Peter Singer, `Changing Ethics in Life and Death Decision Making'
注意: もちろん、いつもどおり適当な要約で、 まったくもって正確な要約ではありませんので、 ここから「シンガーの発言」として引用したりすると、 恥ずかしい思いをすることが十分に考えられますので、 くれぐれもご注意ください。
伝統的なユダヤ・キリスト教のSanctity of Human Lifeの発想は、 宗教的信念に依存しないpublic reasoningにおいては擁護できないことを示す。 最初に、過去30年間で人の死についてのわれわれの理解が変わったという事実が、 SOLに対して持つ意義について見る。 次に、この理解の変化が、不可逆的に意識を失った人の扱いについて持つ意義 について見る。 その後、重度障害新生児と自発的安楽死の問題を検討し、最後に結論を述べる。
1968年まで、世界中の死の法的定義は心肺停止に基づいていた。その年以降、 脳死基準が世界中のほとんどで広く受け入れられた。 日本はその例外だが、後に述べるようにその拒否は正当化される。
死の定義が変わったことは、倫理的問題ではなく、 医学的問題だと受けとめられた。これは間違いである。 1968年にビーチャーが率いるハーバード委員会が考えていたのは、 臓器移植のために脳死基準を用いることが望ましいということであり、 これは医学的判断ではなく倫理的判断である。 脳死基準を新しい科学的発見と考えるという誤りは、広く受け入れられていた。 これは、脳死基準を(倫理的判断ではなく)科学的事実として理解する方が、 誰にとっても(医者にとっても家族にとってもレシピエントにとっても) 安心だったからである。
脳機能が失われた患者の中には、まだ生きたヒト生命体であることが明らかな 場合もある。長期間に渡ってICUで維持されたり、自然分娩するまで妊娠を保ち 続けた例もある。たしかにこれらの人々の生存は機械に依存しているわけだが、 腎機能が失われて透析によって生きている人を「死んだ」とはわれわれは 考えない。同様に、脳の機能が機械によって代理されている人々に関しても、 われわれは彼らを「死んだ」と見なすべきではない。
ハーバード委員会では、「不可逆的な昏睡」(irreversible coma)とか、 「知性の永続的喪失」(permanent loss of intellect)について語っている。 とはいえ、不可逆的昏睡というのは、全脳死と同じではない。 遷延性植物状態(PVS)の場合のように、 脳の一部に対する損傷により、意識が不可逆的に失われていても、 脳幹や中枢神経が機能し続ける可能性もある。
たしかに、ハーバード委員会の報告書は続けて「中枢神経系の活動が まったく見受けられない昏睡の個人についてのみ論じている」と書いている。 しかし、 死を再定義するために委員会が述べた理由--患者や家族や病院などへの大きな負担、 移植に必要な臓器の利用機会--は、全脳死の患者だけでなく、 不可逆的な昏睡の患者全体に当てはまる。
なぜハーバード委員会は全脳死に限定したのか? 一つは、全脳死の患者は一日か二日しか持たないと考えたからだろう。 脳幹が生きている場合には、食事と基本的な看護だけあれば 機能を維持しつづけることができる。 第二に、1968年の段階では、技術的に、「不可逆的な昏睡」が確実に診断できたのは、 全脳死の場合だけだったということが挙げられるかもしれない。 他に、全脳死の場合は呼吸器を外せば呼吸が止まり誰の目から見ても 死が明らかであったのに対し、PVSの患者は機械の助けがなくても呼吸をし続ける という違いがあった。だから、ハーバード委員会がPVSの患者までをも死者とすると、 生きたまま墓に埋めることができると言わんばかりに思われたかもしれない。
全脳死の患者の身体機能は、何か月あるいは何年も維持されることもあるため、 人の死を全脳死だけに限定する第一の理由は、もはや妥当ではない。 二つ目の理由も、技術的には解決されている。回復不可能かどうか 判定が難しい場合もあるが、脳の造影により、意識が戻ってこないかどうかを 明らかにできる場合もある。
そこで、三つめの理由だけが残る。
現在の不安定な状態の一つの解決法は、 意識の不可逆的喪失を死と定義することである。 われわれは意識が不可逆的に失われた場合、自分の存在にまったく価値がないと 考える。
意識と脳のつながりこそが、脳に価値がある理由である。 意識の不可逆的喪失は、大脳(高次脳)の機能の不可逆的喪失によるものである。
新しい死の定義を用いて、呼吸をして温かい人を「死んだ」と呼ぶべきだろうか。 通常に使われている言葉をこのように改革的に再定義するのは賢明ではない。 脳のない生物であっても、生きて、死んでいく。 ハーバード委員会の穏健な提案であっても、死についての人々の考え方に まだ完全に浸透しているとは言えない。 PVSの患者を「死んだ」ということは、 倫理的判断を科学的判断として偽ることになる。
脳には、われわれが価値があると考えている機能と、そうではない機能がある (それを生と死を分かつ機能だと考える必要はない)。 われわれの多くが重視する機能は、意識と関連する機能だろう。
意識の重要性を強調することは、必ずしも、 脳死に関する高次脳基準を採用することにつながるわけではない。 もう一つは、死の伝統的定義を受け入れたうえで、 「無辜の人の生命を意図的に終わらせることは常に不正である」という 倫理的見解を退けることである。そうすれば、死を再定義した場合と 同じ結論(PVS患者の治療を打ち切り、移植に用いる)が得られるだけでなく、 倫理的判断を透明にすることができる。
この提案に対して考えられる唯一の批判は、 「いくら論理的であるとしても、あまりに現実的でない。 これは、生命の神聖性に対する真っ向からの挑戦である。 それよりも、脳死を死とするフィクションを延長させる方が良い」 というものである。
フィクションが有益な場合もあるが、今回はそうではない。 一つに、フィクションは解体しつつある。 また、生命の神聖性は医療や法においてますます放棄されつつある。 一般的に、真理はフィクションよりも倫理の良き基礎である。
ここまで、 伝統的な人命の神聖性を主張する人にとっては、脳の機能が不可逆的に喪失した人を どう扱うのかが難しいということを論じてきた。 この問題に一貫した答を出すには、 「無辜の人の生命を意図的に終わらせることは常に不正である」 という、通常は当然のものとして受け入れている考え方を再考する必要がある。 これは多くの人には、驚くべき提案であるが、 多くの人に当然と思われている問いを検討するのが哲学者の仕事である。 一つの議論の仕方はこうである。 「ヒトを殺す方が、たとえばニワトリを殺すよりも悪いことだろうか」 という問いに対しては、シンガーのようなベジタリアンでさえ、 その通りだ(「路上や学校で無差別殺人をする方が、 屠殺場で毎日起きていることより、一層悲劇的だ」)と答える。 その理由を考えると、ヒトとニワトリには なんらかの違いがあるからだということになる。 しかし、それを種の違いに求めるというのは、種差別speciesismである。 たとえば、知的で友好的な火星人がいたとして、彼らがわれわれと種が異なる からという理由で殺してもよいだろうか(いや、よくない)。
そこで、動物をよりもヒトを殺す方がより悪い理由は、 ヒトは持つが動物は持たない能力だと考えられ、 それは高次の精神能力であるように思われる。 単なる肉体的快苦や、精神的な苦痛、意識であれば、 哺乳類でも持っている。 ヒトを殺すのが動物を殺すのよりも悪いのは、 自己意識や、将来設計をする能力を持つからである。 Here we have, I believe, a reason for distinguishing between the wrongness of killing beings that is based on something that is clearly morally relevant. 自分が生きていること、自分が殺されることを認識する存在のみが、 死ぬことによって将来の欲求を妨害されうる。
しかし、すべてのヒトがこの自己意識という能力を持っているわけではない。 たとえば新生児は、それを持っていない。 しかし、新生児は自己意識を持つ潜在性(potentiality)を持っていると 考えられるかもしれない。その場合は、胎児についても同じことが言え、 胎児を殺すことは不正であることになる。
米国ではこの結論を支持する人もいるが、多くの人はこれを支持しないことに 注意しよう。
ある存在が(人格になる)潜在性を持っているからといって、その存在を殺すことが 不正であるとは言えない。世界人口は60億を超え、やがては90億から100億になり、 地球の資源の限界が来ると考えられている。 妊娠できるカップルが産めるだけ多くの子どもを産むべき義務があるだろうか (いや、ない)。 同様に、胎児がかけがえのない、合理的な、自己意識のある存在になる からといって、中絶をしてはならない理由にはならない。
重度障害新生児の生死の決定について言うと、一般に新生児を殺すことが 不正なのは、新生児本人ではなく(新生児は合理的で自己意識のある存在者ではない)、 主に両親に対して与える害悪によると言える。
新生児が重度な障害を持っていることはどういう道徳的違いを生み出すだろうか。 1970年代後半、重度障害新生児については「自然に任せる」、 つまり医師が治療を行なわないことが一般的だった。 これは道徳的責任(治療義務)を回避しているように私には思われた。 しかし、よく調査してみると、一部の重篤な障害を持った新生児に関しては、 延命することが必ずしもよくないことがわかった。 しかし、この判断を誰がするのか。
通常は、子どもの生死によって最も影響を受ける両親が主な決定者となる べきだろう。医師は障害について否定的な意見を持つことがあるので、 必要なら、障害児を持つ親の会などに相談すべきであろう。
しかし、両親は合理的な理由から、子どもが生きるべきではないと判断する かもしれない。その場合どうすべきか。 重度障害新生児に関する私の見解が非難されていた昨年の9月、 NICUの責任者である医師から電話をもらった。 彼は、両親と相談して子どもが生きるべきでないと両親が同意した場合、 呼吸器を切り、栄養と水分補給のためのチューブもとってしまうと言った。 ただし、致死薬の投与は道徳的理由からしないと述べたが、 その理由を十分に説明することはできなかった。 私は、心理的には作為と不作為の違いはよくわかるが、意図的な治療中止と 積極的な介入のあいだに道徳的に重要な違いはないと述べた。 それどころか、より苦痛が少ないという意味では、後者(積極的安楽死) の方が望ましいと述べた。
すべての医師がこうではない。 同時期に、B夫人からメールをもらった。
「息子のジョンは、約2年半前に、11週早産で産まれ、 1lb 14oz(約850グラム)しかありませんでした。 医師は29週で脳内出血もないから大丈夫だと言いました。 実際は、ジョンは右側片麻痺が原因の、 痙性両麻痺小児麻痺(spastic diplegia cerebral palsy with right hemiplegia) で、感覚に問題があり、言葉の遅れもありました。 人々は、ジョンはおそらく多くの学習障害を抱えながらも、 「普通の」知性の人間になると言います。 ジョンは一部の小児麻痺の子どもよりも障害が軽く、 「普通の生活」をするいくらかの確率があると言えます。 しかし、問題はそういうことではないのです。
夫とわたしはジョン(3人の子どもの2番目)を愛していますが、 誰かが「Bさん、あなたの息子さんは一生多くの障害を抱えて生きることでしょう。 本当に治療を続けていいですか」と訊かれたら、 「いいえ、やめてください」と答えたでしょう。 大変な決断だと思いますが、最善の決断であったでしょう。 ジョンにとっても、わたしたちにとっても、わたしたちの他の子どもにとっても、 最善の利益だったでしょう。 ジョンが成長するに従って、彼が取り組まないといけないことが どれほどあるかを考えると、言葉にならないくらいに悲しくなります。
わたしが受け取ったこのような手紙は少なくなく、 B夫人は異常な例ではない。 こういう親は、重度障害児と生活しており、 子どもが産まれたときあるいはその直後に死んだ方が、 子どもにとって良かったとはっきり判断しているのである。
B夫人は、重度障害新生児を産むかどうかという選択をせまられたさいに たいていの人がどのように考えるだろうかという問いに関連するもう一つの 論点にも触れている。
ジョンの人生は、わたし自身がその立場であったら選ばなかったものである ことは明らかです。 わたしの夫と私は、われわれは重度障害児を育てることが得意であるわけではない と公言していますし、もし障害児が産まれるとわかったら、中絶するだろう とつねに言っていました。このような子どもを育てられるほど特別な人間では ないと感じるのです。
これはよくある見解である。 出生前診断は35才以上の妊婦にはルーチン的に勧められているし、 圧倒的多数の女性がその助言に従っている。 検査によって胎児にダウン症や二分脊椎があることがわかったら、 ほとんどすべての女性が妊娠を中絶する。 そこにはいくつかの動機が混ざっている。 部分的には、B夫人のように、重度障害児を育てるのが得意ではない というものである。また、「自分の子ども」に最善のものを与えるために、 中絶してもう一度妊娠しようと考えもするかもしれない。
この問題を考えるさい、少なくとも先進国では、今日ほとんどのカップルが家族 計画を立てることを忘れてはいけない。 カップルはおそらく二人とか三人の子どもを持つだろう。 たとえばダウン症の胎児を中絶した場合に、 それは「子ども反対主義(anti-children)」ではないし、 「生命反対主義(anti-life)」でもない。 単に、 「二人しか子どもを産まないから、 十分な人生を送れる最善の見込みを持ってほしい。 だから、最初にその見込みが深刻なほど悪い場合は、やり直したい」 と言っているだけである。
これは筋の通った見解である。 ここには、「障害を持った人生は生きる価値がない」という偏見が 反映されているだろうか。 それが偏見だとしても、非常に多くの人が持っているものである。 ほとんどの人は、他の事情が等しければ、障害がない子どもを持つ方が よいと考えている。 そうでなければ、なぜ対麻痺(paraplegia)のような疾患を克服する 方法を探す研究のためにお金を費すのだろうか。
われわれの多くは、重度障害を持った胎児の中絶に関しては、 上のような議論を受け入れるのに、 一度子どもが産まれると、まったく同じ議論を聞いてショックを受けるというのは、 奇妙なことである。 中絶反対論者の意見で正しい意見が一つあるとすれば、 出産それ自体は子どもに決定的な変化をもたらさないという点である。 胎児が新生児になるまでの変化は漸進的なものである。 産まれる前と後の最も大きな違いと言えば、養子に出せるかどうかぐらいであろう。 日本では、「間引き」という慣習が広くあったので、 この概念(新生児殺し)にそれほど自動的な拒否反応が出ないかもしれない。
出産という時点で線を引く理由はない。わたしの考えでは、 自己意識が始まるところが線引きをすべき点であるが、これも 明確な線が引けるわけではない。 どこかで線を引く必要があるので、クーゼとわたしはかつて 出産28日目まで両親と医師は子どもの生死について決定権を持つことができる という提案をした。 しかし、今日では、これは恣意的な線なので現実的ではないと考えている。 ここでは、正確な診断が付き、両親が良く考えた上で、なるべく早く、 とだけ述べておく。
この節を終わるにあたって、強調しておきたいのは、 わたしが論じてきたのは、新生児と新生児に関する両親の決定であって、 障害を持った子どもや大人に対して同じ議論が当てはまると考えている のではないということである。 ある人が車椅子を使っていたり盲目であるからといって、 その人が「人格」でないことには決してならない。それゆえ、 その人の命を本人の意思に反して奪うことの不正は、 その事実によってまったく軽減されない。 たしかに、のちに車椅子を使ったり、盲目になる運命にある新生児の命を 両親が終わらせることをわたしは認めている。 したがって、もしわたしの言うことが広く受け入れられれば、 障害者は今日生きていないことになる、と言われるかもしれない。 しかし、それは多くの点で中絶や、 (おそらく遺伝的障害を避けるように助言される)出生前のカウンセリングにも 当てはまることである。 だからといって出生前のカウンセリングをやめるべきだろうか。 また、中絶が不可能であったなら、(もう一人子どもを産む余裕が両親に なかったために)産まれていなかった人々も多くいるのである。
最後に、何度も言っていることだが、 障害を持った人が社会でよく暮らしていけるように、最大限の援助が 行なわれるべきであり、教育や雇用の機会が与えられるべきである。
伝統的な倫理に対するもう一つの挑戦は、医療に関する患者の自己決定権 の強調に由来する。自由な社会では、殺人の不正さを信じている人が、 「自分の生にはもはや価値がない」と考える末期の患者の判断とそれに協力 する医師を止めることはできない。 したがって、個人の権利や自由の支持者が自発的安楽死の合法化を 支持しないのは奇妙なことである。 なぜ、政府は市民の私的生活に立ち入るべきでないと考えている人が、 政府は死についての私的な決定について末期の患者と医師の私的な決定に 干渉すべきだと考えるのだろうか。
テリ・シャイボの件に関して、「生きる権利(right-to-life)」 の支持者たちが果たした皮肉な役割は、 「シャイボと同じ状況になったら治療を中止してください」という 事前指示の増加につながったということである。 より広範な影響としては、この事件で 積極的自発的安楽死や医師による自殺幇助などの、 「死ぬ権利(right-to-die)」に対する関心が再び高まったということである。 これらは、患者に判断能力があることを必要とされるので、 シャイボの事例とは異なるものである。
ジョン・スチュアート・ミルは、 個人は、自分の利益に関する最善の判定者であり、保護者(guardian)である、 と論じた。彼は有名な例で、 自分が安全でないと知っている橋を、他の人が渡ろうとしていれば、 橋が壊れるリスクを知らせるために、その人を力ずくで止めてもよいが、 それでもその人が橋を渡りたいと言うならば、 止めてはならない、なぜならその人だけが橋を渡ることが自分にいかに重要かを 知っており、橋を渡ることによる利益と生命への危険のバランスについて判断 できるからである。 このミルの例は、判断能力のある人が相手であることを前提としている。 個人の自由を重んじる人ならだれでも、 自分の生命については、本人が決めるべきだというミルの主張に同意するはずである。 もし判断能力が損なわれていない人が、自分の将来はあまりに暗く、 生き続けるよりも死んだ方がましだと結論するなら、 殺人に反対する通常の理由--それによって生がもたらす善が失われてしまう-- は、むしろ要求に答えるべき理由となる。
自発的安楽死はわれわれの社会の一部の成員には道徳的に 受け入れがたいものであろう。 しかし、「自発的」安楽死という考え方によって、彼らの考えは尊重されている。 すなわち、それは(緩和ケアや治療中止と同様に)「選択」であって、 すべての人に強制されているものではない。 今後も、緩和ケアや治療の中止といった選択肢を多くの人は望むであろう。 しかし、緩和ケアが多くの人に尊厳のある死をもたらすことができるからといって、 それがすべての人に適切であることにはならない。
したがって、緩和ケアによって楽にならない末期患者はほとんどいないという 主張は、妥当でない。その割合は5%ほどかもしれない。 わたしの根本的な主張は、それがたとえ0.05%となったとしても、 やはり成り立つ。いかなる患者も、 たとえ一部の人の道徳的・宗教的見解にはかなっていたとしても、 自分自身の見解からすれば憎むべき仕方で死なされるべきではない。
時間があれば他にも論じたいことはあった。 重度障害新生児の治療における死なせることと殺すことの区別を批判すべきである と同時に、最も貧しい発展途上国で絶対的貧困にある人々の生命を救うことを われわれが怠っていることに関しても、同じ区別について問題にすべきである。 この場合、われわれは、自分のためにたくさんお金を使うために、 援助を差し控えることによって「死ぬのを許し」ている。 これは殺人と完全に一緒であるわけではないかもしれないが、 結果は非常に近い。この講義ではキリスト教倫理に批判的であったので、 トマス・アクィナスという最も影響力のあるキリスト教神学者を引用して バランスを是正しよう。 アクィナスは私有財産制は人間のニーズを満たすために存在するので、 「人が余分(superabundance)に持っている物は、 貧しい人が生存を維持するために与えられるのが、自然の正義である」 と主張した。 彼は聖アンブローゾもこの見解を取ったとして、次の主張を是認して引用している。 「あなたが隠しているパンは飢えた者のものである。 あなたがしまっている服は、着る服がない者のものである。 あなたが土に埋めている金は、一文なしにとっては救いと自由である」 そこで、財産を「余分」に持っている人々 --平均あるいは平均以上の収入の北米、ヨーロッパ、 オーストラリアのほとんどの人々など--は、 世界の他のところでは飢えていたり栄養不足であったり、 基本的な医療が受けられないために死にかけている人がいるのに、 快適で贅沢な生活をしていることによって、不正を犯しているのである。 というわけで、昨年の夏にスコットランドでG8サミットで論じられたことは、 今回の講義と関係があるのである。 先に論じたように、 不可逆的に意識を失った人、まだ自己意識を持たない人、 また自己意識を持つが自殺の幇助を求めている人の生命を終わらせることは 正当化される。それと同時に、UNICEFによると毎年貧困に関連した理由で 死んでいく1000万の子どもの死に対する責任--われわれは不作為によって 彼らの死に手を貸している--を自覚すべきである。 われわれみなが「貧困を歴史上のことにする(make poverty history)」 道徳的義務を持つ。 カトリックの人々は、ヒト胚の生命を保護することよりも、 われわれが持つ余分なものは、実際には、 生存のためにそれを必要とする人々の「ものである」(belong)という アクィナスやアンブローゾの言葉をよく聞くべきである。
もっと時間があれば、動物についても話したかった。 ここでの大きな問題は、動物の死に方というよりも、 死ぬまでの生き方である。しかし、それはまた今度ということで。