応報論はさ らに、「ふさわしい苦しみ」をどう理解するかで「タリオの法」と「比例的応 報論」に分けられる。
一方の「タリオの法」は「同害報復の法」とも呼ばれ、「目には目を、歯には 歯を」という定式化でよく知られている。リーマンはこれを「被害者に加えた のと等しいだけの損害が、加害者が受けるにふさわしいものであるとする説」 (ibid., p. 278)と述べる。他方の「比例的応報論」は、リーマンによると、 「応報が要求しているのは、犯罪と刑罰とが持つ損害の等しさではなく、犯罪 と刑罰の『対応関係』あるいは比例関係であり、最悪の刑罰が最悪の犯罪の損 害を再現している必要は必ずしもなく、最悪の犯罪がその社会の最悪の刑罰に よって罰せられるというような比例関係があればよいとする説」(ibid., p. 279)である。
リーマンは後者の比例的応報論の立場を採るのであるが、彼によれば、この立 場は(後に見るように)その前提としてタリオの法が正義であることを認めてい る必要がある。そこで次に、タリオの法が正義であるというリーマンの弁明を 見ることにする。
タリオの法に対する代表的な批判の一つとして、それは加害者に復讐しようと する被害者の欲求を正当化する試みにすぎないのではないか、というものがあ る。すなわち、タリオの法は正義でもなんでもなくて、ただ単に「やられたら やりかえせ」という素朴な復讐感情の現れでしかない、というわけである。こ の批判に対して、リーマンはどのように論じるのだろうか。
リーマンによれば、タリオの法は黄金律golden ruleと強い類似性を 示している。というのも、一方の黄金律の命令が「自分が他人にしてもらいた いことを他人になせ」であるのに対し、他方のタリオの法の命令は「自分が他 人になされたことを他人になせ」であり、これらいずれの規則においても、自 分の苦しみと他人の苦しみは等しい重みを持つと考えられているからである。 この二つの規則が共有する道徳的な含意は、「他人を自分と等しいものとして 扱え」という人間の平等the equality of personsの概念である。
この人間の平等の概念を用いて、リーマンは――カントやヘーゲルを援用しつ つ4――彼が応報原理 retributivist principleと呼び、応報論の核心と見なす 原理を、以下のように定式化する。
人間が平等であり理性を持つことは、加害者が報いを受けることと、被害者が 加害者に対して、加害者が被害者に加えた苦しみと等しいだけの苦しみを与え る権利を持つことを含意する。(ibid., p. 284)
リーマンによるとこの原理は、タリオの法が加害者に対する正義に適った報い desertであり被害者(もしくはその代理としての国家)の権利であることを規定 するだけでなく、同時に応報刑の意義をも示している。すなわち刑罰を科すこ とは、――単なる復讐感情の満足に過ぎないわけではなく――加害者と被害者 を含めた全ての人間が平等であり理性を持つことを肯定することであり、加害 者および社会全体にこのことを確認させる作業なのである。以上のような議論 から、リーマンはこの応報原理が真であると考え、タリオの法が正義であると する。
タリオの法がリーマンの言うように正義だとしよう。では、われわれはこの規 則をどのように用いるべきなのだろうか。
タリオの法に関しては、この点についてもたびたび批判がなされる。もしわれ われが「目には目を、歯には歯を」というタリオの法を厳格に適用すべきであ るならば、その場合、強姦した者には強姦を、拷問した者には拷問を刑罰とし て科さなくてはならないのだろうか。さらに、被害者の歯を折った加害者が総 入れ歯であったり、被害者の視力を奪った加害者が盲人であったりした場合に はどうすればよいのか。また、仮にこれらの場合には全く同じ損害を与える必 要はないと主張するとしても、一人の人間を殺した者と十人の人間を殺した者 がいた場合には、彼らに科す刑罰にどのような差異を設ければよいのか。―― 要するに、タリオの法は一貫して適用できないのではないのか。
この問いに対して、たしかにタリオの法は厳格に適用することが出来ない、と リーマンは認めている。そしてその理由として、リーマンは二つの理由を挙げ る。
一つは実際的な理由であり、たとえば十人を殺害した一人の犯罪者を十回死刑 にするということは実際的に不可能である。けれども、われわれはできないこ とをすべきだとは言えないのだから、こうした場合、われわれは加害者が被害 者に対してなしたことにできるだけ近似した刑罰を加える ことで満足するしかない。
もう一つは道徳的な理由である。たとえば強姦した犯罪者に対する刑罰が強姦 であったり、拷問した犯罪者に対する刑罰が拷問であったりするのは実際的に は不可能ではなく、またタリオの法を正義だと認めるなら、そうすることは犯 罪者に対する正義に適った報いですらある。だが、われわれはこういった「野 蛮な」刑罰を行なうことを他の道徳的な理由から禁止し、懲役や禁固といった 他の――そしておそらくはそういった「野蛮な」刑罰よりも軽い――刑罰を科 すことにしている。とはいえ、この場合、直ちにわれわれが被害者に 不正義 injusticeをなしていることにはならない、とリー マンは考える。
というのも、リーマンによれば、正義に適った刑罰には一定の範囲があり、タ リオの法はその上限を示しているのであり、ある刑罰がこの上限に満たない場 合でも、それが正義に適った刑罰の下限を上回っていれば、被害者に対して不 正義を行なうことにはならないからである。
では正義に適った刑罰の上限と下限とは何か。リーマンによれば、正義に適っ た刑罰の上限とは、それ以上の苦しみを加害者に与えることは加害者に対して 不正義になる境界であり、それはタリオの法によって示されている。逆に、正 義に適った刑罰の下限とは、それ以下の苦しみを加害者に与えることが被害者 に対する不正義になる境界であり、換言すると、それ以下の苦しみを与えた場 合には、加害者が被害者に与えた苦しみにふさわしい報いを受けているとはも はや考えられなくなるような境界である。
そこで、リーマンの考える正義に適った刑罰は、(1)最初にタリオの法を用い て、実際的な制約を考慮に入れながら、加害者がなした行ないにできるだけ等 しい報い(正義に適った報い)を決め、(2)次に道徳的に許容できる範 囲内でその報いに最も近似する刑罰を科す、という手順を踏んで決 められることになる。これが彼の言う比例的応報論である。
そこで比例的応報論は、――たとえば最悪の犯罪がその社会における最悪の刑 罰によって罰せられることを要求するものであり――加害者に対する正義に適っ た報いを、その社会における道徳的に許容可能な刑罰の表の中で、それに最も 近似するものに置き換えることとして理解されうる。さて、この応報論の二つ の形態(タリオの法と比例的応報論)は次のような関係を持つ。第一のものは、 もし加害者に対する正義に適った報い以外の何ものも問題でなかったとしたら、 正義に適った刑罰がどのようなものになるかを述べ、第二のものは、加害者に 対する正義に適った報いとその社会の道徳観念とが折り合う点に正義に適った 刑罰を位置づける。(ibid., p. 288)
だからこの理論に基づけば、先の拷問の例は次のように考えられる。(1)拷問 した者に対する正義に適った報いは拷問であるが、(2)「拷問による刑罰」と いうものをわれわれが道徳的に認めず、例えば代わりに長期間の自由刑を科し たとしても、それが当の犯罪に対する正義に適った刑罰の範囲内にあると考え られるならば、われわれは被害者に対して不正義を行なっていることにはなら ない。
前節で見たように、タリオの法に従った場合には、暴行や強姦や拷問をした者 に対する正義に適った報いはそれぞれ暴行や強姦や拷問であるけれども、われ われはそれらの刑罰を道徳的に許容できないが故に、比例的応報論の立場に立っ て何か別の刑罰をもって彼らを罰することになる。そして、リーマンの主張で は、こういった道徳的に許容できない事柄のカテゴリーの中に、死刑も加える べきなのである。では、なぜ死刑をこのカテゴリーの中に加える「べき」だと 言えるのか。またそもそも、われわれがそういった刑罰を行なうことを禁じる 「道徳的理由」とは何なのか。
リーマンによれば、われわれがたとえば拷問をこの道徳的に許容できない事柄 のカテゴリーに入れているということは、「社会としてのわれわれが、人を拷 問することはあまりに酷いことhorrible thingなので、たとえ拷問がふさわし いときでさえ、そうすることを拒む」(ibid., p. 294)という宣言を行なって いることになる。そして、われわれがそのように宣言することは、自分や他人 の受ける苦しみに対するわれわれの許容度toleranceの低さを示しており、さ らにこの許容度の低さはわれわれの文明水準の高さを表すと考えられる。
もし文明化というものが、われわれ自身の苦痛や他人の苦痛に対する許容度が 低くなることによって特徴付けられるとすれば、われわれの同胞に対して酷い ことをするのを公的に拒否することは、われわれの文明の水準を示すと同時に、 われわれが手本となることで、文明化の働きを継続させることになる 。(pp. 294-295)
そこで、リーマンによると、このカテゴリーにより多くの事柄を含めることが できればできるほど、われわれの文明はより進歩していることになり、またよ り進歩しつつあることになる。
しかし、一体この「文明の進歩」とは何を意味しているのだろうか。リーマン によると、これまでの歴史の趨勢から見て、文明の進歩には少なくとも、自然 環境とそこに住む人間という動物とを従順にすること――つまり、人間の生活 にとっての危険を減らすこと――が含まれる。それゆえ、われわれが同胞に対 して行なう酷い行為の数を(それがふさわしい報いであるときでさえ)減らすこ とは、文明の進歩の一部である。
では、リーマンが言っているのは、文明の進歩という大義のためにわれわれは 直ちにすべて刑罰を残酷なものとして廃止すべきだということなのだろうか。 もちろんそういう極端な主張にならないよう、リーマンは、次の二つの条件を 満たせば、われわれが同胞に対して行なう酷い事柄の数を減らすことが文明の 進歩になる、と限定を付けて述べている。その第一の条件は、「それによって われわれの生活がより危険にならない限り」というものであり、第二の条件は、 「正義に適った報いを行なわないことによって不正義にならない限り」という ものである。そして、リーマンによれば、死刑は酷い行為であり、しかも(少 なくとも当時のアメリカは)上の二つの条件を満たしているので、死刑は廃止 されるべきなのである。
われわれが処刑を拷問と共に、われわれの同胞である人間に対して――たとえ それらがふさわしいときでさえ――行なわない事柄のカテゴリーに入れること によって、われわれは次のことを宣言する。すなわち、ある人を他の人々の力 に完全に服従させることと、そして、人間の手によって執 行される死にその人を直面させることは、たとえそうすることがふさわしいと きでさえ、文明化した人間が同胞に対してなすにはあまりに酷いこと――なす にはあまりに酷いこと、なすことができるにはあまりに酷いこと――である、 と。そしてわたしは、このことを大きな声ではっきりと宣言することは長い目 で見た場合、殺人に対する一般的な嫌悪を生み出すことに貢献し、また、その 宣言が人々の心や精神に影響する限りにおいて、抑止力にもなるだろうと主張 する。要するに、殺人犯を処刑することをそれがふさわしいときでさえ拒否す ることは、われわれが文明化と呼んでいる、人類を従順にする働きを反映する と同時に継続するのである。そこでわたしは、死刑が殺人に対する正義に適っ た刑罰であるにも関わらず、それを廃止することは近代国家の文明化の使命の 一部であると考える。(ibid., pp. 300-301)
以上の議論からリーマンは死刑の廃止を主張し、殺人犯に対する最も重い刑罰 としては、死刑の代わりに、たとえば仮釈放なしの終身刑を用いることを提案 している。
以上のように、リーマンは死刑存置論者がしばしば用いる応報論の立場を採り つつも、そこから全く逆の結論を導き出している。しかし一体どうしてそのよ うなことが可能なのか。それは、私見によれば、リーマンが一つには「正義」 と「べし」のという言葉を死刑存置論者とは異なる仕方で用いているからであ り、また一つには、「文明化」の議論を持ち込んでいるからである。そこで以 下ではその二点に絞ってリーマンの議論の問題点を指摘する。
通常、死刑存置論者が「死刑を行なうことは正義である(正義に適っている)」 と言う場合には、「死刑を行なうべきである」ということを含意していると考 えられる(少なくともわたしはそうである)。したがって、彼らの考えでは、 「死刑を行なうことは正義であるがすべきでない」などという主張はありえな いはずである。
しかるに、リーマンは論文中で何度も、殺人犯に対して死刑を行なうことは 「正義」であるが、「なすべきでない」と述べている5。 すなわち彼によれば、タリオの法に従うことは「正義」であるが、タリオの法 に従った刑罰を科すことに反対する他の道徳的理由がある場合は、タリオの法 に従う「べきでない」。だから、リーマンは「死刑を行なうことは正義である がすべきでない」と言うことが可能であるような仕方で「正義」と「べし」を 用いていると言える6。
したがって、結局のところ、存置論者の使う「正義」とリーマンの言う「正義」 は、言葉こそ同じであれ、その意味内容はずいぶん異なっているのである。もっ とも、リーマンがこれら二つの言葉をそういう仕方で用いるのは彼の自由であ る。しかし、問題はリーマンが、彼と存置論者の間にある(またはありうる)言 葉の用い方の違いを明言せずに、あたかも存置論者の前提を認めているかのよ うに「死刑は正義である」と論文中でくりかえしくりかえし述べていることで ある。そうしたリーマンのやり方は、レトリックあるいは戦略としては優れて いるかもしれないが、やはり詭弁を弄していると言わざるを得ない。
リーマンは死刑の廃止が近代国家の文明化の使命の一部であるという。しかし、 本当に死刑の廃止が文明の進歩になるのだろうか。ヴァン・デン・ハーグは、 リーマンの「進歩」と「文明」の定義は恣意的であり、そのために彼の議論は 循環に陥っていると言う(van den Haag, p. 329)。リーマンは死刑の廃止をあ たかも文明化の必然であるかのように語っている。だが、たとえわれわれが文 明の進歩を望んでいるとしても、文明がリーマンの考える方向に「進歩」して きたからと言って、別の方向に「進歩」すべきでないとは言えない。ヴァン・ デン・ハーグは、リーマンの歴史の記述には道徳的(規範的) 議論が見出せないと論じる(ibid., p. 329)。
たしかに、死刑が残酷な刑罰であると国民の多くが感じるならば、少なくとも 民主主義国家においては、死刑は廃止されるべきであろう。しかし、死刑を残 酷でない――より正確に言えば、たとえ残酷であっても、凶悪な殺人犯に対す る死刑はふさわしい――と感じている国民に対して、死刑の廃止を「近代国家 の文明化の使命」として強制しようとするのは誤っている。たとえば、あなた がクジラを食べることを残酷でないと考えているとしよう。そして、クジラを 食べることを残酷だと考える人が、クジラを食べることは野蛮であるとか、文 明の進歩した国でクジラを食べるところはないとか、クジラを食べる習慣を廃 止するのは「近代国家の文明化の使命」だとか主張したとすると、あなたはど う思うだろうか。わたしならおそらく、その人は「クジラを食べない国々」の ことを「近代国家」と呼び、「クジラを食べないこと」を「文明的」と恣意的 呼んでいるのではないかと批判するだろうし、また、多くの国々と民族の多様 な歴史を一元化し、進歩の方向が一つしかないと考えるのはおかしいと述べる だろう。
結論すると、リーマンは応報論に「文明化」の議論を組み合わせることで死刑 廃止を論じているが、「文明化」という、問題の多い概念を持ち込むことによっ て彼の議論はむしろ説得力を失ってしまっている。7