(06/08/98に、加藤先生の一回生対象の授業で、 ベンタムの倫理思想を簡単に説明したときのレジメ。 前半部分は英語の哲学辞典からの翻訳、 後半はベンタムの著書からの引用)
倫理学と政治理論・法理論に関する英国哲学者。ロンドンに生まれ、オックス フォードのクイーンズ・カレッジに12才で入学した。卒業後、リンカンズ・イ ンに入り法律を研究した。1767年に法廷弁護士の資格を得たが、一度も開業し たことはなかった。生涯を著作の執筆に費し、功利主義の学説(利害関係のあ る人々の最大限の幸福)に則った改革を、法体系全体、とりわけ刑法について 主張した。イギリスの証拠法の改革、負債を理由とする投獄を認める法律の廃 止、議会代議制の改革、公務員の試験による登用制度の形成、その他の多くの 事柄において大きな影響力を持った。生前に出版された主著は『道徳と立法の 原理序説』(1789)であった[1776年に匿名出版された『統治論断片』、および 1802年のデュモン編『立法論』も有名]。ジェイムズ・ミルとジョン・ステュ アート・ミルを含む[哲学的]「急進」派の頭となり、『ウェストミンスター・ リヴュー』とユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(そこにミイラとなった 身体がなお小室の中に安置されている)を創刊、創設した。ロシアのエカテリー ナ2世やジョン・クインシー・アダムズの友人であり、1792年にフランス[名誉] 市民となった。
彼によれば、快が唯一の善、苦が唯一の悪であり、「さもなければ、善悪とい う語は何ら意味を持たない」。彼は自分の意味する「快」の例を一覧にする。 味覚や嗅覚や触覚の快、財産を獲得する快、他の人々の善意を獲得しているこ とを知る快、権力の快、自分が気にかけている人々の快を想像する快。ベンタ ムはまた心理的快楽主義者でもあった。すなわち、快と苦がわれわれのなすこ とを決定する。苦を取り上げてみよう。あなたの精神の状態は現在(行為に先 立つ一瞬前)、(たとえば)火に焼かれる苦を予期しているために、苦痛なもの であるかもしれない。現在の苦(あるいは未来の苦の予期――ベンタムはどち らかはっきりさせていない)が、火に焼かれることを妨げようとする行為をす る動機となる。だが、ある人の快の内の一つは、他の人の幸福を共感を通じて 享有することでありうる。そこで人は他人が幸福になる見込みによって動機づ けられることがありうる。彼の心理学はこの点において、利他的動機づけと両 立しえないものではない[ここはよく誤解される点なので注意。ベンタムは心 理的快楽主義を主張したが、(通常の意味での、自己の利益のみを追求し他人 を顧みない)利己主義を主張していたわけではない]。
ベンタムの批判的功利主義の基本となる主張とは、ある行為や政策がなされる べきだと言われるのは、それが利害関係のある人々全体の幸福を増進する傾向 にある場合であり、その時に限られる、ということである。これは歴史的には すこしも新しい原理ではない。「このように解釈された場合に、すべきや、正 しいや不正な・・・という語は意味を持つ。さもなければ、それらの語は意味 を持たない。」ベンタムがこの一文を、道徳的語句の実際の意味に関する純粋 に言語学的な視点から述べたのではないことは明らかである[すなわち、ここ でベンタムはこういった語句の通常の用法を説明しているのではなく、彼独自 の定義を行なっているということ]。また、この原理は証明されえない。これ はすべての証明が生み出される最初の原理なのである。それでは、どのような 理由を彼はこの原理を支持するために述べることができるのか。一つに、彼に よれば功利原理は、少なくとも無意識的に、「すべての思考する人間」の判断 を「不可避的に」支配している。しかし彼の主たる答は、次の広く支持されて いる原理[共感と反感の原理]の批判にある。その原理は、人がある行為を不正 だと適切に言いうるのは、彼が(事実を知らされて)その行為を否認する場合で ある、と説く。(ベンタムは他の言い方も同じ命題に行き着くとして引用して いる。たとえば、「道徳感覚」や常識や、知性や、自然法や、正しい理性や、 「事物の適合性」の説などがそうである。)彼は、これは原理などではない、 と述べる。というのも、「原理とは、内的な是認の感情を保証し導く手段とし て、何らかの外的な理由を指摘するもの・・・」だからである。この原理と主 張されるものはまた、道徳の内容について、広い不一致を許すことになる。
ここまでのところ、ベンタムの提案は、どのようにして行為や政策が正しいあ るいは正しくないことを決めるのかをまだ正確には述べてはいない。ベンタム は、快楽計算を提案する。考慮中の二つの行為を比較する際、それぞれがおそ らく生み出すであろう快苦を計算する。すなわち、どの程度強いか、どの程度 長持ちするか、近いか遠いか、後々に生じる可能性のある二次的な快苦がある かどうか、などを考慮し、そして利害関係のあるすべての人が持つであろう快 苦を合計する。明らかにこのやり方ではいくらがんばっても近似的な結果しか 生み出されえない。われわれは、一時間続く一つの快が、一時間続く別の快よ りも大きいかどうかを決めることのできる立場にはない。たとえそれらの快が、 それらを比較することのできる一人の人の快であったとしても、そうである。 それらの快が異なる人々のものである場合には、なおさらではなかろうか? と はいえ、われわれは刑罰理論にとって重要な判断を行なうことができる。一人 の人に対してその場限りの被害を与えるような顔面への一撃は、彼を殴った人 に対する50回のむち打ち刑に比べてより大きい苦痛なのか、それともより小さ い苦痛なのだろうか!
ベンタムが大いに批判されてきたのは、彼が「二つの快は、もしそれらが等し く強く、長持ちし、等々、であれば、価値が等しい」と考えていたからである。 彼によれば、「快の量が同じであれば、プッシュピン遊びと詩は同じぐらい良 い」。一方で、いくつかの快は――特に知性的な快は――、より高級であり、 それゆえより重要視するに値する、と考えられてきた(たとえばJ. S. Millに よって)。しかし、この意見に対しては「いわゆる高級な快は、より長続きし、 飽きの来ない場合が多いものであり、楽しみの新しい領域を開拓するものであ る」と答えられよう。そしてこれらの事実を考慮に入れるなら、知性的な快そ れ自身により高い地位を与える必要があるのかどうかは明らかではない。
ベンタムの主な目標は、彼の「一般功利性の最大化原理」を刑法に適用するこ とであった。ベンタムは、「もしもある犯罪が誰かに対し損害を与えるもので ないのならば、刑罰を課すべきではない」と考えた。では、どれだけの重さの 刑罰が課されるべきなのだろうか? 結果的に見て、より大きな全体的幸福を生 み出す「最小限の量」である。刑罰の利点は、第一には犯罪の抑止であり、そ れはある特定の行為の考えに対して苦痛なサンクションの考えを結びつけるこ とによってなされる――そうすることにより、過去に法を犯した人と、将来に 法を犯すであろう人の両方を抑止することになる[刑罰論における予防論の立 場⇔「目には目を」の応報論(たとえばカント)]。そこで刑罰は、刑罰が実際 に行なわれないかもしれないことを考慮に入れて多少重くして、犯罪を行なう 人が得る利得を上まわるだけの厳しさを持たなくてはならない[犯罪と刑罰の 均衡]。
一般に、道徳的批判によるサンクションは、理想的な法によるサンクションと 大体において同じ方針を取るべきである。しかし、いくつかの種類の行為、た とえば、無思慮や姦淫など、法によって罰するのがかなり不適切な行為は、道 徳によって罰を与えることができる。
道徳哲学者の仕事は批判的なものである。すなわち、法あるいは道徳がどうあ るべきかを述べることである。法が何であるのかを述べることは別の事柄であ る。法が何であるかというと、それは、主権者の命令であり、主権者とは人々 が一般に従う習慣にある人と定義される[法の主権者命令説]。法は命令によっ て成り立っているので、命令法[命令文]によって表わされる。法の命令は、 「誰も盗みを働いてはならない」のように、人々に対して向けられるか、ある いは、「裁判官は盗みを働いたものに対し、絞首刑の判決をせよ」のように、 裁判官に向けられる。ところで、たとえば、ある人の所有物とは何かを述べる ような、説明という第三の部分があると考えられるかもしれない。しかし、こ れは命令法的部分に吸収される。というのも、所有物を指定することは、誰が 何を自由にすることができるかに関する命令に他ならないからである。どうし て人は現実の法に従うべきなのだろうか? ベンタムの答えは、「そうすること によって全体の幸福が最大化されそうな場合、そしてその場合に限り、人はそ うすべきである」というものである。彼は政治的義務の契約論を回避する。現 在生きている人々は決して契約をしたことはなかったのだから、彼らはいった いどのように拘束されていると言えるのか? 彼はまた自然権に訴えることにも 反対した。もし自然権としてたびたび言及される事柄が真剣に受け取られるな らば、いかなる政府も存続することはできない。というのも、政府は課税でき ないだろうし、兵役を命じることもできないだろうからである。また彼は、 「自然法」に訴えることも認めなかった。その学説によると、一度ある法が不 道徳だと示されたならば、その法は本当は法ではないと言うことができるかの ように考えられる[「悪法は法にあらず」]。それは馬鹿げた話であろう。
功利原理とは、利害関係のある人の幸福を増進させるように見えるか減少させ るように見えるかの傾向に従って、ありとあらゆる行動を是認または否認する 原理である。同じことを言い換えて言うと、問題の幸福を促進するか妨害する ように見えるかの傾向に従って、ということである。わたしは、あらゆるすべ ての行動について、と言った。ゆえに私的個人のすべての行動だけでなく、政 府のすべての政策についてもそうなのである。3
功利性とは、あらゆるものにある性質であり、その性質によってそのものは、 利害関係のある当事者に対し、利得、便宜、快楽、善、幸福(これらすべては この場合同じことになるのであるが)を生み出す傾向を持つのであり、または、 (再び、同じことになるのだが)利害関係のある人に対し、損害、苦痛、悪、不 幸が生じることを妨げる傾向を持つのである。もしその当事者というのが社会 一般であれば、社会の幸福であり、特定の個人であれば、その個人の幸福であ る。4
社会の利益というのは、道徳の言いまわしに現れる表現のうちでもっとも一般 的な表現なので、しばしばその意味が見失われてしまうのも無理はない。その 言葉が意味を持つとしたら、こういうことである。社会とは擬制的な組織体で あり、いわば社会の成員を構成しているとみなされる個々人によって成り立っ ている。それでは、社会の利益とは何であろうか? それは、社会を構成してい る個々の成員の利益の合計である。5
「個々人の利益とは何であるのか」を理解しないで、社会の利益について語る のは無駄である。あることが個人の利益を促進する、または個人の利益のため になる、と言われるのは、そのことがその人の快楽の合計を増加させる傾向を 持つか、同じことであるが、その人の苦痛の合計を減少させる傾向を持つ場合 である。6
そこである行為が、功利原理または簡略に功利性(社会一般に関する功利性)に 一致すると言われるのは、その行為の持つ、社会の幸福を増進する傾向が、社 会の幸福を減少させる傾向よりも大きいときである。7
功利原理に適合する行為について、 「それはなされるべき行為だ」とかまた は、少なくとも「それはなされぬべき行為ではない」と常に言うことができる。 また、「それがなされるのは、正しいことである」とか、少なくとも「それが なされるのは誤りではない 」と言うことができ、また、「それは正しい行為 だ」とか、少なくとも「それは誤った行為ではない」ということができる。こ のように解釈されたとき、すべきや、正しいや不正であるという言葉や、そし てそういった種類の他の言葉は意味を持つのである。そうでなければ、それら の言葉は意味を持たない。8
わたしの言う共感と反感の原理とは、ある行動を是認するか否認するかすると き、利害関係のある人々の幸福を増進させる傾向に基づいてではなく、かといっ て幸福を減じる傾向に基づいてでもなく、単にそれを是認したい、または否認 したいと思うから、という理由に基づく原理である。つまり、その是認または 否認をそれ自身で十分な理由となし、いかなる外的な根拠を探す必要も無いと する原理である。9
そこで、今ここに、社会の利益が左右されるような行為があるとして、その行 為の総合的傾向を正確に評価する場合は、次のようにすればよい。まず、その 行為に対して最も直接的に利害関係があるように思われる人々の内の、任意の 一名から始める。そして、次の点について評価をする。
この手続きがすべての道徳判断、あるいはすべての立法的または司法的作業に 先んじて厳密に行なわれるべきだ、というのではない。しかし、これは常に考 慮に入れておくことができる。そしてこうした機会に実際に行なわれる手続き がこの手続きに近くなればなるほど、そのような手続きは正確な手続きが持つ 性格に近くなる。11
これらすべての術artと学science――娯楽の学術(訳注: 主に芸術の分野)と好 奇心の学術(訳注: 紋章学や年代学など、ごく一部の人が快を得る学術分野)の 両方――の功利性、すなわちそれらが持つ価値は、それらが生み出す快と完全 に比例している。それらの学術のいずれかが他のものよりも優れていることを 示そうとされることもあるが、そのような優位性はすべて全くの妄想である。 偏見を抜きにすると、プッシュピン遊びは音楽と詩の学術と等しい価値を持つ。 もしもプッシュピン遊びがより大きな快を与えるのであれば、それは音楽と詩 のいずれよりも価値がある。プッシュピン遊びは誰でもできるが、詩や音楽は 少数の者しか楽しめない。プッシュピン遊びはいつでも無害である。詩につい てもいつでも同じことが言えるなら結構なのだが・・・。実際の話、詩と真実 の間には本性的な対立がある。誤った道徳false morals、虚構(でっちあげ)の 自然fictitious nature。詩人はいつでも何か誤ったものを必要とする。彼が 自分の土台は真実に基づいていると主張するとき、彼の建築物の装飾は虚構の ものである。彼の仕事はわれわれの情念を刺激し、われわれの偏見をかきたて ることである。真実、すなわちあらゆる種類の正確さは、詩にとっては致命的 である。詩人はすべてのものを色付きの媒体を通して見る必要があり、他のす べての人に同じことをさせようと努力する。たしかに、これまでに気高い精神 を持った人々がいて、詩と哲学は等しく彼らから恩恵を被っている。しかしこ のような例外は、この魔法の術から生じた害悪には及ばない。もしも詩と音楽 がプッシュピン遊びよりも好まれるに値するとすれば、それらは喜ばすのが最 も難しい人々を満足させるよう計算されている、という理由によるに違いない。 12