Article Review: Ben A. Minteer, `Intrinsic Value for Pragmatists?', in Environmental Ethics, 2001 Spring (vol. 22), 57-75.
児玉 聡
「プラグマティストに内在的価値を?」と題された本論文において、 環境倫理学・環境政策学者のミンティアは、 自分がデューイやノートンの議論を大筋で受け入れる 環境プラグマティストであることを自認しつつも、 「自然を守ることは物質的あるいは精神的に人間の役に立つ」 という主張だけでは環境倫理の議論は尽くされないのではないかと疑問を呈している。 彼がこのように考える背景には、 哲学者に限らず一般市民の間にも「自然には内在的価値がある」 と主張する人々が少なからず存在するという事実がある。 彼によれば、 これまでプラグマティストの多くはこの事実に目を背けてきたが、 民主的な議論を尊重するのがプラグマティストの信条の一つであるからには、 プラグマティストはこの事実を無視すべきではない。 たとえ今日までの自然の内在的価値の議論が十分な哲学的基礎を持たないとしても、 「自然には内在的価値がある」という道徳的直観をノンセンスとして一蹴せず、 むしろプラグマティズムの立場からこの直観を「救う」必要がある。 そこで彼は ノートンやデューイといったプラグマティストたちも一定の条件付きで自然の内在的価値を認めているという解釈を打ち出し、 自然の内在的価値vs道具的価値という長年の論争に一つの解決策を提示しようとする。
以下では彼の論文をやや詳しく紹介するが、 予告しておくと、 「プラグマティストでも自然の内在的価値について語ることができる」 というミンティアの議論がうまくいくかどうかは、 彼のデューイ解釈やノートン解釈がもっともらしいかどうかにではなく、 ミンティアあるいは他の環境プラグマティストが受け入れ可能な「内在的価値」が、 キャリコットやロルストンら非-人間中心主義者たちが主張する 「内在的価値」とどの程度同じなのか、または異なるのか、という点にかかっている。 そこで、この点を念頭において以下の議論を批判的に読み進めていただきたい。
なお、ミンティアは内在的価値と非-道具的価値を同じ意味で用いると宣言している ので(原文60頁注4)、 以下では内在的価値という言葉だけを用いることにする。 ただし、各節の表題はそのままにしてある。
ノートンは環境プラグマティストの代表的人物である(注)。 彼は「環境倫理学とは自然の内在的価値を研究する学問である」 という主張を痛烈に批判し、 自然の物理的、精神的な道具的価値が環境倫理学において果たす 役割を強調したことで知られている。 しかしミンティアによれば、 ノートンは自然の内在的価値という概念を存在論的・認識論的に疑わしいと しながらも、この概念を必ずしも全否定しているわけではない。 むしろ彼の批判は自然の内在的価値しか語らずその道具的価値を認めない 非-人間中心主義者の態度に向けられているとされる。 要するに、ミンティアによればノートンは「内在的価値は使えない」 と論じていたのではなく、 「自然の道具的価値を無視するな」と論じていたのである。
しかしながら、ミンティア自身が認めているように、 ノートンの論文の中にははっきりと内在的価値の議論はダメだと論じている 箇所がある。 けれども、彼によれば、 ノートンが否定しているのは環境倫理学において今日まで用いられてきた内在的価値の概念、 すなわち非-人間中心主義・価値一元論・基礎づけ主義の立場から主張される内在的価値の概念であって、 プラグマティズムの立場から内在的価値を人間中心的に理解する可能性は 否定していないとされる。
ミンティアによれば、 目的自体の存在を否定したことで有名なプラグマティストのデューイも、 実は条件付きで内在的価値を認めていた。 デューイは、何が道徳的善かは文脈(状況)ごとに異なると考え、 問題になる状況をそのつどそのつどよく議論検討して解決策を見つけるべきだとする 文脈主義を説き、 普遍的な価値や原則を個々の問題に先立って設定し、 それを特定の問題に適用するという方法(基礎づけ主義)を批判したが、 文脈主義的な立場で内在的価値を擁護することは可能だと考えていたとされる。 この場合、内在的価値は文脈に依存するものであり、 道徳的議論を遂行し問題を解決するための仮説的な装置として理解される。 たとえば、郊外の開発によりある沼地が埋め立ての危機にある場合に、 沼地の内在的価値に訴えることは、 具体的な問題を解決するのに役立つのであれば正当化される。
以上の解釈から、 ミンティアはデューイ流の内在的価値が次の五つの特徴を持つと言う。 すなわちデューイ流の内在的価値は、 (1)基礎づけ主義的なものではなく、 特定の環境問題の解決に役立つかどうかによって 正当化される文脈主義的なものである、 (2)追求される目的は特定の問題ごとに異なるため、 根本的に多元的である、 (3)内在的価値の内容は個々の環境問題において明らかになるため、 本質的に現実世界を問題にしており、 空理空論に陥ることはない、 (4)道具的価値と無関係ではなく、 特定の問題の解決においてはこの二種類の価値が考慮の対象となる、 (5)内在的価値の内容は、 民主的な議論を通じて常に変更される可能性がある。
以上のように特徴づけられたデューイ流の内在的価値が実際にどのように 使われうるのかを、ミンティアは本論文の最後の節で明らかにしようとしている。 具体例として取り上げられるのは、ネパールのロイヤル・チトワン国立 公園である。ベンガルタイガーなどの絶滅危惧種が住むこの公園は、 その周りに住む貧しい人々の増加による環境破壊の危機にさらされている。 非-人間中心主義者のロルストンによれば、 内在的価値の議論を放棄するプラグマティストたちの発想法では 自然を守る説得的な議論を提供することはできない。 また、プラグマティストの言う「価値多元論」や「開かれた民主的議論」は、 議論を泥試合にするか、あるいは権力闘争の場にするだけである。
この批判に対して、ミンティアはプラグマティストも前節で述べた特徴を持つ 「内在的価値」を主張できると述べる。しかし、プラグマティストの場合、 内在的価値を認めたからといって、 「ベンガルタイガーを最優先せよ。終わり」 というようにわれわれの義務がいっぺんに自明になるわけではなく、 われわれはこの価値を暫定的な参照点として利用することによって議論を進め、 最善の解決策を模索しなければならない。 この場合、われわれは公園に関する歴史的、制度的な問題を考慮に入れ、 また人間と環境の双方の利害を比較衡量しなければならないだろう。 これはロルストンの「公園か住民か」という単純な二項対立に比べ、 より持続可能な自然と文化の関係をもたらすのに役立つ。 実際、このようなロルストン流の議論で 問題が解決すると考えるのは哲学者の幻想であり、 しかもこの論法は対話を打ち切るための口実とも取れる。 対話の可能性についてのロルストンの冷笑的な態度は危険であり、 内在的価値と道具的価値の両方を認め民主的な対話を尊重する プラグマティストの態度の方がずっと望ましいと考えられる。
以上のように、 本論文ではノートンとデューイのプラグマティズムの再解釈を提示し、 通常水と油と考えられているプラグマティズムと内在的価値との橋渡しを行なう という大胆な試みがなされている。 しかし、残念ながらその試みはあまり成功しているようには思われない。 ミンティアによるノートンとデューイの解釈が適切かどうかというのは いささか論文紹介者の手に余るのでここでは論じない (もっとも、この解釈がうまく行っているかどうかは本論文の論旨とは あまり関係がない)。 そのかわり、本論文に見出される難点を二つほど指摘して終わることにする。
一つは、内在的価値という概念の換骨奪胎という問題である。 ミンティアの提示する 人間中心的・文脈依存的・多元的な内在的価値は、 キャリコットやロルストンの考える非-人間中心的・基礎づけ主義的・一元的な内在的価値とは、 名称以外はほとんど共通点がなく、 一般の人々でさえ「内在的価値」という語をミンティアの提案する意味で 使うことがあるのか大いに疑問である。 特に重要な点は、 ミンティアが内在的価値と道具的価値とを連続的に捉え、 内在的価値の「切り札」としての要素を切り捨てていることである(原文72頁)。 ミンティアの議論は功利主義者が権利論や義務論に対してなす批判と酷似しているが、 功利主義者が権利や義務の概念を換骨奪胎させることにより自説に取り込もうとする 試みの多くと同様、ミンティアの試みも失敗に終わっているように見える。
また、デューイ流の内在的価値がどのように用いられるのかは、 具体例の国立公園の話からは明らかでない。 実際のところ彼がなしている議論は、 「民主的」なプラグマティストは対話を歓迎するが、 そうでない非-人間中心主義者は対話を拒否するという点に尽きるように思われる。 しかし、その「民主的」なプラグマティストたちの対話において、 内在的価値と道具的価値が(特に両者が対立する場合に)どのように解決されるのかは 最後まで読んでも明らかにされないままであり、 ミンティアは単に国立公園の環境問題の歴史的・社会的背景を述べるに留まっている。 これでは羊頭狗肉の感を拭えない。
[付記] 本稿の作成にあたり、 近畿大学文芸学部講師の白水士郎氏には一方ならぬ御協力をいただいた。 京都大学文学研究科倫理学研究室の島内明文氏、三輪恭久氏、 北口景子氏からも有益な助言を受けた。 記して謝意を表す次第である。 なお、本論文は文部科学省科学研究費補助金による研究成果の一部である。
(こだま さとし 京都大学大学院文学研究科 日本学術振興会特別研究員)
kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp