児玉聡 (日本学術振興会特別研究員、京都大学文学研究科研修員)
日本公益主義学会発表用(06/Jul/2002, 15.50-16.40)
Non amo te, Sabidi & c. may be quite enough when all the question only is whether on shall see Sabidius or not see him: but when the question is whether Sabidius shall be burnt alive or let alone the reasons which a man should give for burning him alive may be expected to be of a cast somewhat more substantial. (PD 103/87)
1. しばしば、功利主義は反自由主義的な傾向を持つと言われる。 この批判は、反感の苦痛を功利計算に入れてもよいか、 という功利主義が持つ困難な問題とかかわっている。 たとえば、「ベンタムは実にはっきりと、快楽はそれ自体においては善であり、 苦痛はそれ自体においては悪であり、またこのことは「あらゆる種類の苦痛、 あらゆる種類の快楽についてあてはまる」としている。 それゆえ、ベンタムが「反感の快」や「悪意の苦」と呼ぶものも、 功利計算に入れられるべき快苦に含まれなければならないことは明らかである」 とテンは述べている(Ten 233) しかし、このような反感の苦痛を功利計算に入れるとすると、 ドゥウォーキンの言うように、 「たとえば同性愛は抑圧されるべきであるとする多数派の 選好が十分に強いとき、功利主義は彼らの欲求に譲歩しなければならない」 ということにはならないだろうか。(Dworkin 236/317) たとえば、ミルの次の問いについて功利主義者はどのように答えるべきだろう か。
いま、大部分が回教徒からなる、ある国民の中で、 多数者が国境内では豚を食べることを許さないと主張するものと想定しよう(…)。 これは、世論の道徳的権威の正当な行使であろうか。 もしそうでないとすれば、 それはなぜなのであろうか。 この習慣は、このような公衆にとっては、実際ぞっとするほど忌しいことなのである。 また彼らは、この習慣は神が禁じまた嫌悪しているものなのだ、 と心から信じている。(Mill 154/313-4)
2. ミル自身はこの問いに対して、「個人の趣味や個人の一身上 に関する事がらには、社会は干渉する権利はない」という理由から 世論の干渉を認めないと述べている(Mill 154/314)。 しかし、この答えは功利主義の立場から正当化できるのか。 ミル研究においては、 他者危害原則(harm principle)が功利原理と整合的かという問題。 もしharmにmorality-dependent distressが含まれるという立場を取るなら、 「個人の趣味や個人の一身上に関する事がらには、 社会は干渉する権利はない」という主張を功利主義によって支持するには、 このようなdistressはつねに無視できるほど小さいと論じなければ ならない(Honderichの見解)。 しかし、上のイスラム教徒のような例の場合は、 ミル自身も述べているように、 無視できるほど小さいと考えることは困難である。 また、harmにmorality-dependent distressが含まれないと論じるなら、 その理由を功利主義的に示すことは難しいように思われる(Tenの見解)。 ドゥウォーキンの外的選好の排除の議論も同じ文脈で考えられる(『権利論』、 黒人入学の差別とアファーマティヴ・アクションの例)。 ただし、 彼の場合は平等な配慮という功利主義とは別の前提によって外的選好の 排除が正当化されている(「黒人に不利な類別を行う入学者選抜政策 を支持する論証は、すべて功利主義的論証であり、 しかもこれはすべて外的選好に依拠しており、その結果、 平等な者として処遇される黒人の憲法上の権利を侵害するような 功利主義的論証である」Dworkin 239/320)。 しかし、功利主義それ自体によっては、 このような反感や外的選好を排除することはできないのだろうか。
3. 本論ではこの問題についてのベンタムの見解を検討する。 そのために、ベンタムの同性愛擁護論を取りあげる。 ボラレヴィが述べているように、この具体的問題についてのベンタムの議論は、 彼の道徳や法に対する態度を知る上で、 彼の主著『立法と道徳の原理序説』を読むだけでは得られない 重要な洞察を与えてくれる(Boralevi 37)。 この議論においてベンタムが取っているアプローチはミルが『自由論』 で取っているものとよく似ている。 ベンタムは危害原理と類似したテストによって同性愛を 法的に禁止する根拠がないとしたあと、 これまでに思想家たちによって提出されてきた禁止理由を退け、 最後に反感の原理と、それに伴う苦痛はカウントしないと論じている。 以下では、ベンタムの同性愛擁護論をくわしく見て、 彼の立場が功利主義的にどう整合的に解釈されるかを検討する。 また、 彼が世論をまったく無視してよいと考えていたのかどうかについても見る。 結論は、ベンタムは功利主義的見地から偏見の除去を主張することにより 多数者の専制に反対しており、 それゆえ彼は通常想定されているよりずっと自由主義的だというものである。
1. ベンタムが1785年頃に書いたとされるこの同性愛擁護論文 (`Offences Against One's Self: Paederasty')は、 1978年にJournal of Homosexuality誌上ではじめて公表された (現在はウェブ上でも掲載されている。http://www.columbia.edu/cu/lweb/eresources/exhibitions/sw25/bentham/index.html)。 明らかに『立法と道徳の諸原理序説』(以下『序説』)と内容の上で密接な関係がある この文章が『序説』あるいは彼が意図していた『刑法典』に組みこまれなかったのは、 その内容が未完成だったというよりも、 男色(Sodomy)を絞首刑によって禁じるという当時の社会状況による ものだったと思われる。 「恥ずかしながら告白するが、 この種の主題について自由に論じることによって、 人類の利益のために自分の個人的利益を大きな危険にさらすべきかどうか、 わたしはしばしばためらった」とベンタムは書いている(Crompton, 385)。 実際、英国で男色が終身刑に減刑されたのは1861年、 最終的に非犯罪化されたのは1967年のことである (英国における同性愛の歴史について詳しくは、 Cromptonの序文、『ホモセクシュアリティ』の序文、 板井氏の論文などを参照せよ。Boralevi pp. 37ff, 65-9にはこのテーマに関 するベンタムの草稿の詳しい情報が記されている)。
2. 「同性愛は法によって禁止すべきかどうか」 という問いについてのベンタムのアプローチは次のようなものである。
(注: なお、ここで言う同性愛行為とは成人の男性同士が合意の上で、 人に見られないところで行なうものと考えられている。 ベンタムは「人前で猥褻行為が行なわれたときは、 法的な強制力を受けるのが当然であろう」(PD 102/85)として、 ミルが『自由論』で述べた(Mill 167/327-8)のと同様に、 公然猥褻には禁止の根拠が あると考えている(しかし、ミルと同様、その根拠は明確ではない))
3. まず、(1)行為が有害であるかどうかという基準について見る。 ベンタムは、『序説』の第12章において、 行為の有害さを一次的害悪(primary mischief)と二次的害悪 (secondary mischief)の二つに大きく分類している。 一次的害悪とは、 特定の(単数あるいは複数の)個人に対して行為がもたらす有害な帰結のことである。 たとえば、わたしの家が放火されたとすると、 直接的にはわたしが、そして派生的にはわたしと利害関係のある家族や保証人、 また直接の利害関係はないがわたしに同情してくれる友人などが一次的害悪を こうむる(IPML ch. 12, 2-4)。
4. それに対して、二次的害悪とは、 一次的害悪がもたらす影響が、 社会全体、あるいは不特定多数の人々にもたらす有害な帰結のことである。 これはさらに不安(alarm)と危険(danger)の二つにわかれる。 不安というのは心配によって生じる苦痛のことで、 上の例を用いて説明すると、 わたしの家が放火されたことを聞いた人が、 自分の家も放火されるのではないかと心配することによって生じる苦痛である。 もう一方の危険というのは犯罪の可能性が高まることであり、 わたしの家が放火されたことが前例となって、 そのような犯罪を行なう人々が増え、その結果より多くの害悪が生み出される ということである(IPML ch. 12, 5-8)。
5. ベンタムは、行為がこれらの害悪を持つことが、 その行為を法的に罰する必要条件だと考えている。 すなわち、 ある行為が有害でない場合はその行為を罰する根拠がない(IPML ch. 13, 3)。 ただし、行為が有害であっても、 それ自体一つの害悪である刑罰に効果がなかったり、 刑罰を実施する方が社会的により有害であったりする可能性もあるので、 行為が有害であることはそれを法的に罰するための十分条件とは言えない (IPML ch. 13)。この一次的害悪と二次的害悪というテストは、 以下で見るように、 ミルにおける他者危害原理と非常によく似た役割を果たしている。
6. 一次的害悪と二次的害悪の以上の説明を踏まえたうえで、 ベンタムの同性愛擁護論のテキストを見る。 まず一次的害悪については、同意された当事者のあいだではいかなる 苦痛も生みださない。
なんらかの一次的害悪については、 あきらかにこれは誰にもなんら苦痛を生ぜしめない。 それどころかこれが生みだすのは快楽である(…)。 当事者はどちらも望んでいる。 どちらかが望んでいない場合、その行為はここで検討する範囲から外れている。 それは結果の性質を全く異にする犯罪である。 それは個人的傷害であり、一種の強姦である。(PD 390/32)
また、二次的害悪の一つである不安についても、 合意上の同性愛行為を耳にした人が感じる身の危険というものは存在しない。
二次的害悪については、これはなんら不安という苦痛を生みださない。 というのも、これになにか誰かが恐れるようなものがあろうか。 仮定により、この対象となる者は、好んでそうなる者、 そうなることに快楽を見いだす--ように見える--者だけである。 (PD 390/32)
さらに、もう一つの二次的害悪である危険についても、 同性愛の存在を知り、それを行なう人が増えたとしても、 同性愛行為そのものに害悪がないのであれば、 苦痛が増えることはない。
[不安の]苦痛以外のなんらかの危険については、 そのような危険は、かりにあるとして、 この例[同性愛行為]がもつ傾向の中になくてはならない。 だがこの例の持つ傾向はどのようなものか。 他の者を同じ習慣にひき込むこと。 だがここまででわかったかぎりでは、 この習慣はどのような種類の苦痛も誰にも与えていない。 (PD 390/33)
このように、上に挙げた放火の場合と違い、 同性愛の行為は、特定の個人に苦痛を産み出さないだけでなく、 この行為の存在を知った人に不安も危険ももたらさないとされる。 それゆえ、ベンタムの基準では、同性愛は法的に禁止する根拠がないことになる。
7. しかし、 このベンタムの議論は同性愛を嫌悪している人々の苦痛distressを 考慮し損ねているのでは、という疑問が残る。 一次的害悪にも、二次的害悪にもこのような苦痛が入る余地がないのはなぜか。 その理由は、 彼がこれまでに主張されてきた同性愛の禁止根拠を批判したあとで明らかになる。
8. 他の禁止理由の批判。 そのどれにおいても、 主張されているような害悪の存在根拠が薄弱である (clear and present dangerではない)ことが (ときに歴史的証拠を挙げて)強調される。
ベンタムはこの考察のあと、次のように結論する。
その犯罪の害悪が非常に間接的であり、しかも極めて不確かであるのに、 刑罰が非常に苛酷であるときは、そう決めた動機は、 公言された動機と違うのではないかと疑わざるを得ない。(…) 簡単にいえば、この場合も他のあまたの事例とおなじく、 犯罪者を刑罰にかけようとするのは、 刑の裁量権をもつ者がそれに対して反感(antipathy)を抱いているからというのが 唯一の理由のように思われる。(PD 93-4/67-8)
9. では、ここで同性愛の批判者が開きなおって、 たしかにベンタムの言うように直接の危害は存在しないが、 それでも同性愛に対する反感から生じる苦痛は現にあるのであり、 これも功利計算には入れられるべきではないのか、 と言うとどうだろうか。 ベンタムは上の引用に続いて行なう共感・反感の原理の批判において、 ある程度の回答を用意しているように思われる。
(注: 共感・反感の原理は『序説』で定義されている。)
共感と反感の原理とは、ある行為を、 その利益が問題となっている当事者の幸福を増大させる傾向や、 その幸福を減少させる傾向によってではなく、 単にある人がその行為を是認または否認したいと思うゆえに、 是認または否認し、その是認や否認をそれ自体として十分な理由であると考え て、 なんらかの外部的な理由を探し求める必要を否定するような原理を意味する。 (IPML 21, 25/94)
10. 同性愛に対するこうした反感は、 その行為に対する生理的な嫌悪感と、 快楽一般を悪いものとする禁欲主義的な考え方に 起因していると述べたあと(PD 94-7/68-74)、 ベンタムは次に引用する重要な節で、 この反感が正当な根拠でありうるかどうかと問うている。
反感は、それがどこから来たものであれ、 反感をもよおす人が何人であれ、 反感の対象が彼らの頭に思い浮かぶ時はいつもある種の苦痛を引き起こす。 この苦痛は、それが現れる時はいつでも間違いなくその犯罪の害悪のせいに される。 そしてそれがその犯罪を罰するひとつの理由になる。 さらに、これらの不愉快な人々[同性愛者]が受けさせられる苦痛を見て、 彼らを嫌悪する人々は快感を覚える。そしてその犯罪を罰する理由を さらに付け加えることになる。 しかしながら、それを罰することに反対する二つの理由が残る。 問題になっている反感(と、それから派生する悪意の欲求) は、その犯罪が本質的に害悪だと認められなければ、 偏見に基づいているだけである。 従って、それが誤った根拠に基づいていることを示す考察を明らかにしさえすれば、 反感はもはや苦痛ではない範囲にまで緩和され、軽減されるかもしれない。(…) つまり、処罰したいという気持ちがあることが、この場合、 あるいはどの場合でも、 処罰するのに十分な根拠として認められるならば、 処罰に際限がなくなってしまうのだ。 君主制の原理では、 主権者が嫌いな人を処罰することは正しいことになるであろう。 人民主義の原理でも、すべての人、あるいは少なくともそれぞれの社会の 多数派が同様の理由ですべての人を処罰するのは正しいことになってしまうで あろう。(PD 97/74-5)
(注: 刑罰に反対するもう一つの理由は、 反感そのものが処罰(道徳的サンクション)になっているというものである (PD 98/76)
ここで言われているのは、反感の苦痛が存在することは認めるが、 反感の妥当性を問わずに無批判に刑罰の正当化根拠とみなすならば、 異端の火あぶりといったものも含めあらゆる刑罰が正当化されかねない、 ということである。 上の引用ではベンタムは明確に述べていないが、 彼がこの帰結が功利主義的に好ましくない (長期的に見ればより多くの苦痛をもたらす)と考えていたであろうことは、 容易に理解できる。また、反感の苦痛は所与のものではなく、 偏見に基づいた反感はそれが誤った根拠に基づいていることを示せれば その苦痛を減らすことができるのであるから、 功利主義的に見れば、そのような反感に基づいて刑罰を課すことによって さらなる苦痛を生みだすよりも、反感をなくすことによって苦痛を 減らした方がよいということになるだろう。
12. しかし、ベンタムは、まったく世論 (同性愛やイスラム教国で豚を食べることに対する強い反感) は考慮に入れなくてよいと考えているのだろうか? ボラレヴィは上の文章を引用したあとに、 「功利主義的な推論を基礎にして、反感と偏見を無視することにより、 ベンタムは性的行動の領域における完全な自由を提案する」(Boralevi 65) と論じており、ベンタムがあたかも功利主義に基づかない世論は一切 無視してよいかのように述べている。 しかし、先の引用が述べているのは、 反感はその根拠のなさを明らかにすることによってなくすことができると いうことだけで、反感と偏見を無視してよいとまでは述べていないように思われる。 実際、『序説』においてベンタムは、刑罰が持つべき性質の一つとして、 世論の支持があること(popularity)を挙げている。 これは、刑罰が世論によって支持されていないと、 人々のあいだに不要な苦痛を生み出したり、 人々の自発的な協力を得られないからである(IPML 183)。 そして、世論の強い反発がある場合、刑罰を行なうことが不利益になる場合を 認めている(IPML 164)。 しかし、その一方で、 上の引用で「従って、 それが誤った根拠に基づいていることを示す考察を明らかにしさえすれば、 反感はもはや苦痛ではない範囲にまで緩和され、軽減されるかもしれない」 と述べていたように、 ベンタムは根拠のない反感は立法者の努力によって根絶されるべきだとも 考えている。
この性質[刑罰に世論の支持があること]が(…)必然的に仮定しているのは、 人々のあいだに、立法者が矯正するよう努めるべきなんらかの偏見が存在して いるということである。 というのは、もし問題の刑罰に対する嫌悪感が功利原理に基礎を持つなら、 刑罰は、それ[世論の支持がないという]以外の理由から、 用いられるべきではないことになるだろう。 その場合、その刑罰が世論によって支持されているかいないかは、 問題にする価値もないだろう。 したがって、適切には、世論の支持というのは刑罰の性質というよりは 人々の性質である--それは、 人々が彼らの是認に値する対象に対して不合理な嫌悪を抱く傾向性である。 (…)いずれにせよ、そのような不満が存在するかぎり、 立法者はその不満があたかも十分に根拠づけられているかのように、 それを考慮する義務がある。 どの国民も偏見や気まぐれな意見を持つものであり、 それに注意し、調査し、治癒するのは立法者の勤めである。 (IPML 183-4)
上の引用からわかるのは、刑罰(や犯罪)の功利計算については、 まず人々の道徳的意見がもたらす快苦とは無関係に行ない、 そのうえで、功利の命令と世論の指すところがかけはなれているならば 功利の命令を世論になるべく反しないように変更する一方で、 世論を変えるように努力するということである。 なぜ「道徳的意見がもたらす快苦」とは無関係に功利計算が行なえるのか については、上で見たように、それを功利計算に入れてしまうと、 どのような行為も犯罪となりかねず、またどのような刑罰も許されかねない からである。ベンタムはこうした「外的な考慮」によって支えられない 反感(反感と共感の原理)に基づいて刑罰が正当化されるならば、 たいていの場合、刑罰は必要以上に厳しくなり、多くの苦痛をもたらすものに なってしまうと論じている(IPML 29)。 しかし、ベンタムは不合理な世論に批判的ではあるものの、 それを無視できると考えていたわけではなく、 世論を説得できないかぎりはそれを 「あたかも十分に根拠づけられているかのように」 考慮した政策が求められると考えていたように思われる。
13. ベンタムが個人の自由の領域を確保することに努めていたことはたしかであるが、 ベンタムの功利主義の枠内ではこの個人の自由の領域は ミルがそう主張していたように絶対的なものではなく、 人々の偏見が強い場合には妥協せざるをえないものになりかねない。 したがって、 世論に対する配慮をどの程度強くとるかでベンタムの功利主義が自由主義的か 保守的かどうかが決まる。 しかし、根拠のない反感に従って当事者に刑罰という不要な苦痛を課すよりも、 その根拠のなさを示して苦痛を減らす方が 功利主義的に望ましいこと、 反感に従うと往々にして厳しい刑罰が選ばれてしまうこと、 またベンタムが自由化を主張する人よりも禁止を望む人の方に挙証責任を 課していること(「権力を持っている人がなんらかの根拠を挙げて ある慣習を禁止しようとしているときは、 禁止しようとする理由を示す義務は彼にある」Boralevi 64)などから、 ベンタムが自由主義の立場を支持していたことはかなり明確だと思われる。
1. テンは、外的な考慮を指摘できない反感の快苦は無視してよいとする リーズの解釈に対する反論の中で、 非功利主義者が感じる反感の快苦は、 暴行によって身体的傷害が生じるのと同じくらい「客観的」な事実だと述べている (Ten 234)。 ベンタムはこのような快苦の存在を否定しないが、 所与のものとも考えない。 根拠のない反感はその根拠のなさを示すことで矯正可能なものであり、 したがって苦痛を軽減またはまったくなくすことができる(これは 功利主義的に望ましい)。 したがって立法者は世論に配慮した政策を立てる一方で、 根拠のない反感の矯正にも努めるべきである。 彼は、 このような反感の快苦を功利計算に入れると多数派の専制を許すことになり、 功利主義的に好ましくないという理由から、 問題の行為に関して反感を感じる者がもっともらしい害悪を指摘できないかぎりは 刑罰を課すことはできないとしている。 このかぎりでベンタムは法によって(実定)道徳を強制することに反対しており、 自由主義の側に加担するものと考えられる。
2. ただし、ベンタムは、世論の存在しない理想的な状況での功利計算だけを 行なえばよいと考えていたわけではなく、 立法者が現実の世論を考慮に入れる必要性を認めていた。 世論を説得できないのであれば、 完全に自由主義的な政策を行なうことは功利主義的に見て望ましくない。 しかし、ここから出てくる結論は、 ベンタムの功利主義が自由主義的でないということではなく、 立法者やわれわれ市民が自由な議論を通じて偏見が 「誤った根拠に基づいていることを示」す努力をし、 功利主義は現実が自由主義の理想に近付くようにする、ということであろう。
今回の発表の準備にあたり、いろいろな形で援助を受けた。 特に以下の方々に深謝する: 文献を紹介してくれた板井広明氏、山本圭一郎氏、 このテーマについて注意を喚起してくれた林芳紀氏。