児玉 聡 (kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp)
今回の事件は、 たとえば以下のような、一つ一つはもっともらしい道徳的直観(原則)が衝突する例。 どのように調停をはかるか。
2000年8月8日、マンチェスターの聖マリア病院で一組のシャム双生児が誕生し た。両親のアタード夫妻はマルタ共和国のゴゾ島に住むカトリック教徒である。 妊娠初期の検査でシャム双生児をみごもっていることが判明したため、設備の 整っている英国で出産すべきだという医者の勧めで5月に渡英してきた。あと で明らかにされたように、双子はグレイシーとロージーと名付けられたが、以 下では裁判で使用されたジョディとメアリという仮名をそのまま用いることに する。
シャム双生児は、受精卵が分かれて一卵性双生児になるときに卵が完全に分離 しないことが原因で生じる。出産10万件に対して1の割合で起きると言われて いるが、そのうち約4分の3は胸部か腹部で結合し、約4分の1が臀部か脚部で結 合している。ごくまれに頭部で結合している場合もある。
ジョディとメアリの場合は下腹部で結合しており、ちょうど足を横に広げた二 人の赤子がお尻をくっつけ合わせたような姿をしていた1。二人の脊椎は融合しており、大動脈と膀胱が共有されて いる。しかしこれらの点を除けば、二人の状態は劇的なまでに非対称である。 元気な方のジョディは正常な脳、心臓、肺、肝臓を持っており、分離手術が成 功すれば、歩行や出産ができて平均余命も期待できる人生を送る可能性が高い。 他方、メアリは脳が未発達の上、心肺がほとんど機能していないためジョディ が供給する血液に頼って生きている。もし分離手術をすれば、ジョディという 「生命維持装置」から切り離されたメアリがただちに死亡することは明らかで ある。しかし医者の意見では、分離手術を行なわない場合、二人分の血液を供 給しているジョディの心臓が負担に耐えきれなくなり、3ヶ月から6ヶ月以内に 二人とも死ぬことが明らかである。つまり二人は、分離手術をすれば一方のジョ ディは助かるがもう一方のメアリは死に、手術をしなければ二人とも死ぬ、と いう状況にあった。
事態をより複雑にしたのは、分離手術をするかどうかという困難な選択に関し て、担当医たちの意見と両親のアタード夫妻の意見が分かれたことである。医 者たちは二人が死ぬのを指をくわえて見ているよりも、手術をしてジョディだ けでも助けるべきだと主張した。しかし敬虔なカトリック教徒であるアタード 夫妻は次の二つの理由から手術を拒否した。一つは、ジョディとメアリは等し く生存権を持っており、二人のうちの一人を死なせることによってもう一人を 助けようとするのは「神の意志に反する」ということである。もし手術をしな いで二人が死ぬのであれば、それが神の意志である。加えて、たとえ手術をし てジョディが助かったとしても、彼女はなんらかの障害を持つ可能性が高く、 家族が病院施設の十分に整っていないゴゾ島に戻って暮らすことは、決して裕 福ではない夫妻にとってもジョディ本人にとっても最善の利益ではないと考え られる。こうした理由から両親が手術に反対することによって、分離 手術の倫理性だけでなく、代理決定する権限は誰にあるの かという問題が生じたのである。
質問1: 手術をする、しないのどちらの決定が正しいと思うか。 その理由も思いつくかぎり書け。
質問2: 最終的な決定は、両親、医者、裁判所のいずれが下すべきか。 その理由も思いつくかぎり書け。
ここから舞台は裁判所へと移る。1989年児童法によれば、医者が両親の意向に 反して手術を行なうには、裁判所の許可が必要である。そこで聖マリア病院を 管轄するマンチェスター市の保健当局は、双生児の最善の利益の観点からは、 手術を拒否する両親の権限は無効とみなされるべきであるとして高等法院に訴 え出た。判決は8月25日に出され、それは手術を許可するものであった。この 判決を下したジョンソン裁判官は、このような事例においては親の意向を尊重 すべきだとしつつも、児童法によれば「子供の福祉の考慮が最優先される」と し、分離手術を行なうことはジョディにとって最善の利益であるだけでなく、 手術をしなければ激しい苦痛を伴う短い生を送らなければならなくなる メアリにとっても最善の利益であると論じた。また、分離 手術によってメアリを死なせることは積極的行為ではなく、ジョディからメア リへの血液の供給を止めるという行為は、すでに判例が確立されている栄養と 水分の供給停止と同様の消極的行為であり、それゆえ手術 は合法的であると論じた2。この判決に納得しなかった 両親は、(1)手術はジョディにとって最善の利益ではない、(2)メアリにとって も最善の利益ではない、(3)いずれにせよ手術は(メアリの殺人であるから)合 法ではないと主張し控訴した3。
控訴は認められ、控訴院で一審の判決が審理されることになった。9月22日に 出された判決に先立ち、ローマ・カトリックのウェストミンスター大司教と、 プロライフ・アライアンス4が特別に参考意見を提出す ることが認められ、彼らによってメアリを殺すべきでないという主張が再び力 強く主張された。ウェストミンスター大司教は両親の意見を支持し、メアリを 犠牲にしてジョディを救うことは、ジョディを助けるためとはいえメアリに深 刻な不正を犯すことであり、道徳的に許されないと述べた。また、裁判所は子 供に対する親の「自然的権威natural authority」を尊重すべきだと主張した。 一方、プロライフ・アライアンスは、分離手術は欧州人権規約の第二条で保護 されているメアリの生存権を侵害するものだと論じた。さらに、判決後には、 ジョディを助けるために体の弱いメアリを殺すことは障害者差別につながると 警告した。
しかしこうした反対意見にもかかわらず、控訴院の判決は、一審のジョンソン 裁判官の議論を批判しながらも、その判決を支持するものであった。ウォード 裁判長は、1989年児童法の解釈については一審と同様に、子供の最善の利益の 考慮が両親の意向に優先するとし、かつ最善の利益についての最終的な決定権 は裁判所にあるとした。その上で裁判長は、明らかにされるべき論点を次の四 つにまとめた。(1)メアリと分離されることはジョディにとって最善の利益か、 (2)ジョディと分離されることはメアリにとって最善の利益か、(3)二人の利益 が衝突するとすれば、裁判所はどのように比較考量すべきか、(4)比較考量の 結果手術するとすれば、合法的に行なうことができるか。
まず、ジョディについては、分離手術をすることが彼女の最善の利益 になると裁判長は論じた。この点に関して裁判長は、手術を行なう ことはジョディの最善の利益ではないとする両親の意見は、メアリの生存権を 尊重する彼らの立場と両立しないと指摘した。なぜなら、両親が主張するよう に、重い障害を抱えたメアリを死なせることが彼女の最善の利益に反するのだ とすれば、ジョディが重い障害を抱えて生きる可能性があるからといって、分 離手術をしないで彼女を死なせることは、同じ理屈から言って彼女の最善の利 益に反するはずだからである。
次に、メアリの最善の利益については、裁判長は、彼女の生には価値がないと する一審のジョンソン裁判官の意見を生命の神聖さを軽んじるものとして批判 し、メアリにはジョディと等しく生存権があり、それゆえ手術を行なっ て彼女を死なせることは彼女の最善の利益に反すると述べた。
このようにジョディとメアリの最善の利益が衝突することを認めることによっ て、裁判長はジョディの生存権とメアリの生存権が衝突することを明らかにし た。そしてこのようなディレンマに直面した場合、裁判官は責任を放棄して両 親の決定に委ねるのではなく、「もっとも害の少ない選択肢the least detrimental alternative」すなわち二つの害悪の小さい方を選ばなくてはな らないとし、次のように論じた。生命の神聖さの原則からして二人の 生命の重さを比較することはできないが、手術が二人の生命の質にどう影響を 与えるかについては考察することができる。「死を運命づけられた」 メアリの寿命は手術によって数ヶ月縮まるが、ジョディは比較的普通の生活を 送れるようになるのであるから、双子にとっての最善の利益を考慮すれば、手 術を行なうことが圧倒的に支持される。また裁判長は、「メアリには生きる権 利the right to lifeはあったとしても、[ジョディの心臓に負担をかけて]生 きている権利the right to be aliveはない」とも論じた。
最後に、手術の合法性について、裁判長はまず一審の判決を検討し、手術はメ アリの身体への明白な侵襲を伴うため、栄養や水分の供給を停止するといった 消極的行為と同列にみなすことはできないとして、ジョンソン裁判官の主張を 退けた。次に、分離手術がメアリを意図的に殺害する行為であることを認めた うえで、メアリはジョディの血液を「吸い取る」ことによって彼女を殺しつつ あるのだから手術は正当防衛とみなすことができるとし、 違法性を阻却した。
以上の理由から裁判長は他の二人の裁判官とともに両親の訴えを退ける判決を 下し、分離手術を行なう許可を病院側に与えた。
この判決は英国全土で大きな反響を呼んだ。ウェストミンスター大司教は「他 の人の命を救うためとはいえ、罪のない人間を殺害することを許した危険な判 決だ」と非難し、9月23日付のインディペンデント紙の社説は「英国功利主義 の最悪の伝統」に則った判決として強く批判した。その一方で、「二つの命を 失うよりも一つの命を失う方がまし」とする意見や、「この判決は、(ジョディ を救うという意味で)実はプロライフであり、われわれは都合の良いときだけ 神の意思を持ち出す人々には用心しなければならない」という意見もあった5。
その後、両親のアタード夫妻は最高裁である貴族院に訴えるものと思われてい たが、控訴院判決の数日後に上訴を断念し、分離手術を行なうことを受け入れ た。手術は出産約3ヶ月後の11月6日に行なわれた。20時間にも及んだ手術の末、 ジョディは無事に手術室から出ることができた。しかし、予想されたとおり、 メアリは手術中に死亡した。
質問: 裁判所の決定は正しかったか。
分離手術に対する賛成意見と反対意見(浅井篤他、『医療倫理』、勁草書房、2002 年、217-8頁から)
代理同意の原則は、代理人は当人の最善の利益になるように判断しなければな らない、というものである。自己決定においては、自分の利益に反するように 見える不合理な判断を行なうことが許されるが、代理同意においては、当人の 最善の利益に反するような不合理な判断を行なうならば、代理人はその資格を 失う。たとえばエホバの証人の信者は、輸血をしなければ死んでしまう場合で あっても、(同意能力のある)本人の決定であれば輸血拒否を行なうことは法的 に認められる。しかし、同じことを親が子供について行なおうとした場合、病 院は裁判所の許可を得れば親の代理同意を無効にすることができる(千葉 2001: 322)。今回の控訴院判決においても、裁判長は手術をしないという両親 の判断は決して不合理なものではないとしながらも、二人の子供の最善の利益 を反映していないという理由から彼らの主張を退けた。
しかし、この判決に反対する人も少なからずいる。たとえば、Journal of Medical Ethicsの編集者であるラーナン・ジロンは、今回の件に関 しては親が決めることが許されるべきだったと主張している6。控訴院判決では、利益が衝突する場合には「もっとも害 の少ない選択肢」が選ばれなくてはならないとされ、手術をするという選択肢 が選ばれたが、彼によればこれは論点先取である。なぜなら、アタード夫妻の ように「罪のない人を犠牲にして人を助けることは許されない」という価値観 を持つ人にとっては、かえって手術を行なわないことこそが「もっとも害の少 ない選択肢」と考えられるからである。しかもアタード夫妻の信念は多くの人 に共有されており決して不合理なものとは言えないのだから、裁判所が彼らの 代理同意を無効にしてしまったのは間違っていた、と言うのである。
ジロンの議論は、要するに、「子供にとって最善の利益は何か」という問いに ついては複数の合理的な答があるので、明らかに不合理でないならば親は子供 の代理同意をする権限を奪われるべきではないということである。しかし、こ の議論には二つ問題がある。一つは、ジロンは「最善の利益」という語の意味 を拡張して使っているということである。控訴院の判決においては、「最善の 利益」あるいは福祉welfareは医学的な利益に限定されないとしながらも、生 命の神聖さの見地からすれば死ぬことがメアリやジョディの最善の利益の考慮 になることはありえないと論じられた。しかしジロンによれば、「最善の利益」 の考慮においては道徳的信念が生死と同じくらいかあるいはそれ以上の大きな 役割を果たすことになる。さらに、この道徳的信念は両親のものであり、子供 のものではないことに注意すべきである。ジロンの考えでは、子供の最善の利 益を考える際に、親の道徳的信念が貫かれるかどうかが重要な考慮になること になるが、この考え方は代理人は当人の利益を代弁しなければならないという 代理同意の原則を逸脱する可能性がある。もちろん代理人は何の信念もなく判 断することはできないが、代理者が当人の利益を代弁するときは、当人の生死 の問題を最大限に尊重することが要求されてしかるべきであろう。
さらに、「子供の最善の利益に複数の合理的な回答がありえる場合は親に代理 同意をする権限が与えられるべきである」というジロンの議論には、なぜ 裁判所ではなく親に代理同意をする権限を認めるべきなの かについての積極的な根拠が与えられていない。ウェストミンスター大司教が 言うような子供に対する親の「自然的権威」はどうやって正当化されるのだろ うか。子供に独立した人格が認められている以上、「子供は親の所有物だから」 という答えはもっともらしくない7。よりもっともらし い答えは、「なんだかんだ言っても、責任を持って育てるのは裁判官ではなく 親だから」というものや、「子供の利益を一番良く知っているのは、親だから」 というものであろう。これらの議論はもっともであり、親に優先的に代理同意 の権限を与える一応の根拠になると考えられる8。しか しこうした議論によって、親が子供を死なせる判断をなすことまでもが正当化 されると考えるのは困難であろう。アタード夫妻が述べたように、ジョディが 手術の結果重い障害を持つことになった場合には、彼女を責任を持って育てる ことができないから、夫妻にとってもジョディ本人にとっても手術をしないで 二人ともそのまま死んだ方がよいという判断を認めることは、生命の神聖さを 支持する立場からはできない。また今回の件に関して言えば、産まれたての子 供の一人を殺さなければならないという状況において両親が冷静に判断できる かという問題もある。このような場合、第三者の裁判官の方がより冷静に重要 な事実を考慮し、子供にとっての最善の利益が何であるかをよりよく判断する ことができると考えられる。したがって、代理決定に関しては、ウォード裁判 長が判決で述べたように、「生と死の事柄について争われている場合、それを 決定するのは明らかに、そして優れて裁判所が判断する事柄である」とした方 が安全であろう。
控訴院においては、ジョディとメアリの等しい重さの生存権が衝突することが 認められたが、それにもかかわらず、ジョディを助けてメアリを死なせる手術 をすべきだという結論が出された。この結論を支持する主な根拠は二つある。 一つは、生命の神聖さを唱える一方で、手術が二人に及ぼ す利害の比較考量を行ない、全体的に見て手術をする方が二人の最善 の利益にかなうという功利主義的な理由である。もう一つは、メア リはジョディを殺そうとしており、手術によって切り離すしかジョディを助け る手段がないのだから正当防衛だという理屈である。いず れの理由もある程度もっともらしく思われるが、その一方で「今回の判決は間 違っている、なぜなら或る人を助けるために別の罪のない人を犠牲にすること は許されないからだ」という主張にも相当な説得力があるように思える。そこ で、以下ではこの反論にどう答えることができるかについて考えてみよう。
まず、メアリは厳密には人あるいは人格ではないので、今回の件に関して「罪 のない人を犠牲にすることは許されるかどうか」という問いは的外れであると 主張したらどうだろうか。このような主張は一見とんでもないように思えるか もしれないが、英国の哲学者のメアリ・ウォーノックは、はっきりと「ジョディ からメアリを切り離すことは腫瘍を切除するようなものだ」と論じている9。また、控訴院の判決に反対する人々は、判決がメアリに ジョディと等しい生存権を認めると述べておきながら、メアリの脳を「未発達 primitive」と形容したり、メアリがジョディの血液を「吸い取り」ジョディ に「寄生」していると形容したりすることで、暗にメアリの存在価値を貶めて いると非難している10。たしかに、メアリを人格とみな さないで分離手術を盲腸を取り除くのと同じ種類のものとみなすとすれば、今 回の件には道徳的問題と呼べるものはほとんど存在しないことになる。しかし、 このように主張することは、メアリを人格と認める人々と同じ土俵で議論する ことを不可能にするばかりか、障害者に対する重大な挑戦とも受け取られかね ないだろう。妊娠初期の胎児ならいざ知らず、新生児の脳が未発達で心肺がほ とんど機能していないからといって、その子を人と認めないことには大きな困 難が伴う。この理由から、メアリを人格とみなして生存権を認めた控訴院の判 断は妥当だと考えられる。
次に、メアリに「罪がない」のかどうか考えてみよう。アタード夫妻やウェス トミンスター大司教は宗教的信念から「どのような理由であれ、罪のない人を 犠牲にすることは正当化されない」と述べたが、本当にメアリには罪はないの だろうか。そもそも「罪がないinnocent」という言葉の意味はあいまいである。 もし悪意が存在しなければ罪は存在しないと考えるならば、メアリが罪を犯す ことは不可能である。しかし、意図せずに人に危害を与えることも「罪」のう ちに含めるならば、ジョディの血液を借り受けることで彼女の生命を脅かして いるメアリに罪があることは明らかだろう。いずれにせよ、胎児が母体を重大 な危険にさらす場合は中絶することが通常許されるように、ジョディの安全の ためにメアリを切り離すことは正当防衛として認められるのではないだろうか。 ウォード裁判長もこの論点に言及し、学校の運動場でみさかいなく銃を撃って いる6歳の子供がいたら、その子供が「罪がない」のかどうかは置いておくと しても、他の子供を守るのに必要であればその子を射殺することは違法ではな いと論じている。そこで、今回の事例に関しては、「罪のない人は、いかなる 理由であれ犠牲にしてはならないかどうか」という問いは意味があいまいなの で、「ある人が意図せずに他人の生命を危険にさらしている場合、他の手段が なければ、その人を殺すことは許されるか」と再定式化される必要がある。こ の定式化が認められるのであれば、功利主義者だけでなく、個人間での利益の トレードオフを認めない人々であってもイエスと答える十分な理由を持つと思 われる。
最後に、控訴院の判決における「生命の神聖さ」と「最善の利益」の関係につ いて言及したい。すでに見たように、ウォード裁判長によれば、この判決はメ アリとジョディの二人の生命の神聖さを認め、彼らに等しい生存権があること を宣言している。したがって、たとえメアリとジョディが非常に質の低い生を 送ることが予想されたとしても、彼らの生存権が脅かされることはない。しか しその一方で、メアリは生きる権利は持っているが生き続ける権利は持たない とされ、分離手術が二人に及ぼす影響を考えた場合、ジョディが手術によって 得る利益はメアリが失う利益よりも圧倒的に大きいがゆえに手術は許されると された。しかし結局のところ、このような功利主義的な総和最大化の論理と、 死は最善の利益に反するという生命の神聖さの原則は、この事例では両立して いないように思われる。なぜなら、手術を行なうことは総和的には二人の最善 の利益になっても、それがメアリの死を意味する限り、生命の神聖さの原則に 反するからである。したがって、手術の合法性を示すために用いられた正当防 衛の議論は妥当であるが、親の代理同意を無効にするために用いられた最善の 利益の議論は、個人間の利益の比較考量という功利主義的要素とそのようなト レードオフに限定を課する生命の神聖さという要素がうまく同居していないた め、再考を要すると考えられる。
質問: 以上の議論に対する反論など。
今回の事件でわかるのは、代理決定における「最善の利益」の確定の難しさと いうことである。とくに、メアリにとって何が最善の利益になるのかは、生命 の神聖さのアプローチを取るのか、生命の質のアプローチを取るのかで大きく 変わる可能性がある。また、今回の事件やエホバの証人の例のように、宗教的 信念が関係してくると、さらに最善の利益を決めることが難しくなる。
一方、今回の控訴院の判決のように生命の神聖さのアプローチを取るならば、 ジョディとメアリの二人の最善の利益が衝突するときに、どのように解決すべ きなのかが問題になる。今回の判決では二人に対する手術の有益性という論点 と、正当防衛という論点が出されていたが、「二人の利益」という風に、利益 を足し引きして結論を出すことが、生命の神聖さのアプローチから許されるの かものかどうか疑問である。
終わりに、手術のあとのアタード夫妻とジョディについて述べておこう。夫妻 は今後のジョディの医療費と養育費をまかなう目的もあり、多額の出演料と引 き換えに2000年12月7日に放映されたITVのドキュメンタリー番組に出演した。 そのさいに、それまでは(公式には)伏せられていた彼らの出身地や本名などが 明らかにされた。また2001年の1月19日には、手術中に死亡したメアリの葬式 が、故郷のゴゾ島で行なわれた。そして同年の6月17日に、ジョディは元気な 姿で両親と一緒にゴゾ島に帰っていった。その前日には、裁判所の許可が下り て二人の本名であるグレイシーとロージーという名が新聞の一面を飾り、記事 には夫妻が今では手術がなされてグレイシーが生き残ったことを喜んでいると 述べられていた11。
参考: F. Barbara Orlans (Kennedy Institute of Ethics, Georgetown University), `38 History and ethical regulation of animal experimentation: an international perspective', A Companion to Bioethics, ed. Helga Kuhse and Peter Singer, Blackwell, 1998.
1. 19世紀以前は、動物を使った実験はまれ。
19世紀、生理学者のフランソワ・マジェンディ(1783-1855)と、その弟子クロー ド・ベルナール(1813-78)が動物実験を科学実験の基礎として確立。マジェン ディとベルナールの動物実験は麻酔をしないものだった。
1876年、世界初の動物実験規制法が英国で成立(英国動物虐待防止法 the British Cruelty to Animals Act)。研究者の免許制、研究施設の監査など。 同法は1986年改正。
2. 19世紀後半から、動物実験は科学研究の主な手段になる。
ベルナールの時代には、人間の病気の治療とは無関係な基礎研究をするた めに動物実験が行なわれた。
今日では、生物医学研究の大半は人間の健康を増進するのが主な目的。
たとえば、ガンや感染病の経過、治療法、予防法などを研究。他の目的と しては、新薬の開発、化粧品や洗剤などの安全性の検査、学生の実験の訓練な ど。(また、畜産動物の生産性の向上、ワクチンや抗体の培養など)
今日の生殖技術、遺伝子操作、 臓器移植などの発展は、動物実験の結果に多くを負っている。
3. 今日、動物実験は世界中で行なわれている。研究所で使われる動物(ネズミ、 ハムスター、モルモット、ウサギ、イヌ、ネコ、ブタ、霊長類など)は、 商業ベースで供給されている。
実験用に育てられる動物の他に、捨てられたペットや野生動物も使われる。 たとえば、米国で実験に用いられるイヌの半分は保健所から連れてこられる。 残りの半分は実験用に育てられたイヌである。
チンパンジーはかつては生物医学研究のために野生のものを捕獲していた。
→多くの国で絶滅。
1980年代になって捕獲して繁殖させるという方法が取られるようになった。
1997年、約2500匹のチンパンジーが世界中の研究所にいた。
1500匹は米国に、
残りはヨーロッパでエイズや肝炎の研究に使われた。
記録があまり正確でないため、世界中で実験に使われている動物の数は わからないが、毎年5千万から1億の動物が使われている模様。
1. 1998年の時点で、動物実験を人道的に行なうことを要請する法を 持つ国はすくなくとも20国存在する。
オーストリア、オーストラリア(のいくつかの州)、ベルギー、 デンマーク、フランス、フィンランド、ドイツ、ギリシア、アイスランド、 アイルランド、イタリア、ルクセンブルグ、オランダ、ニュージーランド、 ノルウェー、ポーランド、スウェーデン、スイス、英国、米国。
動物実験を全面禁止している唯一の国は、 リヒテンシュタイン公国(オーストリアとスイスにはさまれた小国)
2. 特定の実験手段を禁止する努力はほとんど失敗に終わっている。LD50テスト(半数致死量)、ドレーズ・テストなど。今日では自主規制の動きが進んでいる。
英国政府は1998年に化粧品やアルコール飲料やタバコなどの製品開発のための 動物実験の許可は今後一切与えないと宣言した。また、LD50テストを禁止し、 チンパンジーや野生の霊長類を実験に使うことも禁止した。
3. 現在、南米、アフリカ、アジアのどの国にも動物実験に関する法がない。
日本にも動物実験を規制する法がない。
日本には動物を用いた研究や研究所に認可を与える公式の制度がなく、 実験のプロトコルを検査する制度もないが、 動物を無意味に殺すべきでないとする仏教文化に支えられて、 動物保護の長い伝統がある。 しばしば、医学研究所では研究のために殺された動物の慰霊祭(慰霊式)が行なわれる。
4. 12ヶ国の現行の動物実験を規制する法によって言及されている、もっとも 重要な7つの基準
7つの条項のうち、もっとも言及されているのは1と3である。 英国とドイツの法のみが、すべての条項に言及している。
1. 1970年代から実験動物の取り扱いに対する市民の関心が高まった。それは 一つには動物権利運動の影響だが、もう一つには動物の能力や感情に対する科 学的知見の深まりにもよる。
動物権利運動の誕生は1975年のシンガーの『動物解放論』Animal Liberationによる。
トム・リーガンやバーナード・ロリンなどの哲学者も市民の意識を高めるのに 貢献。市民の意識の向上に並行して動物の保護を強化する法が成立した。
2. それとほぼ同時期に、多くの種類の動物はそれまでに考えられていた以上 に心的能力が高いことが、動物行動学者(animal behaviorist)、行動生物学者 (ethologist)やその他の科学者たちによって示された。
人間と他の霊長類は多くの遺伝的、生理的、心的特徴を共有する。たとえば、 チンパンジーと人間の遺伝子は約98パーセント同一である。
言語も人間だけの専売特許ではない。すくなくとも大型類人猿は明らかに言語 を使用している。ハチや他の昆虫でさえお互いにコミュニケーションをしてい る。
能力は動物によって異なる。一般的に、心的能力は動物の神経系の複雑さと比 例する。
霊長類(ヒト、チンパンジー、ゴリラ、ヒヒや他のサルなど)が最も複雑な神経 系を有し、他の脊椎動物(ネズミ、ラット、ウサギ、鳥、魚など)、無脊椎動物 (昆虫、カタツムリ、ミミズ、原生動物(ゾウリムシとか))がそれに続く。
脊椎動物は苦痛を感じ、なかには心的苦痛を感じるものもあると考えられている。
無脊椎動物の中にも(たとえばタコ)、苦痛を感じるものがあると考えられてい るが、苦痛を感じる生物と感じない生物の間の線をどこで引けるかはまだ明ら かではない。
2. 実験動物保護法は、通常、すべての脊椎動物(恒温の哺乳類、冷血の魚や爬 虫類や両生類)に適用される。
英国とカナダはタコも保護している点で例外的である。逆に米国の法はラット、 ネズミ、鳥を除外している点で例外的である。
動物実験をする科学者の倫理的ジレンマは、系統発生学的に上位にある生物 (たとえばチンパンジー)を使えば使うほど、人間に生理学的にも心理学的にも 似ているので、研究にとって都合がよいことになるが、同時に人間に近ければ 近いほど身体的、精神的苦痛を感じる能力も高くなってしまう、ということで ある。
霊長類学者のロジャー・フーツ(Roger Fouts)によれば、アフリカで自由に暮 らしているチンパンジーは、未開の民族とたいして変わらない。「彼らは共同 体を営み、狩りをし、母は子供をいたわり、子供は母をいたわり、道具を作っ て使用し、彼らはおそらくもっとも重要なことには、身体的苦痛だけでなく感 情的苦痛をも感じる」すると、未開の民族を実験に使ってはいけないならば、 なぜチンパンジーは使っていいのかという倫理的問題が生じる。
チンパンジーなどの高次の動物の使用を削減あるいは禁止する試みは、英国以 外ではまだうまくいっていない。
参考: Bernard E. Rollin, `39 The moral status of animals and their use as experimental subjects', A Companion to Bioethics, ed. Helga Kuhse and Peter Singer, Blackwell, 1998.
二つの物が道徳的に有意な違いを持つならば(そしてそのときに限り)、 その二つの物を道徳的に異なる仕方で扱うことが正当化される。
たとえば、ある会社の二人の社員が異なる業績を上げた場合、一方は昇進、 他方はそのままということは正当化されうる。しかし、 二人とも同じ業績を上げたのに、一方が男性、他方が女性という違いから 一方だけが昇進するというのは正当化されない。 一般に人種、性別などは、道徳的に有意な違いとはみなされず、差別と考えられる。
人間以外の動物(とくに哺乳類)は、人間と道徳的に有意な違いを持たない。 人間も動物も同じように苦しみを感じ、とくに成長したチンパンジーやゴリラ などの場合は、マージナルな人々(幼児や痴呆老人、知的障害者、昏睡状態の 患者など)以上に高等な知能を持っている。したがって、インフォームド・コ ンセント(十分な説明を受けた上での同意)がなければ人体実験を行なわないな らば、動物実験も行なうべきではない。
80年代半ばまで反論はなされず。「科学に動物実験が必要なのは当たり前。科 学は価値中立的だから、科学者は倫理的な議論はしない」
主張1. これまで動物実験を行なってきたおかげで、病気の研究、新薬の開発 が行なわれてきた。動物実験なくしては、これらの医学の発展はありえなかっ た。したがって、動物実験は正当化される
反論1. 目的は手段を正当化しない。ナチスの高山病の治療の研究や低体温症 の研究は医学に大きな貢献をしたかもしれないが、同意のない人々を実験台に したものだった。
反論2. 本当に「動物実験なくしては、これらの医学の発展はありえなかった か」。代替方法の開発
主張2. 動物には人間と同様の道徳的配慮は必要とされない。動物は理性を持 たないから権利を持たない。
反論: マージナルな人々は一部の動物よりも理性に欠けるが、道徳的配慮がな される
主張2': マージナルな人々は理性をあまり持たないかもしれないが、人間とい う種に属している
反論: 道徳的に有意な違いなしに人間という種を特別扱いするのは、種差別 (speciesism)だ