神を演じる

(かみをえんじる playing God)


医療による「自然的過程」に対する干渉を非難するときに使われる論法の一つ。 たとえば、人工妊娠中絶は、 人工的技術によって自然的過程に干渉するものと見なすことができる。 そこで、人為によって自然に干渉するのはけしからん、人間の傲慢だ、 と主張される。同様の議論が、安楽死、クローンなどについても言われる。 この論法は、appeal to hubris (傲慢への訴え)とも呼ばれる。

これに対しては、「自然的過程に干渉することが、常に悪いことなのか」 と反論することができる。たとえば、ガンができたり、アルツハイマーになることは 「自然」なことと言えるかもしれない。その場合、 ガンを化学療法によって治療することは「神を演じる」ことなのだろうか。

上の議論に対しては、さらに「ガンなどの病気は自然的過程からの逸脱であるから、 それに対する治療は許される。他方、 中絶を行なうことは明らかに自然からの逸脱であるから、 このような処置は許されない」と言われるかもしれない。

この場合、どのような基準で自然的過程とその逸脱を決めるのかが問題になる。 たしかに、 一般に病気を「自然的過程からの逸脱」とみなすことができるかもしれない。 しかし、たとえば、脳死状態になり、 人工呼吸器と栄養チューブにつながれてかろうじて生きている人は、 自然的過程にしたがっているのだろうか、それとも、 すでに自然的過程を逸脱しているのだろうか。 このような事例を「自然にしたがう」という基準によって決めるのは 難しいように思われる。

さらに、そもそもなぜ「自然にしたがう」ことがよいことなのか、 と問う必要がある。「人為(人工)と自然」という対比を考えた場合、 われわれはさまざまな人為的なものに囲まれて生きている。 テレビ、インターネット、飛行機、等々。 これらを「自然に反する」「人間の驕慢だ」 と言って非難すべきなのだろうか(実際にそうやって非難する人も少数いるが)。

食べものや医療においては、とくに「自然であること」が高く評価され (たとえば自然食品)、 自然に干渉すべきでないという主張にもある程度根拠があると思われるが (公害、食物汚染、環境破壊、等々)、 医療倫理においてこのような論法が使われるときには、 批判的態度を保つことが重要である。

自然の項も参照せよ。

23/Mar/2001


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Fri May 12 15:44:17 2000