昼間のベンタム読書会第五回

11/30/96の内容

参加者--(相変わらず)江口さん、児玉


ご意見のある方は、kodama@socio.kyoto-u.ac.jpまたはメイルを送るまで。


わ、ベンタム読書会五回目っ。続きます続きます、いつまでも続きます。さて、それでは今日はまたライオンズの続きです。

前回はベンタムの功利主義が、

  1. 普遍的なものではなく、限定的なものであり、
  2. またそれは社会的な基準と個人的な基準の二元的な基準を持っていたと考えられ、
  3. その二元的な基準もより高次な「支配者は被支配者の利益になるよう行動すべきだ」という差動的differential基準にまとめられる、 っていう解釈が提示されたのでした。

今回はライオンズの解釈に対して予想される反論をライオンズがたたっ切る、というお話。


3.二元的基準の無矛盾性

1.二つの非同意義の(non-equivalent)原理

ライオンズはベンタムが二元的基準を持ってたと言ったわけですが、それは道徳的な"矛盾#(道徳的選択における際の矛盾)を孕んでるんじゃないかって、反論が予想されます。しかも2種類。ライオンズは、まず誤解に基づくこれらの反論を片づけましょうね、と言います。

一つ目の反論は、「二元的基準は内在的に矛盾を起している。なぜならそれら二つの基準は衝突しうるからである」って言う反論です。二元的基準の政治的な方は、他人を支配する者は彼らの幸福を促進せにゃならないといい、もう一方の私的な方は人は自分自身の行動を"規制#するとき、自分自身の幸福を促進せにゃならない、っていうわけです。そこで、例として二者択一を迫られている立法家を考えてみます。私的な基準に従えば選択肢Aが最も自分の幸福を促進し、政治的な基準に従えば選択肢Bが最も社会の幸福に役立つと考えられる。お、そうしたらこの立法家はどっちを選んだら良いんでしょうか。これが一つ目の道徳的矛盾です。

ライオンズは、大丈夫大丈夫任せなさい任せなさい矛盾なんて起きない起きません、おれの解釈完全だから、って言います。ついでに「矛盾inconsistency」の概念についても説明してやろう、とも言います。

これについてはライオンズがあの「くどくど戦法」、つまりあの延々と説明を続けて反論する気を失わせてしまう議論を展開しているので、いちいち全部説明すると日が暮れてしまいます。そこで簡単に言うと、この二つの同意義でない原理は、決してアプリオリに矛盾するものではない、つまり内在的に相反するものではないのである。なぜなら一つには、ある共通の事実をそれら二つの原理に投入し、それぞれの判断を導き出したときにその判断が矛盾し得る、というだけであり、原理そのものがアプリオリに矛盾しあっているわけではないからである。また、実際そのような相いれない判断を導き出す事実も存在しないかもしれない。そしてライオンズが考えるに、ベンタムも、そのような事実は存在せず、したがって実際にその二元的基準が衝突するとは考えていなかったと。もう一つは、二元的基準の適用は相互に排他的(mutually exclusive)である、という主張。政治的倫理(または非普遍的原理)と私的倫理(または倫理的利己主義)両方の原理に適用されるような行為は存在せず、いずれかのみに適用されるという考え。


2.義務と法

第2の反論はこうです。「次のように仮定してみよう。ある法規則が二元的原理の政治的基準を満たしているとする。しかしたとえ個々人の利害が長期的には完全に調和するとしても、現実の法はすべての場合において常にすべての利害を調和できるわけではない。というのは、法は使い良いよう・出来るだけ簡潔にあるために複雑なすべての利害を考慮に入れることは出来ないからである。その結果、政治的基準からすれば法によって禁止されている行為を個人的基準からすればその法を破って行為すべき状況というのが生じ得る。これは道徳的矛盾である。」(規則功利主義と行為功利主義の衝突?)

これに対する議論もくだくだしいわけですが、要するに、ベンタムの功利主義の他の解釈でもこの問題にはぶつかるわけです。普遍的解釈でもそう。功利主義を法と実際のおのおのの行為に適用する限り、この衝突は起こり得るのです。だからこのとがを持って二元的基準がおかしいというのはそれこそおかしいと。

結局ライオンズが思うに、二元的基準は簡単には否定できないぞ、と。ああ、この章はほんとにつまんない。次の章はテキストベースの反論から二元的基準を弁護する話です。


4.利害の調和

1.証拠の問題

「第2章でベンタムの功利主義の新しい解釈が主張されたが、それは彼の『序説』における二元的基準に基づいていたわけで、またその説明をしようと試みた。私はこの主張を第3章で弁護したのだけど、どう論じたかというと、ベンタムは個人倫理のための自己利益の基準と・政治的事柄のための社会的利益の基準のふたつを矛盾することなしに奉じることが出来たのであり、それはたとえそのふたつの基準が同意義ではなく、相違することが考えられたとしても、そうであったのである、と論じた。さてこれからわれわれはこの仮説的解釈をテキストにある最も重要な反証と対決させねばならない」、とライオンズは最初に言います。英語的な訳。

 ライオンズの指摘する可能性としては、ベンタムの功利主義は、

  1. 普遍的功利主義
  2. 限定的功利主義(ただし二元的基準ではなく、社会的基準だけ)
  3. 限定的功利主義(二元的基準も認める)
のいずれかに解釈されるわけです。このうちライオンズの新解釈は3.のわけですが、1.あるいは2.を支持するような言明が『序説』にあるわけで、どれが一番『序説』のより正確な解釈になっているか考えねばならない、とライオンズは言うのです。それでライオンズが申しますには、ベンタムの基本原理の差動ギア的解釈を伴った二元的基準仮説が最も『序説』に適合した解釈だということに相成るんです。お、けっこううまくまとまったか?


2.個人の倫理と法の技術

 この節においてライオンズは、『序説』第17章第1節第8、9項に言及しています。すなわち、ここでベンタムは各人は社会の利益のために行為すべきである、と述べると同時に、各人は自分自身のために行為すべきである、と言っている(とライオンズは解釈します)。このベンタムの言明が矛盾なく理解され得るには、ベンタムは個人の利益と社会の利益が少なくとも長期的に考えれば自然と調和すると考えていたと見なさなくてはならない、とライオンズは説明します。


3.法の基本的費用

 法の基本的費用とはつまり、法には害悪を伴う刑罰(legal sanction)が付いてくるということです。一方、個人の倫理にはいかなるサンクションも必然的には伴っていない(また道徳的サンクションを伴う慣習的道徳(conventional morality)と個人倫理はべつものである)、とライオンズは言っています。そこで、『序説』第17章第1節第8項によると、功利原理からいって、個人倫理の介入はなされるべきだが法の介入はなされるべきでない種類の行為が存在する、ということになります。

 ここで問題になるのはやはり二元的基準で、ベンタムのこの説明だと、法によって規制されるべきではないが、個人倫理によって規制されるべきである・当の行為の害悪性(功利性)は、ふたつではなく、単一の功利基準によって評価されているのではないかという反論を考えることが出来ます。いいかえると、ここでは、ある行為が社会的基準からすると有害であるが、個人的基準からするとそうではない、などという、ベンタムが二元的基準を考えていたならば当然なされそうな議論がなされていない、という反論です。

 ライオンズは、この反論に対してもやはり「利害の自然的調和」説を用いてけ散らします。ある行為をふたつの基準から評価した際、量(程度)的な差異はあるかもしれないが、質的な差異はない、などといっております。


(ここは第3章で省略した部分)

「ほほお、するとあなたはこの二元的基準が内的なinternal矛盾を持っているとおっしゃる。これはあれですな、一般的に言うと二つの原理がたがいに相いれないからどちらかが放棄されるべきだ、というやつですな」とライオンズは言います。

「確かにおっしゃるとおり、二元的基準をベンタムが持っていたというのは、二つの別々の・相いれない原理を彼が奉じていた、という風に言ってるように思えます。いわゆる「倫理的利己主義」(個人的基準にあたる)と非普遍的な功利主義(政治的基準にあたる)の二つの原理を彼が奉じていると。しかしですなあ、まず最初に言っておきたいのは、これら二つの原理が実践において論理的に矛盾する保証はどこにもないし、実際起こらないんですよ。長期的な考慮がきちんとなされれば、二つの基準は(全部とは言わないまでも)ほとんどの場合同じことをわれわれに命じるわけです。が、これは二つの基準が本質的にinherently支持できないものである、という反論に対する答えにはなっとりませんなあ、がはは」とライオンズは言います。

「一般的に言うとですな、道徳哲学における「矛盾inconsistency」っていうのは、衝突するか調和するか論理的に保証されていないような二つの原理の間の衝突なわけです。他方、日本語では区別しにくいですが、「相反contradictory」という言葉は、一つの原理が「自己の利益を促進する行為は正しい」と言い、もう一方の原理が「自己の利益を促進する行為は正しくない」と言っているような場合に用いられます。しかし、今問題となっているのはこのように明らかに「相反する」原理の組み合わせではないわけです。これも一応区別しといた方がいいかと思って言ってみただけ。がはは」とライオンズは申しております。

「一つ目のポイントはですな、普通「衝突する」二つの原理というのはたがいに厳密に相いれないとは限らない、ということです。これはあたりまえのことで、二元的基準にしても、「個人と社会の利益が衝突することがある」という事実がアプリオリなものであったり、二元的基準に内包されている、というものではない限り、二元的基準が内在的に矛盾していることにはならないのです」と申しとります。

「例えばこういうモデルで考えてみましょう。文Sが文pを含意することがしめされ、文S'が文p'を含意することが示される。しかしpは論理的にp'と相反する。したがってSはS'と矛盾し、少なくともどちらか一方を放棄せねばならない。これの特別な場合である自己相反self-contradictoryの場合は、pとp'が相反する場においてSがpとp'の両方を含意することが示され、したがってS自身が放棄される、ということになります。しかし、今問題になっているのはこういった・推論に他の前提が入ってこないケースではないわけです。大体原理間の衝突というのは事実に関する前提が問題となる場合が多いんです。だから「原理Pは判断jを含意し、原理P'は判断j'を含意する。しかるにjはj'と相反する。ゆえにPとP'は矛盾している」のようなモデルではないわけで、より良いのは次のようなモデルです。Fという事実に関する前提が与えられていて、Pからはjが、P'からはj'が導かれる。しかるにjとj'は相反する(と仮定されている)。さて、どういう帰結になるか?PとP'という二つの原理が矛盾するのではなく、PとP'とFという三つの組み合わせが矛盾するというだけである。すると結局この三つを同時に認めることが不合理なだけであって、PとP'という「衝突する」原理の組み合わせを受け入れることは不合理であるかどうかは示されていないんだなこれが」と申しとります。

「そもそも行動の基準となる原理ってのはですなあ、人はある行動をなすべきである、もしその行動がある特定の種の行動であるならば、つまりその一連の行動がある特定の「基準を満たす性質(criterial property)」を持っているならば、ってことをいっとるわけですな。たとえばですな、「約束を守る」ということを基本的条件として要求するような原理からすると、約束を守るある行為は、その原理の基準を満たす性質を持ってるわけで、その行為はなされるべきであるとか。逆に、約束を破るある行為はその性質を持つ可能性を満たさない(持たないのでなく、持ちえない)からなされるべきでないとか。また、ある行為がその基準となる性質を持っているわけでもないし、持っていないわけでもない場合、つまりその基準とは無縁な行為である場合、その行為は論理的にはその原理によって承認も否認もされないわけ(logically an open question)です。したがってですなあ、功利主義のような帰結主義的な原理によっては、約束を守るあるいは破るという行為はそれだけでは社会の幸福を促進したかどうかわからんわけだから承認も否認もされんのです」と言っております。


おつかれさま


Satoshi Kodama
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Last modified on 11/30/96
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