参加者--江口さん、児玉
ご意見のある方は、kodama@socio.kyoto-u.ac.jpまたはメイルを送るまで。
やあやあやあ、今日はちょっとベンタムの「最大幸 福原理」について考えてみましょうね。参考するテキストはJohn Dinwiddy教 授の"Bentham"(Oxford New York, Oxford University Press, 1989)です。こ のペーパーバックの第2章が「最大幸福原理」っていう名前で、この原理の解 釈がなされておるわけです。
それじゃまず、ベンタムの『立法と道徳の原理序説』の冒頭を読んでみま しょっか。
人間は自然によって、苦痛と快楽という二人の王の支配の下に置 かれてきた。彼ら苦痛と快楽だけが、われわれのすることを決めるだけでなく、 われわれのすべきことをも指示するのである。彼らの玉座には、一方には正・ 不正の基準が結わえられ、もう一方には、原因と結果の鎖が結わえられている。 (児玉訳)
いつ読んでも渋いねえ。さてこれを読んだ多くの人が、ベンタムはあの有 名な間違い、つまり「何であるかwhat is」と「何であるべきかwhat ought to be」との混同、いわゆる自然主義的誤謬を犯していると思ったの。
けど、その批判はおそらく当たってないんだよね。だってベンタムは事実 についての文(記述的な文)と規範についての文(評価的な文)を区別する必 要性のことをよく知ってたんですから。ヒュームヒューム、彼ヒュームにこの ことを教えられたって言ってんです。それに若かりしころのベンタムもこう書 いてます。
「何であるか」という考えと「何であるべきか」というよく混同 される二つの考えをできるだけ注意深く区別しておくこと。このことをぼくは 全てのところで心がけています。
それじゃベンタム自身の哲学はっていうと、やっぱり事実について述べた 文と、規範について述べた文に基づいてるの。事実について述べた文は、「人々 が求めているのは、自分自身の快楽または幸福である」で、規範について述べ た文、いわゆる功利原理なんだけど、ま・とりあえずこんな風にまとめられま す。「全ての行動が正しいまたは正しくないと判断される場合、その基準は、 どれだけその行動が社会の幸福——またはその行動によって影響をこうむる人々 の幸福——を促進または減少させる傾向にあるか、であるべきである」という 原理、と。ちょっとよく読んで考えてね。
ところでさ、ベンタムは第一の文から、第二の文が「論理的に 」導かれる、とは考えていなかったの。『序説』の第一章にもそう 書いてます書いてます。ベンタムは、功利原理は「証明できない 」基本原理だってはっきり言ってます。けどベンタムは、証明なん かできなくてもいいから、人間の性質を観察してみて発見できた事実に したがった道徳理論を作ろうって試みたわけです。宗教的 な考え方や(自然法やコモンセンスなどという)摩訶不思議な考え方には頼ら ずにね。こっちのほうがよっぽど証明不可能なんです。できませんできませんっ。 真の知識は「感覚と経験」によってもたらされる、とベンタムは考えていたわ けで、この「不動の基盤immovable base」の上に道徳と立法の理論を作ろうっ て考えたの。
それじゃ、事実について述べた文と、規範について述べた文をそれぞれ詳 しく見ていきましょうか。まず、「人々が求めているのは、自分自身の快楽ま たは幸福である」っていう事実について述べた文の方を考えましょう。これは 人間の心理についての理論ですな。ベンタムの考えによると、人間の行動って いうのは、意図的でないものを除けば全部、快楽を得たい・苦痛を避けたいっ ていう欲求によって動機づけられているんです。人間はいろいろな快楽・苦痛 によって動機づけられるから、ベンタムは快楽・苦痛の種類にしたがって、動 機も3つの部類に分けてます。すなわち社会的な動機と、反社会的な動機と、 自分に関する動機の三つです。社会的動機はさらに純粋に社会的な動機と準社 会的な動機に分かれるの。純粋に社会的な動機は善意と呼ばれるもので、これ は共感の快楽・苦痛に対応する動機です。共感の快楽・苦痛とは、自分の利害 には全く無視して、他人の幸不幸を考えたときに生まれてくる快楽・苦痛なの。 こういう美しい動機から行動することって時々あるでしょ?え、ない?まあい いや。それで準社会的な動機とは、名誉がほしいっていう動機だとか、人と仲 良くしたいっていう動機だとか、また宗教的な動機だとかがそれにあたります。 なんで準社会的なのかっていうと、こういう動機は他人の幸福を促進する傾向 も持つけど、「同時に自分に関する」動機でもあるわけだからなの。たとえば 宗教的な動機から行動する人も、救済を得たい・神罰をさけたいっていう欲求 を持ってるわけ。次に反社会的な動機っていうのは、「不快の動機」とも呼ば れて、反感と怒りの快楽と苦痛に対応します。悪意から行動するってのがこれ です。最後に、自分に関する動機っていうのは、列挙すると、肉体的欲求、金 銭的欲求、権力愛、自己保存(これは苦痛に対する恐れ・安楽に対する愛・生 命に対する愛など)というものなんです。
ベンタムによると、社会的動機である善意でさえ、やっぱり自分のため、 すなわち自分自身の快楽を得るか苦痛を避けるかしようとする欲求とみなされ るの。『序説』の出された40年以上後にもベンタムはこんな風に書いています。
たとえ人が他人—1人であれ、何人であれ—の幸福を通して自分 自身の幸福を得るとしても 、やはり直接的な・目前の目的はなお自分の幸福 である。
これは、ボランティアを考えてみると分かります。ボランティアはたとえ金銭的・時間的に損をしても、それにもかかわらず自分が満足を得ることができるからするんであって、自分がボランティアやって不満を持つんだったら誰もやりません。やらないったらやりません。絶対やりませんっ。ま・だからこの意味でベンタムは人間の性質は自己中心的なものと考えてたってことになるんだけどさ、でも彼は善意からの行動の可能性を認めてなかったってわけじゃ全然ないの。そもそもなんでこういう誤解が生まれるかって言うとさ、ベンタムの「利害関心interest」っていう単語の使い方って、普通じゃないんだよね。ベンタムは、全ての動機には対応する利害関心があるって考えてたの。たとえば1816年に書かれた草稿には、こんな風に書いてあります。
全ての人間の行う行動は、いついかなる時と場合においても、当人がその時に持っている利害関心によって決められるのじゃ。
けど、ここでいう利害関心ってのは、普通考えられているせまい意味での 「自分の利益self-interest」と一緒のものだと考えちゃいけないんだよね。 なぜなら、たとえもし僕が共感や善意といった純粋に社会的な動機から行動し たとしても、そうすることによって快楽や満足を得ることを僕は期待するわけ で、その行動を行うことに対して利害関心を持ってるっていえるからなの。善 意の動機に対応する利害関心は、「自己に関する」利害関心というより「社会 的な」利害関心である、ってベンタムは言ってるんだけど、いずれにせよ、ど んな人間の行動も「利害関心」によって決定される、っていうベンタムの言い 方は、彼の説く快楽主義が実際以上に利己的なものであるという誤解を生み出 す原因となったのでした。
ベンタムの哲学における共感と善意の役割についてもう一つ大切なことを 言っておきます。それは、『倫理学Deontology』などの後期の著作で、ベンタ ムが動機づけの理論において共感に以前より重要な意義を与えている、という ことです。簡単に言うと、共感って言うのが重要視されるようになったってこ と。どういうことかっていうと、説明が長くなるんでよく聴いてくださいよ、 『序説』には「苦痛と快楽の四つの賞罰あるいは源泉」ってな章があるの。賞 罰sanctionっていうのは、法律用語から流用していて、もっと広い意味に用い られているんだけど、快楽と苦痛の生まれてくる源であり、それゆえ動機の生 まれてくる源でもある、って定義されてるの。四つの賞罰、一応説明しとこっ か。一つ目は「物理的賞罰」っていうやつ。これは人間の本性や、(人為的で ない)自然な状況から生じる欲求の源ですな。え、「ほんせい」ってなんだっ て?本性って言うのは人間が元から持ってるって考えられる性質のことです。 哲学用語の基礎知識っ。それで、二つ目は法律も含んだ政治的賞罰。これは、 政治権力が刑罰や報償の形で人間の行動に及ぼす影響の生まれいずる源です。 三つ目は道徳的(あるいは世論による)賞罰。これは簡単には、集団の意見が 人間の行動に及ぼす影響が生まれてくる源です。最後の四つ目は宗教的賞罰で、 この源からは救済の期待・神罰の恐怖といった動機が生じるわけです。
[結局僕らが経験する快楽と苦痛というのはすべて、これら四つのいずれ かの源から生じるわけです。って言うのが僕の仮説。快楽と苦痛はこれらの源 source以外からは生じないって、僕は読めると思うの。けどsanctionっていう 言葉を普通に制裁って訳しちゃうと全然違う風に考えられちゃうんだよね。こ のことについてはまた卒論で書きます。]
それで『序説』においては、共感によって生じる快楽と苦痛および善意の 動機は、物理的賞罰に入るものだって考えられてたんだよね。つまりそういう 快楽や苦痛や動機っていうのは人間の本性から生まれてくるんだ、って。けど、 1814年にベンタムは「共感による賞罰」っていう五つ目の賞罰を付け加えたの。 ベンタムは、他人の感じる快楽や苦痛を想像することによって生まれる共感の 気持ちっていうのは、完全に自己に関するものである快楽や苦痛とはあまりに 違うから、そういう感情や動機が生まれる源っていうのは別に分類されるべき だ、って考えたわけです。ベンタムはこんな風にも言ってます。ちょっとわけ わかんないこといってるけど、よく読んで理解してあげようね。
もしもこの賞罰の機能がなかったとしたら、人間社会において起 こる(物理的にせよ道徳的にせよ)善いことのかなり多くの部分が、原因のな い結果となることであろう。
けど、この事に関連して大切な指摘をしておくけど、ベンタムは共感の賞 罰の力と善意の動機の力は普通はそんなに強くないって考えてたの。『序説』 にはこう書いてあります。
最も強く最も恒常的で最も広い影響を持った動機は、物理的欲求・ 富に対する愛・安楽に対する愛・生に対する愛・苦痛に対する恐れといった動 機であり、これらは全て自分に関する動機である。
それでベンタムは40年以上後の『憲法典』の序文にも同様な事を書いてるの。
全ての人々の胸の内では、一生のほとんどの間、自分に関する利 害関心の方が他の全ての利害関心を足したものよりも大きな場所を占めている のじゃよ。
こういう趣旨の文章はベンタムの著作のあちらこちらで見られます。といっ ても、ベンタムは社会に対する愛情が人間の行動に対して大きな影響力をもつ 例外的な場合も認めてるんだけどね。1830年に出版された著作の中で、ベンタ ムはこう言ってます。
わしゃあ人類愛というものが在ることは認めとるよ。それを見つ けるのに遠くへ行って探す必要はないわい(わしが持っとるからのう)。
まあしかしそれでもですね、一般的には「自分びいきの原理 self-preference」と彼が呼んだ規則が有効であり、立法と社会管理を考える にあたってはこの原理を人間の本性の基本的事実として考慮するべきだ、とベ ンタムは考えていたわけです。
ここまでのベンタムの事実について述べた文についての説明をまとめてお きましょうか。「人々が求めているのは、自分自身の快楽または幸福である」っ ていうことをベンタムは言ったわけなんだけど、これは決して僕らはめし食っ て寝て時々セックスしたりするだけの人間だっていってるわけじゃないの。究 極的には自分のためなんだけど、僕らは他人のために何かをすることもあるっ てことをベンタムはちゃんと認めてるの。当たり前だけどさ。けど、やっぱり 「人間は基本的には利己的だ」って事実をベンタムは強調してるわけです。今 言ったことが分かってれば、とりあえず合格。わからない人は、僕にメールを送ってきなさいっ。
ベンタムがやってくるヤアヤ アヤア。さてさてさて、それでは次にベンタムの倫理の理論における中心命題 である功利原理を考えましょう。知ってるかもしれないけど、彼の功利原理は 何度かその形を変えたわけですが、普通は「最大多数の最大幸福」という名で 通ってます。実際彼が最初に出版した本の最初のページにこの言葉がのってん だよね。
最大多数の最大幸福こそが正と不正の尺度なり。
おもしろいことに、1776年以降40年以上もの間、この言葉は彼の公の著作 には表われないの。けど1820年代の初頭にはこの言葉がまたしばしば使われる の。これはおそらく、当時急進的な理論的指導者であった彼には、この言葉が その立場にふさわしい響きを持っているように感じられたからなんでしょう。 最大多数の最大幸福は、『憲法典』で例えば、「健全な行動の唯一の正しくて 適切な目的」とか、「この上なく包括的な目標」とか表現されてるの。
けどですね、1820年代の後半になるとベンタムはこの言葉に疑問を抱くよ うになります。ベンタムは「最大多数の最大幸福」の方が「全員の最大幸福」 よりはいいって考えてたの。なんでかって言うと、利害の衝突によって、何人 かの幸福が他の何人かの幸福のために犠牲にならなくてはならない場合が常に 起こり得るってベンタムは考えてたからなんです。つまり、全員が等しく幸せ になる行動が正しいっていう原理は、理想的だけど、現実的な原理ではないっ てことです。しかし他方で彼は、「最大多数」っていう言葉が、多数者の幸福 だけが重要であるっていう印象を与えることも問題だって考えてたの。実際の ところ彼は少数者が多数者によって抑圧される危険性——多数者の幸福の量よ りも大きい不幸を少数者が被ることになり、結果としては社会の全体幸福が減 少する危険性——について気づいていたんです。さらにおんなじ1820年代に彼 はまた、「功利の原理」という言い回しについても不満を感じていたの。とい うのは、彼がヒュームやエルヴェシウスから受け継いだ「功利性utility」っ ていう言葉が、幸福や快楽を最大化するという彼の考えにすぐには結びつかな いからなんです。だから、ぢ最大多数の最大幸福ぢも今一つ、ぢ功利原理ぢも今一 つってことになったんだよね。結局彼が、これら二つの表現の持つ問題点を克 服する、より納得のいく言い回しだと思ったのは、「最大幸福原理」だったん です。
それで、この原理のより完全な——最も興味深いもののうちの一つで、ベ ンタムが生前最後に作り出した——定式あるいは定義は、1831年に出されたあ るパンフレットにあってね、そこで「政府の唯一の正しくて適切な目的」は次 のように定義されてます。
その社会の成員の最大幸福。すなわち、出来ることならば彼ら全 員の最大幸福。また、多数者のより大きな幸福のために少数者の幸福の一部を 犠牲にすることが不可避であり、彼ら全員に等しい幸福を分け与えることが物 理的に不可能な場合は、彼らのうちの最大多数の最大幸福。
この定義は最近フレッド・ローゼンさん(現在ベンタム全集の総責任者) の指摘で注目されるようになったんだけど、ベンタムの平等に関する見解をも 明らかにするものとしても興味深いんだよね。
ベンタムの功利主義に対する批判でよく言われるやつの一つには、功利原 理は行動の正しさの基準として幸福の総量の最大化を主張してるけども、幸福 の配分における平等や公正さについては何にも言ってないっ て批判があるの。一方で、ベンタムが限界効用逓減の法則を知っていて、この 法則から彼は、幸福になるための手段(たとえば財産)の配分における平等は 全体の幸福の最大化に役に立つって考えたっていうのはよく言われることなの。 え、限界効用逓減の法則を知らない?簡単に言うとね、ぼくなんか貧乏だから、 お金もらえばもらうほどうれしいわけです。お金の増える量と幸福の増える量 が比例するの。けど、ぼくがある程度お金持ちになってしまうと、それ以上お 金もらってもそんなにうれしくなくなってくるの。今ぼくが百万円もらったら 泣いて喜んでころげ回るけれど、ぼくが億万長者になってから百万円もらって も、けっそんなはした金いるかよって思うでしょ、きっと。これが限界効用逓 減の法則。だからベンタムは、その百万円を他の貧しい人にまわした方が社会 全体の幸福量は増大するって言うわけ。でもとにかく一般的な見方では、彼の 功利原理は幸福の配分における平等そのものが望ましいと は規定していないって考えられてんの。実際この解釈を裏付けるものとして、 ベンタム自身が1789年の草稿で、一片の幸福を十人にもたらす行動と二片の幸 福を五人にもたらす行動との間には全く優劣はない、なんてことを書いてるの。 けど、1831年の最大幸福の原理の定義を見れば明らかなように、ベンタムはそ の時までに、最善の目標とは「全員に平等な量の幸福を配 分すること」であるって考えるようになっていて、だから幸福の最大化は可能 な限り配分における平等と結びつくべきだって思うようになっていたの。
1831年の定式でもうひとつ重要な点は、「その社会の成員の最大幸福」っ ていう言い回し。これは政府の目標の定義なんだけど、この表現は、ベンタム が正・不正の問題について考えるときに持っていた視点は、基本的には 社会的視点であったということを示唆してます。つまり功 利の原理あるいは最大幸福の原理は、主として立法家に、すなわち社会の 管理に責任を持つ人間に対する教えとして意図されていたっ てことなの。ベンタムは、そういう人たちの行動や政策はそれらがどれだけ当 の社会の幸福に役に立つのかによって判断されるべきだって何度も言ってます。 例えば1780年代の草稿にはこんな風に書いています。
主権者が自分の臣民に対して守るべき行動の目的—社会の国内法 の目的—とは、その当の社会の最大幸福であるべきである。
もちろんベンタムは他の視点もありうるって考えてたの。例えば、—ベン タムが国際法の著作においてそうであったように—「世界の市民」っていう視 点に立てば、功利原理は人類全体の幸福までも目指すように拡張解釈しうるわ けです。だけどベンタムは基本的には生涯ずっと国家の内部の問題に関係のあ る立法やその他のことについて考えてたんで、その目的のために適切な基準だっ て彼が考えていたのは、やっぱ社会の幸福であったわけです。
そこで私的な個人の行動を評価する際にも、ベンタムは同じ社会的視点を とることが習慣となっていたの。あらゆる行為が「功利原理と合致する」のは、 その行動が社会の幸福を減じるよりは増加させる傾向を持っている場合である、っ てベンタムは言ってます。ここでいう社会の幸福とは、行為が影響を及ぼすで あろう、行為者本人も含む社会の成員の幸福のことです。
ここまでまとめておくと、ベンタムの最大幸福原理っていうのは、社会の幸福の総量が増えさえすれば個人間の幸福量の差異は関係ないっていうのではなくって、すくなくとも晩年のベンタムは平等に対してかなり配慮していたっていうのがひとつ。また、ベンタムは基本的に社会または国家の内部の問題に取り組んでいたんで、政府の政策にせよ個人の行為にせよ社会の幸福に役立つ行為が正しいっていう、社会的な視点で物事を考えていたってことがもうひとつ。この二つの点が重要です。ちょっと休憩してよろしい。
さてそれでは心理の理論と倫理の理論をそれぞれ考察し終わったんで、い よいよベンタムの功利原理が彼の心理学とどのように結びついているのか、あ るいはむしろどうしたら調和可能なのかって問題に入ります。というのも、ベ ンタムに対するよくある批判として、これら二つは根本的に矛盾するじゃない かってことが言われるからです。もしすべての個人が自分自身の 幸福を促進する欲求によって動機づけられているとすれば、「社会 の成員の最大幸福—あるいは自分の行動が影響を及ぼす人々の最大幸福—が目 指されるべき目標である」と定める倫理の原理に従って行動することがどうし て可能であろうか、ってな風に言われるわけですよ。
答えの一つとして、個人の(自分自身の)幸福とは社会の幸福の 一部分であり、しかもそれは当人が最も効率的に促進できる一部分 である、とベンタムは考えていたってことが言えます。ベンタムの主張の一つ に、各人は、少なくとも自分の行動に責任の持てる成人は、通常自分の幸福に ついて一番よく分かっており、どうやったらそれが最も促進されるかについて も一番よく分かっているっていうのがあります。だから、全体の幸福を最大化 するための最も重要なメカニズムは、自分自身の幸福を最 大化しようという各人の基本的欲求であるってベンタムは考えてたわけです。 このメカニズムに則っている社会の方が、各人が主に他人の幸福ばかりを気に している社会よりもずっと幸せになれるっていうの。ここでベンタムの頭にあっ たのは、キリスト教的道徳で、ベンタムはキリスト教の道徳は利他主義を強調 しすぎているって考えてて、イエスの教えはまともに受け取ったら「社会にとっ て破壊的な」ものであるって言ってるの。だってもし僕たちが自分に必要なも のや安全をまず第一に考えることをやめてしまったら、僕たち人類は単純に言っ て滅んじゃうでしょ。ベンタムが言うには、自分に対する愛情こそが生きるの に欠かせない食事であって、他人に対する善意はデザートでしかなく、価値は 高いけどやっぱりおまけにしかすぎないの。かといってベンタムは、個人の行 なう・自分の幸福に役に立つ行動のすべてが、功利主義的 にみて正しいって言ってるわけじゃないんです。ただ、適切な規制が敷かれて いさえすれば、自分びいきの原理の働きは、功利原理と調和するものであり、 衝突するものではないって彼は考えてたの。
ベンタムの倫理と心理の理論が調和可能かって言う問いに対するもっと根 本的な答えがあります。それは、功利原理はもともと、普通の個人が自分の行 動を規制するための道徳原理として意図されたものではないっていう答えです。 さっきも言ったように、功利原理は立法家や他の政府の役人に対する教えとし て意図されたものなんです。もし普通の個人の行動を社会的 視点から——社会を管理する責任を持つものの視点から——見ると すれば、その行動が社会の幸福の総量をどれだけ増やすか減らすかに従って正 しい・不正であると判断するのは当然であるってベンタムは考えたの。けど、 もし個人の視点から見るとすると、人は自分が心理的に追求するよう強制され ていること以外のものを追求すべきだって言うのはおかし いの。おかしいでしょ?おかしいんですっ。だから、ベンタムは合理的思考を する賢い人なら、社会全体が最大幸福原理に則って管理される ことを受け入れるだろうって考えてたんだけど、べつに各人が自分 自身の幸福の最大化以外のことを追求するよう期待してたわけではなかったの。 ベンタムは、人間が心理的に強制されている行動以外のことをやるべきだ、っ ていう種類の道徳はばかげているって考えてたの。ある人が何かをする 義務があるって言っても、そうすることがその人の 利益になるということを明らかにするか、あるいは(法律 などによって)その人の利益になるようにするかしない限 り、そういう言い方は意味のないことなんです。
さてさてさて、ベンタムが関心を持っていたのは、人間の行動を正しい・ 正しくないって評価することではなくって、むしろ人間の行動の仕方に 影響を与えることだったってことを明らかにしてみましょ う。ある人の行動を社会的見地から評価したときに功利原理と一致しない場合、 そのことが主としてどんな意味を持つのかっていうと、その人個人が悪いって 言う意味じゃなくって、その人の行動の仕方を条件付けている社会の制度やそ の他の要因がどっか誤っているので、その人が違ったふうに行動する動機を与 えるように社会の制度が出来るだけ修正されるべきだって言う意味を持つの。 簡単に言えば、個人が社会に対して不利益な行動をするのはその人の責任じゃ なくって政府の責任だ、政府が何とかしなさいっていうこと。そもそもベンタ ムが快楽や苦痛とか、動機や賞罰についてえんえんと分析をするのも、立法家 に対して人間の行動の仕方を決定する要因を、また人間の行動の仕方に影響を 与えるための手段を教えるためなんです。
そこで考えなくちゃいけないのは、他人に害を与えないか、またはむしろ 他人が幸福になるのに役立つような仕方で、人々が自分の幸福を追求するよう うまく工夫するってことです。そして立法家にとってこの目的を果たすための 基本的手段といえば、そうですね、刑罰と報償(刑罰による威嚇と報償を提供 すること)なんです。報償は、基本的に社会に対してある種の貢献を得るため に役立つものなので、二つの手段のうちでは、重要度が劣ります。人々全般を 考慮したとき、立法家の主な手段といえばやっぱり刑罰なんです。立法家が刑 罰を作る目的とは、苦痛を実際に与えるか、(主として)苦痛を与えるぞと脅 かすことによって、人々が社会にとって有害な行動をすることを控える動機を 生み出すことなの。いいかえると、人々が社会全体の幸福量を減少させる結果 をもたらすような行動をすることによって、自分の幸福を追求することを控え る動機を生み出すという目的です。もっと簡単に言えば、みんなが悪いことし ないように、刑罰があるってことです。刑法でいう予防論っていうやつですね。
次にディンウィディ教授はベンタムの「間接」立法について説明してるけ ど、これはまたにしようね。え、知りたい?簡単に言うと、これは立法家が刑 法以外の力によって人間の行動の仕方に影響を与える方法なの。たとえば、犯 罪者の検挙率を上げるとか、「道徳・世論による賞罰」を操作するとか。政府 による世論操作ってのはちょっと怖いよね。それとか、武器や毒物の販売を制 限するとか、各人の識別のために刺青とか他のものをほどこすとか。今で言う 国民総背番号制みたいなものですな。他にも酒飲みで働かないやつを減らすた めに非アルコール飲料の消費が増えるような法律を作るとか、庭いじりとか音 楽とか遊びといった「無害な娯楽」を推奨するだとかいった提案がなされてい ます(p. 90-91)。けど、これはベンタムの提案であって、決してどこの国でも こんなふうにせよって言ってるわけではないので、その点は注意してね。
さて、立法と間接立法のほかに、行動の仕方に影響を与えるための方法としてベンタムが論じた三つ目のものがあります。それは『序説』では「個人の倫理private ethics」と呼ばれ、その後「個人の義務private deontology」と呼び名が変えられたものです。これは法律とは関係ないの。ベンタムは「倫理学者deontologist」は立法家とは別個の仕事を持ち、違う視点から物事を見るんだって考えてたの。つまり社会的な視点よりはむしろ個人的な視点からってこと。ベンタムの解説をした人の中には、「個人の倫理」って言葉を聞いて、ああ、ベンタムは個人の行動を評価する仕方について説明してんだな、って考えた人もいるの。けど実際はそうではなくって、倫理学者あるいは個人の倫理の説明者は、道徳のいわば裁判官として考えられてるんじゃなくって、先生として考えられているの。つまり、倫理学者の仕事は、個人がどうやったら自分自身の幸福を最大化できるか、について個人個人に教えることなわけです。倫理学者は社会全体の幸福を最大化することを教えることを直接の目的にすることは出来ません。どうしてかって言うと、倫理学者は立法家のように、社会全体の幸福を増やすために個人の行動の仕方に影響を与えるような動機を生み出せる立場にはいないからなの。倫理学者は「利用できる動機」を使って仕事をしなきゃならないわけ。いいかえると、倫理学者が教えている人の性格とかその人の持つ事情だとかから生れてくるか引き出しうる動機を使って教育しなきゃならないの。それに、ベンタムの心理についての理論からすれば、倫理学者が個人に対してあんた他人の幸福について考慮しなさいよって言えるのは、そうすることがその人自身の幸福を最大化するっていうことをその人に示せる限りにおいてなわけです。
しっかしですねえ、たとえ倫理学者が立法家とは違う視点に立って仕事を するにしても、結果として倫理学者の仕事ってのは立法家の目標である社会の 幸福の最大化に対してすっごく役に立ってるってベンタムは考えたわけです。 それを説明するには、まずベンタムが倫理の実践におけるテーマを2つに分類 したってことを言っとかなきゃなりませんな。それらは、「自分に対する思慮 self-prudence」と「他人に対する思慮extra-regarding prudence」の2つで す。「自分に対する思慮」ってのは、人が他人との関係をぬきにして自分の幸 福を自分自身で得られる手段に関することなの。逆に「他人に対する思慮」っ ていうのは、自分の・他人に関わりのある行動によって自分の幸福が左右され る種類の行動に関係してるの。え、わかりにくい?つまり自分の幸福を得るた めに、(1)他人に関係のない行動をする際には「自分に対する思慮」が問題に なり、(2)他人に関係のある行動をする際には「他人に対する思慮」が問題に なるってことなの。そこで倫理学者は、一方で個人に、「純粋に自分に関する」 種類の行動による・長い目で見た自分の幸福を最大化する方法を教えることで、 付随的に社会の幸福の総量を増やすのを手伝うことになり ます。また他方「他人に対する思慮」を個人に教えることも、もうちょっと複 雑な形で同じ結果をもたらすの。つまり、「他人の幸福のためにする行動にお ける、自分と他人に対する関心」によって、長い目で見た個人の幸福は様々な 理由から最も良く促進される、っていうことを示すことで、やっぱり社会の幸 福の総量を増やすことになるんです。なるのっ。なるんですっ。
ここで、あれ、なんかおかしいぞって思わない?そうそう、するどいする どいっ。さっきさあ、自分自身の幸福と・それをどうやって促進するかについ ての最良の判断者は、自分自身だっていう一般的規則が言われてたよね。なの になんで人々に対して自分自身の幸福を最大化する方法を教える必要があるの? この問いに対するベンタムの答えはこうです。この規則は「ほとんどの場合に 有効である」が、いくらかの例外はある、って言うの。というのも、自分に関 する行動にしろ他人に関する行動にしろ、個人はプロの倫理学者ほどは自分の 行動がどういう結果を生み出しうるかについて、いつもきちんと考えることを しないことが多い、ってベンタムは考えてたの。確かに各人は、快楽と苦痛の それぞれの種類が自分にとってどのくらい価値があるかに ついては一番良く判断できるんだけど、それでも倫理学者は、考慮に入れる必 要があるのに見過ごされている潜在的な快楽と苦痛を個人に気付かせるという 仕事が出来るわけです。え、ぼくはこんな仕事をしなきゃならなかったのか。
また、公共の政策について論じる場合と同様に、ベンタムが個人の倫理に ついて書いているところを読むと明らかなんだけど、そこでは計算するってい うことに強い強調がなされてんだよね。『倫理学』では、 行為者本人にとって直接的には何の利益もない善意の行為は、預金銀行あるい は「総合善意基金」に振り込まれた貯金と考えることが出来て、その行為者は しかるべき時にそこから善意を引き出すことが期待出来る、ってなことまで言っ てるの。情けは人のためならずっていうのも、こんな表現をするとみもふたも ありませんな。またベンタムは、苦痛を伴う犠牲を捧げることを絶え間無く要 求するような教えを説く道徳家に反対して、犠牲における経済性 が勧められるべきだって論じるの。っていうのも、より大きい量の 幸福を得るためにより少ない量の幸福を犠牲にすることがしばしば望ましいわ けだけど、基本的には、犠牲になる幸福が少なければ少ないほど残る幸福の量 は大きいっていうのが正しいからなんです。
さあさあさあ、それではここまでのところをまとめてみようね。ベンタム の心理の理論と倫理の理論、いいかえると「自分びいきの原理」と「最大幸福 原理」が調和可能かって問題に対してなされた解答は、いくつあったかな。そ うそう、2つですね。ひとつは、ある程度のガイドラインがあれば「自分びい きの原理」は、「最大幸福原理」と衝突しないっていう答え。もうひとつは 「最大幸福原理」は個人の行動を社会的視点から評価する原理だっていう答え。 こっちの方が重要だって言ったよね。個人は「自分びいきの原理」に従って行 動すればいいんであり、政府の仕事は「自分びいきの原理」に基づいた個人の 行動が「最大幸福原理」に反しないように、刑罰などの方法によって個人の動 機をうまく操作するってことであるわけです。それで倫理学者の仕事ってのは、 個人の視点に立って、各人が自分自身の幸福を最大化できるようにお手伝いを することであり、その仕事は結果的に社会の幸福の総量を増やすことに貢献す るってことになります。だいぶ省略した説明だけど、こんなもんでしょ。
さて、このあと禁欲主義や共感・反感の原理といった他の倫理学説との比較の説明があるんだけど、そんなに対したこと書かれてないので、省略。読書会でも省略しました。
感想。個人はみんな「自己びいきの原理」に基 づいて生活してりゃあいいんで、政府が動機をうまく操作することで反社会的 な行動は抑制されますってのは素晴らしいんだけど、良く考えりゃ政府の官僚 も「自己びいきの原理」に基づいて行動してるわけで、彼らによる反社会的な 行動は抑制され得ないわけでしょ。ベンタムも後年この問題に気が付いて、代 議制民主主義によってこの問題は克服されるって考えたわけだけど、今の世の 中を見るとそうでもない気がする。まあ、代議制民主主義のやり方がまずいっ てことなのかも知れんけど。また功利原理における平等の考慮についてはもっ と良く考える必要あり。それと、あとで気が付いたんだけど、「反社会的な行 動をする個人が悪いのではなく、社会の制度に問題がある」っていうことにな ると、犯罪の責任を個人に対しては問うことが出来なくなるんじゃないか、っ て疑問が出てくる。ベンタムはこの点に関して後に社会的責任論を説くリスト と同様な見解を持っていたのだろうか。うーん、謎は深まるばかりである。と ころで、ディンウィディさんの文章は、接続詞が少ないので、文と文のつなが りがよくわからないので大変です。これから読もうとする人は、その点に気を つけようね。